アズラエル家の次男は半魔

伊達きよ

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1巻

1-2

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 飲みに行くと言っていたフィーリィだったが、いつもより早いくらいの時間に帰ってきた。今日はファングが帰ってくる日だと思い出したらしい。ヴィルダ、アレックス、ローディも同様だ。息を切らして家に駆け込んできたところを見ると、やはり長男の帰宅を楽しみにしていたのだろう。
 カインは仕事で遅くなっているらしく、夕食の時間が近づいても帰ってこなかった。
 居間では兄弟そろって、わいわいと楽しそうに話している。中心にいるのはファングだが、ファング自身が特に多く喋っているというわけではない。むしろ周りの弟たちのほうが、話を聞いてほしくてしきりに話しかけている。
 父と母を亡くしてからは、ファングが親代わりといったところがある。親に話を聞いてもらうように、ファングに自身のことを聞かせたいのだろう。その気持ちがよくわかるので、リンダは皆を急かさないように様子を見ながら夕飯の準備を進め、食卓の上に全ての料理を並べた。どのタイミングで出そうかと悩んだケーキだけは、台所の調理台の上に隠すように置いたままだ。
 ケーキは、飾りつけもたっぷりのクリームと果物を載せており、はっきりいってそこらの店の品にも負けないほどの自信作だ。リンダはケーキを前に、満足げに鼻を鳴らした。少々時間と手間がかかったが、これを見れば皆喜んでくれるだろう。
「さて」と居間にいる兄弟を呼ぼうとリンダが声を発しかけたところで、そちらのほうから、わっ、と歓声が上がった。何事かと振り向いたリンダの目に、ふわふわと浮かぶ大きな熊のぬいぐるみが目に入る。

「……えっ?」

 状況が読めないリンダに向かって、シャンが、わぁわぁと大きな声を出す。

「リン兄! 見て見て! ガイルすごいの!」

 満面の笑みを向けてくるシャンに言われて目を向けると、ガイルは両手を広げてぬいぐるみへ向けていた。どうやら、ガイルがそのぬいぐるみを動かしているらしい。少し頬を紅潮させて、必死な顔をしながらも、どこか誇らしげな顔をしている。
 居間には、フィーリィとヴィルダ、アレックス、ローディが座っていて、いずれも「やるじゃん!」「すごいな」と楽しそうにはしゃいでいた。どうやら彼らがガイルに魔法の手ほどきをしてやったらしい。ファングは席を外しているようだが、きっと戻ってきたら驚くはずだ。今このタイミングで魔法を試してみたのは、今日帰ってきているファングを驚かせるつもりもあるのかもしれない。

「すげぇな、ガイル!」

 リンダも迷わずガイルを褒め称えた。魔法を、学園で習う前から使えるのだ。こんなにすごいことはない。ガイルにも優秀なアズラエル家の血が流れているという証拠だ。

「でも、魔法は危ないからな。今日はその辺にしとけよ」

 嬉しい。嬉しいし、誇らしい。しかし、その気持ちの裏に、ひそりとなにか嫌なものがこびりついている。それは「うらやましい」という気持ちだ。
 なにを馬鹿なことを、とリンダは自分の気持ちが信じられずに首を振る。あんなに小さな弟に嫉妬している自分が惨めですらあった。それでも、自分が使えない魔法を、小さな弟が使えているということが、うらやましくて仕方ない。嬉しい気持ちだけでいられない自分が、情けなくて、惨めで、恥ずかしくて。リンダは明るく笑い合う弟たちから、スッとわずかに視線を外した。
 と、その時。居間にファングが帰ってきた。

