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第二章 辺境伯家の家訓‐宣戦布告と愛の言葉は堂々と‐
05 憂鬱な婚約者達
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舞踏会から帰ったロバートは母に国王の命令で結婚することになったと告げた。グレイスは大喜びだった。相手がバートリイ公爵の末娘だと言うと、喜ぶなどという生易しいものではなくなった。姉のリーズを呼んで大騒ぎとなった。
さらに実はビクトリアはアデルだったと言うと、半狂乱になった。
「どういうことなの? なぜ?」
「アデルって誰?」
リーズまでもがロバートを問い詰める。
そこへ出張から戻って来たクラーク・キャンベル少将が、陸軍大臣から結婚すると聞いたが本当かと義弟に尋ねたので、さらに大騒ぎになった。
結局家族に説明を終えたのは日付が変わった真夜中過ぎであった。母だけでなく姉と義兄の質問責めがすさまじかったからである。話を終え寝室に入ったロバートは服を脱ぐとシャワーも浴びずにベッドに入った。目が覚めると日は既に高かった。
一方、アデルは王城からタウンハウスに帰る馬車の中で一言も口をきかなかった。バートリイハウスに着いた後パトリックが疲れているのかと尋ねると、ええとうなずいた。
公爵はもう今夜はお休みと言って娘を休ませた。
公爵夫人には娘がなんとなく結婚に気のりしないように見えた。
居間で二人になると夫に尋ねた。
「あなた、大丈夫なの」
「何が?」
「アデルよ。本当に辺境伯と結婚させていいの」
公爵は妻の心配も当然だと思った。
「君の心配もわかる。でも、ロバートほどいい男はいない。今回の仕事も実によくやってくれた」
そこへパトリックがやって来た。
「ロバートも隅に置けないよ。月光の降り注ぐバルコニーでアデルを抱き締めてたんだ」
「まあ!」
夫人は思わず声を上げた。公爵は勝ち誇ったように言った。
「ほら、どうだ」
「でも、アデルは動揺してるんじゃないかしら」
夫人は娘がたくましい見かけによらず繊細だと理解していた。でなければ、あんなにおいしい菓子が作れるわけがないのだ。
「辺境伯領にやっていた者達の報告では、ロバートはアデルの作った菓子にぞっこんらしい。男の胃袋をつかめばこっちのものだ」
公爵には確信があった。ロバートの好みにアデルは完全に一致すると。辺境伯領に送っていた部下たちはロバートの嗜好まで把握していた。
「でも物事は思うようにいかないこともある」
夫人は不安だった。婚約発表間近で白紙に戻されたエドガーの件があれば当然のことである。
「こんどこそはうまくいく。もし駄目でも、アデルなら一人でやっていける」
「一人でって、そんなこと言わないで」
夫人は縁起でもないと思った。
翌日から慌ただしい日々が始まった。ランバートハウスとバートリイハウスには貴族からのお祝い言上の使者が次から次へと祝賀の品を携えて訪れた。
国王からの祝いの品も両家に届いた。ランバート辺境伯家には立派な馬体の馬が二頭、バートリイ公爵家には馬車を警備する大型の犬が四頭贈られた。いずれも餌と世話の必要な負担のかかる贈り物だが、国王からの下賜だからぞんざいに扱うわけにはいかない。王都に住む独身の労働者の住まいよりも広い馬小屋や犬小屋が早速用意されて新たに世話係が雇われた。
ついでに結婚式の日取までも国王からの指示があり、一か月後に決まってしまった。
それぞれの家族は大忙しとなった。公爵家の次男でいつもは暇なパトリックも披露宴の来客リスト作成に大わらわだった。
週末にランバートハウスにオーブリーとカーティスが帰省してくると、さらに騒ぎは大きくなった。
