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第一章 ハロウィン禁止命令‐偏狭な辺境伯は仮装を許さない‐
1 プロローグ
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「こんなにリボンを付けなきゃ駄目なの?」
「あなたにはお似合いだと思うけど」
「そうかな」
姿見に映る仮縫いのドレスに袖を通した少女はしかめっ面で首をかしげた。背後に立つ祖母にはそんな孫娘の仕草でさえ可愛らしく思えてくる。
娘と同じ栗色の髪の母親は言った。
「殿下もきっと気に入ってくださいますよ」
少女はその一言でうなずいた。
「わかったわ。これも『義務』というものなのね」
義務と口にした時の少女の真面目な顔に祖母は胸が熱くなった。
孫娘の父、すなわちバートリイ公爵エイブラハム・ガブリエル・ホークは現国王の学友だった。公私ともに親しい二人はそれぞれの子ども同士をいずれ結婚させようと考えていた。
様々な都合で二人の上の子ども達は別の相手を選ばねばならなかったが、第三王子エドガーが生まれて一年後に公爵に四女が生まれた。ちょうど年回りもよい、娘をいずれはこの王子にと考えていた公爵は他の家から持ち込まれた縁組をまだ早過ぎるからと断り続けた。
大病をすることもなく、七つになった四女は国王夫妻に対面、一つ年上の第三王子エドガー殿下との婚約が内定した。
無論、内定だから知っているのは国王夫妻、前国王妃と公爵夫妻、公爵の母、宮内大臣だけである。秘密は厳重に守られていた。
国王の母親である国王妃と親しい祖母にとって可愛い孫娘が友人の孫と結婚するというのは喜ばしい限りだった。
あれから八年余り、もうすぐ孫は16歳になる。王宮で行われる舞踏会で社交界デビューし、その後、王子との婚約が正式に発表される手筈になっていた。
幼い頃からいずれは王族と結婚すると教えられ相応の教育を受けてきた孫娘は、真面目に学んできた。日常の生活もまた羽目を外すことがなかった。末っ子というのは往々にして甘やかされがちだが、公爵夫妻は上の子ども達と同じようにしつけていた。
社交界デビューとなる舞踏会のドレスの仮縫いの時でさえ、「義務」という言葉を口にするような少女に育ったのは当然といえば当然であろう。
ともあれ、祖母も孫も母親も数週間後の王宮の舞踏会での晴の姿を夢見て幸せな気分の中にあった。それが消え去ってしまうなど誰も想像していなかった。
王都から戻った公爵はいつも家族にお土産を持ってくる。外国から輸入された高価な生地、植民地の南の島の生き物の生態を書いた図鑑、王都で作られた宝飾品等、様々な品物は家族を楽しませた。
だが、その日の夕刻戻って来た公爵は土産を一切持たず、ひどく憔悴していた。よほど急いでいたようで馬も御者も疲れ切っていた。
公爵は妻に書斎に来るように告げ、自室に引き上げてしまった。
「お父様、お土産は」
末っ子は階段を重い足取りで昇る父を見上げながらつぶやいた。
祖母と母は不吉な予感に顔を見合わせた。
末っ子の姫が父の書斎に呼ばれたのは母が書斎に入ってから一時間後のことだった。
いつもは入ってはならないと言われている部屋に彼女が入ったのは三度目のことだった。一度目は好奇心で勝手に入った四歳の時で父に叱られた。その次は七歳の時、エドガー王子との婚約内定が決まった時だった。
そして今夜は三度目。
前の二回と違うのは母が赤い目をしていたことだった。化粧もところどころ崩れていた。何より、父の顔が蒼白だったことである。
嫌な予感しかなかった。けれど、何が起きたのか彼女には想像できなかった。
「ビクトリア・ガブリエラ・アデレード、よく聞いてくれ。一度しか言わない」
「はい」
これは物凄く大事なことに違いないと思った。父がフルネームで呼ぶ時はいつもそうだ。婚約内定の時もフルネームで呼ばれたし、一度しか言わないとも言われたのだ。