「お前たち、なにを騒いで……」
「ファング兄! 見て見てー!」

 居間に戻ってきて早々、騒がしい彼らを注意しようとしたファングに向かって、ガイルとシャンが大声を出す。

「なんだ? ……おいっ」

 ファングが少し声を荒げた。はしゃぎすぎて集中力が途切れたのだろう、ガイルが体の向きを変えたのに合わせて、ぬいぐるみが、ぶんっと空中で不規則な動きをし始めたのだ。

「……リンダッ!」
「えっ?」

 視線を外していたせいで、それに気がつくのが遅くなったリンダのほうへ、ぬいぐるみが勢いよく飛んでくる。居間のほうからは「ガイル、手を下ろせ!」と聞こえてくるが、それも間に合わないだろう。もはやぬいぐるみはリンダの目前に迫っていた。いくら中身が綿のぬいぐるみとはいえ、結構な重さがあり、速度も出ているため、当たったらある程度痛い思いをするのは間違いない。
 その衝撃を想像して、思わず目を閉じるリンダの腕を、誰かが引っ張った。
 ――ガシャンッ!
 少しの間の後、大きな音がした。リンダはファングの腕の中でその音を聞いていた。そう、リンダの腕を引っ張り、抱き込んだのはファングだった。居間の入り口から、台所と居間の間にある食卓のそばに立っていたリンダのところまで駆けつけてくれたらしい。

「大丈夫だな」
「……あぁ、うん、ありが……」

 礼を言いかけたところで、はたとぬいぐるみの行方に気がつき、リンダは身を起こす。

「……っあ……」

 そして台所のほうへ数歩進んで、ぬいぐるみがなににぶつかって、なにを落とし、音を立てたのかを知った。

「リンダごめん! ごめんなさいっ!」
「おい、大丈夫かっ?」

 弟たちがバタバタと足音も荒く駆け寄ってくる。
 リンダは、くるっ、と振り返ると、彼らが台所まで辿り着かないように数歩前に出た。

「大丈夫じゃねぇよ! ったく、だからその辺にしとけって言っただろっ……ガイルッ」
「は、はいっ」

 リンダが口調も荒く腰に手を当てて名を呼べば、すくみあがる弟たちの中から、ガイルが一歩前に出る。

「魔法が使えたお祝いは、すぐさま失敗してくれたことでチャラだな。……魔法は一歩間違えると大変なことになる。これでわかったろ?」
「……うん」
「お前たちも」

 リンダは並んだ弟たちに順番に見やる。弟たちは皆一様にシュンとした顔をしていた。

「教えるのはいいけど、然るべき時にきちんと教えてやらなきゃ、だろ? お前たちが兄さんに教えてもらったようにな」

 リンダの言葉に、皆、ぱらぱらと「……はい」としおらしく返事をする。
 弟たちは皆、魔法を使い始めた頃に、ファングによって指導されている。魔法は便利だが危ないもの、と誰より真剣に、こんせつ丁寧に教えてくれるのはファングだからだ。これ以上の適任はいない。

「じゃ、この話はおしまい」

 言うべきことを言って、けろっと明るい表情に切り替えたリンダに、弟たちは、ほっ、と息を吐く。その様子を見てから、リンダはニッと片頬を持ち上げた。

「俺からは、な」

 そして、彼らの後ろをあごで示す。恐る恐る振り返った弟たちの後ろにいたのは、腕を組んで仁王立ちになったファングだった。

「俺の話は、夕飯の後だ」

 その冷たい声に、ガイルやシャンはもちろん、最近はぐんと大人っぽくなったヴィルダやアレックス、ローディも、聖騎士として働いているフィーリィも、顔を青くして縮こまる。いくつになろうと、彼らにとって一番怖いのは、教師でも上司でもなく、アズラエル家の長兄なのだ。
 そんな兄と弟たちをぐるりと見回してから、リンダは「さぁ、夕飯にしようぜ」と、皆に明るく声をかけた。


 リンダは「食べる前に居間を片づけろよ~」と弟たちに指示し、一人こっそりと台所へ入る。
 その床には、クリーム塗れのぬいぐるみと、無残にも崩れ果てた自信作のケーキが横たわっていた。リンダはその場にかがみこんで、床についていない部分のクリームを人差し指ですくい、口へ運ぶ。

