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第一章 ハロウィン禁止命令‐偏狭な辺境伯は仮装を許さない‐
2 マカダムの家訓
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第十三代ランバート辺境伯、ロバート・アルバート・マカダムは五年前、父エドワードの急逝によって家督を相続した。
当時二十五歳だった彼にとっては早過ぎる相続だった。頑健な父は病で床に臥せることなどなかったのに、冬の午後遠乗りから城に戻ったところで心臓の発作を起こし、電信で知らせを受けたロバートが都から馬を駆って翌日夜に城に戻った時には帰らぬ人となっていた。四十九歳の若さであった。
所属していた近衛騎士団を退団したロバートは、家宰のクレイを始めとする大勢の家臣の力を借りて、領地の経営に力を注いだ。
ランバート辺境伯領は王国の中でも一、二を争う豊かな土地である。鉄鉱石の鉱脈の上にあり、城にほど近い場所に鉱山がある。鉄の精錬・加工技術も高い。また領地の北部は小麦の一大産地でありその出来が王国の小麦市場を左右するほどだった。東部の海岸沿いの丘陵地帯は果樹の栽培が盛んで葡萄酒の生産が古くから盛んだった。
また、国境に近いため、資源豊かなランバート辺境伯領は古来係争の地であった。隣国との戦いは王国が現王朝に交代してから三百年余りの間に六度。一度だけこの地が隣国に併合されたことがあった。後に初代辺境伯となるアルバート・マカダムと勇猛果敢な騎士らが次の戦いで奪い返し、以後の戦いでもこの地は守られた。最後の戦いはロバートの祖父の時代、今から五十年ほど前に終結した。その際、結ばれた条約によって隣国との国境線が確定し、両国間には現在まで平和が保たれている。
だが、マカダム家では先祖代々、決して油断してはならないと家訓が伝えられていた。
平時こそ戦時に備えよ
平時の油断は命取り
一族郎党団結せよ
風紀の緩みは心の緩み
規律正しい生活は健康の源
将は食わずとも兵には食わせよ
等、挙げていくと五十余を数えるので、この辺りにしておく。
というわけで、ロバートは祖先の教えを守り、毎日の生活を厳しく律していた。朝は決まった時間に起床し冷水を浴び、素振りをし、弓を引く。朝食は欠かさずステーキを平らげ、その後は執務。昼食もしっかり食べ、午後は面会等の公務がなければ騎士団員らと武芸に汗を流したり領内の視察を兼ねて遠乗りをする。夕食はやや質素なメニューを食べ、ワインを少量。夜は読書と公務の準備。決まった時間に就寝する。
それは家臣らも同様で、とりわけ精鋭ぞろいの辺境騎士団は毎日鍛錬に明け暮れていた。おかげで王都で四年に一回行われる武芸競技会ではランバート辺境騎士団は団体部門で一位を二十回連続で獲得していた。
ロバート自身も家督を継ぐ前には近衛騎士団員として競技会に出場し、剣と拳銃と拳闘で個人部門の一位をとっている。勇猛果敢なマカダム家代々の当主に劣らぬ素晴らしい成績と国王からお褒めの言葉にもあずかった。
国境警備最前線の辺境伯領を治めるマカダム家の当主として、ロバートは誇り高く生きていた。
だからこそ、軽佻浮薄な都の流行がランバートに入って来ることが許せなかった。
それは10月半ばの夕食時のことであった。
夕食をともに食べるのは母のグレイスである。
ロバートには姉と二人の弟がいる。姉のリーズは陸軍の副司令官である夫の勤務のため王都に住んでいる。上の弟ヘンリーは大学を卒業し工業大臣の下で働いている。下の弟アーサーは七年前に創設された国防大学の学生で王都の寮住まいである。父が死んで五年、夕食は弟が帰省した時以外はほぼ毎日母と二人であった。
ふだんはさほど話をしない母がこの日はやけに明るかった。
「今日は久しぶりにお菓子を焼きました」
「騎士団に差し入れしたあれですか、お気遣いありがとうございます」
「バスケットが空になって戻って来てうれしかったわ」
菓子の差し入れはあまり好ましいことではないとロバートは思っている。空腹であっても戦場では戦わねばならないことがある。菓子など口にするのは訓練の邪魔である。さすがに前領主夫人の差し入れを断るわけにはいかないので、騎士団員には食べさせたが。
