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第三章 タカ

02.心が消えた孔雀

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 ピーファウルの人生は、何も無い。

 本当に、何も無い。

 卵から孵化してこの世界にでてきたときから、何もなかった。

 小さく全てに拙い自分が、自らを覆っていた殻を破って外に出てきてみれば、自分よりも遥かに高いところからこちらを見下ろす冷たい瞳。抑揚のない低い声で上から聞こえてくる「あなたのつがいです」の言葉。


 番とはなんだ。


 生まれたばかりで何もわからなかったが、あまりに目の前のその存在が恐ろしくただただ見つめつづけた。


 それから始まる、地獄のような日々。


 だが、今だからこそ地獄と思うのであって、当初は地獄とは思わなかった。だって、長い間ピーファウルはそこしか知らなかった。そこしか知らないのだから、そこが地獄だとしても自分にとっては当たり前の世界だ。


「私は、あなたの番です。あなたは、私の言うことを聞かなくてはいけません。わかりましたか」


 そう繰り返す、バルチャーとの生活しか、知らなかった。

 他にも人はいたが、皆こちらに話しかける事はせず目が合うことすら稀で、もっぱら話すのはバルチャーのみ。何かを教えてくれるのも、ピーファウルの世話を指示するのも全てがバルチャーで、バルチャーがピーファウルの世界の全てだった。

 毎日の大半をバルチャーと過ごす。
 特に楽しい事をするわけではない、ただ、過ごす。
 私があなたの番です。言うことを聞かなくてはいけません。
 そんな言葉を聞かされ続けて、ただただ過ごす。

 何かをさせてもらえることはなく、風呂も一人で行くことは禁じられ、必ず風呂用の下働きが数人ついてピーファウルの身体を丁寧に洗い上げる。一人でやってみたいなと伝えた事もあったが、その度にピーファウルが一人で出来ることはこの世界には何も無いとバルチャーから教えられた。

 唯一排泄時ぐらいは一人で居ることもできたが、それですら扉の向こうに必ず人がついている。

 だがそれも全て、そう言うものかと思っていた。

 いつでも誰かが近くにいるのに目が合わないのも、そばにいる人はこちらに声をかけてこないのも、それなのに何をするにも必ず人に見られている事も、全てが普通の事かと思っていた。


 心は冷たく、いつでも刺々しいのに、それが普通だと思っていた。


 そんな中で、バルチャーから初めて送られた綺麗な細工の銀色に光る金具。
 綺麗で、ピカピカで、かっこよくて、なによりも自分の為に物を贈られたことがないピーファウルは喜んだ。


「何があっても、これを外してはいけませんよ。外れないように、鍵をかけてしまいましょう」


 そんな事言われなくても、初めて貰ったピカピカなもの、外すわけない。
 そう、思っていたのに。
 成長して、身体が大きくなってきて知った自分の股間に付けられている銀色の金具の意味。
 当初、その綺麗な細工の金具をつけられた時に喜んだ自分が馬鹿みたいだった。みたい、ではない。馬鹿だ。本当に心底愚かだ。


 初めて股間に血が集まって大きくなったときの衝撃を忘れない。


 痛い、下から引っ張られ、窮屈に戒められ、いくら「外して、痛いよ」と懇願して声をあげても誰も聞いてはくれない。
 自分の世話をしてくれるバルチャーに縋って泣いたこともある。辛くて、悲しくて、怖くて、どうしようもなくてお願いしたのにバルチャーも「何があっても外してはいけないと言ったでしょう」と聞いてはくれず、その金具が外されることはなかった。


「あなたが知らないうちに精液を出してしまわないように、つけているのです。外すことはできません。わかりますね」


 精液とはなにか、そんなことすら知らなかったピーファウルだったが、外せないのだと言われたことは理解できた。理解できたが、精液がわからない。だから、わけもわからず「出さないから外して」とお願いしたが、唇を歪めて笑われただけだった。


