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第二章 辺境伯家の家訓‐宣戦布告と愛の言葉は堂々と‐

04 陛下からの褒美

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「そういえば、あのお菓子はまだ残っていますか」

 唐突なアデルの問いの意味がロバートにはわからなかった。

「え?」
「蒸留酒漬け入りの焼き菓子です」
「あれか。もう全部食べた。うまかった」

 ロバートは事あるごとに母の部屋へ行き、食糧庫に保存している菓子を所望していた。母は何も言わず、菓子を出した。ロバートは黙ってそれを口にしながら、甘いだけではない味にアデルを感じていた。食べ終わった時に感じる虚しさがアデルの不在を思い知らせた。
 彼にもっと表現力があれば、恐らくうまかったの一言で済ませることはなかっただろう。

「最後に召し上がったのはいつでしょうか」
「一月にランバートに戻った時だ。危うく母上に全部食べられてしまうところだった」
「味はどうでしたか。生地と干しぶどうやピール、胡桃がなじんでいましたか」
「味は……よかった」
「最初に食べたものと比べたら?」
「うまかった。蒸留酒の味が丸くなっていたような」
「三か月でそうなったんですね」
「気になるのか」
「はい。保存食ですから時間の経過でどうなるか知りたかったのです」

 やはり、目の前にいるのはアデルだ。公爵令嬢の恰好をしていても、中身はベイカーの店の職人だ。自分の作った物がどんな味になったか、気になって仕方ないのだ。ロバートはそれが嬉しかった。

「また、作ってくれないか」
「公爵家の食糧庫にある蒸留酒漬けを使って作ったのをこちらに三本持ってきていますので、ランバートハウスに届けさせましょう」
「いや、そうじゃなくて、その……」

 ロバートはベイカーの住まいの居間で言ったことを思い出していた。あの時は母のためという建前があった。だが、本音を言えばアデルを自分のそばに置いておきたかったのだ。自分でもあの時は気付いていなかった。アデルがいなくなったと知った時に、ロバートは自分の本音に気付いてしまった。気付いたものの、アデルは結婚して幸せになったのだと思って本音に蓋をして忘れようとしていた。
 けれど今アデルが公爵令嬢として目の前にいる。もし、あの時の本当の気持ちを伝えられたら。

「私のために作ってくれないか」
「時間がとれれば」
「いや、そうじゃないんだ」

 アデルはなんとなくこれはよくない雰囲気だと思った。割れ顎が震えている。やはり自分はこの舞踏会に来るべきではなかったのかもしれない。エドガーとの話を知ればロバートのアデルへの執着は消えると思っていた。他人のお古など欲しい男はいないはずだと思っていたのに。

「そろそろ戻りましょう。兄が心配します」

 ロバートはアデルの不安げな顔を初めて見たような気がした。職人ではない普通の十九の乙女だった。
 月の光が不意に雲で翳った。

「暗くなったな。怖くないか」

 ロバートは一歩前に進んだ。言葉ではうまく伝えられそうもなかった。ならば力だ。
 ぐいと両腕を伸ばし、アデルを引き寄せた。

「あっ!」

 小さく叫んだアデルを抱き締め、見事な僧帽筋を撫でた。

「困ります」

 アデルは腕から離れようともがいた。ロバートは離すつもりはなかった。

「離してください。紳士のやることではありません」
「すまない。アデルを見ていると紳士でいられなくなるのだ」

 言ってしまった。ロバートは自身の言葉で、己の醜い欲望を思い知らされた。そうだ。すでに自分は上腕二頭筋に触れた時からアデルに牡として惹かれていた。菓子が、母がといくら理由をつけても、自分はアデルに欲情していたのだ。

「アデルが食べたい。欲しい」

 ささやいたその時だった。

「ビクトリア、やっぱりここか」

 パトリック卿がバルコニーの入口に立っていた。その横には幼年学校の生徒が目を丸くして立っていた。
 ロバートの緩んだ腕からアデルはさっと抜け出し、兄の背後に隠れた。パトリック卿はぼんやりした顔のロバートに告げた。

「この坊やが用事があるそうだ」

 二人が去った後、少年は己に課せられた職務を遂行した。

「ランバート辺境伯閣下、国王陛下がお呼びです。至急玉座の前にお越しください」
「わかった」

 カーティス・キャンベル少年は駆け足でその場を離れた。まさか叔父があんなことをするなんて。これは大事件だ。今度の週末に帰宅したら母上にお話ししなければ。
 ロバートは伝令が甥だとも気付かず、魂の抜けたような顔で広間へと向かった。
 パトリック卿に見られたことよりも、アデルに嫌われてしまったかもしれないということが彼の頭の大半を占めていた。あんな欲望丸出しの言葉を口にしたら、もう菓子は作ってくれないだろう。話もしてくれないだろう。それどころか、公爵から軽蔑されるかもしれない。それにベイカー夫婦が知ったら、あきれた領主と思うかもしれない。