「味はどうだった?」
ロバートは食べなかった。将は部下には食べさせても自分は食べないものだと思っている。
「皆、うまいと申していました」
「あなたはどう思ったの」
「申し訳ありませんが、昼食を食べたら夕食までは水以外口にしないことにしていますので」
グレイスはため息をついた。死んだ夫のエドワードと同じだ。
「お菓子くらい食べても戦争に負けるものではないでしょう」
「王都の医科大学の研究では甘いものの食べ過ぎは歯を溶かすそうです。歯が悪くなると思考に狂いを生じるとのことです。領主として甘いものは控えたく」
ますますエドワードに似てきたとグレイスは思う。
「そう。でも、今度の万聖節くらいはお菓子を食べて欲しいものだわ」
「万聖節? なぜお菓子を? すべての聖人を祀る日のはずですが」
「都ではやってるんですって。子どもたちが仮装して家をまわってお菓子をくれなきゃ悪戯するぞと言ってね。庶民の家ではお菓子を用意して子ども達にあげるそうよ」
グレイスは侍女たちが楽しそうに話していたことをそのまま話した。クソ真面目な息子にたまには愉快な話を聞かせてやろうと思って。
だが、ロバートにとって、それはあまり愉快な話ではなかった。
「子どもが仮装? 何に?」
「万聖節は生者の世界に死者が紛れ込むそうだから、生者だとわかったら死者に連れて行かれるんですって。だから子ども達はお化けの恰好をして連れて行かれないようにするの」
「お化け、ですか」
「ええ。シーツをかぶったり。あなた、よくシーツをかぶってヘンリーを脅かしてたじゃない、あんなふうに」
息子が六つの時のことを喜々として話すグレイスは息子の機嫌の変化に気付かなかった。
「今年は町の菓子屋がそれで新しい菓子を売り出すそうよ。私もその日は騎士だけじゃなく城の皆に菓子を配ろうと思って練習のために久しぶりに焼き菓子を作ってみたの。あなたにもあげるから受け取ってね」
「それは都の流行では」
「それがこのあたりでも去年くらいからはやってきてるんですって。お隣の伯爵領や公爵領では何年も前からやってるそうよ」
「軽佻浮薄の極みだな」
「え?」
グレイスはまずいことを言ってしまったことに気付いた。
「母上、仮にも前ランバート辺境伯の未亡人たるあなたが、さような浮ついた都の色に染まるとは、亡き父上がお嘆きになりますぞ」
まただ。四年前、グレイスは聖誕祭のために城の前の広場に飾りつけをした大きなモミの木を立てたいと言ったことがあった。反対していた夫のエドワードが亡くなったので、ずっとやりたいと思っていたことを口に出してみたのだ。ロバートならわかってくれるだろうと思って。だが、その時も、ロバートは今と同じ顔をして言ったのだ。
『母上、そんなことのために大事な城の者達を使うおつもりですか。モミの木を切って運んでくる領民にも迷惑な話です。それに聖誕祭が終わった後、木をどこにしまうおつもりですか。母上がご自分で木を切って運んで飾り付けもされ、片付けてくださるなら構いませんが』
グレイスはエドワードよりひどいと思った。エドワードは小さいモミの木なら部屋に飾っていいと言ってくれた。ベッドサイドに飾られた小さなモミの木はエドワードを微笑ませたものだった。
小さなモミの木のように、年柄年中仕事と武芸に夢中の息子の緊張をお祭りでほぐしてやろうと思っていたのに。
ロバートは母の思いなどまったく理解せず、食事を早々と終わらせるとこう言った。
「ランバートは国境に接する国防の最前線です。さように浮ついた行事の流行は嘆かわしい限り。それにもし、この機に乗じて隣国の間諜や兵士が仮装をして侵入したらいかがします。危険極まりないことではありませんか」
「仮装をするのは子どもよ」
「そうかもしれませんが、大人でも考えの浅い者達は仮装してパーティをするかもしれません。都にいる頃、仮面舞踏会などという乱痴気騒ぎをしていた者達がおりました。人の考えることは同じです。万聖節の子どもの仮装を許せば、取り返しのつかぬことになる」