カーティスから月光のバルコニー事件を聞かされたリーズは興奮の余り気絶しそうになった。気絶しなかったのは頑丈なマカダム家の血のなせるわざである。普通の令嬢なら三度は気絶しただろう。
ガーフィールド公爵邸で公爵夫人の侍女たちの愚痴を聞かされて戻って来たロバートがグレイスとリーズに責め立てられたのは言うまでもない。
「アデルが可哀想じゃないの。あなたのことだから、何も言わなかったのでしょう。一言断るべきですよ」
「カーティスが同級生に話したから、今頃は陸軍全体に広がってるわ。まったくなんてこと」
それは姉上の躾がなっていないからだといつものロバートなら言い返すところだが、そんな気分ではなかった。
ロバートはアデルに嫌われたまま結婚しなければならないという事実に絶望していた。あんなことをしたアデルはロバートを軽蔑しているに違いないのだ。
「ええ、私が悪いんです」
それだけ言って、ロバートは自室にこもってしまった。
これはいつものロバートではない。グレイスは何やら不穏なものを感じていた。
それはアデルも同様だった。公爵夫人は明らかに娘はおかしいと思った。とても結婚の決まった娘の顔ではない。婚礼衣装を急遽作ることになり屋敷に呼んだ仕立て屋が示したデザインに黙ってうなずく娘などありえなかった。アデルは姉妹の中で一番美に敏感だった。公爵領から戻った当初は三男で画家のナサニエルとよくお菓子の色彩のことを語り合っていたものだ。ナサニエルがいればアデルは気持ちを打ち明けるかもしれないが、生憎ナサニエルは写生旅行のため各国を周遊しており、結婚式の二日前に帰国すると手紙が届いたばかりである。
アデルは辺境伯領のベイカーの元で菓子職人の修行を二年余りも続けたような娘である。もし、この結婚に気が進まないと思ったら、土壇場で思い切った行動をする恐れがあった。髪を切るなどアデルにはなんでもないのだ。公爵夫人はなんとしてもそれを阻止しなければならなかった。夫や息子、それに社交界の婦人達の話を聞くまでもなくロバートは夫としてふさわしい男性だと夫人も思う。これを逃せば後はない。
だが、娘は何も語らない。
それとなく何か心配事はないかと尋ねても、大丈夫というばかりだった。
どうすればいいのかと思っているうちに挙式二週間前となり、両家の顔合わせがバートリイハウスで行われることとなった。
顔合わせの晩餐は特に問題なく行われた。バートリイ公爵家の料理人は顔合わせにふさわしい料理を用意し、出席者は上機嫌で料理を口にした。ロバートとアデルを除いては。
二人の席は真向いにあったが無表情で始終俯き加減だった。まるでそこだけが弔いの後の会食のようだった。
そんな中で陽気なのはパトリックとマカダム家の次男のヘンリーだった。次男同士で気が合うのか二人で話を延々としていた。
「君、工業大臣の秘書官なんだって」
「はい。パトリック卿は何をされておいでですか」
「されておいでって、何もしてないよ。無職さ。無位無官のしがない身の上さ。秘書官殿とは大違いだ」
「秘書官といっても雑用係のようなものですから。先だっても大臣のお供で鉄道敷設予定地の視察に行ったんですが、地元商工会の会長と面談をする際に、閣下が腰掛けた椅子の足がボキリと折れましてね。さあ大変です。会長はおろおろして怒鳴るし、大臣は腰を押さえているし。ぎっくり腰を一度やっているもんですから医者を呼びに行かせたり、急遽面談の場所を変えたり」
「それは災難だったね」
「まあ、そのくらいならよくあることです」
いつもならここでロバートが「椅子の確認をしなかったお前が悪い」とヘンリーを怒るところである。だが、ロバートは黙ってローストビーフに添えられたサラダを口に運んでいた。
