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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に
35 徘徊老人と息子
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「もうこの前のように外を歩き回らないでくださいませ」
この女子は誰だ。かような妾を持った覚えはないのだが。
あ、妻か。そうだ、この髷は妻だ。妻は泣きそうな顔をしている。これ以上、こんな顔をされては堪らぬ。
何の話をしているかわからぬが、安心させてやらねばな。
「わかった、わかった。時に、飯はまだか」
腹が減ったのでそう言うと、今度は男が言った。
「先ほどお召しになったばかりではありませんか」
はて? 食べたか? この男が言うならそうなのだろう。それにしてもこの偉そうな男は誰だ。もしや父上か。いや、父上はもう亡くなられた。養子に行った弟か?
「仁兵衛、おぬし、なぜここにいるのだ。家に帰らねば」
「父上、私は喜兵衛です。仁兵衛叔父上は亡くなられました」
「何を言うておる。喜兵衛はわしだ」
まったく、こやつ何を言っておるのだ。
「父上は隠居されたのです」
「隠居などした覚えはない。そうだ、お城に参らねば。遅れてしまう。早く飯を出せ」
「先ほど昼飯を食べたではありませんか」
「昼飯だと! 朝飯だ!」
登城前だから、朝飯に決まっておる。
「かしこまりました。朝餉を持って参ります」
そう言ったのは……妻だな、この髷は。さすがによくわかっておる。
「早く持って参れ」
「しばしお待ちを」
妻はさっきの男と部屋から出て行く。あの男は誰だ。よもや、妻の間男か。
許せん! 二つ重ねて四つにしてやる!
刀はどこだ。
刀掛けは……あった。刀もある。大丈夫だ。
刀さえあれば。
ん? 刀を持ってどこへ行くんだ、わしは。
城であったな。勤めに参らねば。
「おい、裃の用意をせよ」
すぐに妻が来た。
「先ほど、勘定奉行の使いが見えて、今日はお休みだとのことです」
「休みだったか、そうか」
なんだ。今日は休みか。
それなら、釣りにでも行くか。仁兵衛も休みならよいのだが。
「おい、釣りの道具を出してくれ。坂瀬川に釣りに行く」
「はい」
そこへ仁兵衛が来た。
「私もお供します」
「そうか、そうか。丁度よかった」
今日は本当によい日だ。
村瀬家は戌亥町の武家屋敷の一角にある。
主の喜兵衛は諱を兼文という。父の兼武、妻の梅、長男で二十一歳になる勘六、次男で十八歳の勘八、長女で十五歳の須美、次女のまつ十歳と暮らしている。
喜兵衛は元は江戸上屋敷の広敷の役人であったが、両親の病を理由に国許に帰って来た。母が病で亡くなると、以前から老人特有の病を患っていた父に奇矯の振る舞いが多くなった。朝夕の区別がつかなくなったり、金が盗まれたと騒いだり、食事を食べたことを忘れたりするなどは日常茶飯事、家を抜け出て赤の他人の家に上がり込んだり、挙句は刀(竹光だが)を振り回したり、近所だけでなく城下の家々にもあの村瀬の隠居と知れ渡るほどであった。
近頃では足腰が弱くなったせいか、さほど遠くまでは行かなくなり、家族は皆安堵してしていた。
ところが、先日は家人の気付かぬ間に抜け出し登城しようとした。幸いにも門番に止められたので大事には至らなかった。
医者が言うには己の年齢も足の悪いことも忘れているとのことだった。
家族は日夜交代で老父の部屋の中、あるいは外に控え、勝手に外へ出ぬよう見張った。近所の者達も外に出る時は、村瀬の隠居が徘徊していないか周囲に目を配った。
とはいえ、家族全員でというわけにはいかぬ。喜兵衛は近くの小ヶ田道場で師範代をしている。この秋に道場主の小ヶ田頼母が体調を崩したため、喜兵衛はほぼ毎日道場に顔を出さねばならない。
長男の勘六は殿様の異母兄の竹之介に仕え、その死後しばらくは国許で勘定方に出仕していた。殿様が国入りして後は、殿様付の小姓として泊りがけの勤めもあり、祖父の看病に専念できない。
次女のまつは手習いの師匠の勧めで歌塾と漢学塾に通っており、学業に忙しかった。
昼間、老人の面倒を看られるのは妻の梅、次男勘八、長女須美の三人だけであった。とはいえ若い勘八も須美もそれぞれ学問や習い事をしているから、結局、一番負担がかかるのは梅である。
そんな梅を案じ、喜兵衛は帰宅すると夕刻から深夜まで父についていた。道場が忙しくない日には妻を休ませた。