 広間ではダンスがたけなわだった。踊り疲れた紳士淑女らは冷たいワインやパンチを口にしていた。軽食や菓子も用意され、淑女たちは美味を味わっていた。
 玉座では国王夫妻がバートリイ公爵夫妻と何やら楽し気に話していた。
 そこへランバート辺境伯がゆっくりと近づいた。女性達の視線が彼に集中した。だが、彼は目もくれず、国王の前に進んだ。

「来たか、ロバート」
「おそれながら、お呼びとのこと、何かございましたでしょうか」

 国王は笑みを浮かべていた。

「実はそなたのことで、今エイブと話していたのだ」

 エイブとはバートリイ公爵のことである。公爵は国王の学友でプライベートでは親しく名を呼び合う間柄であった。
 何だろう。さては先ほどのことが公爵の耳にすでに入って、王宮出入り禁止にでもされるのではないだろうか。なんといっても国王の学友の令嬢なのだ、アデルは。
 どちらにしろろくな話ではあるまい。ロバートは腹をくくった。何があっても驚くまい。受け入れよう。アデルから嫌われてしまったのだから。
 
「そなたも三十一になる。そろそろ結婚してはどうだ」
「え?」
「此度のエドガーの縁組での働き、実に素晴らしきものであった。テオドラも大変満足しておるとエドガーが言っていた。そこで、そなたに妻を娶らせようと決めた」

 冗談ではなかった。王の勅命の結婚となると断れない。相手が子爵令嬢のような女だったらと想像するだけで背筋が凍えた。 

「そのような心配は御無用です」
「遠慮せずともよい」

 そう言うと国王は侍従長を呼び耳打ちした。侍従長は侍従を呼び耳打ちした。侍従は楽団に行き、演奏を止めさせた。踊っていた男女の動きが止まった。

「皆の者、国王陛下よりお話がある」

 侍従長が声を張り上げた。ワインを飲んでいた紳士はグラスを持ったまま、菓子を口にしていた淑女は皿を持ったまま、国王に注目した。
 ロバートは慌てた。何の意志確認もなしに結婚なんて冗談ではない。

「陛下……」

 小声で呼びかけたが国王はまったく聞く耳を持たなかった。

「皆の者、楽しんでおるようで何より。此度のエドガーの結婚で、テオドラの国入りに尽力した者達のおかげでこのような盛大な舞踏会を催すことができた。余は深く感謝している。そこでその気持ちを表すために、特に功労のあったランバート辺境伯に褒美をつかわしたいと思う。異議のある者はいるか」
「異議なああし!」

 議員の中でも大声を誇る与党議員が声を張り上げた。その後を追うように「異議なし」の声があちこちから聞こえた。ロバートは異議ありと言いたかった。だが、とても言える雰囲気ではない。

「異議なしということで、これより褒美をつかわす」

 ファンファーレが鳴った。やりすぎだとロバートは思った。

「ランバート辺境伯への褒美は花嫁だ」

 国王の言葉に女性達から小さな悲鳴が漏れた。

「相手はバートリイ公爵エイブラハム・ガブリエル・ホークの四女ビクトリア・ガブリエラ・アデレード・ホーク嬢。辺境伯、大事にせよ」

 国王はそう言うと傍らの王妃に悪戯っぽく目配せした。王妃は微笑んだ。
 一体これはどういうことなのか、ロバートは混乱していた。
 目の前にはパトリック卿にエスコートされたアデルが立っていた。先ほどまでとは違う上流貴族の女性特有の何を考えているかわからぬ微笑を浮かべて。

「辺境伯殿、陛下に御礼を」

 バートリイ公爵に促され、ロバートはアデルと並んで国王の前にかしこまった。

「温かい御配慮恐悦至極に存じます」

 誰かの拍手をきっかけに広間全体に祝福の拍手が広がった。
 だが、当のロバートは困惑していた。
 自分はさっきの言動でアデルに嫌われたかもしれないのに。食べたいとか欲しいとか、紳士の言うべき言葉ではないのに。
 再び、楽団の演奏が始まった。

「辺境伯殿、娘を頼みますぞ」

 岳父になるバートリイ公爵に背を押されるように、ロバートはアデルの手をとって、ダンスの輪に加わった。
 きっとアデルは嫌な気分でいるに違いないと思い、表情を伺ったが、先ほどと同じように何を考えているかわからなかった。
 半ば上の空でロバートはステップを踏んだ。
 人々は二人の見事なダンスに見とれていた。だが、二人とも心はそれどころではなかった。





