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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に
14 火元の罪
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「源三郎様……帰ってはなりませんか」
弾正からの文には帰って来いとは書いていなかった。ただ火事があり、火元が乳母のたかの部屋であったことしか書かれていない。
けれど、壱子にとっては帰って来いと読める文であった。
源三郎もこれは帰ったほうがいいのではないかと思った。が、殿に一筆もなく勝手に戻ることはできない。大久間に来たのは殿からの命令である。戻るのも殿の指示に従わねばならなかった。
念のため、他の書状を確認しておくことにした。火事についての記述を確認しておく必要があった。
最初に岡部惣左衛門からの書状の封を切った。岡部惣左衛門は殿の御傍近くに仕える用人である。つまり彼の書状には殿のことが書かれている可能性が高かった。
簡単な挨拶の後、用件だけが簡潔に述べられていた。
此度の火事にて 御分家他些かも不受火の災
不可帰と 飛騨守様仰せらる
要するに被害はなかったので帰らなくともよいと殿が仰せであったということである。
殿がじかに文を送ればいろいろと手続きがややこしくなるので、用人の岡部が殿の意思を代弁して文を書いたのである。
源三郎はこの文も壱子に見せた。
壱子とて御分家の姫である。用人が殿様の意思を代弁して文に書いているということはすぐに理解した。が、気持ちの上で納得できるかというと別問題である。
「帰ってはならないのですね」
壱子の気持ちは源三郎にもわかる。理屈ではわかっていても、気持ちがおさまらない。そんなことは幼い頃から幾度となくあった。抵抗しても周囲に抑えられ理屈に従うしかないと諦めている。最後の抵抗となった壱子との結婚も結局は従わざるを得なかった。幸いにも壱子との生活は思った以上に充実していたから、これは従ってよかったのかもしれないが。
この場合はどうすればいいのか。
殿様の許しを得ずに帰ったら当然勘気を被る。そうならないようにこっそり帰ったとしても、香田角の人々の目を盗むのは難しい。背の高い源三郎は目立つ。殿様に露見するのは時間の問題である。そうなれば一層怒りをかうことだろう。
では殿様に許しを請うたら。壱子が父と乳母の身を案じているからと言えばどうだろうか。
恐らく用人の岡部惣左衛門の文の意図もわからぬのかと殿は思うにちがいない。許可が出るとは思われぬ。
それに、最大の問題がある。
おかつの一件である。町奉行の取り調べに一切協力しない舅の弾正は、殿の許可の有無に関わらず、壱子と源三郎が帰って来たら、今後一切町奉行や奉行所の者におかつのことを話してはならぬと言うであろう。ことによると源三郎はしばらく外に出られぬかもしれぬ。
すでに町奉行の婿の倉島平兵衛に、おかつの奉公を辞めた理由やら何やらを話しているのである。それを知れば弾正の機嫌はますます悪くなるだろう。またお里久、和助、おあんも平兵衛の調べを受けている。彼らに対する弾正の怒りを思うと、今すぐ城下に戻るのは憚られた。
町奉行所の者達が取り調べたことをまとめ、おかつを殺めた者を特定できた後であれば、弾正の怒りは収まっているかもしれない。万が一、御分家の奉公人の誰かが殺害に関係していなければの話だが。
「お壱、殿の御考えなのだ。こらえてくれ」
「仕方ないことです。乳母は罪人になったのですから」
「罪人……」
「罪人を見舞うなど許されぬこと」
源三郎は思いもしない言葉に驚き、壱子を見つめた。
「火を出した者は罪人になるのです」
源三郎は思い出した。
江戸にいる頃、香田角ではかつて大火が起き大勢の人々が亡くなっていたという話を聞いた。
大火の元になったのが寺の美僧を慕う同僚であったということで、香田角では男色は御法度だった。また江戸同様に火付の罪は重いということだった。隆礼だけでなく父や兄も語っていた。
「いかなる罰が課せられるのだ」