「陛下からお話があって、エドガー殿下との婚約内定は白紙に返った」
白紙。白い紙。違う。白紙に返すというのは、何もなかった以前の状態に戻すという意味。彼女は考える。婚約内定が白紙にというのは、何もなかった以前の状態、つまり内定する前の状態に戻ったということ、つまり内定してないことになったということ……。
急に足元にあった強固なものが崩れたような気がしてきた。目まいがしそうだった。けれど、きちんとここに立っていなければならない。少女は歯を食いしばった。
「そなたが悪いわけではない。それだけは覚えておいてくれ。これは国益のためなのだ」
「国益のため……」
幾度も聞かされた言葉だった。公爵家は国のため、国益のために働かねばならないのだと。国益のためにエドガー王子との婚約内定がなくなったということらしい。
「そなたも知っているように、我が国と隣国は長く相争ってきた。最近は武力衝突は起きていないものの、国境の緊張状態は続いている。だが、隣国の新しい王は、争いをやめ、新たに我が国との関係を強化したいという親書を送ってきた。そのために王族同士の婚姻を持ちかけてきたのだ。国王陛下もまた、我が国と隣国の和平を模索しておいでだった。両国の争いは決して望ましいことではない。互いの国の発展のためには、友好関係を結ぶことが必要なのだ。だが、現在、我が国で独身で結婚可能な王族はエドガ―殿下しかいない。隣国の王女とも年が近い」
この国の歴史を少女は一生懸命勉強してきた。隣の国との資源をめぐる戦争が幾度も繰り返されたことも。二つの国の間の争いをなくすために、エドガー様が隣の国の王女と結婚しなければならなくなったのだということはわかった。すべては国益のため。
そういえば、この頃、手紙のお返事がない。前は手紙を送ったら一週間ほどで返事が来たのに。きっと公務や勉学で忙しいのだと思っていた。だが、これでわかった。そういうことだったのだ。
せめてお手紙で一言教えてくださればと思ったが、もし手紙に書いたものを誰かに見られたら、白紙に戻した意味がない。白紙に戻すとはそういうことだ。手紙のやりとりもなかったことにしなければならないのだ。
「殿下も国のために内定を白紙に返されたのだ。そなたには何の落ち度もない。それだけは忘れてくれるな」
父が自分のことを思ってそう言ってくれる気持ちは痛いほどわかった。彼女はぐっと涙をこらえた。
「かしこまりました」
不意に母が嗚咽の声を上げた。彼女は泣いてはいけないと思った。泣けば、母はもっと悲しむ。
「陛下がいずれ、この埋め合わせはすると仰せだった。きっとよいお相手を探してくださる」
そんなことはどうでもよかった。貴族の娘は所詮、国益という言葉の前には無力なのだ。陛下が決めた婚約内定でさえたやすくひっくり返るのだ。
部屋に戻った彼女はエドガーから来た手紙をすべて暖炉の中にくべた。中身も見返さずに封筒ごと破り捨てて。
炎ですべて燃やし尽くしたかった。王宮に両親と行った時に、お茶を飲んだり、お話したり、温室で珍しい植物を見た思い出も何もかも。
すべてを燃やした後は何もする気が起きなかった。
寝台に横たわって呟いた。
「もう、いや」
何もかもが嫌だった。ただ目を閉じて眠りたかった。眠りの国には国益という言葉も白紙という言葉もなかった。
それでも朝はやってくる。
食欲がなくてもパンを口にいれなければならない。けれど、一口だけで胸がいっぱいになった。なんとかスープを飲んだが、それ以上は入らなかった。
すでに家族は皆事情をわかっているのか、食べるように言う者はいなかった。
午前中、日課になっている家庭教師は来なかった。
その代わり、母や祖母と一緒に縫物をした。外国から輸入された生地や高価な生地を四角形に切り縫い合わせて作ったモチーフをつなげて大きなベッドカバーやタペストリーを作るというもので、貴族の婦人達の間で流行していた。
母も祖母も婚約内定の白紙撤回のことを口にせず、ただただ針を動かしていた。