「ごめんな……」

 誰にでもない、無駄にしてしまったその材料たちに申し訳なくて、小さな声で謝る。甘いはずのそのクリームは、なぜだかほろ苦い味がした。
 かたちは無残でも、床についたところ以外は食べられるだろう。全てを無駄にしてしまうのはさすがにもったいなくて、リンダにはできない。
 このことを弟たちに知らしめるつもりはなかった。そこにあると知りもしなかったケーキを崩したことを咎めても仕方ない。きっと弟たちへはファングがしっかり指導してくれる。ケーキは自分がぼちぼち食べていけばいい。少し、いや、かなり量はあるが。
 リンダは、弟たちに見つかる前にと、その残骸を手早く片づけた。


   *


 ガイルとシャンを寝かしつけていると、いつもは眠りにつくのが遅いシャンのほうが先に眠ってしまった。ガイルはうとうとしながらも、なにかに抵抗するように頭を振って必死に目を覚ましている。

「ガイル?」

 どうしたんだ、と聞く前に、ガイルがリンダの指をぎゅっと握った。

「……リンダ」
「ん?」
「ごめんね……。俺、もう危ないのしないから……きらいにならないで……」

 とろんとした目にうっすらと涙を浮かべながら、ほとんど寝言のようにガイルが呟く。リンダは、ぐっ、と胸に込み上げた熱い塊を呑み下し、兄らしく、その小さな手を握り返す。

「馬鹿。嫌いになるわけないだろ? 俺は、ガイルも、シャンも、みんなのことも、大好きだよ」

 ささやくように告げたリンダの言葉に安心したのだろう。ガイルは、ふへ、と空気の抜けるような笑いをこぼすと、そのまま、すぅ、と寝息を立てて眠ってしまった。
 リンダはもう一度ガイルの手を握りしめて、ガイルとシャンの額に小さなキスを落としてから、二人の部屋を後にした。
 後ろ手に部屋の扉を閉めながら、短く溜め息を吐く。あんなに小さく健気な子の才能に嫉妬してしまった自分がより一層恥ずかしく、ズキズキと良心が痛んだからだ。
 嫉妬はどうしようもない感情とはいえ、その気持ちを省みて、どう処理するかはまた別問題だ。ガイルにはガイルの才能があり、リンダにはリンダの才能があるはず。ガイルの力を認め、同じように自分も認めてあげなければならない。他人に嫉妬しなくて済むような自分になれるかどうかは、自分次第だ。自分のすべきことは、弟をやっかむことではない。
 リンダは小さく拳を握って、こつり、と額を打ち、台所へ戻る。
 ガイルが粘ったので、かなり遅い時間になってしまった。ファングもおそらく、聖騎士団の近くの独り住まいの部屋に帰り着いている頃だろう。次の日が仕事の日は実家に泊まらず、夕飯が済んでしばらくしたら帰っていく。今のうちにケーキを食べ進めておくか、と食卓を見ると、栗色の毛が目に入った。

「……カイン?」

 食卓では、カインが夕飯を食べていた。どうやら仕事が終わってようやく帰ってきたらしい。

「お帰り、遅かっ……」

 たな、と続けようとした言葉は、カインが食べているものを見て、途中で止まってしまった。

「カイン、それ、えっ?」
「なんだよ」

 カインの目の前にはこんもりと、ぐちゃぐちゃになったケーキが置かれていた。それはもちろん、今日床にひっくり返ったあのケーキだ。

「やめろよっ、それは……」
「食うなってのか? 俺が甘い物好きなの知ってんだろ」

 止めようとしたリンダを片手で制し、カインはガツガツと口の中にケーキをかき込む。

「だって、それ……ゆ、床に落ちたんだよ……っ」

 どうにか食べるのをやめさせようと、ためらいながらも正直に言えば、カインは肩をすくめながら、なんてことないように「知ってる」と答えた。それがなんだ、と言わんばかりの表情だ。

