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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に
21 千蔵の告発
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熊田は振り返るや叫んだ。
「そちは何を申しておるのだ。御分家の婿様にさようなことを願うとは。不埒者が!」
千蔵は上げていた顔を伏せた。
郡奉行が怒るのは当然である。中間が御分家の婿君にそのようなことを願うなど、不埒の振舞だった。御分家の婿君がする仕事ではないのだから。何より中間の身分で殿様の一族に願い事など、言語道断の振舞だった。
熊田はすぐに上座に向きを変えた。
「申し訳ございません。中間の分際でかようなことを申すとは。それがしの不徳のいたすところでございます」
熊田は深々と腰を折り、床につかんばかりに顔を伏せた。
だが、千蔵に言わせてしまったのは源三郎自身の言葉である。
「奉行殿、千蔵、顔を上げよ。そなたらに非はない。できることがあればなんなりと申せと言ったのは私だ。千蔵はそれでさようなことを言ったのだ。叱ってはならぬ」
顔を上げた熊田は何か言いたげな顔だったが、源三郎にそう言われては何も言えなかった。
「千蔵、城下の町奉行所の者達の仕事ぶりに不満があるのか」
千蔵はその言葉でやっと顔を上げた。視線の先が源三郎の胸のあたりなのは己の身分を憚ってのことであろう。
「滅相もないことでございます。町奉行所の皆様が姉を殺した者を一生懸命探してくださっているのは見ればわかります。町方の者の仕業であればじきに見つかることでしょう。なれど、もしそうでなかったら、町奉行所では捕まえることはできません。その時は、どうか、お願いします。姉の無念を晴らしたいのです」
中間は武士ではない。ゆえに敵討ちは許されない。千蔵が姉の無念を晴らすには町奉行所の役人や評定所を頼るしかないのだ。だが、町方の者の仕業でない場合と言うからには、何か心当たりがあるのではないのか。
「町方の者以外に、姉を殺めた者がいるかもしれないと思っているのか」
熊田は源三郎の問いに目を丸くした。町方以外というのは武家や僧侶神職である。熊田の常識では町人の女を手に掛けるなどありえなかった。
千蔵はゆっくりとうなずいた。
「はい。町奉行所の皆様、それに大久間から一緒に城下に参った山迫様は優れた方々です。その方々があれだけ調べていて見つからぬのなら、町方の者とは限らぬと思うのです。姉は御分家様でお世話になっておりました。御分家様の恩を忘れてはおりませんが、その関わりでということもありえると手前は思っております」
千蔵の真摯な話しぶりに源三郎は感心した。
「したが、私は評定所後見の娘婿で、無役だ。何の力もないのだ。そちの望むようなことはできぬかもしれぬ」
「無役ということは、しがらみがないということではありませんか」
源三郎は千蔵の鋭さに驚くしかなかった。確かに源三郎にはしがらみらしいしがらみはない。あるとすれば義父の弾正や分家の家臣・奉公人、江戸からついてきた井上、千崎、山川の三人と亥吉くらいである。これだけでもかなりの人数になるが、もし何かの役に就いていたら関わりのある者はこの数倍になるのは想像がつく。
「おそれながら、町奉行様、与力・同心の皆様、御用聞きは皆それぞれにしがらみがございます。そのつもりはなくとも、御調べに手加減が入るのではないかと。玄蕃様は江戸からおいでになったとか。それならば、この地にもこの地の者にもしがらみはないはず」
「千蔵、いい加減にせぬか」
熊田のうなるような低い声に源三郎は気おされそうになった。
