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第一章 ハロウィン禁止命令‐偏狭な辺境伯は仮装を許さない‐

10 味見

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 突然、厨房にやって来たロバート達に侍女たちは困惑した。
 落ち着いているのはグレイスとアデルだけだった。アデルは先ほどと変わらず、ロバートに背を向けて、竈の火加減を調整している。
 グレイスは息子の依頼に少々不機嫌な顔をしている。

「これは籠城のために、アデルが作り方を教えてくれたケーキ。本来なら保存しておくべきもの。それを出すということは曲者は捕まったということですか」

 ロバートは背中を向けたままのアデルが気になったものの、母の問いにはきちんと答えねばならなかった。

「いいえ。捕まっておりません。代官らを長く拘束しておりますので、菓子を出すことになりまして。ですが、厨房には出せる菓子がないとのことで。料理長が提案したのです」
「料理長の頼みということ?」
「はい」
「わかりました。二本あれば足りるわね。味を確かめたいと私も思っていたの」
「ありがとうございます」

 ロバートではなく背後にいる料理長が頭を下げた。

「大奥様、味見は私がいたします」

 クレイが一歩進み出た。

「アデル、どのくらいの薄さで切ればいいの?」
「人差指の幅で切ってください」

 グレイスの問いに、アデルは背を向けたまま答えた。
 ロバートはその態度に、呆れた。

「アデル、こちらを向け。母上に背を向けたまま、なんという礼儀知らずな」
「ロバート、アデルは仕事中です。竈から目を離せないんですよ」
「母上、甘過ぎます。アデルは下賤の」
「職人の仕事を邪魔してはいけません。私が命じたのです。菓子を教えてくれるように。ですから私に背を向けても礼儀知らずではありません」

 母親からそう言われてはロバートもそれ以上は言えなかった。
 グレイスはアンジーに菓子を切るように命じた。
 アンジーはよく焼けたものを選んで切り分けた。
 そろそろ温度を下げたほうがいいと判断し薪をくべるのをやめて、振り返ったアデルは言った。

「大奥様、味は私が確認しますので、一切れいただきます」

 驚くほどの素早さでアンジーが切ったばかりの菓子を取るとちぎって口に入れた。
 皆、アデルの口元を凝視していた。
 口に入れるとほろりと崩れ甘さと酒の香りが広がった。干しブドウの酸味とピールの苦味が程よく調和し、胡桃の歯ごたえが甘さを引き締めた。
 アデルは少しだけ安堵した。思ったよりは出来がいい。このオーブンの熱のまわりがいいからだろう。最初に焼いた五本の菓子に大きな焼きむらはなかった。
 ただ、問題もある。生地と蒸留酒漬けの干しぶどうとピールがなじんでいないのだ。できたら一日おいて味をなじませたほうがいいのだが。それに保存食とした場合、一週間後の味はどうなのか。一か月後は大丈夫なのか。まだまだ研究改善の余地があった。

「他に出すお菓子がなければこれでよいと思います」
「どういう意味なの?」

 グレイスは尋ねた。

「この焼き菓子は焼いた直後もそれなりにおいしいのですが、一日風通しのよい温度の低いところで保存しておくと味がよくなじむのです。できたらそうしたいところですが、今日のところは止むを得ません」

 すると料理長が調理台に近づき言った。

「私にも一口くれないか。残りでいいから」
「はい」

 アデルはちぎった菓子の残りを差し出した。料理長も一口大にちぎって口に入れた。
 しばらく噛んだ後、飲み込んだが、何も言わず、残りの菓子を全部口に入れた。

「作り方をジョンが戻って来たら教えてくれ。ジョンはうちの菓子の担当なんだ」
「かしこまりました」
「アデル、私にもくれぬか」

 クレイは料理長の前に出て来た。アデルはアンジーの切った一枚を差し出した。
 クレイはちぎりもせず、がぶりと噛みついた。

「んんん、こ、これは」

 全部呑み込んだクレイは顔を紅潮させていた。

「酔っ払いそうだ。だが、うまい。これが毒でもかまわん」
「毒だなんて、失礼ではありませんか」

 グレイスはそう言うと、不機嫌そうな息子を見た。

「あなたが何を考えているかわからないけれど、アデルは立派に仕事をやっている。それには敬意を払って欲しいものね」

 ロバートはアデルを改めて見た。見覚えのある姉のドレスを着ていることに気付いた。

「母上、なぜ、姉上のドレスをアデルが着ているのですか」

 唐突な問いに、グレイスは呆れた。ここは菓子のことを言うべきではないか。

「あなたが気が利かないから、着替えてもらったの。拳銃の弾がかすめて穴が空いた袖をそのままにしておくなんて、ひど過ぎます。ここは何もない戦場じゃないんだから。さあ、お皿とフォークを用意して。お茶は厨房で用意してもらえるかしら。二階のお客様を待たせてはいけませんよ」

