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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に
23 決意
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分家の厨の文助、大黒屋のおたつ、岳父弾正。
千蔵は三人のうちの一人が姉おかつを殺したと思っている。しかも弾正については証となる文を見せられた。
文は簡単な時候の挨拶の後、すぐに本文が始まっていた。
参拾になるに いまだ妻女を娶らず
そなたの末々のことを思へば 心憂きばかり
なれど近々いくばくかの金子を弾正様より得べきことあり
これにて 二人して商ひせばよからましと思ひ候
そなたも嫁取るべし
嫁をもらっていない弟を案じた後、近々弾正様からいくばくかの金が得られるとある。商いを始められる上に嫁取りのできる金子だからかなりの額であろう。
普通に考えればありえない話である。おかつは御分家から放逐されるように辞めさせられているのだから。辞めて一年近くたつ奉公人に手当など聞いたことがない。
だが、ありえないことをおかつは文に書いている。つまりありえない手段で弾正から金を得るということではないか。たとえば、強請り集りの類である。
御分家に勤めていた時に知ったことをネタにおかつは弾正を脅していたのではないか。
どこの大名家、旗本でも外部に知られてはまずい話の一つや二つはある。実家の加部家の数代前の不出来な当主の顛末のように。殿中での御目見え挨拶で座る位置を間違え、家臣がその責めを負って自害しただけではなかった。家臣を偏愛し、それを諫めた重臣を手打ちにしたのである。これが御公儀に知れたら御家は断絶してしまうのではないかと案じた家老たちの決断によって表向きには病ということで隠居が強制され、元服したばかりの嫡男が家督を相続した。一年を経ずして隠居は急死。原因は不明である。そういった話は大抵は奉公する者達の忠義で外部には漏れない。無論、この山置家にも外には出せぬ話がある。
当然、御分家にもそういう話があってもおかしくない。おかつは奉公中に知ったそれをネタに弾正を脅していたのではないか。
では、一体何をネタにしたのか。弾正の女性関係か。そういう気配はまったく義父にはないのだが。歌を詠み、源氏を講じていながら、文のやりとりをする女人が現在いるようには見えない。それでは過去のことだろうか。
もしやおかつと弾正に男女の関係があったのではないか。だが、おかつの詠む歌は弾正の好みには合わないだろう。弾正は雅な花鳥風月の世界を愛している。つらい仕事に傷付いた手をとる人もいない境遇を嘆くおかつの歌の世界とは正反対である。それに壱子や妹達の容貌を見れば母親もまた相当の美女だと思われる。おかつの顔は知らないが、誰も美しいとか見目がよいとは言っていないから、よくて十人並だろう。果たして弾正が美女でもない、共通する美的感覚も持たないおかつに手を出すものだろうか。源三郎自身に置き換えてもありえないように思う。
女でなければ金か。御法度に触れる方法で金儲けをしたのか。もしそうだったらもう少し食事がましになるのではないか。大体、私腹を肥やすといっても香田角城下ではたかが知れている。江戸や大坂なら大商人と結託して甘い汁を吸えるかもしれないが、香田角の商人に吸い取れるほどの富があるとは思えない。
源三郎自身、婿入り以来の分家での生活を思えば、外に隠さねばならぬような秘密の存在を感じ取れなかった。
何より、弾正が人、それも女性を殺すように命じるとは思えない。
弾正は婿の源三郎に対して厳しいが、それは分家の婿としてふさわしくあれと思ってのことである。それくらい源三郎にもわかっている。要求するだけあって、弾正は己にも厳しい。当主としての仕事、評定所後見の役目、源氏物語や歌の講義の傍ら、毎日歌を十首作っていると壱子から聞いたことがある。
そういう人物が己を脅し金を奪おうとする者を殺すであろうか。御家中の法度に則り、脅した者を捕え処罰することを選ぶのではないか。
よって弾正はありえない。
が、倉島平兵衛の話では岳父の町奉行が弾正を訪ねたが取り付く島もなかったという。町奉行は弾正を疑ったわけではなく、文助をはじめとする奉公人らから話を聞きたかっただけである。
確かに町奉行には武家やその奉公人を調べる権限はない。それは目付の仕事である。