「は? ちょっとロバート! お待ちなさい」
テーブルを立ち食堂を大股歩きで出て行く息子は母親の声など聞いてはいなかった。
グレイスは思った。息子はいつまでも独り身だから、頑固になってしまったのではないかと。十六歳の時に領地を接するバートリイ公爵の末娘との縁組をさっさと決めてしまえばよかった。相手がまだ四歳でどんな娘になるかわからない、婚約には若過ぎると夫が反対し、ロバートもたった四つの子どもの相手は嫌だと言ったので具体的な話にはならなかったが、あれは失敗だった。
武芸ばかりに熱中していたロバートは王都でのパーティにたまに出席しても、若い女性達からは怖がられ、一夜の恋のお相手を求める既婚婦人達からは堅物の辺境伯に本気になられたら身の破滅と避けられ、浮いた話が全くない。真面目な男だから娘と結婚させようと言う貴族もいたが、それを聞いた娘が修道院に入ると言いだしたので、話はそこで終わった。
姉のリーズの息子か、ヘンリーかアーサーが後を継げばよいとロバートは思っているようだが、リーズの息子たちは贔屓目に見てもあまり賢くない。ヘンリーとアーサーも領主としての器量に欠けているとグレイスは常々感じている。どうせなら、ロバートの血を引く子どもがいい。
だが、ロバートの血を引く子どもを産んでくれる貴族の女性は見つからない。
結婚相手はどんな娘がいいのか聞いたことがある。ロバートは即座に言った。
『当家にふさわしい、丈夫な子どもを生める体力と胆力のある娘ならば喜んで娶りましょう』
胆力はともかく体力となると貴族の娘への要求としてはかなり高い。貴族の令嬢は庶民より恵まれた生活をしているが、身体の弱い者も少なくない。一年余り前にも美しく聡明と評判の高いギルモア伯爵の令嬢が十七になるやならずやで亡くなっていると聞き、はかない命を惜しんだものだった。
身分の低い者ならば、身体の丈夫な娘も多いのだが、結婚となるとこれまた問題が多い。たとえ子どもが生まれても母の身分が低いと子どもが侮られる。
今更バートリイ公爵に頼み込むわけにもいかない。子どもが小さい頃は王都の互いのタウンハウスを行き来して公爵夫人との交際もあり、子ども同士の交流もあった。けれど、未亡人になって以降グレイスの外出はめっきり減った。王都に行くこともない。しかも噂では末娘は領地の館に引きこもりがちでこの数年親戚も顔を見ていないらしい。恐らく体力もあるまい。
後悔先に立たず。グレイスはため息をつくばかりだった。
翌朝、ロバートは騎士団長のデズモンド・グレゴリーを執務室に呼び、町で10月31日に行われる万聖節の祭について調査するように命じた。
騎士団長は祭という言葉にそぐわぬロバートの不機嫌そうな表情に不審を覚えたが、すぐに部下を呼んで調査を命じた。
翌日午後にはロバートに騎士団長から町の商店街が宣伝している万聖節の祭の内容が報告された。
ロバートの表情は硬かった。
「禁止だな」
「何を禁止されるのですか」
騎士団長は領民が祭を楽しみにしていることを知っていた。禁止とは何をどこまで禁ずるのか。
「仮装禁止だ。もし隣国の間諜や兵士が仮装して侵攻してきたらいかがする」
「国境の警備は厳重にしております」
「だが、油断は禁物だ。前の戦から五十年、近頃領民も気が緩んでいるのではないか。引き締めるためにも浮ついた都の習慣をこのランバートに入れてはならぬ」
騎士団長はこれは何を言っても無駄だと思った。ロバートは一度決めたことは頑として変えることはない。マカダム家の家訓に「家長たる者揺らぐべからず」とあるのだ。
「おそれながら、菓子屋も貸衣装屋も古着屋もいろいろと準備しているようですが」
「まだ二週間ある。今なら中止できよう。大体、菓子屋は儲け過ぎだ。聖誕祭のケーキ、一月の公現祭の菓子、二月の聖人の菓子……、毎月のように何かと理由をつけて特別だとか言って高い菓子を売っている。それに仮装せずとも、菓子は売れるだろう。物珍しいことが好きな人間はいるからな」
騎士団長は贔屓にしている菓子屋の主人たちの顔を思い浮かべた。皆働き者で、暴利をむさぼるようなあこぎな商いはしていない。
「明日の朝、城の前の広場に触書を出す」
