江戸から来た花婿

三矢由巳

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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に

06 壱子の拒絶

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 さて、ここは大久間の郡奉行所である。
 奉行の熊田の話に源三郎は大いに興味をそそられた。

「女の年の頃は三十から四十、鉄漿をしていて眉毛を抜いている。見つかった場所は坂瀬川のそば。だが、溺死ではなく首を絞められている。いやはや恐ろしい事があるもの。かようなことは香田角では時折あるのか」
「滅相もないことでございます。私の知る限り、女が首を絞められて殺められる等、聞いたこともございません」

 郡奉行の言葉だから間違いはないだろう。

「当地では心中などはないのか」

 上方を中心にひところ浄瑠璃等で心中物がはやり、その影響を受けて江戸でも心中が増えたことがあったので、源三郎は尋ねた。
 熊田は少し声を低めた。

「心中は御法度ですので」

 御法度だからないということはあるまいと源三郎は思う。大久間は出湯の里である。旅籠の飯盛り女と男が出会って許されない恋に落ちることもあったはずである。こんな場所で何もないと考えるほうがおかしい。恐らく届け出ることなく、隠しているものもいるのではなかろうか。
 郡奉行としてはわかっていても黙認しているのかもしれなかった。
 と考えてはたと気づいた。

「心中者の片割れではないのか。相手の男は女を殺めた後、自分も別の場所で死んでいるとか。同じ場所で死ねば心中者ということにされるからな」
「そういう考えもあるかもしれません」

 熊田は源三郎の考えを否定しなかったが、特に賛意も示さなかった。心中の話はこの辺にしておこうと源三郎は話を元に戻した。

「これから大久間郷の行方知れずの者にかような女子がいないか調べるのであろう」
「はい」
「では忙しくなるな。明日の視察はどうするか」

 明日は大久間川周辺の堤を視察することになっている。

「視察はできます。さほど時はいりません」
「そうか。もし、急なことが起きてできなくなったら知らせてくれ。奉行所の仕事の邪魔をするわけにはいかぬ」
「ありがたきお言葉、いたみいります」





 郡奉行所を出て別邸に戻ると、迎えに出て来たのは壱子だった。武家をはじめとする御分家の屋敷では、玄関に迎えに出るのは家来衆である。
 だが、城下から離れたこの別邸では、さほどしきたりにうるさくないのか、まるで町人の女房のような振舞をする壱子だった。

「玄蕃様」
「わざわざ迎えてくれるとは」
「遅いので案じておりました」

 予定の刻限より一刻ほど遅くなったのは、城下の女殺しの話をしていたからである。酷い話なので、壱子には聞かせたくなかった。

「ついつい奉行と話し込んでしまったのだ。心配させてすまない」
「よかった。お帰りが遅いので里久達と心配していたのです。城下で恐ろしい事があったのでございましょう」
「恐ろしい事とは」

 まさか、壱子はすでに坂瀬川の女の死体のことを知っているのであろうか。いくらなんでも早いと思ったものの、香田角の噂の速度は決して遅くはない。

「川のほとりに女の亡骸があったとか」

 やはり壱子は知っていた。だからこそ、心配でならなかったのだろう。出迎えたのもそのためかもしれなかった。

「誰から聞いた」
「誰というわけではありません。先ほど、別邸の女達が里久に話していたのです。別邸はさほど広くありませんので、聞こえて参りました」

 あくまでも御分家の屋敷と比較しての話である。それでも聞こえてくるということは相当な騒ぎになっているらしい。
 座敷に入り袴を脱いで着流し姿になった源三郎は壱子に三十から四十の女で溺死ではないことだけを伝えた。

「まだ、どこの誰ともわからぬ。めったな話はしないほうがよい。わかっておると思うが、そなたが怖がれば、仕える者達も動揺する」
「かしこまりました」

 そう言った後で、壱子はでもと続けた。

「残っている妹達のことが気がかりです。怖い思いをしていなければよいのですが」
「大丈夫だ。義父上もおいでなのだ。それに警護の者もいる。町奉行の屋敷も近い。何も恐れることはない」

