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第二章 辺境伯家の家訓‐宣戦布告と愛の言葉は堂々と‐

03 仮装の令嬢

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 目の前のロバートが見た事もないような顔で自分を見つめているのをアデルは少しだけ申し訳なく感じた。

「ア、アデルなのか?」
「はい」
「どうして、アデルが公爵令嬢の仮装をしているんだ」
「正確には、公爵令嬢ビクトリア・ガブリエラ・アデレード・ホークがアデルという菓子職人見習いに仮装していたというところでしょうか」

 ロバートの表情はますます困惑の度合いを深めているように見えた。

「アデレードは母方の曾祖母の名です。私は幼い頃から家族にアデルと呼ばれていたのです」
「アデレード……だからアデルか」

 だが、その説明だけではロバートは納得しそうに見えなかった。

「なぜ、ベイカーの店にいたのだ。なぜ、菓子職人などになったのだ」
「お話ししてよろしいでしょうか。お仕事があるのではありませんか」
「いや、仕事はいい。聞かせてくれ」
「では、お話ししますが、その前に、お詫びをさせてください」

 そう言うとアデルは改めてロバートを見つめた。月の光に顎の割れ目が深い影となっていた。

「何の御挨拶もなく、ベイカーの店を辞めて公爵領に戻ったことをお許しください」
「許すも何も、事情があったのだろう。おばあさまの具合が悪くなったとベイカーのおかみが言っていた。具合はどうなのだ」
「おかげさまで、元気になりました」
「そうか、よかった」

 そう言った後でロバートは付け加えた。

「結婚の話もあるのだろう。年頃だとおかみも言っていた」
「それは……ないかと。なにしろ、私がエドガー様にパイを投げると噂になっていたようですから。そんな女と結婚したい殿方がいるとは思えません。でも、パイを投げるなんて。パイは食べるものです。投げるなんて許せません」