そう言うと、ロバートは家宰のサイラス・クレイを呼んだ。
お触れの内容を聞き、クレイは皺の多い顔をしかめた。
「領民の暮らしへの影響があるのではありませんか」
「あっても、命にはかかわるまい。仮装に紛れて外敵が侵入すれば、菓子どころではなくなる」
結局、禁止するのは仮装だけだとロバートに押し切られ、御触れは翌日、城の前の広場に掲示された。
「10月31日に仮装して領内を練り歩く者は逮捕する。抵抗したらその場で斬る」
当時二十五歳だった彼にとっては早過ぎる相続だった。頑健な父は病で床に臥せることなどなかったのに、冬の午後遠乗りから城に戻ったところで心臓の発作を起こし、電信で知らせを受けたロバートが都から馬を駆って翌日夜に城に戻った時には帰らぬ人となっていた。四十九歳の若さであった。
所属していた近衛騎士団を退団したロバートは、家宰のクレイを始めとする大勢の家臣の力を借りて、領地の経営に力を注いだ。
ランバート辺境伯領は王国の中でも一、二を争う豊かな土地である。鉄鉱石の鉱脈の上にあり、城にほど近い場所に鉱山がある。鉄の精錬・加工技術も高い。また領地の北部は小麦の一大産地でありその出来が王国の小麦市場を左右するほどだった。東部の海岸沿いの丘陵地帯は果樹の栽培が盛んで葡萄酒の生産が古くから盛んだった。
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だが、マカダム家では先祖代々、決して油断してはならないと家訓が伝えられていた。
平時こそ戦時に備えよ
平時の油断は命取り
一族郎党団結せよ
風紀の緩みは心の緩み
規律正しい生活は健康の源
将は食わずとも兵には食わせよ
等、挙げていくと五十余を数えるので、この辺りにしておく。
というわけで、ロバートは祖先の教えを守り、毎日の生活を厳しく律していた。朝は決まった時間に起床し冷水を浴び、素振りをし、弓を引く。朝食は欠かさずステーキを平らげ、その後は執務。昼食もしっかり食べ、午後は面会等の公務がなければ騎士団員らと武芸に汗を流したり領内の視察を兼ねて遠乗りをする。夕食はやや質素なメニューを食べ、ワインを少量。夜は読書と公務の準備。決まった時間に就寝する。
それは家臣らも同様で、とりわけ精鋭ぞろいの辺境騎士団は毎日鍛錬に明け暮れていた。おかげで王都で四年に一回行われる武芸競技会ではランバート辺境騎士団は団体部門で一位を二十回連続で獲得していた。
ロバート自身も家督を継ぐ前には近衛騎士団員として競技会に出場し、剣と拳銃と拳闘で個人部門の一位をとっている。勇猛果敢なマカダム家代々の当主に劣らぬ素晴らしい成績と国王からお褒めの言葉にもあずかった。
国境警備最前線の辺境伯領を治めるマカダム家の当主として、ロバートは誇り高く生きていた。
だからこそ、軽佻浮薄な都の流行がランバートに入って来ることが許せなかった。
それは10月半ばの夕食時のことであった。
夕食をともに食べるのは母のグレイスである。
ロバートには姉と二人の弟がいる。姉のリーズは陸軍の副司令官である夫の勤務のため王都に住んでいる。上の弟ヘンリーは大学を卒業し工業大臣の下で働いている。下の弟アーサーは七年前に創設された国防大学の学生で王都の寮住まいである。父が死んで五年、夕食は弟が帰省した時以外はほぼ毎日母と二人であった。
ふだんはさほど話をしない母がこの日はやけに明るかった。
「今日は久しぶりにお菓子を焼きました」
「騎士団に差し入れしたあれですか、お気遣いありがとうございます」
「バスケットが空になって戻って来てうれしかったわ」
菓子の差し入れはあまり好ましいことではないとロバートは思っている。空腹であっても戦場では戦わねばならないことがある。菓子など口にするのは訓練の邪魔である。さすがに前領主夫人の差し入れを断るわけにはいかないので、騎士団員には食べさせたが。
「味はどうだった?」
ロバートは食べなかった。将は部下には食べさせても自分は食べないものだと思っている。
「皆、うまいと申していました」
「あなたはどう思ったの」
「申し訳ありませんが、昼食を食べたら夕食までは水以外口にしないことにしていますので」