 侍女たちは皿に菓子を盛りつけた。料理長の指示で一階の厨房から上がって来た給仕たちは菓子を階下に運んだ。クレイは彼らとともに二階に向かった。
 厨房にはロバートだけが残った。
 アデルは再び竈の前に立ち、温度や匂いを確認していた。侍女たちは残った材料でクッキーを作っていた。丸めて上にちょこんと干しブドウを載せるのだ。菓子を焼いた後の余熱で作れるクッキーは彼女たちの間食になる。
 グレイスは菓子を二切れ持って来てと侍女に頼んで、ロバートと居室に入った。





 母とテーブルを挟んで向かい側に座ったロバートは目の前に置かれた菓子の載った皿を前に居心地の悪さを感じていた。
 母は猫なで声で言う。

「どうぞ、召し上がれ」
「母上、私が夕食まで食べないことをご存知でしょう。第一、まだ曲者が見つかっておりません。探索にあたっている者は何も口にしていないのです。私だけが食べるわけにはいきません」

 ロバートは一気に言った。腹の虫は鳴っているが、食べるわけにはいかないのだ。それに、アデルが隣国の間諜だとしたら。料理長もクレイも無事だったが、もしかすると、ここに運ぶ前に何か仕掛けているかもしれない。

「お客様に出す者を主が食べないというのは失礼ではなくて。お客様に主が食べられない物を出すということですからね」

 そう言うとグレイスは菓子を口に入れた。

「ああ、おいしい。これなら代官達も満足するでしょう」
「母上があの娘の菓子を食べるとは」
「当然です。私が作らせたのだから、私に責任があります。味を見る義務があります」
「あの娘が隣国の間諜だったら、いかがします」
「はあああ? あなた何言ってるの」

 グレイスは笑った。ホホホと言う上品な笑いだった。が、笑いは唐突に止んだ。

「ロバート! あなた、命の恩人に対してなんということを言うの。ドレスのことも気付かず、地下の昔の使用人の部屋に押し込めたり、揚句の果てに間諜だなんて、いい加減になさい!」

 豹変だった。母は明らかに息子を軽蔑のまなざしで見ていた。ロバートにとって、それは誰の視線よりも痛かった。だが、言わねばならない。

「母上は騙されているのです。あの娘は凄腕の間諜です。ベイカーをたぶらかし、ハロウィンの仮装をさせ、隣国の兵を招き入れようとしているのです。さらには甘い菓子で人々を籠絡する。騎士も衛兵も料理長もクレイも。しかも騎士を騙して城に入り込んだのです。恐ろしい女です。あの腕の太さを見ましたか。普通の女ではありません」

 グレイスは呆れて物も言えなかった。が、ここは一言、言わねばならなかった。

「何をどう解釈すれば間諜になるかわからないけれど、間諜というのは普通目立たないものよ。目立ったら間諜じゃない。だから、普通の女ではないアデルは間諜失格ね」
「母上までも、籠絡されたのですか」
「ロバート……今までずっと言おうと思っていたけれど、あなた、少し、いえ、少しじゃないわ、頭が硬過ぎるわ。家訓は大事だし、国境警備は重要だけれど、柔かさがない。新しいものを受け入れる広さがない」

 グレイスははっきりと言った。息子は馬鹿ではないが、鈍いのだ。言わなければわからない。

「領主は領民を守る盾にならねばなりません。盾に柔かさは必要ない。新しいものを受け入れる広さも、必要ありません」

 ロバートは母こそ暢気過ぎると思っている。母には領主の苦労はわからないのだ。

「ロバート、新しいものを受け入れられないなら、鉄道は止めた方がいい」

 また、母は妙なことをとロバートは思った。なぜ鉄道の話などするのだ。

「は? 何を仰せですか。なぜ鉄道の話など。アデルの話に戻りましょう。あの女は」
「あなたは鉄道をなぜランバートに通したいの?」
「母上、何を今さら。鉄道が通れば王都まで半日で行けます。葡萄や葡萄酒、鉄製品を早く運べる。人の移動も早くなる。父上の最期に間に合わなかったようなこともなくなるのです。それから鉄鉱石の需要が増えます。車両もレールも鉄から作られるのですから」
「それだけ?」