「な、なんで?」

 慌てるリンダに構わず、カインはケーキを食べ進めていく。山のようにあったケーキの残骸は、かなりその姿を小さくしていた。

「……兄貴が言ってたから」

 少し不満そうに、行儀悪くフォークをくわえながらカインが言う。

「兄さん?」
「さっきまで、一人でここで食ってたんだよ。すんげぇ量のケーキを」

 カインの言葉に、リンダは目を丸くする。そんなリンダをチラリと横目で見て、カインはまたケーキを頬張った。

「『俺のためのケーキだが、お前も食うか? 床に落ちたヤツだがな』って言うから、食うって言ったんだよ」

 さらに驚くような発言に、リンダはぱちぱちと目を瞬かせた。
 それはつまり、ファングはリンダがケーキを準備していたこと、そしてそれが自分のためのケーキであることを察していたということだ。なにも言わなかったのは、弟を気遣ったリンダの気持ちを汲んでくれたからだろう。

「そっか」

 リンダは、カインの食べているケーキを見下ろす。今は見るも無残な姿になってしまったが、当初の予定通り、ちゃんと食べてほしい人の胃袋に入ったらしい。
 一人で食べるには大きすぎるケーキを懸命に食べる兄の姿を想像して、リンダは思わず、ふっ、と笑いをこぼしてしまった。あの気難しい顔をして、こんなに大きなケーキを口いっぱいに頬張ったのだろうか。ちょっと、いや、かなり見てみたかったような気がする。

「なんで、兄貴のケーキなわけ?」

 微笑むリンダに、カインがぶっきらぼうに問いかける。少し不満そうなその言葉に、リンダは首をひねりながら答えた。

「ん? ああ、ほら、兄さんが部隊長になったって聞いたからだよ。そのお祝いにと思って……」
「俺も」

 リンダの言葉の途中で、カインが小さな声で呟く。よく聞き取れなかったので、リンダは「うん?」とカインに問い返した。

「俺も、最近班長になったんだけど」

 ケーキにぐさりとフォークを刺して、カインは大口でそれを頬張る。珍しく、ねたような物言いだった。言葉はだいぶ足りないが、文脈から察するに、ファングに祝いのケーキを焼いたのであれば自分にも焼け、ということのようだ。リンダは目を瞬かせてから「ああ」と手を打った。

「そうか、カイン甘い物好きだもんな。悪かったよ。今度はお前の好きなやつ焼いてやるから」

 腹が立つところもある弟だが、でかい図体して可愛いところもある。リンダはニッとカインに笑いかけた。

「……ああ」

 少しの間の後、カインはなぜか渋々といった様子で頷いてから、一気にケーキをかき込んだ。
 そんなに口に入れたら呑み込むのも大変だろう。リンダはそんなカインのために、お茶を淹れてやることにした。
 あれだけあったケーキは、ファングと、そしてカインによって、そのほとんどがなくなってしまった。食事の感想をあまり口にしないカインが「美味うまかった。ごそうさん」と言っていたので、味も美味おいしかったのだろう。
 ファングの優しさを知り、久しぶりにカインの弟らしいところを見て、リンダは少しだけ浮かれていた。
 だから、気を抜いてしまった。いつものリンダなら絶対にしないようなことをしでかした。
 普段ならすぐ耳につける、ファングから土産にもらったピアスを、ポケットに入れたままつけ忘れてしまったのだ。
 それが、とんでもない事態を引き起こすことになるとも知らず。



   第二章


 ファングが来てから数日後の夕方。
 リンダは、ふぅ、と熱い息を吐いた。どうにも朝から熱っぽいのだ。体が熱いのは、天気のせいではない。空はどんよりとくもっているし、なんなら肌寒いくらいだ。
 ガイルとシャンは大人しく自分たちの部屋で絵を描いている。リンダは体を休めようと、居間のソファに体を横たえた。
 どうも風邪の症状とは違う。熱っぽいが、それほどだるいわけではない。どことなく腹が減っているような、満たされない感じがする。そして下腹部辺りがもやもやする。それに加えて、相変わらず歯がいたがゆい。さらには額の上の辺りと、肩甲骨、そして尻の少し上の辺りが妙にむずむずする。