ヘンリーはなんだかおかしいと思った。こんなおとなしい兄は見たことがなかった。結婚が決まると人はこんなにおとなしくなるものだろうか。いや、そんなはずはない。結婚した同僚たちはこんなにおとなしくはなっていない。
やがて最後のデザートと紅茶が供された。
公爵は自慢げだった。
「この焼き菓子はビクトリアが手ずから作ったもの。領地で採れた葡萄、ベリー、オレンジ、胡桃を蒸留酒に漬け込んだものがたっぷり入っている。ホーク家のすべてが入っていると言ってもいい。辺境伯殿、これを我が娘だと思って存分に味わってくれ」
いささか最後は砕け過ぎだと公爵夫人は思った。
焼き菓子には瑞々しいラズベリーと生クリームが添えられていた。グレイスは一口食べてこれはマカダム家の蒸留酒を使ったものとはまた違って味わい深いと思った。
ロバートはクリームを付けずに菓子を一切れ口に入れた。アデルの味だった。中に入っているものは違うが、アデルが生地を混ぜ、焼いたものだ。きっと薪も自分で割って火加減も最後までやったに違いない。蒸留酒の味わいは丸くなっていないが、十分に生地になじんでいた。もうしばらくおいたら熟成して深い味わいになると思われた。
「うまい」
やっと発せられたロバートの一言にアデル以外全員が安堵した。
アデルはといえば、黙々と菓子を口に運んでいる。
全員が食べ終わったところで、公爵がにこやかに微笑みながら口を開いた。
「さて、この後、紳士諸兄は娯楽室で親睦を深めようではないか。淑女の皆様は隣の部屋で楽しい語らいをしてもらいたい。それからロバート君は庭を少し散策したまえ。奥にある温室の夜来香の花がこの前から開いて夜になるといい香りがする。今宵は月が見えない。少々足元が暗いので、ランタンをお貸ししよう。ビクトリア、案内して差し上げなさい」
ロバートとアデルは半ば強引に庭に追い出されたような形だった。
二人は黙々と温室への道をたどっていた。王都のタウンハウスでも一、二を争う広さを持つバートリイハウスは庭も広い。しかも起伏があり長いだらだらと続く上り坂やちょっとした階段が作られていたので、屋敷から離れるとランタンが必須だった。アデルはそんな道を息を乱すこともなく歩いた。
やがて二股になった場所に行きついた。
「右です」
アデルが挨拶以外では初めて発した声だった。
「ありがとう」
ロバートはそれに従いランタンを少し高くあげ前方を見た。温室らしい建物が見えた。意外と大きな建物だった。
ゆるやかな坂を下りて100メートルもいかぬうちに温室に着いた。鍵は開いていた。アデルは扉を開けた。甘い香りが外に流れ出し、ロバートは目まいを覚えた。
中に一歩入ると熱気もあいまってむせかえるような濃厚な匂いが二人を包んだ。
「物凄い匂いだな」
「甘い匂いですね。でも、お菓子には向かないかも」
「そうだな」
久しぶりの会話らしい会話だった。
「座る場所はないのか」
「こちらです」
温室の中ほどの壁際にベンチがあった。腰掛けて前方を照らすと、大きな幅の広い葉っぱがいくつも見えた。
「これは?」
「バナナです」
アデルはロバートの左側に座った。ベンチの幅が狭いせいか、ドレスの裾がロバートのトラウザーズに触れた。胸の高鳴りにロバートは困惑した。アデルは暗いせいか気付いていないようだった。
「これがバナナの葉か」
一度だけ輸入された果実を王都で食べたことがあった。味はどうだったか覚えていない。
「これはそのままで食べずに焼いて食べる種類です」
「種類があるのか」
「ええ。甘いものは生で食べます」
「それじゃ菓子に使えるかもしれない」
「そうですね」
アデルの声から硬さが抜けてきたような気がした。ロバートは今ならば言えると思った。
「さっきの菓子はこの前言っていた菓子なのか」
「え? そうです。バートリイの屋敷で作ったものです」
「とてもいい味だった。アデルの味がした」