「めったに火事は起きませんけれど、私が子どもの頃に野焼きの火が燃え移り家が二軒焼けた火事がありました。死んだ者はおりません。その時は野焼きをした村人が死罪と決められましたが、先代の殿様浄文院様の御慈悲により家財没収の上、所払いとなり家族一同、領外に追放されました。また近所の家四軒は所払いになった家の田畑を売った金を元に焼けた家二軒を再建、村役人は責めを負って職を辞めたと聞いています」
死人の出なかった火事、しかも付け火ではなく失火で死罪、罪一等減じて財産没収で追放というのは厳しい。家を焼かれた側にしてみれば、それでも気は済むまい。田畑を売った金だけで家を二軒新たに建てるというのも難しかろう。連帯責任をとった四軒の家もまた金と労力を出すことになったということか。ちなみに江戸では失火は死罪にはならない。町人や寺社は火災の範囲や事情によって押込や手鎖となり、武家は屋敷内で食い止めれば罪には問われない。所払いにもならないのだ。
「では、乳母殿は死罪か」
「それはわかりません。燃えたのが乳母の住まいだけであれば、死罪とはならぬかもしれません」
家中の御法度がいかなることになっているのか調べねばと思った時、婚礼の朝の隆礼の言葉を思い出した。
『この領内でも新たな定めが必要になろう。家中の法度が世の動きに合わなくなっているのだ。その際には、御分家の力が必要になる。御分家の主は、代々評定所の後見を務めている。貴殿もいずれ、後見になる。その時には、新たな家中の法度の作成に合力してもらいたい』
家中の法度については、事が起きた時に調べていたものの、まだ全部は把握していない。これでは不勉強の謗りは免れまい。
それはともかく、殿様が法度が世の動きに合わないと思っているのだから、乳母が死罪になるとは思えない。乳母は病の身である。行灯を誤って倒したのであれば、情状を斟酌する余地は十分にある。
「わざと火を付けたわけではないのだから、重い罪にはなるまい。殿様も病の身の者に重い罰を下すはずがない」
「そうであればよいのですが」
壱子は不安でたまらぬようだった。
「父上や乳母殿に文を書いてはどうだ。帰ることはできぬが、気持ちを伝えることはできる」
そう言った後で源三郎は、自分も婿として弾正に文を送らねばならぬことに気付いた。あの火事を知らせる文は元々自分宛だったのだから。できるだけ弾正を刺激せぬような文面を書かなければならない。さてどうしたものか。
その頃、城下大手町の一画にある稲邑家の屋敷では昨日夕方に起きた火事の検証が終わり、目付の森左源太と町奉行の倉島重兵衛が現場となったたかの住んでいた離れを見つめていた。
火災現場の検証に携わった同心や小物達はすでに現場を離れ、調べ上げた結果をまとめるため役所へと向かっていた。
「奉行殿、どう思われますか」
目付の森の問いに倉島は二呼吸ほどの間をおいて答えた。
「失火と思うが……断言できぬ」
「それがしも断言できませぬ」
御分家の家臣らによる消火が早かったため、離れの建物は全部焼けておらず柱の中にはまだ木材として使えそうなものもある。そのため火元はすぐに特定できた。行灯の火が火元であった。行灯の置いてあったあたりの燃え方が激しかったのである。またそばにほとんど灰になって、わずかに布が残っていた木綿の袷があったので、それに燃え移って火が広がったと推定された。さらに紙を燃やしたような灰も見つかっていた。
たかの話では御不浄に行くために起き上がってふらつき行灯を倒してしまったということだった。いつもなら世話をする下女がいるのだが、この日は用事を言いつかって寺に赴いていたのである。倒れた行灯の火はそばにあった袷に燃え移った。たかは燃え上がった火に驚いて腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。たまたまいつもより早く帰宅してきた稲邑家の養子の小平が煙に気付き外から障子戸を開け、たかを背負って逃げたのだった。小平の養父太平は御分家の領地に仕事に出ており留守だった。
森自身がたかと小平に別々に話を聞いており、両者の話に矛盾はない。
小平はたかの夫の姉の子で、太平とともに御分家の家臣小野久兵衛の下で働いている。