そういうわけで喜兵衛も梅も、父の面倒を見ることについてはかなり慣れているといっていい。
それでも、一日に幾度も「飯はまだか」「これから登城する」等と言われたり、死んだ叔父の名で呼ばれたりすれば、いつものこととわかっていても、言葉を荒げてしまうこともある。
そのたびに不孝な己を戒める喜兵衛であった。
この日は午前中で道場の指導を終えて帰って来ると、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、叔父になりきって父の釣りに付き合うことにした。それに、妻を少しでも休ませたかった。
さすがに先日女の死骸が見つかった場所は憚られたので、その下流の泊近くの川のほとりまで父を背負って行った。
川沿いの道を下りた場所で父を下ろした。午後の日を受けてまばゆく光る川面を喜兵衛は久しぶりに見たような気がした。
「おっ、かかったぞ!」
手ごたえがあった。しなった竹竿を引いた。
「おかしいのう」
針の先には何もかかっておらぬ。さっきからずっとこれだ。
「逃げられましたな」
逃げられたか。腹の立つことよ。仁兵衛め、笑っておるな。
こうなったら釣れるまで帰るものか。
「そろそろ戻りましょう。風が冷たくなってきました。近頃は風もはやっておりますから」
「仁兵衛、もう少しだ。釣れたら帰るぞ」
「家で母上が待っております」
「母上は死んだではないか」
「……はあ、そうでした」
まったく、相変わらず間抜けだ。これでよく養子になど。
「笠井の家に迷惑をかけるでないぞ」
「かしこまりました」
それにしても釣れぬ。そうじゃ、小堀川に行けば釣れるやもしれぬ。あそこは入れ食いだと誰かが言っておったな。誰であったか。
ここは坂瀬川の下流であるから、鳥居町、辰巳町を通って柳町に行けば、すぐだ。
そうしよう。柳町か。そういえば、春菊大夫は元気であろうか。愛嬌のある女子であったな。ついでに顔を見ていこうか。格子越しに挨拶をしたら驚くであろうな。
喜兵衛は釣り道具を片付けながらも父の姿を常に視界の中に入れていた。子どもの頃には父が自分を見ていたものだった。川に落ちそうになった喜兵衛の襟を父が素早くつかんだおかげで難を逃れたこともあった。
「村瀬様」
その声に振り返ると林岡右衛門の丸い顔が近づいてきた。川沿いの道を歩いていた林は喜兵衛の姿に気付き、川のほとりまで下りて来たのだった。
「釣りでございますか」
「うむ。父の相手でな。勤めの帰りか」
「はい」
若い林は徒歩組に属し、殿やその一家の外出の際の警護を担当している。小ヶ田道場の若手の中ではかなりの使い手である。
林は村瀬の向こうで釣り糸を垂れている老人をちらりと見た。
「村瀬様の孝行は某にはとても真似できません」
「孝行などとはとても言えぬ。他人様に迷惑をかけぬために連れ出したのだ。外に連れ出すと、夜よく寝てくれるし、勝手に家を抜け出すこともないのだ。おぬし、ここのところ忙しかったようだな」
この数か月、林は徒歩組の仕事が忙しく、道場に月に数度しか顔を見せていなかった。
「それが近頃は視察も落ち着きまして、お出ましが減りましたので、こうして日の明るいうちに下がることができるようになりまして。明日は非番ですので道場に参ります」
「そうか」
「小ヶ田先生の具合に変わりは」
「ないな。与五郎殿らが看ておるが、一人で厠に立つこともできぬ」
頑健な小ヶ田頼母を知る二人にとって、病の師の今のありさまは信じがたいものだった。
「道場はどうなるのでしょうか。こう言ってはなんですが、与五郎殿の腕は」
頼母の養子与五郎は頼母の妹の夫が妾に産ませた男子である。江戸育ちの美少年は殿様の側に仕えているから剣の腕はそこそこあるし、それなりに教養もある。だが、道場主としての指導力には欠けている。それに秘伝の剣を受け継ぐほどの腕はない。
「それはここで言うべきことではあるまい」
喜兵衛は若い林をたしなめた。
「申し訳ありません。なれど、先々のことをいろいろと申す者もおります」
「頼母様のことだ。時間はかかるかもしれぬが回復されよう」
そう言ったものの喜兵衛自身は完全な回復は見込めぬと思っている。それを口にすれば林は勿論、他の若い弟子たちが動揺する。多くの弟子が井村道場に移れば道場の経営にも関わってくる。