千蔵は俯いた。
「お茶をお持ちいたしました」
お里久の声だった。源三郎はほっとした。この雰囲気を破るには茶とカステイラの力が必要だ。
「入れ」
お里久は部屋に入ると茶と漆の皿に載せたカステイラを源三郎、熊田の前に置き、最後に千蔵の前に置いた。千蔵は遠慮がちにありがとうございますと言った。御礼を言われるなんてとお里久は内心驚いたものの、澄ました顔で部屋を後にした。
「殿からのカステイラをいただくことにしよう。奉行殿、せっかくのカステイラ。とりあえず話はおいて味あわねば」
何か言いたげな顔の熊田はかしこまりましたとだけ言って茶を口にした。
源三郎も茶を一口飲んだ後、食べやすい大きさに切られたカステイラを口にした。厨でカステイラは毒見をされているはずなので、口に入れても問題はない。
前に食べた時よりも乾いている感じがするのは、作られて少し時がたっているからだろう。それでも甘さに変わりはない。
熊田も口に入れた途端にそれまでの怒りを忘れたかのように口元を緩めていた。
千蔵は源三郎と熊田がカステイラを口にしたのを見てから、カステイラを口に運んだ。あまり表情が変わらない。こんな時だから美味いとか感じる気分ではなかろうと源三郎は思う。
「まことに城の厨のカステイラの味だ」
源三郎はそう言うと、熊田に尋ねた。
「奉行殿、島原屋のカステイラは城下から運ばれてきたその日に売るのか」
「いえ。こちらに届くのは夜になりますので、翌朝に。島原屋の前には夜明け前から人が並びます。といっても、十本もありません。買えぬ者が大勢います」
「では、その者らはさぞや不服なことだろうな」
「それがそうでもないようで。島原屋は並んでも買えなかった者に早朝から来てくれてありがたいと握り飯を渡すそうで。ですから並んでいる者はカステイラよりも握り飯目当てかと」
「握り飯だけが目当てなのか」
すると熊田が意味深な笑みを浮かべた。
「握り飯を手渡すのが島原屋の若い女中なのです。おそでとおゆうという大久間でも五本の指に入る美人で」
島原屋はなかなかの商売上手のようである。カステイラを買えなかった不満を握り飯と美人の女中の笑顔で解消させるのだから。男の客の中には島原屋に行こうと思う者もいるに違いない。
こんな話をしている間も千蔵は黙ってカステイラを口に入れていた。まるで彼一人だけが別の場所にいるかのようだった。
そういえば自分にも似たようなことがあったような気がすると源三郎は思う。御馳走を食べていても、少しも味がしなかったことが。たとえば兄に男子が生まれた時。周囲の者達は御家もこれで安泰と言っていたが、源三郎は彼が生まれた瞬間に厄介者の叔父になることが決まったのだ。
身内を失った千蔵の気持ちを思えばそんな喩えでも不足なのだが。
熊田がいち早く食べ終わったのを見計らい、源三郎は言った。
「ちと、千蔵と話をしたいのでしばらく貸してくれ。お忙しい奉行殿に手間をとらせるわけにはいかない」
「おそれながら、千蔵の先ほどの言葉を真に受けられるのはいかがかと」
熊田の立場ではそう言うのが筋だろう。
「それはそれ、他にも聞いておきたいことがあるゆえ」
「かしこまりました」
熊田は不承不承という顔で部屋を出た。その際、廊下に控える千蔵に御無礼のないようにと言うのは忘れなかった。千蔵ははいと頭を深く下げた。
熊田の足音が遠ざかり聞こえなくなると、源三郎はほっと息をついた。
「千蔵、顔を上げていいぞ。茶も飲め。冷めてしまう。お代わりも遠慮するな」
千蔵は恐る恐る顔を上げた。
「奉行殿は真面目な方ゆえ、そちが不埒なことを言って私を怒らせて斬られてはと案じておるのだ。主というのはそういうもの。さて、千蔵、まずはカステイラの残りを食べてしまおう。話はそれからだ」