たか自身は京から下向してきた山置弾正の妻に仕え壱姫の乳母を勤めていた。夫の稲邑太平との間に生まれた子は早くに亡くなっている。
たかも太平も甥の小平も弾正の傍近くに仕えている、いわば身内のようなものだった。
此度の火災にしても、屋敷のうちで消火したのだからと弾正は現場の検証を最初は拒んだ。だが、火の粉が隣家の庭や少し離れた町家に飛んでおり、一つ間違えば大火になっていたかもしれぬという報告があり、殿様から目付と町奉行にじきじきに調べるようにという沙汰が下ったのである。さすがに殿様からの沙汰では弾正も拒めなかった。
現場は病の女がよろけて行灯を倒し傍にあったものに火がついて燃え広がったという証言と矛盾しなかった。付け火であれば火の気のない場所が特に燃えているが、行灯と周囲の物が激しく燃えているのだから行灯を倒したために起きた火事だと結論づけられる。
だが、目付も町奉行も失火と断言できなかった。
「火には用心しなければならぬとわかっているのに、なぜ行灯の傍に木綿の袷や紙などを置いたのか」
森左源太だけでなく香田角の者は子どもの頃から火の用心を厳しくしつけられている。火の傍に燃えやすい物を置いてはならないということも常識として知っている。だから行灯の傍に衣服と紙が置いてあったというのは合点がいかなかった。
たかにも火の用心の心得はあるはずである。着替えのためとはいえ、袷を行灯の傍に置くのは危険と判断できそうなものである。姫の乳母であったのだからなおさら用心深いはずだが。また、養子の小平も行灯の傍に袷があれば危ないからとしまわせるであろう。
さては病が頭にまわったか。
「ボケるには早いな」
倉島は乳母の年は四十と聞いていた。病で痩せているので老けて見えるが、まだ老人というには少し早い。
「ことによると、自裁を図ったのでは」
森左源太の意見に倉島は同意しかねた。妻をはじめ女というのは結構しぶとい。そうそう簡単に自分から死んだりするようには思えぬ。
「死ぬ理由があるか」
「病を苦にして、とか」
確かにたかの病は軽くはない。だが、仕えていた壱姫が祝言を挙げている。夫婦仲睦まじいので赤子ができるのは時間の問題であろうという噂は倉島の耳にも入っている。親であっても子が結婚すれば次は孫の誕生を期待する。乳母であれば可愛がっていた姫様の御子を見たいと思う気持ちは当然あるはずである。先々の楽しみがあるのに、たやすく死を選ぶとは思えない。
「とりあえず結論は後だ」
倉島がそう言ったのは、弾正が近づくのが見えたからである。
弾正はたかの様子を見に来たついでらしく母屋からやって来た。
「調べ、ご苦労」
森と倉島は一礼した。
「おかげさまで先ほど終了しました」
森がそう言うと、弾正はうむとうなずいた。
「たかの身柄だが、裁きが終わるまで当家にて預かる」
倉島はえっと声を上げそうになった。森は驚きで唖然としていた。
「小平一人では面倒を看るのが困難のようでな。また失火などしては面目が立たぬ。稲邑小平については監督不行届きゆえ、謹慎を命じた」
小平の主君は弾正であるから、たかの身柄も小平の処置についても森は口出しはできなかった。火事についての裁きは評定所で下すことになるが、それまでは弾正の管理下に置かれることになる。
言い換えれば、さらに詳しい話をたかと小平に尋ねたければ弾正の許しが必要になるということである。倉島はおかつの一件と同じだと思った。恐らく弾正のことだから、たかの病は重いと言って取調を拒むであろう。
家中の法度では武家・町人問わず火付は火炙り、失火によって類焼した場合、武家の場合は御家取り潰し、町人は死罪である。ただし、十四歳未満は寺預かりになる。また近年は失火の処罰は殿の御慈悲により減ぜられている。武家は謹慎もしくは進退伺い、町人は所払い、被害を受けたのが自宅のみの場合は事情を考慮して押込か寺預かりとなる。
失火であれば、病のたかは処罰されず、甥の小平が監督不行届きで謹慎となろう。
だが、もし火付であったとしたら。香田角では大火があって以降、成人の火付けはない。従って火炙りになった者はいない。