 身元がわからないということは武家ではあるまい。女は町人のはずである。武家の屋敷の中に住む者より、一般庶民のほうがよほど恐ろしい思いをしているはずである。

「そうですね」

 と言いながらも、壱子の表情には不安の色がまだ見えた。

「いざとなったら、私がいる。江戸の道場で奥義を伝授されたのだから」
「玄蕃様」

 壱子のまなざしにやっと安堵の色が見えた。





 夕食後、風呂を使い座敷でくつろいでいると、庭先から旦那様と亥吉の声が聞こえた。壱子は女風呂にまだ入っていた。
 源三郎は障子を開けた。冷たい風がすうっと入って来た。なんだか嫌な予感がした。

「いかがした」
「大変です。城下で殺された女の身内がわかったようです」
「おぬしも話を聞いたのか」
「はい。こちらで働いている者達が話しておりましたので。出入りの商人から聞いたと申しておりました」

 源三郎に草履取りとして今日一日従っていた亥吉の耳にも城下の噂は入ってきたらしい。だが、身内がわかったとは、一体どこからもたらされた話なのか。

「その話の出どころは」
「郡奉行所の中間ちゅうげんです。湯屋に参ったところ、たまたま出くわしまして、先ほど郡奉行所に城下から早馬が来たと申しておりました。それが町奉行所からとのことで、早馬が来てすぐに同じ中間仲間の千蔵という男が呼ばれたそうで。女は千蔵の身内ではないかと」

 城下から供について来た亥吉のような男の奉公人は別邸の湯は使えないので、近くの湯屋や旅籠の湯を使うことになっていた。湯屋には町人達だけでなく武家の奉公人も来るから、そういう話も入って来るのであろうが、郡奉行所の中間は少々口が軽過ぎるように思えた。

「その中間は信用がおけるのか」
「十年ばかり郡奉行所で働いていると申しておりました。千蔵という男は三十で、奉行所に五年前から住み込みで働いているそうです。姉が城下の武家で奉公していると前に言ってたそうで、恐らくその姉ではないかと」

 いやはやそこまでわかってしまうとはと源三郎は呆れてしまった。これでは郡奉行所では秘密は守れまい。今頃はこの話が湯屋から他の旅籠にまで広まっているに違いなかった。

「そうか。この話、ここに来るまでに誰かに話したか」
「いいえ」

 亥吉はそういう点ではきっちりしている。話していいことと悪いことの区別はできるのだ。郡奉行所の中間とは違う。

「まだ確かなことはわからないのだから、その話はこれ以上は語らぬほうがよい」
「かしこまりました」

 そう言った後で、実は気になることがと声を低めた。

「なんだ」
「千蔵の姉の奉公先というのが、御家中の中でもずいぶんと身分の高い武家らしく、年に二回ほど千蔵に金品を送ってきたとか。件の中間も御裾分けで菓子などをもらったと。だとすると、これは町奉行様がどうこうできる話ではないと、かの中間が申していまして」

 あ、そうかと源三郎も気付いた。江戸では町奉行は町人に関わる裁きはするが、武家の関係はできない。無論、町人の所有する土地で武士が問題を起こせば町奉行所が関わるが、たいていの藩は与力や同心に付届けをして問題が起きた時に便宜を図ってもらうようにしている。加部家も相応に付届けはしているらしい。それでも源三郎も常々兄から町人地で厄介ごとを起こすなと言われていたものだった。もっとも厄介ごとを起こすほど、源三郎は町人地を用もなく頻繁にうろつけるほどの小遣いをもらっていなかったのだが。
 それはともかく、香田角の場合も武家の問題は町奉行ではなく、目付の管轄となるはずである。目付の調べの後の裁きは恐らく評定所の仕事になる。ということは舅の弾正の仕事である。
 もし、そういう事態になったら、無役の源三郎としても今回の一件は無視できない。舅の裁きを側できちんと見ておかねばなるまい。
 これは予定よりも早く城下に戻ることになるかもしれない。
 衣擦れの音が部屋に近づいてきた。