アデルの反応がない。やはり、この前食べたいなどと言ったからだろうか。ロバートは不安だった。
やはり嫌われているのだろう。
「辺境伯様」
声が少し硬く感じられた。ロバートはアデルの味なんて言わなければよかったと思った。
さらに実はビクトリアはアデルだったと言うと、半狂乱になった。
「どういうことなの? なぜ?」
「アデルって誰?」
リーズまでもがロバートを問い詰める。
そこへ出張から戻って来たクラーク・キャンベル少将が、陸軍大臣から結婚すると聞いたが本当かと義弟に尋ねたので、さらに大騒ぎになった。
結局家族に説明を終えたのは日付が変わった真夜中過ぎであった。母だけでなく姉と義兄の質問責めがすさまじかったからである。話を終え寝室に入ったロバートは服を脱ぐとシャワーも浴びずにベッドに入った。目が覚めると日は既に高かった。
一方、アデルは王城からタウンハウスに帰る馬車の中で一言も口をきかなかった。バートリイハウスに着いた後パトリックが疲れているのかと尋ねると、ええとうなずいた。
公爵はもう今夜はお休みと言って娘を休ませた。
公爵夫人には娘がなんとなく結婚に気のりしないように見えた。
居間で二人になると夫に尋ねた。
「あなた、大丈夫なの」
「何が?」
「アデルよ。本当に辺境伯と結婚させていいの」
公爵は妻の心配も当然だと思った。
「君の心配もわかる。でも、ロバートほどいい男はいない。今回の仕事も実によくやってくれた」
そこへパトリックがやって来た。
「ロバートも隅に置けないよ。月光の降り注ぐバルコニーでアデルを抱き締めてたんだ」
「まあ!」
夫人は思わず声を上げた。公爵は勝ち誇ったように言った。
「ほら、どうだ」
「でも、アデルは動揺してるんじゃないかしら」
夫人は娘がたくましい見かけによらず繊細だと理解していた。でなければ、あんなにおいしい菓子が作れるわけがないのだ。
「辺境伯領にやっていた者達の報告では、ロバートはアデルの作った菓子にぞっこんらしい。男の胃袋をつかめばこっちのものだ」
公爵には確信があった。ロバートの好みにアデルは完全に一致すると。辺境伯領に送っていた部下たちはロバートの嗜好まで把握していた。
「でも物事は思うようにいかないこともある」
夫人は不安だった。婚約発表間近で白紙に戻されたエドガーの件があれば当然のことである。
「こんどこそはうまくいく。もし駄目でも、アデルなら一人でやっていける」
「一人でって、そんなこと言わないで」
夫人は縁起でもないと思った。
翌日から慌ただしい日々が始まった。ランバートハウスとバートリイハウスには貴族からのお祝い言上の使者が次から次へと祝賀の品を携えて訪れた。
国王からの祝いの品も両家に届いた。ランバート辺境伯家には立派な馬体の馬が二頭、バートリイ公爵家には馬車を警備する大型の犬が四頭贈られた。いずれも餌と世話の必要な負担のかかる贈り物だが、国王からの下賜だからぞんざいに扱うわけにはいかない。王都に住む独身の労働者の住まいよりも広い馬小屋や犬小屋が早速用意されて新たに世話係が雇われた。
ついでに結婚式の日取までも国王からの指示があり、一か月後に決まってしまった。
それぞれの家族は大忙しとなった。公爵家の次男でいつもは暇なパトリックも披露宴の来客リスト作成に大わらわだった。
週末にランバートハウスにオーブリーとカーティスが帰省してくると、さらに騒ぎは大きくなった。
カーティスから月光のバルコニー事件を聞かされたリーズは興奮の余り気絶しそうになった。気絶しなかったのは頑丈なマカダム家の血のなせるわざである。普通の令嬢なら三度は気絶しただろう。
ガーフィールド公爵邸で公爵夫人の侍女たちの愚痴を聞かされて戻って来たロバートがグレイスとリーズに責め立てられたのは言うまでもない。