森も重兵衛も火炙りなど見たくはない。だが、ごくわずかだが火付の恐れが残っている。単なる不注意かもしれないが。
ともあれ、調べの結果を分析して結果を殿に報告せねばならない。二人は部下の待つ城内に戻った。
弾正からの文には帰って来いとは書いていなかった。ただ火事があり、火元が乳母のたかの部屋であったことしか書かれていない。
けれど、壱子にとっては帰って来いと読める文であった。
源三郎もこれは帰ったほうがいいのではないかと思った。が、殿に一筆もなく勝手に戻ることはできない。大久間に来たのは殿からの命令である。戻るのも殿の指示に従わねばならなかった。
念のため、他の書状を確認しておくことにした。火事についての記述を確認しておく必要があった。
最初に岡部惣左衛門からの書状の封を切った。岡部惣左衛門は殿の御傍近くに仕える用人である。つまり彼の書状には殿のことが書かれている可能性が高かった。
簡単な挨拶の後、用件だけが簡潔に述べられていた。
此度の火事にて 御分家他些かも不受火の災
不可帰と 飛騨守様仰せらる
要するに被害はなかったので帰らなくともよいと殿が仰せであったということである。
殿がじかに文を送ればいろいろと手続きがややこしくなるので、用人の岡部が殿の意思を代弁して文を書いたのである。
源三郎はこの文も壱子に見せた。
壱子とて御分家の姫である。用人が殿様の意思を代弁して文に書いているということはすぐに理解した。が、気持ちの上で納得できるかというと別問題である。
「帰ってはならないのですね」
壱子の気持ちは源三郎にもわかる。理屈ではわかっていても、気持ちがおさまらない。そんなことは幼い頃から幾度となくあった。抵抗しても周囲に抑えられ理屈に従うしかないと諦めている。最後の抵抗となった壱子との結婚も結局は従わざるを得なかった。幸いにも壱子との生活は思った以上に充実していたから、これは従ってよかったのかもしれないが。
この場合はどうすればいいのか。
殿様の許しを得ずに帰ったら当然勘気を被る。そうならないようにこっそり帰ったとしても、香田角の人々の目を盗むのは難しい。背の高い源三郎は目立つ。殿様に露見するのは時間の問題である。そうなれば一層怒りをかうことだろう。
では殿様に許しを請うたら。壱子が父と乳母の身を案じているからと言えばどうだろうか。
恐らく用人の岡部惣左衛門の文の意図もわからぬのかと殿は思うにちがいない。許可が出るとは思われぬ。
それに、最大の問題がある。
おかつの一件である。町奉行の取り調べに一切協力しない舅の弾正は、殿の許可の有無に関わらず、壱子と源三郎が帰って来たら、今後一切町奉行や奉行所の者におかつのことを話してはならぬと言うであろう。ことによると源三郎はしばらく外に出られぬかもしれぬ。
すでに町奉行の婿の倉島平兵衛に、おかつの奉公を辞めた理由やら何やらを話しているのである。それを知れば弾正の機嫌はますます悪くなるだろう。またお里久、和助、おあんも平兵衛の調べを受けている。彼らに対する弾正の怒りを思うと、今すぐ城下に戻るのは憚られた。
町奉行所の者達が取り調べたことをまとめ、おかつを殺めた者を特定できた後であれば、弾正の怒りは収まっているかもしれない。万が一、御分家の奉公人の誰かが殺害に関係していなければの話だが。
「お壱、殿の御考えなのだ。こらえてくれ」
「仕方ないことです。乳母は罪人になったのですから」
「罪人……」
「罪人を見舞うなど許されぬこと」
源三郎は思いもしない言葉に驚き、壱子を見つめた。
「火を出した者は罪人になるのです」
源三郎は思い出した。
江戸にいる頃、香田角ではかつて大火が起き大勢の人々が亡くなっていたという話を聞いた。
大火の元になったのが寺の美僧を慕う同僚であったということで、香田角では男色は御法度だった。また江戸同様に火付の罪は重いということだった。隆礼だけでなく父や兄も語っていた。
「いかなる罰が課せられるのだ」
「めったに火事は起きませんけれど、私が子どもの頃に野焼きの火が燃え移り家が二軒焼けた火事がありました。死んだ者はおりません。その時は野焼きをした村人が死罪と決められましたが、先代の殿様浄文院様の御慈悲により家財没収の上、所払いとなり家族一同、領外に追放されました。また近所の家四軒は所払いになった家の田畑を売った金を元に焼けた家二軒を再建、村役人は責めを負って職を辞めたと聞いています」