昼食の席でもお茶の席でも皆いつもと同じように末っ子姫に接した。
夕食の席ではさすがに母はスープしか飲まない娘に果物を勧めた。けれどごめんなさいと言うことしかできなかった。
「腫物に触るようなとは、このことね」
寝室に行った孫娘を案じて祖母はつぶやいた。このままではいけない。誰もがわかっていた。だが、どうすればいいのか。
翌日の午後、末っ子姫は祖母に呼ばれた。何もする気にならなかったけれど、祖母を悲しませたくはなかった。
ついていらっしゃいと言われて行った先は城の厨房だった。両親からは入ってはいけないと言われていた。料理人の仕事の邪魔になるからと。けれど、いつもいる料理人はいなかった。
祖母に言われて手を洗い、渡された白いエプロンとボンネットを身に付けた。細かく切られたバターの入った大きなボールと泡立て器が目の前に置かれた。
「これを白くなるまでかき混ぜて」
言われた通りにかき混ぜたものの、なかなか白くはならない。バターが泡立て器の隙間に入ってしまう。それでも隙間に入ったバターを振り落としながら、混ぜ続けた。次第にバターは柔らかくなってきた。
「白くなってきたみたいね」
ボールを覗き込んだ祖母はそう言うと、少しずつ白い砂糖を入れて混ぜさせた。
手が疲れてきたが、それでも混ぜた。バターと砂糖が混ざってふんわりとなってきた。そこへ祖母はよくかき混ぜた大量の卵を少しずつ入れた。腕の痛みを我慢して混ぜ続けた。
さらに小麦粉も入れた。泡立て器をへらに取り換えて混ぜていく。
祖母はサトウキビの蒸留酒漬けの干し葡萄に粉をまぶすと、ボールに入れた。軽く混ぜると、今度はバターを塗った長方形の型を出した。
「この中に生地を入れてね。ゆっくりと」
言われた通り、型に生地を流し入れた。重いボールが軽くなってゆく。
「はい、ここまで」
八分目も入れぬうちに止められた。
「膨らむと型からこぼれてしまう」
祖母は型を台の上にトントンと軽く落とした後、すでに温められたオーブンの中に入れ蓋を閉めた。
何ができるかわからぬものの、少女は不思議な高揚感を覚えていた。何かいいことが起こりそうな。
途中、一度蓋を開けた後、祖母はお茶を用意した。
厨房の隅にはいつもなら料理人たちが使う休憩用のテーブルと椅子があり、二人はそこに座ってお茶を飲んだ。
お茶のおかげなのか、少女は穏やかな気分になっていた。オーブンからは甘い匂いが漂ってくる。その匂いを吸い込んだ時、空腹を感じた。
「もう、いい頃ね」
祖母は懐中時計を見て立ち上がった。少女も後を追った。
オーブンの蓋を開けた祖母は手に分厚いタオルを巻いて型を出した。
「うわああ」
おいしそうにこんがりとキツネ色に焼けたそれを少女は知っていた。大好きな干し葡萄入りの焼き菓子だった。
祖母は焼き菓子を食べやすい大きさに切って皿に盛ったものを先ほどのテーブルに置いた。
「あなたの好きなお菓子はこうやって料理人が作ってるの。他のパンもスープもね」
祖母は孫娘の食欲を回復させるために、料理人の苦労を教えようと思ったのだった。勿論、落ち込んだ孫に少しでも滋養のあるものを食べさせてやりたいとう気持ちの方が強いのだが。
「おばあさま、ありがとうございます」
少女は菓子をひとかけら口に入れた。その瞬間、甘さが口の中に広がった。と同時に、祖母の愛情が強く感じられた。おばあさまはこんなにも私の身を案じてくださっていると。
祖母はにこにこと笑っていた。
「ゆっくりとお食べなさい。まあ、おいしいわ。初めてなのに一生懸命混ぜてくれたおかげね」
お菓子を口に入れた祖母の顔は本当に幸せそうだった。
それを見た途端、不意に涙がこぼれてきた。一昨日の晩からずっと涙など流したことはなかったのに。
祖母は何も言わず、孫娘が泣きながら焼き菓子を口に運ぶ姿を見つめていた。
これで大丈夫。まだまだ時間はかかるかもしれないけれど、孫はきっと以前のように元気になる。祖母はそう思った。