だが、殺されたのは元奉公人である。町奉行と力を合わせれば迅速におかつを殺めた者が判明するのではないか。それなのにまともに相手にしなかった弾正は、町奉行が御分家を調べるのは御家中の秩序を乱す行為と考えたのではないか。要するに頭が硬いのである。父を崇拝する壱子には申し訳ないが、それが弾正の短所である。彼の頭の堅さゆえの町奉行への対応だった。弾正自身に後ろ暗いところはないのではないか。
文助についてはまったくありえないこととは断言できない。勤めていた時におかつと諍いがあった恐れは十分ある。柳町の茶屋で再会した時に、おかつの余計な一言が殺意につながったとも考えられる。
大黒屋のおたつも、夫を寝取られた恨みからおかつを殺めてもおかしくない。ただし、坂瀬川の川原に死骸を運ぶのは女一人では無理だろう。手助けをした者がいると考えねばなるまい。
町奉行所もこの二人には当然目を付けているはずである。だが、千蔵が言うように手出ししにくい二人でもある。やはりこれは源三郎自身が調べるしかないかもしれぬ。
文の最後には長月十五日とあった。となると大久間に届くのは十六日か十七日である。
九月十六日というと、沢井清兵衛の祝言の日だったなと源三郎は思い出した。つまりそれ以前におかつは弾正になんらかの脅しをかけていたのかもしれない。
弾正は役目で城に行く以外、ほとんど外出しない。たまに寺社に行くが、用事が済めばすぐ帰宅する。他の武家に用事がある場合、身分柄相手が御分家を訪ねて来る。夜ともなれば必ず屋敷にいる。源三郎の知る限り、柳町の方向に足を向けたことなど一度もない。
つまり柳町の茶屋勤めのおかつ本人と直接会うことはないのだ。恐らく辞めたおかつから文が届いても開封することなく受け取りを拒むだろう。誰かが仲介しなければ彼女が弾正を強請ることはできない。
が、仲介できる者が一人いた。茶屋に出入りしていた文助である。おかつは文助を通じて弾正を脅したのではないか。例えば文を文助に託したとか。
「この後に文はなかったのか」
「ありません。これが最後の文です。お恥ずかしい話ですが、姉は御分家様を脅していたのではないでしょうか。それで金を」
千蔵は俯いた。やはり彼も源三郎と同じ考えのようだった。
「そうだろうな。この文は誰かに見せたのか」
「いいえ。弾正様の御名があるのでなんだか空恐ろしくて行李の底に隠しておりました」
千蔵が恐れるのもわかる。一介の中間にとって殿様の親戚の名を書いた文など粗略に扱えない。
「おかつは金に困っていたのか」
「……わかりません。この夏にも手前にいろいろ品を送ってきました。その中にはカステイラもありました。金のことを書いたのはこの文が初めてで。ですからそれまでは金には困っていなかったかと」
「今まで文で当家のことについて何か書いていなかったか」
「いいえ。勤め始めた頃に高貴な方々なので御分家のことについては書けないとありましたので、一度も。おそれながら、玄蕃様が江戸からおいでになることも御奉行様から伺うまで存じませんでした」
まともな奉公人なら主家の秘密を守るのは当然のことである。弟への文に何も書かなかったおかつはその点ではまともな奉公人だったのだ。一見まともな奉公人だったおかつは主家の秘密に触れる機会があったのかもしれない。
だが、主家を辞めさせられたおかつに遠慮はない。奉公中に知った何か重大な分家の秘密をネタに弾正を脅したのではあるまいか。
だが、源三郎にはそれが原因で弾正がおかつを殺すとは思えないのだ。
「うーん、どうしたものか。千蔵、俺は婿入りしてまだ日が浅いが、舅が人を殺めるとは思えないんだ。他人だけでなくご自分にも厳しい方なのだ。それに強請られるような話なぞ聞いたことがない。あとの二人はわからないが」
「申し訳ございません」
千蔵は頭を深く下げた。
「謝ることはない。身内を亡くしてつらい思いをしている時に、いろいろ話を聞かれた上につらい昔の話をしなくちゃならなかったんだから。こういう時はしばらく仕事を休まなきゃならないのにな。こちらこそ申し訳ない」
「滅相もないことでございます」
千蔵はますます恐縮して顔を上げようとしなかった。
「顔を上げろ。文助とおたつのことは城下に戻ったらすぐに調べてみよう。舅のほうもそれとなく探ってみる。叡倫については寺社奉行に相談してみよう。おぬしらの名は出さぬ」
「ありがとうございます」
顔を上げた千蔵の目に光る涙に源三郎は息を呑んだ。俺はこの男の期待に応えねばならぬのだ。源三郎は己に突きつけられた使命を深く心に刻み込んだ。