なんとか頼母の身体を持ちこたえさせて、その間に新たに道場の代表となる師範を立てて弟子の指導に当たらせる体制を作る。喜兵衛や他の古参の弟子たちの一致した考えである。ただ、誰が代表となるかが大きな問題だった。道場の門弟たちの間にはっきりとした派閥があるわけではないが、出自や家柄という個人では如何ともし難い物を重んじる者達はどこにでもいるもので、林に対して足軽ふぜいと陰で言う古参もいた。喜兵衛から見れば林は同世代の中では抜きんでた力を持っておりいずれは道場を背負って立つ立場になってもおかしくないのだが。
問題があるとすれば小ヶ田道場に伝わる秘剣を受け継ぐだけの力が林にはないことである。
喜兵衛はすでに領内に秘剣を受け継げる可能性のある者を見つけていたが、彼は未だ野に伏す虎児であった。彼が小ヶ田道場で秘剣を受け継ぐ日が来るまで、道場を存続できればよいと喜兵衛は思っている。その後のことは喜兵衛にとってはどうでもよいとまでは言わないが、さほど重要なことではなかった。
「殿も案じておいでとの話を伺っております」
「殿が」
「はい。近々お出ましになられるやもしれません」
徒歩組の林が言うのだから間違いあるまい。だが、いくら同じ道場だからとはいえ、誰にでも話していいことではない。
「おそれおおいことだな。あまり城の外でさような話はせぬほうがよい」
「申し訳ありません」
「万が一ということもある。お世継ぎもまだ生まれぬというのに」
殿の兄たちは養子に行った一人を除き、全員亡くなっていてその子どももいない。殿には現在姫が一人いるだけでまだ世継ぎは生まれていない。
万が一のことが殿にあった場合、年の離れた二人の姉の嫁ぎ先のどちらかから養子を迎えることになろう。
だが、近頃、不届きな噂をする者があった。御分家が婿養子を迎えたのは、殿に万が一のことがあった場合に婿に後を継がせるためではないかと。御分家の意を汲む者が万が一のことを起こすのではないかとも。
到底ありえない話なのだが、婿の出身の加部家が譜代で老中を出している家というのは不届きな噂に妙な信憑性を与えていた。
喜兵衛は不届きな噂など信じてはいないが、世継ぎが定まらぬというのは望ましいことではない。
「お世継ぎといえば、これはまだ内々の話ですが、満津の方様がどうも御懐妊されたようで」
林は声を潜めた。
「まことか」
喜兵衛をはじめとするほとんどの家臣の知らぬ話であった。
「御方様のお出ましの予定が今月に入って、急に取りやめになっております。奥向きに仕える者らは口をつぐんでおりますが、どうやら」
「それはめでたきこと」
「まことに」
生まれるのが男子なら世継ぎの心配はなくなる。江戸の奥方様はまだ若くこの先男子がそちらに生まれるかもしれぬが、側室腹であっても男子は多いに越したことはない。何より不届きな噂も消えることだろう。
喜兵衛はめでたい話に安堵した。
「よき話を聞かせてもらった」
「あっ!」
林の叫びで喜兵衛は背後にいる父のことを思い出した。不覚だった。
振り返ると、父がふらふらと釣り竿を置いて歩きだしていた。
「父上、いえ兄上、どちらへおいでですか」
父を追いかけながら叫んだ。
「仁兵衛、おまえも行くか」
「はい、参ります。どちらへ」
老父はしっかりした声で答えた。
「柳町の春菊太夫に会いに行くぞ」
どうやら今の父は若者の頃に戻っているらしい。さて誰の名を出せばよいか。
「兄上、母上に叱られます」
「案ずるな。母上には坂下の家で庚申待ちをしたと言うゆえ」
「今宵は庚申待ちではありません」
「そうであったかな」
「さあ、家に戻りましょう」
父の身体を両腕で確保し、すぐに背負った。
「お供します」
林は二人の釣り竿と魚籠を持った。
「すまぬ」
「早く帰っても、暇ですから」
背中の上で父親はなおもぶつぶつと柳町や春菊太夫の名を呟いていた。
まったくいつの春菊太夫なのやら、父親の年からすれば二代前、下手をすると三代前の太夫かもしれぬ。喜兵衛は顔を上げ、川沿いの道へと向かった。背後を流れる川のせせらぎの音を聞くゆとりなどなかった。
この女子は誰だ。かような妾を持った覚えはないのだが。
あ、妻か。そうだ、この髷は妻だ。妻は泣きそうな顔をしている。これ以上、こんな顔をされては堪らぬ。
何の話をしているかわからぬが、安心させてやらねばな。
「わかった、わかった。時に、飯はまだか」
腹が減ったのでそう言うと、今度は男が言った。
「先ほどお召しになったばかりではありませんか」
はて? 食べたか? この男が言うならそうなのだろう。それにしてもこの偉そうな男は誰だ。もしや父上か。いや、父上はもう亡くなられた。養子に行った弟か?