人が一生懸命作ったものは人の心を伝えてくれる。
手紙を焼く火はお菓子も焼く。
少女はその日の夜、一つの決意をした。
国益などに左右されない世界への扉を開けることを。
「あなたにはお似合いだと思うけど」
「そうかな」
姿見に映る仮縫いのドレスに袖を通した少女はしかめっ面で首をかしげた。背後に立つ祖母にはそんな孫娘の仕草でさえ可愛らしく思えてくる。
娘と同じ栗色の髪の母親は言った。
「殿下もきっと気に入ってくださいますよ」
少女はその一言でうなずいた。
「わかったわ。これも『義務』というものなのね」
義務と口にした時の少女の真面目な顔に祖母は胸が熱くなった。
孫娘の父、すなわちバートリイ公爵エイブラハム・ガブリエル・ホークは現国王の学友だった。公私ともに親しい二人はそれぞれの子ども同士をいずれ結婚させようと考えていた。
様々な都合で二人の上の子ども達は別の相手を選ばねばならなかったが、第三王子エドガーが生まれて一年後に公爵に四女が生まれた。ちょうど年回りもよい、娘をいずれはこの王子にと考えていた公爵は他の家から持ち込まれた縁組をまだ早過ぎるからと断り続けた。
大病をすることもなく、七つになった四女は国王夫妻に対面、一つ年上の第三王子エドガー殿下との婚約が内定した。
無論、内定だから知っているのは国王夫妻、前国王妃と公爵夫妻、公爵の母、宮内大臣だけである。秘密は厳重に守られていた。
国王の母親である国王妃と親しい祖母にとって可愛い孫娘が友人の孫と結婚するというのは喜ばしい限りだった。
あれから八年余り、もうすぐ孫は16歳になる。王宮で行われる舞踏会で社交界デビューし、その後、王子との婚約が正式に発表される手筈になっていた。
幼い頃からいずれは王族と結婚すると教えられ相応の教育を受けてきた孫娘は、真面目に学んできた。日常の生活もまた羽目を外すことがなかった。末っ子というのは往々にして甘やかされがちだが、公爵夫妻は上の子ども達と同じようにしつけていた。
社交界デビューとなる舞踏会のドレスの仮縫いの時でさえ、「義務」という言葉を口にするような少女に育ったのは当然といえば当然であろう。
ともあれ、祖母も孫も母親も数週間後の王宮の舞踏会での晴の姿を夢見て幸せな気分の中にあった。それが消え去ってしまうなど誰も想像していなかった。
王都から戻った公爵はいつも家族にお土産を持ってくる。外国から輸入された高価な生地、植民地の南の島の生き物の生態を書いた図鑑、王都で作られた宝飾品等、様々な品物は家族を楽しませた。
だが、その日の夕刻戻って来た公爵は土産を一切持たず、ひどく憔悴していた。よほど急いでいたようで馬も御者も疲れ切っていた。
公爵は妻に書斎に来るように告げ、自室に引き上げてしまった。
「お父様、お土産は」
末っ子は階段を重い足取りで昇る父を見上げながらつぶやいた。
祖母と母は不吉な予感に顔を見合わせた。
末っ子の姫が父の書斎に呼ばれたのは母が書斎に入ってから一時間後のことだった。
いつもは入ってはならないと言われている部屋に彼女が入ったのは三度目のことだった。一度目は好奇心で勝手に入った四歳の時で父に叱られた。その次は七歳の時、エドガー王子との婚約内定が決まった時だった。
そして今夜は三度目。
前の二回と違うのは母が赤い目をしていたことだった。化粧もところどころ崩れていた。何より、父の顔が蒼白だったことである。
嫌な予感しかなかった。けれど、何が起きたのか彼女には想像できなかった。
「ビクトリア・ガブリエラ・アデレード、よく聞いてくれ。一度しか言わない」
「はい」
これは物凄く大事なことに違いないと思った。父がフルネームで呼ぶ時はいつもそうだ。婚約内定の時もフルネームで呼ばれたし、一度しか言わないとも言われたのだ。
「陛下からお話があって、エドガー殿下との婚約内定は白紙に返った」