「アデルが可哀想じゃないの。あなたのことだから、何も言わなかったのでしょう。一言断るべきですよ」
「カーティスが同級生に話したから、今頃は陸軍全体に広がってるわ。まったくなんてこと」
それは姉上の躾がなっていないからだといつものロバートなら言い返すところだが、そんな気分ではなかった。
ロバートはアデルに嫌われたまま結婚しなければならないという事実に絶望していた。あんなことをしたアデルはロバートを軽蔑しているに違いないのだ。
「ええ、私が悪いんです」
それだけ言って、ロバートは自室にこもってしまった。
これはいつものロバートではない。グレイスは何やら不穏なものを感じていた。
それはアデルも同様だった。公爵夫人は明らかに娘はおかしいと思った。とても結婚の決まった娘の顔ではない。婚礼衣装を急遽作ることになり屋敷に呼んだ仕立て屋が示したデザインに黙ってうなずく娘などありえなかった。アデルは姉妹の中で一番美に敏感だった。公爵領から戻った当初は三男で画家のナサニエルとよくお菓子の色彩のことを語り合っていたものだ。ナサニエルがいればアデルは気持ちを打ち明けるかもしれないが、生憎ナサニエルは写生旅行のため各国を周遊しており、結婚式の二日前に帰国すると手紙が届いたばかりである。
アデルは辺境伯領のベイカーの元で菓子職人の修行を二年余りも続けたような娘である。もし、この結婚に気が進まないと思ったら、土壇場で思い切った行動をする恐れがあった。髪を切るなどアデルにはなんでもないのだ。公爵夫人はなんとしてもそれを阻止しなければならなかった。夫や息子、それに社交界の婦人達の話を聞くまでもなくロバートは夫としてふさわしい男性だと夫人も思う。これを逃せば後はない。
だが、娘は何も語らない。
それとなく何か心配事はないかと尋ねても、大丈夫というばかりだった。
どうすればいいのかと思っているうちに挙式二週間前となり、両家の顔合わせがバートリイハウスで行われることとなった。
顔合わせの晩餐は特に問題なく行われた。バートリイ公爵家の料理人は顔合わせにふさわしい料理を用意し、出席者は上機嫌で料理を口にした。ロバートとアデルを除いては。
二人の席は真向いにあったが無表情で始終俯き加減だった。まるでそこだけが弔いの後の会食のようだった。
そんな中で陽気なのはパトリックとマカダム家の次男のヘンリーだった。次男同士で気が合うのか二人で話を延々としていた。
「君、工業大臣の秘書官なんだって」
「はい。パトリック卿は何をされておいでですか」
「されておいでって、何もしてないよ。無職さ。無位無官のしがない身の上さ。秘書官殿とは大違いだ」
「秘書官といっても雑用係のようなものですから。先だっても大臣のお供で鉄道敷設予定地の視察に行ったんですが、地元商工会の会長と面談をする際に、閣下が腰掛けた椅子の足がボキリと折れましてね。さあ大変です。会長はおろおろして怒鳴るし、大臣は腰を押さえているし。ぎっくり腰を一度やっているもんですから医者を呼びに行かせたり、急遽面談の場所を変えたり」
「それは災難だったね」
「まあ、そのくらいならよくあることです」
いつもならここでロバートが「椅子の確認をしなかったお前が悪い」とヘンリーを怒るところである。だが、ロバートは黙ってローストビーフに添えられたサラダを口に運んでいた。
ヘンリーはなんだかおかしいと思った。こんなおとなしい兄は見たことがなかった。結婚が決まると人はこんなにおとなしくなるものだろうか。いや、そんなはずはない。結婚した同僚たちはこんなにおとなしくはなっていない。
やがて最後のデザートと紅茶が供された。
公爵は自慢げだった。
「この焼き菓子はビクトリアが手ずから作ったもの。領地で採れた葡萄、ベリー、オレンジ、胡桃を蒸留酒に漬け込んだものがたっぷり入っている。ホーク家のすべてが入っていると言ってもいい。辺境伯殿、これを我が娘だと思って存分に味わってくれ」