「仁兵衛、おぬし、なぜここにいるのだ。家に帰らねば」
「父上、私は喜兵衛です。仁兵衛叔父上は亡くなられました」
「何を言うておる。喜兵衛はわしだ」
まったく、こやつ何を言っておるのだ。
「父上は隠居されたのです」
「隠居などした覚えはない。そうだ、お城に参らねば。遅れてしまう。早く飯を出せ」
「先ほど昼飯を食べたではありませんか」
「昼飯だと! 朝飯だ!」
登城前だから、朝飯に決まっておる。
「かしこまりました。朝餉を持って参ります」
そう言ったのは……妻だな、この髷は。さすがによくわかっておる。
「早く持って参れ」
「しばしお待ちを」
妻はさっきの男と部屋から出て行く。あの男は誰だ。よもや、妻の間男か。
許せん! 二つ重ねて四つにしてやる!
刀はどこだ。
刀掛けは……あった。刀もある。大丈夫だ。
刀さえあれば。
ん? 刀を持ってどこへ行くんだ、わしは。
城であったな。勤めに参らねば。
「おい、裃の用意をせよ」
すぐに妻が来た。
「先ほど、勘定奉行の使いが見えて、今日はお休みだとのことです」
「休みだったか、そうか」
なんだ。今日は休みか。
それなら、釣りにでも行くか。仁兵衛も休みならよいのだが。
「おい、釣りの道具を出してくれ。坂瀬川に釣りに行く」
「はい」
そこへ仁兵衛が来た。
「私もお供します」
「そうか、そうか。丁度よかった」
今日は本当によい日だ。
村瀬家は戌亥町の武家屋敷の一角にある。
主の喜兵衛は諱を兼文という。父の兼武、妻の梅、長男で二十一歳になる勘六、次男で十八歳の勘八、長女で十五歳の須美、次女のまつ十歳と暮らしている。
喜兵衛は元は江戸上屋敷の広敷の役人であったが、両親の病を理由に国許に帰って来た。母が病で亡くなると、以前から老人特有の病を患っていた父に奇矯の振る舞いが多くなった。朝夕の区別がつかなくなったり、金が盗まれたと騒いだり、食事を食べたことを忘れたりするなどは日常茶飯事、家を抜け出て赤の他人の家に上がり込んだり、挙句は刀(竹光だが)を振り回したり、近所だけでなく城下の家々にもあの村瀬の隠居と知れ渡るほどであった。
近頃では足腰が弱くなったせいか、さほど遠くまでは行かなくなり、家族は皆安堵してしていた。
ところが、先日は家人の気付かぬ間に抜け出し登城しようとした。幸いにも門番に止められたので大事には至らなかった。
医者が言うには己の年齢も足の悪いことも忘れているとのことだった。
家族は日夜交代で老父の部屋の中、あるいは外に控え、勝手に外へ出ぬよう見張った。近所の者達も外に出る時は、村瀬の隠居が徘徊していないか周囲に目を配った。
とはいえ、家族全員でというわけにはいかぬ。喜兵衛は近くの小ヶ田道場で師範代をしている。この秋に道場主の小ヶ田頼母が体調を崩したため、喜兵衛はほぼ毎日道場に顔を出さねばならない。
長男の勘六は殿様の異母兄の竹之介に仕え、その死後しばらくは国許で勘定方に出仕していた。殿様が国入りして後は、殿様付の小姓として泊りがけの勤めもあり、祖父の看病に専念できない。
次女のまつは手習いの師匠の勧めで歌塾と漢学塾に通っており、学業に忙しかった。
昼間、老人の面倒を看られるのは妻の梅、次男勘八、長女須美の三人だけであった。とはいえ若い勘八も須美もそれぞれ学問や習い事をしているから、結局、一番負担がかかるのは梅である。
そんな梅を案じ、喜兵衛は帰宅すると夕刻から深夜まで父についていた。道場が忙しくない日には妻を休ませた。
そういうわけで喜兵衛も梅も、父の面倒を見ることについてはかなり慣れているといっていい。
それでも、一日に幾度も「飯はまだか」「これから登城する」等と言われたり、死んだ叔父の名で呼ばれたりすれば、いつものこととわかっていても、言葉を荒げてしまうこともある。
そのたびに不孝な己を戒める喜兵衛であった。
この日は午前中で道場の指導を終えて帰って来ると、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、叔父になりきって父の釣りに付き合うことにした。それに、妻を少しでも休ませたかった。