「そうか、わかった。もし、他に何かわかったら知らせてくれ」
「はい」

 亥吉は足音も立てずに庭先の植え込みの向こうに消えた。その先の枝折戸を開ける音を聞き、障子を立て切った時、背後の襖の向こうから失礼しますと声がした。

「いいお湯をいただきました」

 頬をほんのりと赤く染めた壱子が座敷に入って来た。風呂上がりの艶めかしさに源三郎は目がくらみそうだった。今宵はどうやってと思うだけで、身体が昂ぶってきた。

「お湯は昨日と比べてどうであった」
「変わりありません。同じようにとろりとした湯で、こんこんと湧いて参りました。有馬の湯というのもかような湯なのでしょうか」

 まさかここで有馬が出てくると思わず、源三郎は緊張した。さっきまで壱子をどうやって抱くか考えていたというのに。有馬といえば歌枕である。壱子が次に歌の話をしてきたら何と答えようか、そればかりが源三郎の頭の中を占めた。確か歌加留多にあったはずである。有馬山猪名ゐなの笹原とかいう歌だった。

「さあ、どうだろう。有馬には行ったことがないのだ」

 そこへお里久がお茶を持って来た。源三郎は安堵した。茶を飲んでいる間は歌の話はあるまい。
 壱子は喉が渇いていたのか、おいしそうに飲んだ。源三郎も先ほど障子を開けたせいで身体が冷えたので、熱い茶が有り難かった。

「よい茶だ。里久、もう今日は休んでいいぞ」

 源三郎はお里久を下がらせた。男の奉公人と違って女の奉公人は別邸の女風呂に入ることになっている。外の湯は混浴なので、城勤めの奥女中らが町人の男に肌を見せるわけにはいかないということらしい。女主人が入った後は、身分の高い女中から順に入ることになっている。今、この別邸の女の奉公人で一番身分が高いのがお里久だから、彼女を早く風呂に入れないと下の者の入浴が遅くなるのである。
 それはともかく、壱子に有馬の話をさせるわけにはいかない。壱子と源三郎では何の準備もなく対等な歌問答をするなど無理な話なのだから。

「今日は関所を見てきた。肥後から大勢の湯治客が来るそうだ。関所から入る時は杖を突いていた老人が湯治をして出て行く時は杖を置いて出て行くそうだ」
「まあ、やはり出湯というのは大したものですね」

 関所の話をあれこれしているうちに夜も更けてきた。源三郎はどうやら有馬の話は今宵はあるまいと思って安堵していた。
 寝所に入って、いざという時だった。壱子は布団の脇に正座すると深々と頭を下げた。

「今宵はお許しくださいませ」
「え……」

 呆気にとられる源三郎の顔を見ることなく頭を下げ続けて壱子は続けた。

「今朝のような見苦しいありさまを見せたくはございません。どうか今宵はお許しを」

 確かに今朝は起きられなかったようだが、これまでもそういうことはたびたびあった。今更何をと思ったが、はたと気づいた。城下の屋敷と違い、この別邸は狭い。城下の女の死体の話が壱子にも聞こえてくるほどである。城下の屋敷であれば聞こえないような奉公人達の口さがない話が聞こえたのかもしれない。
 舅や白川から離れ気ままにできると思っていたが、甘い考えだった。別邸には別邸なりの気の遣いようがあるようだった。
 それに壱子には旅の疲れもあるかもしれなかった。

「わかった。だが、明日は」
「はい」

 源三郎が床に入るのを見届け、壱子は隣の布団に横になった。すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
 やはり、疲れていたようである。だが、源三郎自身も自分では気づかぬ疲れのために、いくつも数えぬうちに眠りに落ちていた。





 早朝、源三郎が厠から庭に面した廊下に出ると、亥吉が現われた。

「夜明け前に郡奉行所の千蔵が町奉行所の使いとともに城下に向かいました。それから、これは別の中間から聞いた話ですが、千蔵の姉の奉公先は御分家様だったそうです」

 源三郎の眠気は一気に吹き飛んだ。




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