江戸から来た花婿

三矢由巳

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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に

65 悪夢の終わり

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 源三郎は岡部惣左衛門の控え部屋にいた。側用人は複数人で一つ部屋に控えているのだが、岡部だけが別に部屋を与えられており、殿からの信頼の厚さがうかがえた。
 三畳の部屋に書類棚や書き物机があるので、源三郎と岡部は膝付き合わせるように向かい合った。
 源三郎の前に手づから淹れた茶を置くと、岡部は一礼した。

「此度の一件、落着を見ましたこと、玄蕃様にお礼を申し上げたく」

 此度の一件とはおかつのことであろう。だが、何故側用人に礼を言われるのか、源三郎にはわからなかった。

「岡部殿、お手をお上げください。某は大したことはしておりません。町奉行所の方々の尽力によって落着したのです」

 顔を上げた岡部は一旦は頷いた。

「はい。町奉行所の者達の連日の奔走は某も知っております。なれど、おかつ殺しを命じた京屋の隠居から自白を引き出したのは玄蕃様。それによって事の全貌が判明いたしました。その功の大なることは紛れもなきこと」

 そこまで言われるようなことはしていないと源三郎は思っているが、岡部が言うとそんな気になってくるから不思議だった。だからといってふんぞり返るのは性に合わない。

「めぐり合わせがよかっただけのこと。それに、貴殿は側用人。お礼を言われるのはちと筋が違うような」
「いいえ。礼を申さねばならぬ由があるのです」
「如何なる由だ?」
「某の十三になる弟小治郎のことにございます。坂瀬川の川原でおかつなる女子の骸を最初に見つけたのが弟とその友である犬飼丙三。当日、二人は村越塾が早くに終わったので、川原に釣りに参りました。そこで死骸を見つけたのです。当日奉行所で経緯を聞かれた後、家に戻って来た弟はいつもと変わらぬ有様でした。某も両親も大した肝の大きさと感心したものでした。ところが、夜中、弟の部屋からうなされる声が聞こえてきました。某が駆け付け話を聞いたところ、あの死骸がまなこに浮かんでなかなか寝付けなかった上に、やっと眠れたと思ったら夢に出て来たと。結局、その夜、ずっと弟は起きておりました。父は道場に行けば疲れて夜眠れるだろうと弟を追い立てるようにやりましたが、道場で腕に怪我をしました。怪我は十日もすれば治るようなものでした。ところが道場の仲間がそれは女の祟りだなどと言います。そんなことはあり得ない、怪我は眠気のせいだ、おまえには罪はないのだからと弟に言いましたが、それ以来気が塞ぎがちで家から出ようとしません。近所に住む犬飼丙三も元気がないとのこと。なれど、先日、おかつ殺しの咎人達が捕まったと知って、塞いでいた弟はやっと家から出ました。さすがにあの川原に寄ることはまだできぬようですが、犬飼家の家族ともども一件の落着に感謝しております」

 そんなことがあったのかと源三郎は驚くしかなかった。十三ということは元服前、その年頃はいろいろと物思う頃だから、死骸を見れば大人よりも強い衝撃を受けるのかもしれなかった。

「弟君が元気になられてよかった。弟君に伝えてくれませんか。おかつは、むしろ見つけてくれた二人に感謝していると。見つけて奉行所に知らせたからこそ、殺めた者達が捕まったのだと。これから先は成仏したおかつが草場の陰で手助けしてくれるだろうと」
「忝い。その通り伝えておきましょう」

 岡部の部屋を出た源三郎は乾いた風を頬に受け身震いした。江戸に吹く冬の風も乾いていたが、この地の風は周囲の山から吹き下ろすせいかひときわ冷たかった。

雷土いかづちおろしです」

 通りかかった大番頭の沢井清兵衛はそう言って会釈した。

「あの山からか」

 御殿の庭を取り囲む塀のはるかかなたに見える山を源三郎は見つめた。

「衣手さむしではありませんが、こういう風が吹くと、吉野の山ならぬ雷土山にも雪が降るのです」

 これはたぶん古歌を踏まえて言っているらしいと源三郎は気付いた。どうやら沢井清兵衛は分家の養子の源三郎に歌の心得があるに違いないと思っているらしい。残念ながら、源三郎は元歌がすぐには思い出せなかったので、ありきたりなことしか言えなかった。