源三郎の口振りは熊田がいる時と違い、少しばかり軽くなっていた。それでも千蔵は黙々とカステイラを食っていた。
やがて食べ終え茶を飲み終わった千蔵に、源三郎は尋ねた。
「味はいかがだ」
「まことに勿体ないことにございます。殿様の御心を感じ、まことにありがたいことにございます」
千蔵はまず謝意を述べた。
「そうだな。殿様はそちの気持ちを思いやってくださったのだな。有難いことだ。その上、こちらにも分けてくださるとは」
その時、源三郎は隆礼のほくそえみを見た気がした。もしや、ここに持って行くように千蔵に指図したのは、彼の企みではないかと。とすると、姉を殺した者を見つけて罰してくださいという千蔵の願いも実は隆礼に唆されたのではないかと思えてくる。貞蓮院お千失踪の一件でも、隆礼は守倉衆と結託して源三郎を利用しているのだから。
とはいえカステイラ一本で使われるのも癪な話である。千蔵に探りを入れてみた。
「殿様はどんな話をされたのだ」
「この身に余るお言葉を頂きました」
おそれおおくて言葉をはっきりと口にできぬということらしい。千蔵から隆礼の発言を知るのはたやすくはなさそうである。
「お言葉、ゆめゆめ忘れぬようにな。実は、昨日、川湯村の本覚寺に縁の者の病気平癒祈祷に参って、住職からそちら姉弟のことを聞いた。両親亡き後、いろいろと苦労したようだな。奥もおかつの歌に感じ入っていた。古の東歌を踏まえた歌で」
源三郎は千蔵の慰めになるかと姉の歌のことを語ろうとした。が、みるみるうちに千蔵の顔色が変わった。先ほどまで白かった顔に赤みがさしていた。どうもおかしいと思って見ていると膝の上に載せた手が震えていた。
「いかがした、千蔵」
「……住職とは、叡倫のことでしょうか」
そんな名前だったような気がする。源三郎ははっきり覚えていなかった。それにしても世話になったはずの住職を呼び捨てにするとは意外だった。
「そのような名であったと思う。寺では一番の年長のようだった。おかつの歌をよく添削したと言っていた」
「叡倫は……あれは破戒僧です」
思いも寄らぬ千蔵の告発だった。
破戒僧。江戸ではこっそりと大黒と呼ばれる妻を囲っている僧侶がいた。また坊主頭であることから医者と偽り遊里に出入りする僧侶もいた。真宗以外の僧の妻帯は女犯の罪として許されなかったにも関わらす、不心得な僧侶はいたのである。
田舎では人目があるから、たやすくそういうことはできないはずである。ましてや、香田角では貞蓮院が寺の不祥事で処罰されたのはつい昨年のことである。それなのに破戒僧とは。
「何をしたのだ。酒か女か」
「それは……」
千蔵は口ごもっていたが、意を決したかのように伏せ気味だった目を見開いた。
「これから話すこと、どなたにも言わずにおいてくださいますか」
「事と次第による。しがらみは人より少ないとはいえ、私は分家の婿だ。舅には逆らえないし、当然だが殿様にもだ。目付や町奉行や寺社奉行も知っているから、問われたら嘘は言えない」
源三郎は正直に言った。できぬことはできぬのだ。
「つまり、その方たち以外には言わずにおいてくださるのですね」
「そうだな」
「では、申し上げます」
源三郎は身構えた。あの穏やかそうな住職にはいかなる裏の顔があるのか。
「叡倫は、姉を犯し、手前を犯しました」
何を言っているのか、源三郎はすぐにはわからなかった。千蔵の表情は顔が赤い以外は至って平静だったのだ。が、意味がわかった時、背筋を冷たい汗が流れた。
「さようなことを……あの住職が」