グレイスはため息をついた。死んだ夫のエドワードと同じだ。
「お菓子くらい食べても戦争に負けるものではないでしょう」
「王都の医科大学の研究では甘いものの食べ過ぎは歯を溶かすそうです。歯が悪くなると思考に狂いを生じるとのことです。領主として甘いものは控えたく」
ますますエドワードに似てきたとグレイスは思う。
「そう。でも、今度の万聖節くらいはお菓子を食べて欲しいものだわ」
「万聖節? なぜお菓子を? すべての聖人を祀る日のはずですが」
「都ではやってるんですって。子どもたちが仮装して家をまわってお菓子をくれなきゃ悪戯するぞと言ってね。庶民の家ではお菓子を用意して子ども達にあげるそうよ」
グレイスは侍女たちが楽しそうに話していたことをそのまま話した。クソ真面目な息子にたまには愉快な話を聞かせてやろうと思って。
だが、ロバートにとって、それはあまり愉快な話ではなかった。
「子どもが仮装? 何に?」
「万聖節は生者の世界に死者が紛れ込むそうだから、生者だとわかったら死者に連れて行かれるんですって。だから子ども達はお化けの恰好をして連れて行かれないようにするの」
「お化け、ですか」
「ええ。シーツをかぶったり。あなた、よくシーツをかぶってヘンリーを脅かしてたじゃない、あんなふうに」
息子が六つの時のことを喜々として話すグレイスは息子の機嫌の変化に気付かなかった。
「今年は町の菓子屋がそれで新しい菓子を売り出すそうよ。私もその日は騎士だけじゃなく城の皆に菓子を配ろうと思って練習のために久しぶりに焼き菓子を作ってみたの。あなたにもあげるから受け取ってね」
「それは都の流行では」
「それがこのあたりでも去年くらいからはやってきてるんですって。お隣の伯爵領や公爵領では何年も前からやってるそうよ」
「軽佻浮薄の極みだな」
「え?」
グレイスはまずいことを言ってしまったことに気付いた。
「母上、仮にも前ランバート辺境伯の未亡人たるあなたが、さような浮ついた都の色に染まるとは、亡き父上がお嘆きになりますぞ」
まただ。四年前、グレイスは聖誕祭のために城の前の広場に飾りつけをした大きなモミの木を立てたいと言ったことがあった。反対していた夫のエドワードが亡くなったので、ずっとやりたいと思っていたことを口に出してみたのだ。ロバートならわかってくれるだろうと思って。だが、その時も、ロバートは今と同じ顔をして言ったのだ。
『母上、そんなことのために大事な城の者達を使うおつもりですか。モミの木を切って運んでくる領民にも迷惑な話です。それに聖誕祭が終わった後、木をどこにしまうおつもりですか。母上がご自分で木を切って運んで飾り付けもされ、片付けてくださるなら構いませんが』
グレイスはエドワードよりひどいと思った。エドワードは小さいモミの木なら部屋に飾っていいと言ってくれた。ベッドサイドに飾られた小さなモミの木はエドワードを微笑ませたものだった。
小さなモミの木のように、年柄年中仕事と武芸に夢中の息子の緊張をお祭りでほぐしてやろうと思っていたのに。
ロバートは母の思いなどまったく理解せず、食事を早々と終わらせるとこう言った。
「ランバートは国境に接する国防の最前線です。さように浮ついた行事の流行は嘆かわしい限り。それにもし、この機に乗じて隣国の間諜や兵士が仮装をして侵入したらいかがします。危険極まりないことではありませんか」
「仮装をするのは子どもよ」
「そうかもしれませんが、大人でも考えの浅い者達は仮装してパーティをするかもしれません。都にいる頃、仮面舞踏会などという乱痴気騒ぎをしていた者達がおりました。人の考えることは同じです。万聖節の子どもの仮装を許せば、取り返しのつかぬことになる」
「は? ちょっとロバート! お待ちなさい」
テーブルを立ち食堂を大股歩きで出て行く息子は母親の声など聞いてはいなかった。
グレイスは思った。息子はいつまでも独り身だから、頑固になってしまったのではないかと。十六歳の時に領地を接するバートリイ公爵の末娘との縁組をさっさと決めてしまえばよかった。相手がまだ四歳でどんな娘になるかわからない、婚約には若過ぎると夫が反対し、ロバートもたった四つの子どもの相手は嫌だと言ったので具体的な話にはならなかったが、あれは失敗だった。