「さぞかし見事な雪景色だろうな」
「山ばかりではなく、城下も降りて積もれる山里になります」

 江戸より暖かい地でも山に囲まれていると雪が降るものらしい。降りて積もれる山里も古歌の一部だろう。後で壱子に尋ねてみよう。
 それにしても、沢井清兵衛、侮り難し。香田角では大番は城の警護や武家の取り締りをすることになっている、文武のうち、武を受け持っているのだ。それなのに歌の嗜みがあるとは。沢井清兵衛個人の資質なのか、あるいはこの地の者達の習いなのか。
 舅から歌の添削をされるよりも、よほど面倒だった。歌を気にしていたら、気楽な会話ができないではないか。
 雅な話は苦手だからもう少し砕けた感じで話そうと言おうと思ったら、それではと御座の間の方へ行ってしまった。





「いやだあ、おきんちゃんたら」
「おたつちゃんこそ、それはないよ」

 辰巳町の米屋大黒屋の店の奥は家族や奉公人の住まいになっている。その一室からかすかに聞こえる娘おたつの久しぶりの笑い声に善兵衛は胸をなでおろしていた。
 先日婿の栄蔵は山置の親戚の家に向かった。熱が引いたとはいえ、栄蔵の傷はまだ完全に癒えていない。おたつもまたあれからずっと塞いでいる。子ども達もなんとなく母親の常ならぬ雰囲気を感じているのか元気がない。子どもの世話は子守や下女に任せておけばいいといっても、細かい指示は母親のおたつが出さねばならぬから、いつまでも気が塞いだままというのは困る。妻のおかめはやはり栄蔵を離縁した方が良かったのではないかと言う始末である。
 そこで善兵衛はおたつの年上の幼馴染で同じ米屋の女将をしている鳥居町升屋のおきんを呼んだのだった。亭主の八兵衛との夫婦喧嘩は鳥居町の名物と言われるほどだが、二人で今の升屋の身代を大きくしたのを善兵衛は知っていた。本当に不仲であればできぬことである。
 おきんはおたつと栄蔵の間で起きたことを薄々は知っているようだが、何も言わず、娘の頃と同じようにおたつを訪ねて来た。
 二人はお茶とお菓子を間に噂話に興じていた。

「おたつちゃん、お城の満津の方様に御子がお生まれになるって聞いた?」
「ええっ! いつ、いつ生まれるの?」
「それはわかんないけど、大久間で仕込んだんなら来年の春あたり」
「今度は若君様だといいね」
「けど、江戸の奥方様にはまだ御子は生まれてないんでしょ」
「先に若君様が生まれたら……」
「まずいよね」
「うん、まずい」

 まずいと言いながら、二人の表情には切迫した感じはない。むしろ楽しんでいるようだった。お城や大手町に住む人々のことは所詮他人事なのだ。

「満津の方様のことも知らないんじゃ、日向屋のことも聞いてないよね」
「日向屋って青物屋の?」
「昨夜、亭主が柳町で聞いたんだよ」
「柳町って、また襟に紅白粉?」
「それはなかった。昨夜は鳥居町の旦那衆の集まり。真面目な集まりでね。なんでも日向屋が百姓から大根を安く買い叩いてるって、仕入れ先の村の衆がお役人に直訴したんだって。それで町奉行所に呼ばれてお叱りを受けたって」
「奉行所に呼ばれるって」
「下手すりゃ、追放、闕所けっしょで財産没収だものね。くわばら、くわばら」

 おたつの表情が曇った。もしかしたら、自分のやったことでこの大黒屋も一つ間違えばそうなっていたかもしれないのだ。

「亭主が言うには、日向屋は柳町で少々派手に遊び過ぎたんだって。それでお役人に目を付けられてたんじゃないかって。何しろ、太夫四人を呼んで宴会したっていうからね。太夫一人呼んだらうちの一月の儲けが飛ぶよ」
「太夫を四人……」
「ほら、この前の柳町の仲居殺しの一件。あれで役人が出入りしたから日向屋のことも耳に入ったんじゃないかな。そこへ村からの直訴だもの。そりゃお役人もいい感じはしないよ。大根を安く仕入れて高くで漬物を売ったその金でお大尽を気取ってるんだから」
「おきんちゃんの旦那さんは可愛いもんだね」

 おきんはケラケラと笑い出した。
 が、不意におたつは俯いた。おきんは慌てた。もしかして何か気に障ることを言ってしまったんじゃないか。そういえば亭主の栄蔵と折り合いが悪くなって、栄蔵は山置の遠縁の家にいるという話だった。

「おたつちゃん、どうしたの」
「なんでもない、なんでもないから」

 小さな声でそう言う先から、涙がぼろっと畳の上に落ちた。すぐにおきんは懐紙を出しおたつに手渡した。

「ごめん、ありがと」

 下を向いたまま顔に懐紙を当てても涙は零れ落ちた。

「ごめんよ。気に障ること言っちまって」
「……おきんちゃんのせいじゃない。あたしのせいだから」

 亭主がよくおまえは考え無しに物を言ったり動くと言っているが、まったくその通りだとおきんは思う。でも、今日のおたつは以前と違う。昔はこんなことで泣いたりしなかった。