 グレイスは息子を見つめた。

「鉄道網がこの国を覆ったら、国中の人間があちこちに移動できるようになる。様々な人間がね。王都で仮面舞踏会に浮かれていた者もここに来るかもしれない。彼らは様々なことをランバートに伝えてくれる。王都から新しい商品を売りに来る商人も来る。新しい物がたくさん入って来る。あなたはそれをすべて拒むのかしら。仮装を禁止したように」

 考えたことがないわけではなかった。人や物がこれまでにない速さで国中を移動する。そうなると悪人が簡単にランバートに入って来るかもしれない。取締を強化する必要があると考えたことはある。

「悪い慣習や悪人は入れないようにします。優秀な人材は大いに歓迎しますが」

 ロバートの答えをグレイスは笑った。

「人間は簡単に優秀かそうでないか、善か悪か、割り切れるものかしら? 物にしてもそう」
「母上、何を仰せですか」

 暢気な母とは思えぬ笑い方がロバートには怖かった。

「この菓子に使っているさとうきびの蒸留酒。干しブドウを漬けこんで保存したり、医者は気付けに使ったりする。本当にありがたいものだわ。でもね、これを飲み過ぎたら中毒になって酒無しでは生きていけなくなる。仕事も家族も、しまいには命までも失うことになる。この酒が善か悪か、一言で言いきれるものかしら?」
「それは人間次第でしょう。適度に飲めば中毒にはならない」
「鉄道はそういう単純に善悪決められないものも素早く大量に運んでくる。そうなったら、あなたは領主として対応できるのかしら」

 恐ろしい問いだった。ロバートは母が心底怖くなった。

「新しいものを受け入れられない、単純に善悪だけで受け入れを決めるというなら、鉄道はおやめなさい。今のあなたが領主では無理だわ」
「鉄道の敷設は国策です。国王陛下も進めておいでです」

 ロバートにはこうとしか答えられなかった。

「国王陛下は新しいものを受け入れる覚悟ができておいでですよ。隣国の姫君を第三王子のところに迎えようとなさっているのですから。でも、あなたはどうかしら」
「敵は敵です」

 ロバートにとって、隣国は永遠の敵だった。
 ドアをノックする音がした。
 控えていた侍女のサリーがドアを開けると、衛兵だった。

「殿様に。騎士団長からです」

 サリーは畳まれた書付を受け取り、ロバートに渡した。
 一目見たロバートは仰天した。

「なんだと!」
「隣国が攻めて来たのですか」
「なんたること。隣国ではありません。母上、失礼します」

 グレイスは立ち上がろうとした息子の手に菓子を掴ませた。

「母上!」
「食べなさい。職人が丹精込めて作ったものよ」

 たぶん、今夜は夕食どころではあるまい。ロバートは家訓に反すると思ったものの、菓子を口に入れた。蒸留酒の香りがロバートを覚醒させた。これが保存食ならこれだけで丸一日戦えると思った。

「どう? おいしいでしょ」

 悔しいが、母の言う通りだった。

「アデルにうまかったと伝えてください」
 
 ロバートはそう言うと足早に部屋を出た。廊下にいた衛兵と騎士達がその後に続いた。





 十分後、ロバートは正門近くの塔の最上階にいた。その窓から正門とその前の広場が見渡せた。
 隣の騎士団長は言った。

「今日は10月31日じゃないからいいだろうと連中は言っています」

 ロバートが見たのは、怪しげな扮装をした者達だった。黒いとんがり帽子に黒いドレスで箒にまたがった男、シーツを頭からかぶった者、南瓜に目と口の穴をあけた面をかぶった者、猫の面をかぶって尻尾のようなものを付けて踊っている者、道化師の化粧をして素肌に直接服の絵を描いている者……。彼ら(彼女ら)は大声で別々の歌を歌って踊っていた。
 なんという猥雑な有様だとロバートは思う。

「アデルを帰さないと悪戯するぞ!」

 塔の上にいるロバートに気付いた者が叫んだ。他の者もそれぞれに叫んだ。広場は大騒ぎである。

「さては、ベイカーの親父がそそのかしたな」

 ロバートの意見には騎士団長も同感だった。

「それにしても変ですな」

 騎士団長はつぶやいた。

「変とは?」
「門を閉じて誰も出入りしていないはずなのに、なぜアデルがこの城にいるとベイカーにわかったのでしょうか」

 そういえばそうだった。騎士の詰め所まで来たほどだ。よほどの確信がなければ、城まで押しかけてくるはずがない。
 騒ぎを聞き付けた他の者達も仮面をかぶって加わり、広場はますます騒然となった。



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