さすがに先日女の死骸が見つかった場所は憚られたので、その下流の泊近くの川のほとりまで父を背負って行った。
川沿いの道を下りた場所で父を下ろした。午後の日を受けてまばゆく光る川面を喜兵衛は久しぶりに見たような気がした。
「おっ、かかったぞ!」
手ごたえがあった。しなった竹竿を引いた。
「おかしいのう」
針の先には何もかかっておらぬ。さっきからずっとこれだ。
「逃げられましたな」
逃げられたか。腹の立つことよ。仁兵衛め、笑っておるな。
こうなったら釣れるまで帰るものか。
「そろそろ戻りましょう。風が冷たくなってきました。近頃は風もはやっておりますから」
「仁兵衛、もう少しだ。釣れたら帰るぞ」
「家で母上が待っております」
「母上は死んだではないか」
「……はあ、そうでした」
まったく、相変わらず間抜けだ。これでよく養子になど。
「笠井の家に迷惑をかけるでないぞ」
「かしこまりました」
それにしても釣れぬ。そうじゃ、小堀川に行けば釣れるやもしれぬ。あそこは入れ食いだと誰かが言っておったな。誰であったか。
ここは坂瀬川の下流であるから、鳥居町、辰巳町を通って柳町に行けば、すぐだ。
そうしよう。柳町か。そういえば、春菊大夫は元気であろうか。愛嬌のある女子であったな。ついでに顔を見ていこうか。格子越しに挨拶をしたら驚くであろうな。
喜兵衛は釣り道具を片付けながらも父の姿を常に視界の中に入れていた。子どもの頃には父が自分を見ていたものだった。川に落ちそうになった喜兵衛の襟を父が素早くつかんだおかげで難を逃れたこともあった。
「村瀬様」
その声に振り返ると林岡右衛門の丸い顔が近づいてきた。川沿いの道を歩いていた林は喜兵衛の姿に気付き、川のほとりまで下りて来たのだった。
「釣りでございますか」
「うむ。父の相手でな。勤めの帰りか」
「はい」
若い林は徒歩組に属し、殿やその一家の外出の際の警護を担当している。小ヶ田道場の若手の中ではかなりの使い手である。
林は村瀬の向こうで釣り糸を垂れている老人をちらりと見た。
「村瀬様の孝行は某にはとても真似できません」
「孝行などとはとても言えぬ。他人様に迷惑をかけぬために連れ出したのだ。外に連れ出すと、夜よく寝てくれるし、勝手に家を抜け出すこともないのだ。おぬし、ここのところ忙しかったようだな」
この数か月、林は徒歩組の仕事が忙しく、道場に月に数度しか顔を見せていなかった。
「それが近頃は視察も落ち着きまして、お出ましが減りましたので、こうして日の明るいうちに下がることができるようになりまして。明日は非番ですので道場に参ります」
「そうか」
「小ヶ田先生の具合に変わりは」
「ないな。与五郎殿らが看ておるが、一人で厠に立つこともできぬ」
頑健な小ヶ田頼母を知る二人にとって、病の師の今のありさまは信じがたいものだった。
「道場はどうなるのでしょうか。こう言ってはなんですが、与五郎殿の腕は」
頼母の養子与五郎は頼母の妹の夫が妾に産ませた男子である。江戸育ちの美少年は殿様の側に仕えているから剣の腕はそこそこあるし、それなりに教養もある。だが、道場主としての指導力には欠けている。それに秘伝の剣を受け継ぐほどの腕はない。
「それはここで言うべきことではあるまい」
喜兵衛は若い林をたしなめた。
「申し訳ありません。なれど、先々のことをいろいろと申す者もおります」
「頼母様のことだ。時間はかかるかもしれぬが回復されよう」
そう言ったものの喜兵衛自身は完全な回復は見込めぬと思っている。それを口にすれば林は勿論、他の若い弟子たちが動揺する。多くの弟子が井村道場に移れば道場の経営にも関わってくる。