「はい。姉は両親の弔いの後、お世話になった御礼を持って行った時に。その後も法事やことあるごとに。姉はそれが嫌で伯父が勧めた旅籠奉公に出たのだとずいぶん後になって教えてくれました。あいつは奉公に出た姉に文をしきりに送ってきたそうです。村に残った手前に害が及ぶのではないかと案じて、姉は仕方なく返事を出していたと。なれど、手前は法事で寺に参った折に。姉と同じようにかわいがってやると言われて。尊敬していた叡倫にまさかあのような目に遭わされるとは。伯父や従兄弟との折り合いが悪かったこともありますが、寺に行くたびに辱めを受けるのに耐えきれず、村を出ました」
おかつを犯したことだけでも重罪だった。もしこれを寺社奉行に訴え事実と認められたら、叡倫は本覚寺の住職を解かれ、領外に追放になるのは確実だった。
また、住職は賢い千蔵を寺に預けてもらいたいと申し入れしようとした矢先に姉弟の両親が死んだと言っていた。もし両親が死なずに寺に入ることが認められたらと思うとぞっとする。寺の稚児が僧侶たちの慰み物になるというのは、源三郎も聞いたことがある。住職はまだ七つの千蔵をいずれ毒牙にかけようと思っていたのではないか。
「このこと、町奉行所の者には話していないのだな」
「はい。とても話せません。手前はともかく姉が死んでからも辱められるようで。叡倫が姉の話を平気な顔でしたかと思うと、はらわたが煮えくりかえるようで」
怒りのためか、千蔵の声は昂ぶっていた。
「そちらはまこと、ひどい目に遭わされたのだな。叡倫を罰して欲しいか」
「そうできたらどんなにいいか。なれど、それには姉のことを打ち明けねばなりません。手前も思い出したくないことで」
両親を失って伯父一家の厄介になっている姉弟の弱みにつけ込んだ、そのことだけでも人として許されないことである。しかも、あたかも美しい思い出であるかのように、二人のことを語っていたとは。恐らく叡倫には罪の意識が薄いのではなかろうか。
「つらいことだな」
「だから、せめて姉を殺めた者を早く見つけてもらいたいのです。いつまでも見つからずに叡倫にまで御調べの手が入って姉のことを知られたら、姉があまりに哀れで」
千蔵は俯いた。膝の上に置いた手の上に涙がこぼれた。
「そちは何を申しておるのだ。御分家の婿様にさようなことを願うとは。不埒者が!」
千蔵は上げていた顔を伏せた。
郡奉行が怒るのは当然である。中間が御分家の婿君にそのようなことを願うなど、不埒の振舞だった。御分家の婿君がする仕事ではないのだから。何より中間の身分で殿様の一族に願い事など、言語道断の振舞だった。
熊田はすぐに上座に向きを変えた。
「申し訳ございません。中間の分際でかようなことを申すとは。それがしの不徳のいたすところでございます」
熊田は深々と腰を折り、床につかんばかりに顔を伏せた。
だが、千蔵に言わせてしまったのは源三郎自身の言葉である。
「奉行殿、千蔵、顔を上げよ。そなたらに非はない。できることがあればなんなりと申せと言ったのは私だ。千蔵はそれでさようなことを言ったのだ。叱ってはならぬ」
顔を上げた熊田は何か言いたげな顔だったが、源三郎にそう言われては何も言えなかった。
「千蔵、城下の町奉行所の者達の仕事ぶりに不満があるのか」
千蔵はその言葉でやっと顔を上げた。視線の先が源三郎の胸のあたりなのは己の身分を憚ってのことであろう。
「滅相もないことでございます。町奉行所の皆様が姉を殺した者を一生懸命探してくださっているのは見ればわかります。町方の者の仕業であればじきに見つかることでしょう。なれど、もしそうでなかったら、町奉行所では捕まえることはできません。その時は、どうか、お願いします。姉の無念を晴らしたいのです」
中間は武士ではない。ゆえに敵討ちは許されない。千蔵が姉の無念を晴らすには町奉行所の役人や評定所を頼るしかないのだ。だが、町方の者の仕業でない場合と言うからには、何か心当たりがあるのではないのか。