千蔵との面会を終えた源三郎の元へ、壱子の熱が下がったとお里久が知らせにに来た。
源三郎は立ち上がり小座敷に向かった。
千蔵は三人のうちの一人が姉おかつを殺したと思っている。しかも弾正については証となる文を見せられた。
文は簡単な時候の挨拶の後、すぐに本文が始まっていた。
参拾になるに いまだ妻女を娶らず
そなたの末々のことを思へば 心憂きばかり
なれど近々いくばくかの金子を弾正様より得べきことあり
これにて 二人して商ひせばよからましと思ひ候
そなたも嫁取るべし
嫁をもらっていない弟を案じた後、近々弾正様からいくばくかの金が得られるとある。商いを始められる上に嫁取りのできる金子だからかなりの額であろう。
普通に考えればありえない話である。おかつは御分家から放逐されるように辞めさせられているのだから。辞めて一年近くたつ奉公人に手当など聞いたことがない。
だが、ありえないことをおかつは文に書いている。つまりありえない手段で弾正から金を得るということではないか。たとえば、強請り集りの類である。
御分家に勤めていた時に知ったことをネタにおかつは弾正を脅していたのではないか。
どこの大名家、旗本でも外部に知られてはまずい話の一つや二つはある。実家の加部家の数代前の不出来な当主の顛末のように。殿中での御目見え挨拶で座る位置を間違え、家臣がその責めを負って自害しただけではなかった。家臣を偏愛し、それを諫めた重臣を手打ちにしたのである。これが御公儀に知れたら御家は断絶してしまうのではないかと案じた家老たちの決断によって表向きには病ということで隠居が強制され、元服したばかりの嫡男が家督を相続した。一年を経ずして隠居は急死。原因は不明である。そういった話は大抵は奉公する者達の忠義で外部には漏れない。無論、この山置家にも外には出せぬ話がある。
当然、御分家にもそういう話があってもおかしくない。おかつは奉公中に知ったそれをネタに弾正を脅していたのではないか。
では、一体何をネタにしたのか。弾正の女性関係か。そういう気配はまったく義父にはないのだが。歌を詠み、源氏を講じていながら、文のやりとりをする女人が現在いるようには見えない。それでは過去のことだろうか。
もしやおかつと弾正に男女の関係があったのではないか。だが、おかつの詠む歌は弾正の好みには合わないだろう。弾正は雅な花鳥風月の世界を愛している。つらい仕事に傷付いた手をとる人もいない境遇を嘆くおかつの歌の世界とは正反対である。それに壱子や妹達の容貌を見れば母親もまた相当の美女だと思われる。おかつの顔は知らないが、誰も美しいとか見目がよいとは言っていないから、よくて十人並だろう。果たして弾正が美女でもない、共通する美的感覚も持たないおかつに手を出すものだろうか。源三郎自身に置き換えてもありえないように思う。
女でなければ金か。御法度に触れる方法で金儲けをしたのか。もしそうだったらもう少し食事がましになるのではないか。大体、私腹を肥やすといっても香田角城下ではたかが知れている。江戸や大坂なら大商人と結託して甘い汁を吸えるかもしれないが、香田角の商人に吸い取れるほどの富があるとは思えない。
源三郎自身、婿入り以来の分家での生活を思えば、外に隠さねばならぬような秘密の存在を感じ取れなかった。
何より、弾正が人、それも女性を殺すように命じるとは思えない。
弾正は婿の源三郎に対して厳しいが、それは分家の婿としてふさわしくあれと思ってのことである。それくらい源三郎にもわかっている。要求するだけあって、弾正は己にも厳しい。当主としての仕事、評定所後見の役目、源氏物語や歌の講義の傍ら、毎日歌を十首作っていると壱子から聞いたことがある。
そういう人物が己を脅し金を奪おうとする者を殺すであろうか。御家中の法度に則り、脅した者を捕え処罰することを選ぶのではないか。
よって弾正はありえない。
が、倉島平兵衛の話では岳父の町奉行が弾正を訪ねたが取り付く島もなかったという。町奉行は弾正を疑ったわけではなく、文助をはじめとする奉公人らから話を聞きたかっただけである。
確かに町奉行には武家やその奉公人を調べる権限はない。それは目付の仕事である。
だが、殺されたのは元奉公人である。町奉行と力を合わせれば迅速におかつを殺めた者が判明するのではないか。それなのにまともに相手にしなかった弾正は、町奉行が御分家を調べるのは御家中の秩序を乱す行為と考えたのではないか。要するに頭が硬いのである。父を崇拝する壱子には申し訳ないが、それが弾正の短所である。彼の頭の堅さゆえの町奉行への対応だった。弾正自身に後ろ暗いところはないのではないか。