「んあーっ、もうっ!」

 全身の至るところがむずむずとする感覚に、リンダは思わず声を上げる。このままでは、むずがゆさに床の上を転がる羽目になりそうだ。
 声を荒らげたのと同じタイミングで、窓の外から、ごろごろごろ、と唸るような低い音が響いた。雷だ。それに、どうやら雨も降り出したらしく、激しく窓を叩く雨粒の音がし始めた。いつの間にか、部屋の中はかなり暗くなっている。

「リン兄~!」
「リンダ、雷だぁ!」

 奥の部屋からガイルとシャンの情けない声が聞こえる。二人とも雷が怖いのだ。リンダは二人を安心させるために、そばに行くことにした。
 ソファから立ち上がり、部屋の入り口に足を向けた、その時。
 ――ドーンッ!
 どこか近所に雷が落ちたのだろう。まばゆいばかりの光に、地響きのような凄まじい音。びりびりするほどの振動が窓を揺らした。

「キャーッ!」
「うわーっ!」

 弟たちの悲鳴が聞こえる。
 早く駆けつけてやらねば、と思いつつも、リンダの足はその場に張りついて動けなくなってしまった。
 轟音に驚いたのではない。リンダはそれほど臆病な性質たちではない。
 動けなくなった理由。それは、自分の体にとんでもない異変が起きたからだ。

「……え?」

 変化というのも、ちょっとやそっとの変化ではない。歯が、額が、背中が、尻の上が、むずがゆいと思っていたその全ての箇所が、変化していた。いや、変化というより「なにか」が生えてきていた。

「なっ、なっ、なっ」

 居間の端のほうに置いてある姿見に、よろよろと体を向ける。そして、そこに映る自分と、信じられないような気持ちで向き合った。

「なぁっ!」

 額にはちんまりとした角。背中には申し訳程度の羽。下半身の違和感に、バッ、と後ろを振り向き、ズボンに手をかけて中を覗き込む。尻の上に、黒くて細い尻尾が、ちょろん、と生えていた。先のほうが少し太く、槍の先のようなひしがたになって尖っている。が、そんなに長くもないし、立派でもない。これでは、蜥蜴とかげの尻尾に毛が生えた程度だ。

「なんだこれっ!」

 リンダの咆哮に合わせて、服の背中部分を突き破って生えた羽が、ぱたぱたと揺れる。ばっさばっさ、ではない、ぱたぱた、だ。情けないほど小さい。見た目は蝙蝠こうもりの羽のように薄く、外は真っ黒く内側はほのかにピンク色。よく見れば薄らとふわふわの産毛が生えていて、触れると、くんにゃりと柔らかい。確かな質感を持ったそれは、どう見ても作り物ではない。少しつまめば痛くて、ちゃんと痛覚があるとわかる。
 リンダは鏡の前まで歩いて、ぺたりとそこに手をつけた。そして口を、あー、と開けてみる。犬歯に当たる歯が、鋭い……というよりは、ちょっと尖った牙に姿を変えて、にょきっ、と生えていた。

「…………なんだ、これ……」

 どう見ても、今の自分の姿は、魔族だ。そう、魔族、なのだが、なぜだかどこもかしこも、中途半端。角も、羽も、尻尾も、牙さえも、どこかこじんまりとまとまっている。リンダは鏡に手をついたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。

「リンダー!」
「リン兄ぃ、どーこーっ?」

 弟たちの泣き声まじりの声に、リンダはハッと顔を上げる。自分の体の変化に対する衝撃に、まだ心臓がバクバクと激しく鳴っているが、泣いている弟たちを放っておくわけにはいかない。
 リンダを探し回ってうろうろしているらしい弟たちの声が、どんどん近づいてくる。リンダは居間の中を右往左往して、ソファに掛けていたキルト生地の布を、がばっとがすと、それを頭から被った。