 アデルも困惑していた。
 婚約内定が白紙になったと父から知らされた時に、「陛下がいずれ、この埋め合わせはすると仰せだった。きっとよいお相手を探してくださる」と言っていたことをアデルはぼんやりと思い出していた。
 何年も前に言ったことを実行した陛下は立派な王様だと思う。なかなかできないことだと思う。
 けれど、エドガーとの婚約を決めたのも、白紙に返したのも、国王である。公爵令嬢という立場上、アデルには逆らえない。この結婚もそうだ。もし、国王がやはり結婚は駄目だと言ったらひっくり返る恐れもある。
 公爵領を出た時は、国益等と関わりなく、誰にも邪魔されず自分の腕一つで生きていこうと思っていた。実際、ベイカーの店でアデルは鍛えられた。薪割りと竈の火の調節と料理に関しては家族の中では一番の腕前だと思う。あのまま修行を続けていたら、店を出せる腕前になれたかもしれない。
 そんなアデルの気持ちを動かしたのは母の手紙だった。祖母の体調もさることながら、アデルの不在が思わぬ波紋を広げているという事実がアデルを打ちのめした。
 アデルが家を出た時、公爵家では遠縁の家に遊びに行っていると説明していた。厳しい修行に音を上げて早々に帰ってくるだろうと皆思っていたのだ。だが、一年過ぎた頃から社交界にデビューする様子もない公爵家の四女を不審に思う者が現われ始めた。やがて修道院に入った、いや悪い病で療養所にいるという噂が公爵夫人の耳にも入った。公爵は遠縁の家の居心地がよくて、帰って来ないのだと話したものの、簡単に納得する社交界の人々はいない。それでも公爵は人望があり、国王とも親しいので、人々はそれ以上の追及はしなかった。
 だが、姉の婚約者の親戚から、やんわりと四女の方の病次第では破談になるかもしれないと言われては、公爵夫妻もこれ以上、アデルをベイカーの店に置くわけにはいかなくなった。
 アデルもまた家族に迷惑をかけてまで、自分の道を貫くことはできなかった。自分のせいで兄や姉の結婚が難しくなるのは耐えられなかった。
 結局、逃げられないのだ。国益からも公爵令嬢の義務からも。アデルは公爵令嬢として生きていくしかないのだ。 
 だからこそ、この舞踏会への招待にも応じた。公爵令嬢として堂々と生きていく。逃げないと決めたのだから。
 人々はにこやかにバートリイ公爵令嬢ビクトリア・ガブリエラ・アデレード・ホークを迎えた。だが、それは表向きのことだった。婚約白紙撤回の件はかなり広まっていた。舞踏会場に入った時から向けられる憐みの視線も、ロバートと踊る自分を見つめる女達のまなざしも鋭い刃物のようだった。

「お可哀想な辺境伯様」

 そんな声も聞き取れた。
 もし、エドガーとのことがなければ、誰もアデルと結婚するロバートを可哀想などと言わないだろう。
 内定の段階の白紙撤回だから、アデルは何も悪くないのだと父は言う。確かにそうだ。けれど、いったん広まった噂を消し去ることはできない。
 エドガーとの婚約内定を白紙にされたと知った時のことは今も生々しく思い出される。
 手紙を燃やしながら、自分は国益にならぬ、エドガーの人生には不要な存在なのだと炎を見つめていた記憶が公爵領に戻ってから甦ることが増えた。
 そんな自分が、ランバート辺境伯ロバートの妻として果たしてふさわしいのか。ただ菓子屋の職人として彼の注文に応じてお菓子を焼いて贈るだけの関係なら、なんと気楽なことだろうか。
 華やかに彩られたダンスフロアで、大勢の着飾った紳士淑女とともに、ロバートと踊っているアデルは孤独だった。





 フロアの片隅では貴族たちが思い思いに集い、今日の良き日を寿いでいた。だが、一か所だけ何やらどす黒い空気に覆われた場所があった。

「まさか、公爵令嬢を辺境伯に娶せるとは」

 イーストン子爵の言葉を隣の白髪の男は黙って聞いていた。男は今でも若い頃と同様に女性達の興味を惹く容貌を保っていた。けれど、その目に宿る光は冷たく、踊る二人を憎しみの目で見つめていた。あの娘を幸せにしてなるものか。

「ダン、ここにいたのか」

 大勢の貴族に囲まれて近づくバートリイ公爵の声に男は恭しく礼をした。男が陰なら公爵は陽である。若い頃よりやや肉付きのよくなった顔はいつも笑顔をたたえていた。当然のことながら、人は親しくなるなら明るい人を選ぶものである。公爵は身分を問わず大勢の貴族に好感をもたれていた。

「これは公爵様。このたびはおめでとうございます」
「ありがとう。公爵様とは水くさいな」
「それがしは伯爵。宮内省勤めの身で称号を無視するわけには参りません」
「では、ギルモア伯、これでやっと末娘の嫁ぎ先が決まった。手続き等で宮内省の手を煩わせることもあるかもしれないが、よろしく頼む」
「かしこまりました」

 公爵一行が遠ざかると男は舌打ちした。ともに王の学友として学んだ若き日々は過去のことである。今のギルモア伯爵ダンカン・イーグルにとって公爵は憎き男であった。




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