白紙。白い紙。違う。白紙に返すというのは、何もなかった以前の状態に戻すという意味。彼女は考える。婚約内定が白紙にというのは、何もなかった以前の状態、つまり内定する前の状態に戻ったということ、つまり内定してないことになったということ……。
急に足元にあった強固なものが崩れたような気がしてきた。目まいがしそうだった。けれど、きちんとここに立っていなければならない。少女は歯を食いしばった。
「そなたが悪いわけではない。それだけは覚えておいてくれ。これは国益のためなのだ」
「国益のため……」
幾度も聞かされた言葉だった。公爵家は国のため、国益のために働かねばならないのだと。国益のためにエドガー王子との婚約内定がなくなったということらしい。
「そなたも知っているように、我が国と隣国は長く相争ってきた。最近は武力衝突は起きていないものの、国境の緊張状態は続いている。だが、隣国の新しい王は、争いをやめ、新たに我が国との関係を強化したいという親書を送ってきた。そのために王族同士の婚姻を持ちかけてきたのだ。国王陛下もまた、我が国と隣国の和平を模索しておいでだった。両国の争いは決して望ましいことではない。互いの国の発展のためには、友好関係を結ぶことが必要なのだ。だが、現在、我が国で独身で結婚可能な王族はエドガ―殿下しかいない。隣国の王女とも年が近い」
この国の歴史を少女は一生懸命勉強してきた。隣の国との資源をめぐる戦争が幾度も繰り返されたことも。二つの国の間の争いをなくすために、エドガー様が隣の国の王女と結婚しなければならなくなったのだということはわかった。すべては国益のため。
そういえば、この頃、手紙のお返事がない。前は手紙を送ったら一週間ほどで返事が来たのに。きっと公務や勉学で忙しいのだと思っていた。だが、これでわかった。そういうことだったのだ。
せめてお手紙で一言教えてくださればと思ったが、もし手紙に書いたものを誰かに見られたら、白紙に戻した意味がない。白紙に戻すとはそういうことだ。手紙のやりとりもなかったことにしなければならないのだ。
「殿下も国のために内定を白紙に返されたのだ。そなたには何の落ち度もない。それだけは忘れてくれるな」
父が自分のことを思ってそう言ってくれる気持ちは痛いほどわかった。彼女はぐっと涙をこらえた。
「かしこまりました」
不意に母が嗚咽の声を上げた。彼女は泣いてはいけないと思った。泣けば、母はもっと悲しむ。
「陛下がいずれ、この埋め合わせはすると仰せだった。きっとよいお相手を探してくださる」
そんなことはどうでもよかった。貴族の娘は所詮、国益という言葉の前には無力なのだ。陛下が決めた婚約内定でさえたやすくひっくり返るのだ。
部屋に戻った彼女はエドガーから来た手紙をすべて暖炉の中にくべた。中身も見返さずに封筒ごと破り捨てて。
炎ですべて燃やし尽くしたかった。王宮に両親と行った時に、お茶を飲んだり、お話したり、温室で珍しい植物を見た思い出も何もかも。
すべてを燃やした後は何もする気が起きなかった。
寝台に横たわって呟いた。
「もう、いや」
何もかもが嫌だった。ただ目を閉じて眠りたかった。眠りの国には国益という言葉も白紙という言葉もなかった。
それでも朝はやってくる。
食欲がなくてもパンを口にいれなければならない。けれど、一口だけで胸がいっぱいになった。なんとかスープを飲んだが、それ以上は入らなかった。
すでに家族は皆事情をわかっているのか、食べるように言う者はいなかった。
午前中、日課になっている家庭教師は来なかった。
その代わり、母や祖母と一緒に縫物をした。外国から輸入された生地や高価な生地を四角形に切り縫い合わせて作ったモチーフをつなげて大きなベッドカバーやタペストリーを作るというもので、貴族の婦人達の間で流行していた。
母も祖母も婚約内定の白紙撤回のことを口にせず、ただただ針を動かしていた。
昼食の席でもお茶の席でも皆いつもと同じように末っ子姫に接した。
夕食の席ではさすがに母はスープしか飲まない娘に果物を勧めた。けれどごめんなさいと言うことしかできなかった。