「リンダ……!」

 居間に入ってきた二人は、べそべそと泣いていた。そして、布を被ったリンダを見て「キャーッ!」とそろって悲鳴を上げる。

「お化け! うわーん!」
「うわーっ、リンダ~!」

 部屋の中に響く、雷の音と、雨の音と、子どもたちの悲鳴の多重奏。リンダは慌てて布の端を持って、広げた。

「ガイルッ、シャンッ、落ち着け! 俺だ、俺」

 布の合わせから顔を見せると、二人ともぴたりと涙を止め、ひっく、と喉を鳴らしてぽかんとリンダを見上げた。

「リン兄?」
「リンダ、なんでそんな格好してるの?」

 頭から布を被ったまま、顔だけ出すリンダに、二人は首をかしげる。もっともな質問に内心冷や汗をかきつつ、リンダは少しつっかえながら答えた。

「い、いや、ほら、雷が怖くて……な。これ被ってると、ちょっとだけ怖くなくなるんだ」
「そうなの?」
「ああ……そうだっ、お前たちも被るか! そしたら怖くないぞ!」

 リンダは布をずるずると引きずりながら、居間から一番近いアレックスとローディの部屋に入る。ちょうどよくベッドがふたつあるので、そのシーツをいで、二人にそれぞれ渡した。

「ほら、これを頭からすっぽり被ってみろ」
「ええ、でも……」

 なにかを言いかけたガイルだったが、その時、タイミングよく雷が鳴った。ゴロゴロと唸るような低い音が響いた後に、ピシャーッという空気を裂くような鋭い音、そして閃光が走る。

「雷こわいー!」

 二人は布を被ってぶるぶると震えながらリンダにしがみついてくる。リンダは二人を、ぎゅっ、と抱きしめた。
 雷のいんが消えた頃、ガイルがもぞもぞと体を動かした。そして、シーツの隙間から、ぷはっ、と息を吐いて顔を出す。

「これ、いいかも。これしてると、暗くなってなにも見えないから、ピカッて光るの怖くない」

 ガイルの言葉に、シャンも「よいしょよいしょ」と言いながらシーツをり寄せ、顔を出した。

「さっきより、こわくないよぉ」

 涙と鼻水の跡を残しながらも、にこ、と笑っている。リンダは布にくるまったまま、二人を抱きしめた。

「じゃあ雷がどこか行くまで、こうやってような」
「うん!」

 そのまま三人で身を寄せ合って、雷が過ぎ去るのを待つことにした。
 ガイルとシャンは小さな声でシーツ越しにおしゃべりしているが、リンダは内心それどころではない。さっきからシーツが羽に引っかかって痛いし、尻尾もズボンの中で突っ張って苦しい。まずもってなぜ自分の体がこんなことになってしまったのか、さっぱりわからなすぎて、恐ろしい。
 いつの間にかリンダは、しがみついてくる二人に、逆にすがりつくように抱きついていた。

「リン兄も、雷こわかったんだねぇ」
「ね。よしよししてやろうぜ」

 ぼそぼそと、小さな声のやり取りが聞こえる。それから少しの間の後、布越しに、小さな手が頭の辺りを撫で始めた。小さなふたつの手だ。
 その温かさが、不安で仕方ない心を少しだけ落ち着けてくれる。リンダは目を閉じて、じっと身じろぎもせず、その温もりを享受した。


 ようやく雷が収まった頃、気がつけばガイルとシャンは眠っていた。すぅすぅと規則正しい寝息がふたつ、リンダの耳に届く。リンダは二人を起こさないように、ゆっくりと体を起こした。
 足音を立てないように自身の部屋へ向かい、クローゼットからフードのついたがいとうを出してる。ついでにズボンの尻の上辺りに切れ込みを入れ、尻尾を出した。尻尾は「待ってました」とばかりに飛び出して、ゆらゆらと気持ちよさげに揺れている。自分の体の一部ながら、よくわからない部位だ。

(さてどうしようか)

 とにかく、このまま家の中にはいられない。弟たちがこれを見たら大騒ぎになってしまう。それで近所の人たちにまで見られでもして、魔族だと疑われたら、もうここにいられなくなるかもしれない。
 ではどうするか、と悩んでいるうちに、玄関のほうがにわかに騒がしくなった。「ただいまーっ」と明るく響く声は、ヴィルダにアレックスにローディのものだ。リンダは慌てて玄関に向かった。