「あたしがいけなかったんだ。子どもが生まれてから、目を向けてくれないと栄蔵さんが言ったんだ。子どもができたら用済みかって。あたしだって子どもの世話で大変なのに、前の女房と焼けぼっくいに火が付いて……。そう思ったら腹が立って腹が立って仕方がなくて……」
「栄蔵さん、浮気してたんだ」

 おきんは栄蔵とおかつのことを知らなかった。おたつと栄蔵の折り合いが悪く、喧嘩でおたつが刃物を持ち出してしまったことは知っていた。

「けど、女とは切れたんだろ」
「女は、死んだ」
「それじゃ、もう心配いらないじゃないか。おたつちゃんがよくできた女房だってことは皆知ってる」
「あたしは駄目な女房なんだよ。うちの人を傷つけちまった」
「え?」
「包丁で……」

 それは確かにまずい。おきんも亭主に腹を立てることはあるが、包丁を持ち出そうとまでは思わない。

「でもさ、栄蔵さんは生きてるんだろ」
「生きてるけど、だけど……」

 おたつの嗚咽は部屋の外にまで聞こえたらしかった。
 障子をそっと開けたおかめはちょっとと言って、おきんを廊下に呼び出した。
 
「せっかく忙しいところを来てもらって申し訳ないけど」
「いえ、私こそ、かえって傷に塩を塗りこんだみたいで」

 身を切るような風が庭を吹き抜けた。おきんもおかめも身をすくめた。
 今夜あたり雪が降るかもしれない。

「おかみさん、山置から文です」

 大きな声を上げて表から庭づたいに奥へやって来たのは十になるやならずやの丁稚だった。

「乙松、声が大きいよ」

 おかめは中の娘に聞こえたのではないかとハラハラしながら、丁稚を諫めた。

「へい。どうも気が利きませんで」

 ぺこりと頭を下げた丁稚は文の包をおかめに渡して、店へ戻って行った。 

「それじゃ、私はこれで」

 おきんがそう言った時だった。おたつが障子をがばりと開けた。

「おっかさん、栄蔵さんからなのかい」

 そう言うやさっきまで泣いていた女とは思えぬ素早さで母親から文を奪い取った。

「おたつ!」

 むさぼるようにおたつは文を開いた。
 そこには見覚えのある栄蔵の文字が書き連ねられていた。
 おたつが元気になるまでは文が来たことを知らせないで欲しい、山置の人たちのおかげでなんとか傷も癒えてきた、旦那様やおかみさんには感謝しかない、子らに会いたいといったことが書かれた後に、こっちでは初雪が降ったとあり、歌がしたためられていた。   

  白雪の 降りて積もれる 山置に 思ひは消えず 人は消えても

 それを見た途端、おたつは叫んだ。

「おっかさん、駕籠の支度をして頂戴。山置に行く」
「なんだって! あと二時もすれば真っ暗になるんだよ」

 おかめばかりでなく、おきんも驚いた。

「おたつちゃん、落ち着いて」
「だって、人は消えてもって、あの人、死んじゃうつもりだ」

 おかめもおきんもおたつから見せられた文に書かれた歌の意味がわからず顔を見合わせた。

「消えてもって、物の喩えじゃないか」
「そうだよ。俺じゃなくて人だし」
「いいや、きっと栄蔵さんだ」

 三人の騒ぎを聞きつけて、善兵衛がやって来た。
 文の歌を見ておたつが山置に行くと言い出したとおかめから聞き善兵衛は文を見た。

「おたつ、おまえはたとえ栄蔵が死んでも思いは消えないと思ってるんだね」
「はい」
「わかった。すぐに支度をしよう」

 おかめは仰天した。

「今からだと山置に着くのは夜ですよ」
「構わん。手代の松吉が山置の出だからついていかせよう。誰か、おたつの支度を。今晩は冷えるから綿入れも用意してくれ。おかめ、駕籠かきに払う銭を多めに用意してくれ。夜道だからな」

 おきんはなんだか胸がわくわくしてきた。夫の詠んだ歌を見て妻が会いに行くなんて、昔の物語にもないような話ではないか。
 半刻もしないうちに駕籠屋が店の裏まで来た。

「絶対、手を離しちゃ駄目だよ。あの歌はおたつちゃんに向かって伸ばした手なんだから」

 おきんは駕籠に乗るおたつに声を掛けた。

「ありがと、おきんちゃん」

 しっかりした声におきんは安堵した。きっとうまくいく。
 鳥居町に向かうおきんの肩に雪のひとひらが舞った。見上げると雷土山は雲に隠れていた。明日の朝は雪をかぶった山の頂が見えるはずである。


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