「町方の者以外に、姉を殺めた者がいるかもしれないと思っているのか」
熊田は源三郎の問いに目を丸くした。町方以外というのは武家や僧侶神職である。熊田の常識では町人の女を手に掛けるなどありえなかった。
千蔵はゆっくりとうなずいた。
「はい。町奉行所の皆様、それに大久間から一緒に城下に参った山迫様は優れた方々です。その方々があれだけ調べていて見つからぬのなら、町方の者とは限らぬと思うのです。姉は御分家様でお世話になっておりました。御分家様の恩を忘れてはおりませんが、その関わりでということもありえると手前は思っております」
千蔵の真摯な話しぶりに源三郎は感心した。
「したが、私は評定所後見の娘婿で、無役だ。何の力もないのだ。そちの望むようなことはできぬかもしれぬ」
「無役ということは、しがらみがないということではありませんか」
源三郎は千蔵の鋭さに驚くしかなかった。確かに源三郎にはしがらみらしいしがらみはない。あるとすれば義父の弾正や分家の家臣・奉公人、江戸からついてきた井上、千崎、山川の三人と亥吉くらいである。これだけでもかなりの人数になるが、もし何かの役に就いていたら関わりのある者はこの数倍になるのは想像がつく。
「おそれながら、町奉行様、与力・同心の皆様、御用聞きは皆それぞれにしがらみがございます。そのつもりはなくとも、御調べに手加減が入るのではないかと。玄蕃様は江戸からおいでになったとか。それならば、この地にもこの地の者にもしがらみはないはず」
「千蔵、いい加減にせぬか」
熊田のうなるような低い声に源三郎は気おされそうになった。
千蔵は俯いた。
「お茶をお持ちいたしました」
お里久の声だった。源三郎はほっとした。この雰囲気を破るには茶とカステイラの力が必要だ。
「入れ」
お里久は部屋に入ると茶と漆の皿に載せたカステイラを源三郎、熊田の前に置き、最後に千蔵の前に置いた。千蔵は遠慮がちにありがとうございますと言った。御礼を言われるなんてとお里久は内心驚いたものの、澄ました顔で部屋を後にした。
「殿からのカステイラをいただくことにしよう。奉行殿、せっかくのカステイラ。とりあえず話はおいて味あわねば」
何か言いたげな顔の熊田はかしこまりましたとだけ言って茶を口にした。
源三郎も茶を一口飲んだ後、食べやすい大きさに切られたカステイラを口にした。厨でカステイラは毒見をされているはずなので、口に入れても問題はない。
前に食べた時よりも乾いている感じがするのは、作られて少し時がたっているからだろう。それでも甘さに変わりはない。
熊田も口に入れた途端にそれまでの怒りを忘れたかのように口元を緩めていた。
千蔵は源三郎と熊田がカステイラを口にしたのを見てから、カステイラを口に運んだ。あまり表情が変わらない。こんな時だから美味いとか感じる気分ではなかろうと源三郎は思う。
「まことに城の厨のカステイラの味だ」
源三郎はそう言うと、熊田に尋ねた。
「奉行殿、島原屋のカステイラは城下から運ばれてきたその日に売るのか」
「いえ。こちらに届くのは夜になりますので、翌朝に。島原屋の前には夜明け前から人が並びます。といっても、十本もありません。買えぬ者が大勢います」
「では、その者らはさぞや不服なことだろうな」
「それがそうでもないようで。島原屋は並んでも買えなかった者に早朝から来てくれてありがたいと握り飯を渡すそうで。ですから並んでいる者はカステイラよりも握り飯目当てかと」
「握り飯だけが目当てなのか」
すると熊田が意味深な笑みを浮かべた。
「握り飯を手渡すのが島原屋の若い女中なのです。おそでとおゆうという大久間でも五本の指に入る美人で」