武芸ばかりに熱中していたロバートは王都でのパーティにたまに出席しても、若い女性達からは怖がられ、一夜の恋のお相手を求める既婚婦人達からは堅物の辺境伯に本気になられたら身の破滅と避けられ、浮いた話が全くない。真面目な男だから娘と結婚させようと言う貴族もいたが、それを聞いた娘が修道院に入ると言いだしたので、話はそこで終わった。
姉のリーズの息子か、ヘンリーかアーサーが後を継げばよいとロバートは思っているようだが、リーズの息子たちは贔屓目に見てもあまり賢くない。ヘンリーとアーサーも領主としての器量に欠けているとグレイスは常々感じている。どうせなら、ロバートの血を引く子どもがいい。
だが、ロバートの血を引く子どもを産んでくれる貴族の女性は見つからない。
結婚相手はどんな娘がいいのか聞いたことがある。ロバートは即座に言った。
『当家にふさわしい、丈夫な子どもを生める体力と胆力のある娘ならば喜んで娶りましょう』
胆力はともかく体力となると貴族の娘への要求としてはかなり高い。貴族の令嬢は庶民より恵まれた生活をしているが、身体の弱い者も少なくない。一年余り前にも美しく聡明と評判の高いギルモア伯爵の令嬢が十七になるやならずやで亡くなっていると聞き、はかない命を惜しんだものだった。
身分の低い者ならば、身体の丈夫な娘も多いのだが、結婚となるとこれまた問題が多い。たとえ子どもが生まれても母の身分が低いと子どもが侮られる。
今更バートリイ公爵に頼み込むわけにもいかない。子どもが小さい頃は王都の互いのタウンハウスを行き来して公爵夫人との交際もあり、子ども同士の交流もあった。けれど、未亡人になって以降グレイスの外出はめっきり減った。王都に行くこともない。しかも噂では末娘は領地の館に引きこもりがちでこの数年親戚も顔を見ていないらしい。恐らく体力もあるまい。
後悔先に立たず。グレイスはため息をつくばかりだった。
翌朝、ロバートは騎士団長のデズモンド・グレゴリーを執務室に呼び、町で10月31日に行われる万聖節の祭について調査するように命じた。
騎士団長は祭という言葉にそぐわぬロバートの不機嫌そうな表情に不審を覚えたが、すぐに部下を呼んで調査を命じた。
翌日午後にはロバートに騎士団長から町の商店街が宣伝している万聖節の祭の内容が報告された。
ロバートの表情は硬かった。
「禁止だな」
「何を禁止されるのですか」
騎士団長は領民が祭を楽しみにしていることを知っていた。禁止とは何をどこまで禁ずるのか。
「仮装禁止だ。もし隣国の間諜や兵士が仮装して侵攻してきたらいかがする」
「国境の警備は厳重にしております」
「だが、油断は禁物だ。前の戦から五十年、近頃領民も気が緩んでいるのではないか。引き締めるためにも浮ついた都の習慣をこのランバートに入れてはならぬ」
騎士団長はこれは何を言っても無駄だと思った。ロバートは一度決めたことは頑として変えることはない。マカダム家の家訓に「家長たる者揺らぐべからず」とあるのだ。
「おそれながら、菓子屋も貸衣装屋も古着屋もいろいろと準備しているようですが」
「まだ二週間ある。今なら中止できよう。大体、菓子屋は儲け過ぎだ。聖誕祭のケーキ、一月の公現祭の菓子、二月の聖人の菓子……、毎月のように何かと理由をつけて特別だとか言って高い菓子を売っている。それに仮装せずとも、菓子は売れるだろう。物珍しいことが好きな人間はいるからな」
騎士団長は贔屓にしている菓子屋の主人たちの顔を思い浮かべた。皆働き者で、暴利をむさぼるようなあこぎな商いはしていない。
「明日の朝、城の前の広場に触書を出す」
そう言うと、ロバートは家宰のサイラス・クレイを呼んだ。
お触れの内容を聞き、クレイは皺の多い顔をしかめた。
「領民の暮らしへの影響があるのではありませんか」
「あっても、命にはかかわるまい。仮装に紛れて外敵が侵入すれば、菓子どころではなくなる」
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