 そんな事を幾度か繰り返し、ピーファウルは諦めた。


 股間に血が集まらないようになればいい。この金具を外してもらえないのなら、この金具が痛くない身体になればいい。

 ピーファウルは泣くのをやめた。心はしくしく痛くて涙を流していたけれど、それでも、目から涙をこぼすことは止めた。
 泣くことを止めて、その頃ようやくまともに使えるようになっていた魔力を自分の身体に流して、股間に血を集めないように人知れず頑張り続けた。


 それからしばし。


 せっかく落ち着いていたはずの股間がまた大きくなってしまう。

 自分の股間は、どんなに頑張ってもどんなに己に魔術を施しても、以前よりも遥かに強い力で大きくなろうとしてしまう。あの時よりも痛い。あの時よりも、辛い。あの時より、はるかに苦しい。何十年かぶりに、ピーファウルは再び涙を零す。
 痛くて、痛いことが辛くて、こんなに辛いのに誰も助けてくれなくて、全部が悲しくて、ピーファウルは泣いた。死んだように床に転がり静かに涙を流し続けた。

 あまりにピーファウルが泣き続けるからだろうか。バルチャーが自分を治すと言ってきた。
 バルチャーは医術師だ。医官だ。そこは信じていたから、治すと言われた言葉を信じて、ピーファウルは大人しく言われるがままに横になり脚を開いた。


 まさか冷たい鉄の棒を後孔に突っ込まれ、揚げ句電流を流されるとは思ってもみなかった。


 冷たい鉄と電流のあまりに強い身体と心への衝撃に、声にならない声を喉の奥から絞るように出しながら、ピーファウルは震えた。震えて、痙攣したようになりながらも叫び、ピーファウルのその心はますます痛みを増して涙をこぼす。


 悲しい。苦しい。辛い。痛い。寒い。冷たい。

 自分の世界は、本当に、彩りも何も無い嫌な世界だ。


 嫌な世界で、無感動にただただバルチャーの声を聞いて過ごしていたある時。


 身体の魔力がどんどん甚大になるのを感じる。それは自分自身では止める事ができるようなものではなく、どんどん膨れ上がり、それでも身体は破裂することもなく痛みもなく魔力の激増とともに勝手に作り替えられていく。


 ピーファウルは本能で感じた。


 ああ。
 幼い頃からバルチャーに言われ続けた、龍になるときがやってくる。そうして、番であるバルチャーの言うことだけを聞いて生きていく日々はこれから更に三百年は続く。こんなにも、これ以上に悲しい世界はあるのか。

 自分で自分の生をどうにかすることすらできない。

 温かい言葉も、優しい声も、自分を慈しむ手も、何一つ持っていない、この悲しい世界は、ずっとずっと続いていくのか。

 きっとそうなのだろう。

 この部屋の天井が異様に高かったのは、異様に広かったのは、物がなかったのは、こう言うことか。
 変容していく身体を、感傷もなく見つめる。


 指先から大きな爪が生え、腕にはきらきらと青く光る鱗がびっしりと貼りつきぐんぐんと伸びていく。背中の羽は自身の羽を保ったままで広がっていく。脚も太くなり鱗が光り爪が暴発したように膨れ上がり伸びる。顔にも違和感があるのでどうにかなっているのだろうが、もう、どうでもいい。


 ピーファウルは絶望しながらも、龍の力と龍の身体を受け入れた。



 それから。

 それからの、ピーファウルの日々。

 その先およそ二百年に渡り、ピーファウルの色の無い日々は、ただただ単調に続いていく。

 その殆どは、王城に篭り。

 ごく稀に災いが降り注ぐ時だけ、王城から飛び立ち。

 災いのもとを、その甚大な魔力ではじき返す。
 それは、ある時には大風や、大雨、激しい雷であることもあれば、国に暮らす人間たちへの直接の病と言う名の禍であることもあった。


 単調な。
 色の無い。
 無感動に過ごす日々。

 ピーファウルにとって、何の意味もない、色のない暗い暗い世界。
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