「腫物に触るようなとは、このことね」
寝室に行った孫娘を案じて祖母はつぶやいた。このままではいけない。誰もがわかっていた。だが、どうすればいいのか。
翌日の午後、末っ子姫は祖母に呼ばれた。何もする気にならなかったけれど、祖母を悲しませたくはなかった。
ついていらっしゃいと言われて行った先は城の厨房だった。両親からは入ってはいけないと言われていた。料理人の仕事の邪魔になるからと。けれど、いつもいる料理人はいなかった。
祖母に言われて手を洗い、渡された白いエプロンとボンネットを身に付けた。細かく切られたバターの入った大きなボールと泡立て器が目の前に置かれた。
「これを白くなるまでかき混ぜて」
言われた通りにかき混ぜたものの、なかなか白くはならない。バターが泡立て器の隙間に入ってしまう。それでも隙間に入ったバターを振り落としながら、混ぜ続けた。次第にバターは柔らかくなってきた。
「白くなってきたみたいね」
ボールを覗き込んだ祖母はそう言うと、少しずつ白い砂糖を入れて混ぜさせた。
手が疲れてきたが、それでも混ぜた。バターと砂糖が混ざってふんわりとなってきた。そこへ祖母はよくかき混ぜた大量の卵を少しずつ入れた。腕の痛みを我慢して混ぜ続けた。
さらに小麦粉も入れた。泡立て器をへらに取り換えて混ぜていく。
祖母はサトウキビの蒸留酒漬けの干し葡萄に粉をまぶすと、ボールに入れた。軽く混ぜると、今度はバターを塗った長方形の型を出した。
「この中に生地を入れてね。ゆっくりと」
言われた通り、型に生地を流し入れた。重いボールが軽くなってゆく。
「はい、ここまで」
八分目も入れぬうちに止められた。
「膨らむと型からこぼれてしまう」
祖母は型を台の上にトントンと軽く落とした後、すでに温められたオーブンの中に入れ蓋を閉めた。
何ができるかわからぬものの、少女は不思議な高揚感を覚えていた。何かいいことが起こりそうな。
途中、一度蓋を開けた後、祖母はお茶を用意した。
厨房の隅にはいつもなら料理人たちが使う休憩用のテーブルと椅子があり、二人はそこに座ってお茶を飲んだ。
お茶のおかげなのか、少女は穏やかな気分になっていた。オーブンからは甘い匂いが漂ってくる。その匂いを吸い込んだ時、空腹を感じた。
「もう、いい頃ね」
祖母は懐中時計を見て立ち上がった。少女も後を追った。
オーブンの蓋を開けた祖母は手に分厚いタオルを巻いて型を出した。
「うわああ」
おいしそうにこんがりとキツネ色に焼けたそれを少女は知っていた。大好きな干し葡萄入りの焼き菓子だった。
祖母は焼き菓子を食べやすい大きさに切って皿に盛ったものを先ほどのテーブルに置いた。
「あなたの好きなお菓子はこうやって料理人が作ってるの。他のパンもスープもね」
祖母は孫娘の食欲を回復させるために、料理人の苦労を教えようと思ったのだった。勿論、落ち込んだ孫に少しでも滋養のあるものを食べさせてやりたいとう気持ちの方が強いのだが。
「おばあさま、ありがとうございます」
少女は菓子をひとかけら口に入れた。その瞬間、甘さが口の中に広がった。と同時に、祖母の愛情が強く感じられた。おばあさまはこんなにも私の身を案じてくださっていると。
祖母はにこにこと笑っていた。
「ゆっくりとお食べなさい。まあ、おいしいわ。初めてなのに一生懸命混ぜてくれたおかげね」
お菓子を口に入れた祖母の顔は本当に幸せそうだった。
それを見た途端、不意に涙がこぼれてきた。一昨日の晩からずっと涙など流したことはなかったのに。
祖母は何も言わず、孫娘が泣きながら焼き菓子を口に運ぶ姿を見つめていた。
これで大丈夫。まだまだ時間はかかるかもしれないけれど、孫はきっと以前のように元気になる。祖母はそう思った。
人が一生懸命作ったものは人の心を伝えてくれる。
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