 アデルにとっては許し難い噂だった。パイ生地の繊細な層を作るために何度も折り畳んだり、クリームをなめらかに泡立てる苦労を知らないから言える噂だった。

「そうだな。パイは食べるものだ」

 ロバートは我知らず微笑んでいた。その微笑みに促されるようにアデルは話し始めた。





 私が七歳になった年に一つ年上のエドガー様との婚約が内定したと両親から知らされました。内定だから誰にも言ってはいけないとも言われました。私はまだ結婚の意味も知らぬ子どもでしたから、王子様と結婚できるのだと、そればかりが嬉しくて。ふさわしい女性になるためにマナーや語学・歴史の勉強が忙しくなりましたけれど、それでも毎日楽しんで勉強していました。家庭教師の先生は皆様優秀で苦痛を味あわせることなく、上手に導き教えてくださいましたから。辺境伯家の歴史もその時に勉強したのです。
 エドガー様からも季節ごとに便りが届きました。父とともに王都に上ってお城に参内し国王陛下や王妃様にお目通りを許され、一緒にお茶をいただいたこともあります。庭をエドガー様と散策したり。公爵家の娘が城に上がって王子様や王女様と話したり遊んだりするのは珍しいことではありませんから、内定の件を知る者はほとんどいませんでした。こうして私は十五になりました。
 我が国では貴族の子女は十六で社交界にデビューするのが慣例になっています。デビューと同時にエドガー様との婚約が発表される手筈になっていましたので、私も家族もそれに向けて支度をしていました。エドガー様との手紙のやり取りも続いておりました。
 ところがある時を境に手紙がこなくなったのです。私が出しても返事がありません。やがて王都から戻った父から、婚約が白紙になったことを知らされました。国のためにエドガー様は隣国の姫様と結婚なさることになったからと父から説明がありました。両親は内定だったのだから白紙になったところで傷付くことはない、陛下が他のよい人を探してくださると言ってくれました。けれど、私はまだ子どもでした。大人に裏切られ、婚約者にも裏切られたのだと、ひどく気分がふさぎました。理屈ではわかるのです。私との結婚は国益にはならない、私ではお役に立てないのだと。でも、心はそうはいかないものです。
 そんな時に、祖母に厨房に誘われて一緒に菓子を作ることになりました。初めて自分で菓子を作って食べました。婚約が白紙になってから初めてでした。あんなに食べたのは。どんなに悲しくてもお菓子は甘くおいしいのだと知りました。と同時に私のことを案じてくれる祖母の気持ちが痛いほどわかりました。
 それに、火というのは凄いものなのですね。思い出の手紙を焼いた火はお菓子を焼く火にもなるのです。火が私に少しだけ力をくれました。
 立ち直れたわけではありませんけれど、私は祖母と菓子を作って一緒に食べるようになりました。菓子を食べている時だけは幸せでした。
 そのうち、子どもの頃に食べた菓子のことを思い出しました。あの頃食べた菓子をもう一度食べたいと。城で作った蒸留酒漬けの入った焼き菓子がそれです。子ども向けだったので酒の量は少なかったと思いますが。正直、祖母の作る菓子の種類は少なくて物足りなかったのです。それに公爵家で雇っている菓子職人の菓子はきれいだけれど、物足りない味で。
 父に調べてもらったら子どもの頃にいた菓子職人が誰でどこにいるかはすぐにわかりました。それが隣のランバート辺境伯領で菓子屋をやっているベンジャミン・ベイカーでした。母付の侍女のアンナと結婚し、公爵家を辞めて独立していたのです。
 私はもう誰とも結婚しない、菓子職人になると決めました。国益などに左右されず、自分の生き方は自分で決めたいと思いました。結婚相手を決められ、都合が悪くなると白紙に返される、自分の意志はそこに何一つないのですから。世間知らずの娘だとお笑いになるでしょうけれど、その時の私にはそれしかなかったのです。
 社交界デビューのパーティは目の前に迫っていましたけれど、私は父に職人になるためにベイカーの店に行くと宣言しました。父は反対するだろうとわかっていましたので、腰まで伸ばしていた髪は切りました。短くなった髪を見れば許すしかないだろうと考えて。
 でも、父には私の考えなどお見通しでした。決めたのならさっさと行けと言いました。ただし、家から持ち出していいのはトランク一つ分の荷物だけだと。それから行きの乗り合い馬車の運賃分の銅貨の入った袋と偽の身分証明書を渡しました。公爵領の菓子職人の娘という身分の。
 あっけないほど簡単に私は辺境伯領のベイカーの店に行くことができました。ベイカーに雇ってくれと頼みましたが、当然断られました。何でもする、下働きでもすると言うと薪割りを命じられました。職人にやり方だけ教わって、決められただけの薪を割り終わった時には店も閉まっていてあたりは真っ暗になっていました。おかみさんの作ってくれたスープだけ飲んで屋根裏で倒れ込むように硬いベッドに寝ました。気が付くとあっという間に夜明け前。次の日もその次の日も朝から晩まで薪を割って。エドガー様のことなど思い出す暇はありませんでした。
 後からベイカーが教えてくれたのですが、父は私が出発する前に手紙を送っていたのです。馬鹿な娘がそちらに行くから世間の厳しさを教えるために普通の職人見習い以上に厳しく鍛えてくれと。多少怪我をしても構わない。厳しさがわかれば帰って来るだろうと。
 そんなことを知らない私はこれは修行だからと薪を割り、竈や店の掃除をし、小麦粉や砂糖の袋を担ぎ、賄いを作り、見習いとして修行に励みました。エドガー様のことなんか考える暇もありません。店に出せない菓子を食べて味を覚えたり、兄弟子の火の使い方や師匠の生地の混ぜ方を盗んだり、毎日が私にとって戦場でした。貴方から見れば甘っちょろいでしょうけれど。
 一年過ぎた頃、さすがに帰って来ない娘を父は心配したのでしょう。帰ってくるように手紙をよこしました。でも、私は帰る気はありませんでした。少しだけど、菓子作りの手伝いをさせてもらえるようになって面白さがわかってきた頃だったのです。火加減だけでなく天候によって粉の産地によって出来栄えが変わる菓子の世界は、思っていた以上に素晴らしかったのです。それに辺境伯領のお客様は皆舌が肥えていました。材料の質のよくない商品を売っている店はたとえ安い値段で売っていても、いつの間にか客足が遠のいてしまうのです。そのうち地代の安い場所に移転したり、店そのものがなくなったり。ベイカーの店のある商店街は地代の高い場所です。あそこにある店はいい商品を適正な値段で売っている良心的な店ばかりだということもわかってきました。
 ここで修業できる私は幸運だと思いました。私は父に帰らないと手紙を送りました。以来父は手紙を送ってきません。母からはたびたび来ましたけれど。
 その時の私にとって菓子職人見習いアデルはもはや仮装ではありませんでした。真の姿といってもいいくらい、私はベイカーの店の職人として生きていました。





 ロバートはアデルの語る話に驚愕するばかりだった。
 公平無私の人である公爵の、ある意味非常に厳しい教育にも驚かされた。普通、娘が婚約を解消されたら娘可愛さに甘やかし何でも与えるだろう。ところが、娘の言いなりになったかに見せておいて、世間の厳しさを教えるためにベイカーに厳しく鍛えてくれと手紙を送るとは、世間一般の貴族の親とはあまりにも違っていた。
 そしてベイカー夫妻の筋の通った対応にも。アデルを甘やかさず見習い職人として接した夫婦は大したものだった。普通なら元主人の娘として甘やかしてしまうだろう。

「父上はさぞかし心配したのだろうな」
「家に戻ってから聞かされました。私の身辺を警護させるために家臣を数人辺境伯領に潜入させたと」

 公爵はそういう点でもぬかりがなかったようである。鉱山の労働者には他領からの出稼ぎも多い。また労働者相手の店の女性も移動が激しい。警護をそれに紛れさせればわかりにくい。公爵は娘を守るため手段を尽くした上で手元から羽ばたかせたのだ。