島原屋はなかなかの商売上手のようである。カステイラを買えなかった不満を握り飯と美人の女中の笑顔で解消させるのだから。男の客の中には島原屋に行こうと思う者もいるに違いない。
こんな話をしている間も千蔵は黙ってカステイラを口に入れていた。まるで彼一人だけが別の場所にいるかのようだった。
そういえば自分にも似たようなことがあったような気がすると源三郎は思う。御馳走を食べていても、少しも味がしなかったことが。たとえば兄に男子が生まれた時。周囲の者達は御家もこれで安泰と言っていたが、源三郎は彼が生まれた瞬間に厄介者の叔父になることが決まったのだ。
身内を失った千蔵の気持ちを思えばそんな喩えでも不足なのだが。
熊田がいち早く食べ終わったのを見計らい、源三郎は言った。
「ちと、千蔵と話をしたいのでしばらく貸してくれ。お忙しい奉行殿に手間をとらせるわけにはいかない」
「おそれながら、千蔵の先ほどの言葉を真に受けられるのはいかがかと」
熊田の立場ではそう言うのが筋だろう。
「それはそれ、他にも聞いておきたいことがあるゆえ」
「かしこまりました」
熊田は不承不承という顔で部屋を出た。その際、廊下に控える千蔵に御無礼のないようにと言うのは忘れなかった。千蔵ははいと頭を深く下げた。
熊田の足音が遠ざかり聞こえなくなると、源三郎はほっと息をついた。
「千蔵、顔を上げていいぞ。茶も飲め。冷めてしまう。お代わりも遠慮するな」
千蔵は恐る恐る顔を上げた。
「奉行殿は真面目な方ゆえ、そちが不埒なことを言って私を怒らせて斬られてはと案じておるのだ。主というのはそういうもの。さて、千蔵、まずはカステイラの残りを食べてしまおう。話はそれからだ」
源三郎の口振りは熊田がいる時と違い、少しばかり軽くなっていた。それでも千蔵は黙々とカステイラを食っていた。
やがて食べ終え茶を飲み終わった千蔵に、源三郎は尋ねた。
「味はいかがだ」
「まことに勿体ないことにございます。殿様の御心を感じ、まことにありがたいことにございます」
千蔵はまず謝意を述べた。
「そうだな。殿様はそちの気持ちを思いやってくださったのだな。有難いことだ。その上、こちらにも分けてくださるとは」
その時、源三郎は隆礼のほくそえみを見た気がした。もしや、ここに持って行くように千蔵に指図したのは、彼の企みではないかと。とすると、姉を殺した者を見つけて罰してくださいという千蔵の願いも実は隆礼に唆されたのではないかと思えてくる。貞蓮院お千失踪の一件でも、隆礼は守倉衆と結託して源三郎を利用しているのだから。
とはいえカステイラ一本で使われるのも癪な話である。千蔵に探りを入れてみた。
「殿様はどんな話をされたのだ」
「この身に余るお言葉を頂きました」
おそれおおくて言葉をはっきりと口にできぬということらしい。千蔵から隆礼の発言を知るのはたやすくはなさそうである。
「お言葉、ゆめゆめ忘れぬようにな。実は、昨日、川湯村の本覚寺に縁の者の病気平癒祈祷に参って、住職からそちら姉弟のことを聞いた。両親亡き後、いろいろと苦労したようだな。奥もおかつの歌に感じ入っていた。古の東歌を踏まえた歌で」
源三郎は千蔵の慰めになるかと姉の歌のことを語ろうとした。が、みるみるうちに千蔵の顔色が変わった。先ほどまで白かった顔に赤みがさしていた。どうもおかしいと思って見ていると膝の上に載せた手が震えていた。
「いかがした、千蔵」
「……住職とは、叡倫のことでしょうか」
そんな名前だったような気がする。源三郎ははっきり覚えていなかった。それにしても世話になったはずの住職を呼び捨てにするとは意外だった。
「そのような名であったと思う。寺では一番の年長のようだった。おかつの歌をよく添削したと言っていた」
「叡倫は……あれは破戒僧です」
思いも寄らぬ千蔵の告発だった。