「ヴィルダ、アレックス、ローディ!」
「あっ、リンダー! 雨がすごくてさぁ! もう全身びっしょびしょだよ! お風呂ってもう入れる?」

 言葉通り濡れ鼠の三人は、先ほどの雨に降られたらしい。本当ならタオルを準備して風呂を沸かしてやって、温かい飲み物でも飲ませてやりたいところだが、いかんせん体の状態がそれを許さない。

「ごめん……っ! 俺……、俺、ちょっと出てくる!」
「はっ?」
「リンダ? どうしたの?」
「リンダ? もう夜になるよ?」

 そこでようやく、リンダの格好が常とは違うことに三人が気づいたようだ。がいとう姿のリンダを見て、不思議そうな顔をしながら首をひねっている。

「えっと、ガイルとシャンが、アレックスたちの部屋で寝てるから、面倒見てやってくれ」
「えっ?」
「夕飯は準備してあるから、いい時間に温めてから食べろよ」
「ちょっと待って」
「風呂は掃除だけしてある……、後は、悪いっ! 自分たちで沸かしてくれ!」
「リンダッ?」
「ごめん! えっと……兄さん! ファング兄さんのところへ行かなきゃならなくなったんだ!」

 フードの中の顔を覗き込まれそうになって、慌ててふちを掴み、深く被り直す。そしてひたすら謝りながら、リンダは三人の間をすり抜けて外へ飛び出した。


 外は雨が降っていた。おかげで、目深にフードを被ったリンダが不審な目で見られることはない。
 リンダの歩みに合わせて、背中で羽が揺れる。なんとも言えないその感覚に違和感を覚えながらも、リンダは人を避けて街中を歩いた。
 どうしても弟たちにこの姿を見せられなくて飛び出してしまったが、当然行くあてなどない。かといって、こんな「魔族です」と言わんばかりの格好では、おいそれと店にも入れない。
 魔族にも、人間に害をなすものと、なさないものがいる。共存とまではいかないが、ヴァレンザーレ国では、害をなさない魔族までちくしようとは考えられていない。噂では、街中でごくまれに魔族を見かけることもあるという。しかし人間の世界に顔を出す魔族は、大抵人間と変わらない姿にたいしているため、よっぽどの力がなければ、それを魔族と見抜くことはできない。

(こんな、角も羽もき出しの姿を見られたら、さすがに騎士団や聖騎士団に通報されちまう)

 元の姿への戻り方などわからないリンダは、身を縮めながら足を動かした。雨水を吸った靴は冷たく重いが、そんなことは気にしていられない。

(さて、じゃあどこに行くか……)

 弟たちには口からでまかせで「ファングに会いに行く」、と言ったが、案外そうするのが一番いいかもしれない。リンダは、ファングの顔を思い浮かべる。真面目で、堅物で、怖い兄ではあるが、いざという時にはとても頼り甲斐がある。困ったことがあるならば、まずは年長者に相談する。それはアズラエル家の決まり事だ。
 ファングは聖騎士団の団員ではあるが、その前にリンダの兄だ。きっとこんな姿の自分でも受け入れてくれるだろう。リンダは、元気のなくなっていた足をふるい立たせ、聖騎士団のつめしょ近くにあるファングの家を目指すことにした。
 ファングの独り住まいは、聖騎士団のつめしょの目と鼻の先にある。具体的には、通りひとつ挟んでいるだけ、というとんでもないご近所物件だ。
 単身用なのでそんなに大きくはないが、一軒家になっており、その隣、さらにその隣と、同じような家が何軒も並んでいる。いずれも聖騎士団に勤める者が使用していると、以前ファングから聞いたことがあった。ここら一帯は聖騎士団が借り上げているのだ。
 当然といえばそうかもしれないが、ファングはまだ勤務中らしく、家は無人のようだった。さすがに家の真ん前で待つわけにもいかず、リンダは少し離れた街路樹の下で、突っ立ったままファングを待つことにした。