「ですから、父は万聖節のお触れの一件も、サリーのことも知っています。私は何も話していないのですけれど」
「なに!」

 ロバートにとってそれは衝撃的な話であった。公爵は顔を合わせても何食わぬ顔で、道路整備の件や領内の鉄道敷設反対運動について意見を述べ相談に乗ってくれた。隣国以外の他国の干渉の話など一切口にしていない。
 要するにアデルの警護という名目で、ランバート辺境伯領の政情を監視していたということではないか。一見穏やかだが、なかなかしたたかな人物である。

「身辺の警護なら、こちらに連絡してくれればよかったのに」
「父は申してました。そんなことをしたら辺境伯は警備のために騎士団を一日中店の前に並べかねないと」

 アデルは笑った。ああ、可愛いとロバートは思った。祖母の茶会に出た老婆たちが可愛いと言っていたのもわかる。ゴリラなどとはとんでもない話だった。
 そうだった。公務があったとロバートは思い出した。

「その、エドガー様のことは」
「エドガー様のことって?」

 アデルは不思議そうにロバートを見た。

「諦められたのか」
「……仕方ないことですから。母が何も私には落ち度のないことだからと言ってますし。テオドラ様おきれいですね。きっと幸せなご夫婦におなりでしょう」

 あっとロバートは思い出した。
 ベイカーの住まいでアデルは言っていたではないか。
 お幸せになられるとよいですねと。

「それに、エドガー様のことよりお菓子のことを考えている時間のほうがずっと長いですから。去る者は日々に疎し。昔の人は良いことを言っているものですね」

 アデルはエドガーのことを過去のものとして受け入れてるようにロバートには思われた。これならテオドラの侍女たちが心配しているようなことは起きまい。
 だが、まだ人々はビクトリア嬢がパイを投げると思っている。そんな時に、娘を舞踏会に出席させるとは、公爵は少々考えが足らないのではなかろうか。

「舞踏会に出たのは貴女の意志なのか」

 ロバートは確かめておきたかった。

「それは……私が決めたことです。最初は出るわけにはいかないと思っていました。そもそも、家に戻ったのは祖母のこともありますけれど、母がいつまでも私が家に不在だと変な噂が広まると心配したのもあります。修道院に入ったとか病気で療養所にいるとか、考えられないような噂がすでにありました。私は別に構わなかったのですが、兄や姉の結婚に障りがありますし。ベイカーの店の職人の代わりはいますけれど、ホーク家のビクトリアは私しかいませんものね。それに、母は私には何の落ち度もないことだから、堂々と社交界に出入りできるようにと思っていたようです。ただ、戻って来た時は腕が太くなり過ぎだと叱られました。家にいた頃着ていたドレスの袖を縫い直さなければいけなくなりましたから」
「腕を触ってすまなかった。余りに見事だったから」

 アデルは笑った。令嬢ではなく職人の屈託ない笑い顔だった。

「もうびっくりしました」
「本当にすまなかった。紳士として恥ずかしい」

 ロバートは顔を赤らめた。だが、アデルはそれを無視した。

「話の続きをいいですか」
「ああ、たのむ」

 アデルから笑顔が消えた。

「家に戻ってすぐに舞踏会の招待状が届きました。父の話では婚約内定の解消だから出席に支障はないと陛下が判断されたとのことでした。私が顔を出してエドガー様が不快な思いをされるのではと思いましたが、もし出なければ陛下のご判断に異を唱えることになります。それに家族のことを思えば逃げてばかりもいられません。ベイカーの店で私は職人見習いとして懸命に働いてきました。女に職人が務まるわけがないと言われて不快な思いをしたこともあります。でも、一生懸命やっていれば認めてくれる人がいることも知りました。私の割った薪を使いやすいと褒めてくれた兄弟子、掃除した竈をきれいだと言ってくれた兄弟子、私の作った菓子をおいしいと言ってくれるお客様……。たくさんの人が認めてくれたのです。だから公爵の娘として懸命に生きていれば、きっと嫌な噂もそのうち消えると思うのです。でも逃げてしまったら、噂はずっと残るでしょう。だから舞踏会に出ると決めました。でも、おかしなものですね。出席の返事を出した直後から、おかしな噂が出て。パイなんか投げないのに」
「まったくだ」

 これはアデルの監視よりも噂の出どころを追及したほうがいいかもしれないとロバートは考えていた。公爵家に敵意を抱く勢力が存在することは明らかである。恐らく舞踏会の出欠を確認できる職務に関わっている貴族が関与しているはずである。
 それにしてもアデルはなんと強い意志を持っていることか。 

「アデル、よく決心した。貴女は強い」
「辺境伯様こそ、武勇のお噂はいろいろうかがっています」
「そういう意味ではない」

 ロバートはもどかしかった。もっと別のことを伝えたかったのに。

「そういえば、あのお菓子はまだ残っていますか」

 唐突なアデルの問いの意味がロバートにはわからなかった。



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