文助についてはまったくありえないこととは断言できない。勤めていた時におかつと諍いがあった恐れは十分ある。柳町の茶屋で再会した時に、おかつの余計な一言が殺意につながったとも考えられる。
大黒屋のおたつも、夫を寝取られた恨みからおかつを殺めてもおかしくない。ただし、坂瀬川の川原に死骸を運ぶのは女一人では無理だろう。手助けをした者がいると考えねばなるまい。
町奉行所もこの二人には当然目を付けているはずである。だが、千蔵が言うように手出ししにくい二人でもある。やはりこれは源三郎自身が調べるしかないかもしれぬ。
文の最後には長月十五日とあった。となると大久間に届くのは十六日か十七日である。
九月十六日というと、沢井清兵衛の祝言の日だったなと源三郎は思い出した。つまりそれ以前におかつは弾正になんらかの脅しをかけていたのかもしれない。
弾正は役目で城に行く以外、ほとんど外出しない。たまに寺社に行くが、用事が済めばすぐ帰宅する。他の武家に用事がある場合、身分柄相手が御分家を訪ねて来る。夜ともなれば必ず屋敷にいる。源三郎の知る限り、柳町の方向に足を向けたことなど一度もない。
つまり柳町の茶屋勤めのおかつ本人と直接会うことはないのだ。恐らく辞めたおかつから文が届いても開封することなく受け取りを拒むだろう。誰かが仲介しなければ彼女が弾正を強請ることはできない。
が、仲介できる者が一人いた。茶屋に出入りしていた文助である。おかつは文助を通じて弾正を脅したのではないか。例えば文を文助に託したとか。
「この後に文はなかったのか」
「ありません。これが最後の文です。お恥ずかしい話ですが、姉は御分家様を脅していたのではないでしょうか。それで金を」
千蔵は俯いた。やはり彼も源三郎と同じ考えのようだった。
「そうだろうな。この文は誰かに見せたのか」
「いいえ。弾正様の御名があるのでなんだか空恐ろしくて行李の底に隠しておりました」
千蔵が恐れるのもわかる。一介の中間にとって殿様の親戚の名を書いた文など粗略に扱えない。
「おかつは金に困っていたのか」
「……わかりません。この夏にも手前にいろいろ品を送ってきました。その中にはカステイラもありました。金のことを書いたのはこの文が初めてで。ですからそれまでは金には困っていなかったかと」
「今まで文で当家のことについて何か書いていなかったか」
「いいえ。勤め始めた頃に高貴な方々なので御分家のことについては書けないとありましたので、一度も。おそれながら、玄蕃様が江戸からおいでになることも御奉行様から伺うまで存じませんでした」
まともな奉公人なら主家の秘密を守るのは当然のことである。弟への文に何も書かなかったおかつはその点ではまともな奉公人だったのだ。一見まともな奉公人だったおかつは主家の秘密に触れる機会があったのかもしれない。
だが、主家を辞めさせられたおかつに遠慮はない。奉公中に知った何か重大な分家の秘密をネタに弾正を脅したのではあるまいか。
だが、源三郎にはそれが原因で弾正がおかつを殺すとは思えないのだ。
「うーん、どうしたものか。千蔵、俺は婿入りしてまだ日が浅いが、舅が人を殺めるとは思えないんだ。他人だけでなくご自分にも厳しい方なのだ。それに強請られるような話なぞ聞いたことがない。あとの二人はわからないが」
「申し訳ございません」
千蔵は頭を深く下げた。
「謝ることはない。身内を亡くしてつらい思いをしている時に、いろいろ話を聞かれた上につらい昔の話をしなくちゃならなかったんだから。こういう時はしばらく仕事を休まなきゃならないのにな。こちらこそ申し訳ない」
「滅相もないことでございます」
千蔵はますます恐縮して顔を上げようとしなかった。
「顔を上げろ。文助とおたつのことは城下に戻ったらすぐに調べてみよう。舅のほうもそれとなく探ってみる。叡倫については寺社奉行に相談してみよう。おぬしらの名は出さぬ」
「ありがとうございます」
顔を上げた千蔵の目に光る涙に源三郎は息を呑んだ。俺はこの男の期待に応えねばならぬのだ。源三郎は己に突きつけられた使命を深く心に刻み込んだ。
千蔵との面会を終えた源三郎の元へ、壱子の熱が下がったとお里久が知らせにに来た。
源三郎は立ち上がり小座敷に向かった。
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