死人の出なかった火事、しかも付け火ではなく失火で死罪、罪一等減じて財産没収で追放というのは厳しい。家を焼かれた側にしてみれば、それでも気は済むまい。田畑を売った金だけで家を二軒新たに建てるというのも難しかろう。連帯責任をとった四軒の家もまた金と労力を出すことになったということか。ちなみに江戸では失火は死罪にはならない。町人や寺社は火災の範囲や事情によって押込や手鎖となり、武家は屋敷内で食い止めれば罪には問われない。所払いにもならないのだ。
「では、乳母殿は死罪か」
「それはわかりません。燃えたのが乳母の住まいだけであれば、死罪とはならぬかもしれません」
家中の御法度がいかなることになっているのか調べねばと思った時、婚礼の朝の隆礼の言葉を思い出した。
『この領内でも新たな定めが必要になろう。家中の法度が世の動きに合わなくなっているのだ。その際には、御分家の力が必要になる。御分家の主は、代々評定所の後見を務めている。貴殿もいずれ、後見になる。その時には、新たな家中の法度の作成に合力してもらいたい』
家中の法度については、事が起きた時に調べていたものの、まだ全部は把握していない。これでは不勉強の謗りは免れまい。
それはともかく、殿様が法度が世の動きに合わないと思っているのだから、乳母が死罪になるとは思えない。乳母は病の身である。行灯を誤って倒したのであれば、情状を斟酌する余地は十分にある。
「わざと火を付けたわけではないのだから、重い罪にはなるまい。殿様も病の身の者に重い罰を下すはずがない」
「そうであればよいのですが」
壱子は不安でたまらぬようだった。
「父上や乳母殿に文を書いてはどうだ。帰ることはできぬが、気持ちを伝えることはできる」
そう言った後で源三郎は、自分も婿として弾正に文を送らねばならぬことに気付いた。あの火事を知らせる文は元々自分宛だったのだから。できるだけ弾正を刺激せぬような文面を書かなければならない。さてどうしたものか。
その頃、城下大手町の一画にある稲邑家の屋敷では昨日夕方に起きた火事の検証が終わり、目付の森左源太と町奉行の倉島重兵衛が現場となったたかの住んでいた離れを見つめていた。
火災現場の検証に携わった同心や小物達はすでに現場を離れ、調べ上げた結果をまとめるため役所へと向かっていた。
「奉行殿、どう思われますか」
目付の森の問いに倉島は二呼吸ほどの間をおいて答えた。
「失火と思うが……断言できぬ」
「それがしも断言できませぬ」
御分家の家臣らによる消火が早かったため、離れの建物は全部焼けておらず柱の中にはまだ木材として使えそうなものもある。そのため火元はすぐに特定できた。行灯の火が火元であった。行灯の置いてあったあたりの燃え方が激しかったのである。またそばにほとんど灰になって、わずかに布が残っていた木綿の袷があったので、それに燃え移って火が広がったと推定された。さらに紙を燃やしたような灰も見つかっていた。
たかの話では御不浄に行くために起き上がってふらつき行灯を倒してしまったということだった。いつもなら世話をする下女がいるのだが、この日は用事を言いつかって寺に赴いていたのである。倒れた行灯の火はそばにあった袷に燃え移った。たかは燃え上がった火に驚いて腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。たまたまいつもより早く帰宅してきた稲邑家の養子の小平が煙に気付き外から障子戸を開け、たかを背負って逃げたのだった。小平の養父太平は御分家の領地に仕事に出ており留守だった。
森自身がたかと小平に別々に話を聞いており、両者の話に矛盾はない。
小平はたかの夫の姉の子で、太平とともに御分家の家臣小野久兵衛の下で働いている。
たか自身は京から下向してきた山置弾正の妻に仕え壱姫の乳母を勤めていた。夫の稲邑太平との間に生まれた子は早くに亡くなっている。