 それからどれくらいの時が経っただろうか。辺りはとっぷりと暗くなり、規則的に並んだ街灯に、明かりが灯り始めた。
 立っているのもなんなので、濡れた地面に尻をつけないように腰をかがめる。ちょっとした不審者の出で立ちだが、致し方ない。濡れた足先をちょんちょんと突きながら、リンダは肌寒さに膝をすりよせた。背中の羽が寒さに耐えかねたように、きゅう、と縮こまり、尻尾も、へにゃ、と弱々しく体に張りついている。

「なにか困り事ですか、お嬢さん?」

 唐突に、声がした。不思議とよく通る、なんとも形容しがたい声音だ。
 顔を上げると、ほんの数歩先に男が一人立っているのが見えた。身なりの良い男だった。見るからに良い生地の服を着て、帽子を目深に被り、洒落た傘をさしている。
 なぜこんなに近くに来るまで気がつかなかったのか、とリンダは内心首をひねる。雨のせいなのか、足音すら聞こえなかった。

「あ、いや、大丈夫だ。人を待っているだけだから……」
「そうですか? さっきからずぅっとここでかがみこんでいらっしゃったから、気分でも優れないのかと思いまして」

 一体いつからリンダを見ていたのだろうか。男はにこやかな表情を浮かべながら、うかがうように小首を傾けている。リンダはすっくと立ち上がった。

「ああ、待ってる奴ももうすぐ来るだろうから、本当に大丈夫。それに俺、『お嬢さん』じゃないし」

 先ほど「お嬢さん」と呼びかけられたことに対して、肩をすくめて答える。フードを取ることはできないが、声と体格で男だとわかっただろう。リンダは男にしては細身の体型だが、女や子どもに間違えられるほど背が小さいわけでもない。

「そうですか?」

 その声に違和感を覚え、リンダは改めて、男の顔をまじまじと眺めた。男は、間違いなく「美形」と言っていい、整った顔立ちであった。整っている、整っているのだが、特徴がない。別れて数歩歩けば忘れてしまいそうなくらい印象に残らない顔なのだ。

「そうですか、って……」
「貴方、『めす』の匂いがしますけど」

 男の言葉の意味を理解しかねて、リンダは「は?」と、とんきょうな声を出す。明らかにおかしな男から少し身を引いたリンダに対し、男は動じるでもなく「ふむ」とあごに手を当てる。そして、すんすん、と匂いを確かめるようにその高い鼻を鳴らした。リンダは、もう一歩後ろへ下がる。

「……ああ、貴方『半分』なんですね」
「半分? あんた、さっきから言ってることおかしいぞ……なにを……」

 先ほどから噛み合わない会話に、リンダは段々と変な気分になってくる。そしてその時、リンダは不可思議なことに気がついた。
 目の前にいる男は、全身、どこも濡れていないのだ。この雨ならば、いくら傘をさしていても足の先なり肩なりに水滴くらいついてもおかしくない。しかし、男の体は上から下まで、まるで水気というものを感じさせない。体だけ、この空間から切り離されているかのように乾ききっている。

「あ、あんた……」
「『半分』であれ、淫魔の処女とは実に珍しい。ぜひとも食べさせていただきたいな」
「い、いんま……、しょじょ?」

 あまりに突拍子もない発言に、頭の中で男の言葉とその実体が結びつかない。しかし、いつの間にか自分が、なにかとてもまずい状況に置かれているのだということはわかった。
 男はふいに持っていた傘を下ろすと、優雅に一まとめにくくった。ゆったりとした動きに見えるが、かといってその間に逃げられるような隙もない。そしてやはり、傘がなくとも男の体は少しも濡れはしない。体に降りかかる寸前に雨が消え失せているかのようだ。

「良い匂いを辿ってきたら、良いものに出会えました。さて、では行きましょうか」
「え? なに……」

 男が、リンダへ手を伸ばす。まったく状況が掴めないが、男の言葉に従うべきでないことはわかった。リンダはとっさに男から距離を取る。しかしその瞬間、なんとも言えない猛烈な感がリンダを襲った。腹の奥底にひそむなにかが、目の前の男から流れ出る「それ」を欲して暴れ出そうとしている。


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