なんとか頼母の身体を持ちこたえさせて、その間に新たに道場の代表となる師範を立てて弟子の指導に当たらせる体制を作る。喜兵衛や他の古参の弟子たちの一致した考えである。ただ、誰が代表となるかが大きな問題だった。道場の門弟たちの間にはっきりとした派閥があるわけではないが、出自や家柄という個人では如何ともし難い物を重んじる者達はどこにでもいるもので、林に対して足軽ふぜいと陰で言う古参もいた。喜兵衛から見れば林は同世代の中では抜きんでた力を持っておりいずれは道場を背負って立つ立場になってもおかしくないのだが。
問題があるとすれば小ヶ田道場に伝わる秘剣を受け継ぐだけの力が林にはないことである。
喜兵衛はすでに領内に秘剣を受け継げる可能性のある者を見つけていたが、彼は未だ野に伏す虎児であった。彼が小ヶ田道場で秘剣を受け継ぐ日が来るまで、道場を存続できればよいと喜兵衛は思っている。その後のことは喜兵衛にとってはどうでもよいとまでは言わないが、さほど重要なことではなかった。
「殿も案じておいでとの話を伺っております」
「殿が」
「はい。近々お出ましになられるやもしれません」
徒歩組の林が言うのだから間違いあるまい。だが、いくら同じ道場だからとはいえ、誰にでも話していいことではない。
「おそれおおいことだな。あまり城の外でさような話はせぬほうがよい」
「申し訳ありません」
「万が一ということもある。お世継ぎもまだ生まれぬというのに」
殿の兄たちは養子に行った一人を除き、全員亡くなっていてその子どももいない。殿には現在姫が一人いるだけでまだ世継ぎは生まれていない。
万が一のことが殿にあった場合、年の離れた二人の姉の嫁ぎ先のどちらかから養子を迎えることになろう。
だが、近頃、不届きな噂をする者があった。御分家が婿養子を迎えたのは、殿に万が一のことがあった場合に婿に後を継がせるためではないかと。御分家の意を汲む者が万が一のことを起こすのではないかとも。
到底ありえない話なのだが、婿の出身の加部家が譜代で老中を出している家というのは不届きな噂に妙な信憑性を与えていた。
喜兵衛は不届きな噂など信じてはいないが、世継ぎが定まらぬというのは望ましいことではない。
「お世継ぎといえば、これはまだ内々の話ですが、満津の方様がどうも御懐妊されたようで」
林は声を潜めた。
「まことか」
喜兵衛をはじめとするほとんどの家臣の知らぬ話であった。
「御方様のお出ましの予定が今月に入って、急に取りやめになっております。奥向きに仕える者らは口をつぐんでおりますが、どうやら」
「それはめでたきこと」
「まことに」
生まれるのが男子なら世継ぎの心配はなくなる。江戸の奥方様はまだ若くこの先男子がそちらに生まれるかもしれぬが、側室腹であっても男子は多いに越したことはない。何より不届きな噂も消えることだろう。
喜兵衛はめでたい話に安堵した。
「よき話を聞かせてもらった」
「あっ!」
林の叫びで喜兵衛は背後にいる父のことを思い出した。不覚だった。
振り返ると、父がふらふらと釣り竿を置いて歩きだしていた。
「父上、いえ兄上、どちらへおいでですか」
父を追いかけながら叫んだ。
「仁兵衛、おまえも行くか」
「はい、参ります。どちらへ」
老父はしっかりした声で答えた。
「柳町の春菊太夫に会いに行くぞ」
どうやら今の父は若者の頃に戻っているらしい。さて誰の名を出せばよいか。
「兄上、母上に叱られます」
「案ずるな。母上には坂下の家で庚申待ちをしたと言うゆえ」
「今宵は庚申待ちではありません」
「そうであったかな」
「さあ、家に戻りましょう」
父の身体を両腕で確保し、すぐに背負った。
「お供します」
林は二人の釣り竿と魚籠を持った。
「すまぬ」
「早く帰っても、暇ですから」
背中の上で父親はなおもぶつぶつと柳町や春菊太夫の名を呟いていた。
まったくいつの春菊太夫なのやら、父親の年からすれば二代前、下手をすると三代前の太夫かもしれぬ。喜兵衛は顔を上げ、川沿いの道へと向かった。背後を流れる川のせせらぎの音を聞くゆとりなどなかった。
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