たかも太平も甥の小平も弾正の傍近くに仕えている、いわば身内のようなものだった。
此度の火災にしても、屋敷のうちで消火したのだからと弾正は現場の検証を最初は拒んだ。だが、火の粉が隣家の庭や少し離れた町家に飛んでおり、一つ間違えば大火になっていたかもしれぬという報告があり、殿様から目付と町奉行にじきじきに調べるようにという沙汰が下ったのである。さすがに殿様からの沙汰では弾正も拒めなかった。
現場は病の女がよろけて行灯を倒し傍にあったものに火がついて燃え広がったという証言と矛盾しなかった。付け火であれば火の気のない場所が特に燃えているが、行灯と周囲の物が激しく燃えているのだから行灯を倒したために起きた火事だと結論づけられる。
だが、目付も町奉行も失火と断言できなかった。
「火には用心しなければならぬとわかっているのに、なぜ行灯の傍に木綿の袷や紙などを置いたのか」
森左源太だけでなく香田角の者は子どもの頃から火の用心を厳しくしつけられている。火の傍に燃えやすい物を置いてはならないということも常識として知っている。だから行灯の傍に衣服と紙が置いてあったというのは合点がいかなかった。
たかにも火の用心の心得はあるはずである。着替えのためとはいえ、袷を行灯の傍に置くのは危険と判断できそうなものである。姫の乳母であったのだからなおさら用心深いはずだが。また、養子の小平も行灯の傍に袷があれば危ないからとしまわせるであろう。
さては病が頭にまわったか。
「ボケるには早いな」
倉島は乳母の年は四十と聞いていた。病で痩せているので老けて見えるが、まだ老人というには少し早い。
「ことによると、自裁を図ったのでは」
森左源太の意見に倉島は同意しかねた。妻をはじめ女というのは結構しぶとい。そうそう簡単に自分から死んだりするようには思えぬ。
「死ぬ理由があるか」
「病を苦にして、とか」
確かにたかの病は軽くはない。だが、仕えていた壱姫が祝言を挙げている。夫婦仲睦まじいので赤子ができるのは時間の問題であろうという噂は倉島の耳にも入っている。親であっても子が結婚すれば次は孫の誕生を期待する。乳母であれば可愛がっていた姫様の御子を見たいと思う気持ちは当然あるはずである。先々の楽しみがあるのに、たやすく死を選ぶとは思えない。
「とりあえず結論は後だ」
倉島がそう言ったのは、弾正が近づくのが見えたからである。
弾正はたかの様子を見に来たついでらしく母屋からやって来た。
「調べ、ご苦労」
森と倉島は一礼した。
「おかげさまで先ほど終了しました」
森がそう言うと、弾正はうむとうなずいた。
「たかの身柄だが、裁きが終わるまで当家にて預かる」
倉島はえっと声を上げそうになった。森は驚きで唖然としていた。
「小平一人では面倒を看るのが困難のようでな。また失火などしては面目が立たぬ。稲邑小平については監督不行届きゆえ、謹慎を命じた」
小平の主君は弾正であるから、たかの身柄も小平の処置についても森は口出しはできなかった。火事についての裁きは評定所で下すことになるが、それまでは弾正の管理下に置かれることになる。
言い換えれば、さらに詳しい話をたかと小平に尋ねたければ弾正の許しが必要になるということである。倉島はおかつの一件と同じだと思った。恐らく弾正のことだから、たかの病は重いと言って取調を拒むであろう。
家中の法度では武家・町人問わず火付は火炙り、失火によって類焼した場合、武家の場合は御家取り潰し、町人は死罪である。ただし、十四歳未満は寺預かりになる。また近年は失火の処罰は殿の御慈悲により減ぜられている。武家は謹慎もしくは進退伺い、町人は所払い、被害を受けたのが自宅のみの場合は事情を考慮して押込か寺預かりとなる。
失火であれば、病のたかは処罰されず、甥の小平が監督不行届きで謹慎となろう。
だが、もし火付であったとしたら。香田角では大火があって以降、成人の火付けはない。従って火炙りになった者はいない。
森も重兵衛も火炙りなど見たくはない。だが、ごくわずかだが火付の恐れが残っている。単なる不注意かもしれないが。
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