破戒僧。江戸ではこっそりと大黒と呼ばれる妻を囲っている僧侶がいた。また坊主頭であることから医者と偽り遊里に出入りする僧侶もいた。真宗以外の僧の妻帯は女犯の罪として許されなかったにも関わらす、不心得な僧侶はいたのである。
田舎では人目があるから、たやすくそういうことはできないはずである。ましてや、香田角では貞蓮院が寺の不祥事で処罰されたのはつい昨年のことである。それなのに破戒僧とは。
「何をしたのだ。酒か女か」
「それは……」
千蔵は口ごもっていたが、意を決したかのように伏せ気味だった目を見開いた。
「これから話すこと、どなたにも言わずにおいてくださいますか」
「事と次第による。しがらみは人より少ないとはいえ、私は分家の婿だ。舅には逆らえないし、当然だが殿様にもだ。目付や町奉行や寺社奉行も知っているから、問われたら嘘は言えない」
源三郎は正直に言った。できぬことはできぬのだ。
「つまり、その方たち以外には言わずにおいてくださるのですね」
「そうだな」
「では、申し上げます」
源三郎は身構えた。あの穏やかそうな住職にはいかなる裏の顔があるのか。
「叡倫は、姉を犯し、手前を犯しました」
何を言っているのか、源三郎はすぐにはわからなかった。千蔵の表情は顔が赤い以外は至って平静だったのだ。が、意味がわかった時、背筋を冷たい汗が流れた。
「さようなことを……あの住職が」
「はい。姉は両親の弔いの後、お世話になった御礼を持って行った時に。その後も法事やことあるごとに。姉はそれが嫌で伯父が勧めた旅籠奉公に出たのだとずいぶん後になって教えてくれました。あいつは奉公に出た姉に文をしきりに送ってきたそうです。村に残った手前に害が及ぶのではないかと案じて、姉は仕方なく返事を出していたと。なれど、手前は法事で寺に参った折に。姉と同じようにかわいがってやると言われて。尊敬していた叡倫にまさかあのような目に遭わされるとは。伯父や従兄弟との折り合いが悪かったこともありますが、寺に行くたびに辱めを受けるのに耐えきれず、村を出ました」
おかつを犯したことだけでも重罪だった。もしこれを寺社奉行に訴え事実と認められたら、叡倫は本覚寺の住職を解かれ、領外に追放になるのは確実だった。
また、住職は賢い千蔵を寺に預けてもらいたいと申し入れしようとした矢先に姉弟の両親が死んだと言っていた。もし両親が死なずに寺に入ることが認められたらと思うとぞっとする。寺の稚児が僧侶たちの慰み物になるというのは、源三郎も聞いたことがある。住職はまだ七つの千蔵をいずれ毒牙にかけようと思っていたのではないか。
「このこと、町奉行所の者には話していないのだな」
「はい。とても話せません。手前はともかく姉が死んでからも辱められるようで。叡倫が姉の話を平気な顔でしたかと思うと、はらわたが煮えくりかえるようで」
怒りのためか、千蔵の声は昂ぶっていた。
「そちらはまこと、ひどい目に遭わされたのだな。叡倫を罰して欲しいか」
「そうできたらどんなにいいか。なれど、それには姉のことを打ち明けねばなりません。手前も思い出したくないことで」
両親を失って伯父一家の厄介になっている姉弟の弱みにつけ込んだ、そのことだけでも人として許されないことである。しかも、あたかも美しい思い出であるかのように、二人のことを語っていたとは。恐らく叡倫には罪の意識が薄いのではなかろうか。
「つらいことだな」
「だから、せめて姉を殺めた者を早く見つけてもらいたいのです。いつまでも見つからずに叡倫にまで御調べの手が入って姉のことを知られたら、姉があまりに哀れで」
千蔵は俯いた。膝の上に置いた手の上に涙がこぼれた。
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