いささか最後は砕け過ぎだと公爵夫人は思った。
焼き菓子には瑞々しいラズベリーと生クリームが添えられていた。グレイスは一口食べてこれはマカダム家の蒸留酒を使ったものとはまた違って味わい深いと思った。
ロバートはクリームを付けずに菓子を一切れ口に入れた。アデルの味だった。中に入っているものは違うが、アデルが生地を混ぜ、焼いたものだ。きっと薪も自分で割って火加減も最後までやったに違いない。蒸留酒の味わいは丸くなっていないが、十分に生地になじんでいた。もうしばらくおいたら熟成して深い味わいになると思われた。
「うまい」
やっと発せられたロバートの一言にアデル以外全員が安堵した。
アデルはといえば、黙々と菓子を口に運んでいる。
全員が食べ終わったところで、公爵がにこやかに微笑みながら口を開いた。
「さて、この後、紳士諸兄は娯楽室で親睦を深めようではないか。淑女の皆様は隣の部屋で楽しい語らいをしてもらいたい。それからロバート君は庭を少し散策したまえ。奥にある温室の夜来香の花がこの前から開いて夜になるといい香りがする。今宵は月が見えない。少々足元が暗いので、ランタンをお貸ししよう。ビクトリア、案内して差し上げなさい」
ロバートとアデルは半ば強引に庭に追い出されたような形だった。
二人は黙々と温室への道をたどっていた。王都のタウンハウスでも一、二を争う広さを持つバートリイハウスは庭も広い。しかも起伏があり長いだらだらと続く上り坂やちょっとした階段が作られていたので、屋敷から離れるとランタンが必須だった。アデルはそんな道を息を乱すこともなく歩いた。
やがて二股になった場所に行きついた。
「右です」
アデルが挨拶以外では初めて発した声だった。
「ありがとう」
ロバートはそれに従いランタンを少し高くあげ前方を見た。温室らしい建物が見えた。意外と大きな建物だった。
ゆるやかな坂を下りて100メートルもいかぬうちに温室に着いた。鍵は開いていた。アデルは扉を開けた。甘い香りが外に流れ出し、ロバートは目まいを覚えた。
中に一歩入ると熱気もあいまってむせかえるような濃厚な匂いが二人を包んだ。
「物凄い匂いだな」
「甘い匂いですね。でも、お菓子には向かないかも」
「そうだな」
久しぶりの会話らしい会話だった。
「座る場所はないのか」
「こちらです」
温室の中ほどの壁際にベンチがあった。腰掛けて前方を照らすと、大きな幅の広い葉っぱがいくつも見えた。
「これは?」
「バナナです」
アデルはロバートの左側に座った。ベンチの幅が狭いせいか、ドレスの裾がロバートのトラウザーズに触れた。胸の高鳴りにロバートは困惑した。アデルは暗いせいか気付いていないようだった。
「これがバナナの葉か」
一度だけ輸入された果実を王都で食べたことがあった。味はどうだったか覚えていない。
「これはそのままで食べずに焼いて食べる種類です」
「種類があるのか」
「ええ。甘いものは生で食べます」
「それじゃ菓子に使えるかもしれない」
「そうですね」
アデルの声から硬さが抜けてきたような気がした。ロバートは今ならば言えると思った。
「さっきの菓子はこの前言っていた菓子なのか」
「え? そうです。バートリイの屋敷で作ったものです」
「とてもいい味だった。アデルの味がした」
アデルの反応がない。やはり、この前食べたいなどと言ったからだろうか。ロバートは不安だった。
やはり嫌われているのだろう。
「辺境伯様」
声が少し硬く感じられた。ロバートはアデルの味なんて言わなければよかったと思った。
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