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1巻

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   第一章


「リン兄ぃ、ガイルが僕のおやつ食べたぁっ」
「シャンが食べていいって言ったんだよ!」

 洗濯物を取り込むリンダの足元で、幼い兄弟がキャンキャンと言い合いながら、子犬のように追いかけっこをしている。

「はいはい、本当はどっちが悪いんだ? ……そうだなぁ、悪い子には俺からとびきりのお仕置きをくれてやろうかな」

 洗濯かごを足元に置いて問うてみると、二人とも気まずそうにそっぽを向いてしまった。

「ガイル、わるくない」
「シャンわるくない、おしおきしないであげて」

「お仕置き」と聞いて、お互いがお互いをかばうように相手は悪くないと言い、結局、シュンとうつむいてしまう。リンダは「ふん」と鼻を鳴らすと、洗濯かごを持って二人に背を向けた。

「じゃあ二人ともお仕置きだ。今からこの洗濯物を全部たたんでもらう」

 かごの中には八人分の洗濯物がこんもりと詰め込まれている。入りきらなくて溢れそうなほどだ。
 それを見たガイルとシャンは「げーっ」と口をそろえて悲鳴を上げた。

「それが終わったら、俺が作ったクッキーを食べてもらうからな」

 途端に、二人はパァッと顔を明るくして、顔を見合わせて笑い合う。本当に子犬であったら、尻尾を千切れんばかりに振っていることだろう。
 リンダは嬉しそうに笑う弟たちを「ほらっ」と言ってうながした。

「ヴィルダたちが帰ってくるまでにたたみ終わらないと、クッキーは全部あいつらにやっちまうぞ」
「ええ~っ?」
「リン兄いじわるー!」
「当たり前だろ、お仕置きなんだから。喧嘩せずに仲良くたためよ」

 リンダの言葉に、そろって「はーい」と元気に返事をしながら、二人は駆け出した。と、庭から家に入る途中で思い出したように引き返してきて、リンダの洗濯かごを取り上げる。どちらが持つかで、また言い争っていたが、きっとそう時間をかけずに作業を終わらせるだろう。二人とも、リンダの焼くナッツのたっぷり入ったクッキーが大好きなのだ。

「……さて、と」

 洗濯物をたたむ時間が省けたが、その代わりにクッキーを焼かなければならなくなった。その後は、続々と帰ってくる大食らいな弟たちのために、大量の夕飯を作らねばならない。夜は夜で弟たちの勉強も見てやらねばならないし、それよりなにより、まずはガイルとシャンが荒らした部屋の片づけだ。ゆっくり立ち止まっている暇はない。
 ふぅ、と溜め息を吐いてから、リンダは腕まくりした。


 リンダ・アズラエルは、アズラエル家の次男だ。
 アズラエル家の子どもは九人兄弟。上から長男ファング、次男リンダ、三男カイン、四男フィーリィ、五男ヴィルダ、六男アレックス、七男ローディ、八男ガイル、九男シャン、という構成の、見事に男だらけのむさ苦しい一家だ。その中で、リンダとカイン、アレックスとローディは双子である。
 子だくさんな家は多いが、アズラエル家は別格だ。双子が二組いて、一番上と一番下が二十歳も離れている。一人くらい女の子が生まれないかと頑張っていたらこんなことになってしまった、と父と母はよく言っていた。
 兄弟が多く子育ては大変だっただろうが、両親は、たっぷりの愛情を兄弟全員に平等に注いでくれた。おかげで皆、非行に走ることもなく元気一杯健康的に育ったわけだが、そんな優しい両親は、四年前にそろって亡くなってしまった。
 父は聖騎士として、母は魔法使いとして、隣国との戦に参加し、その戦いの中で帰らぬ人となったのだ。リンダが十六歳、一番下の弟シャンに至っては、まだ生まれて一年も経っていなかった。リンダはちょうど学園の卒業を控え、進路について考える年でもあった。
 リンダたちが住むヴァレンザーレ国は、穏やかな気候に恵まれ、よくな大地を持つ。そのため、それを狙って侵攻してくる隣国と小競り合いが絶えない。他国との戦に勝つため、そして人間を害する一部の魔族や、人間をえさとする魔獣に対抗するために、騎士や魔法使いの育成に力を入れている。
 子どもたちは六歳になると、皆、各地の王立学園に入学し、学術、武術、魔術を学ぶことになる。そして、それぞれ適性のある者は、卒業後に騎士や魔法使いや文官になる道がひらけるのだ。
 さらに魔法も使え、騎士としての体力や技巧も有する者は、誉れ高い「ヴァレンザーレの聖騎士団」の一員となる。騎士団とはまた別の、独立したひとつの組織であり、りすぐりの有能な戦士のみが所属することができる精鋭部隊だ。
 アズラエル家は不思議なことに、代々魔力に優れた者が生まれやすい。魔力量の多い少ないは遺伝によるものではないと言われて久しいが、アズラエル家はどうやらその説に当てはまらないらしい。ほとんどの者が幼少期から魔力の片鱗を見せ始める。
 魔力に優れ、男子の多い家系であるアズラエル家は、聖騎士を輩出している。
 現在は長男、三男、四男が所属しており、まだ在学中の五男六男七男も、いずれは聖騎士になるのではないかと目されている。
 長男のファングはその聖騎士の中でもさらに優秀な部類で、学園を卒業すると同時に聖騎士となり、激務と言われるその仕事を、何年も立派に勤め上げている。
 ファングは最近、部隊長になったらしい。らしい、というのはファングから直接聞いたわけではないからだ。リンダはそのことを、同じく聖騎士である弟たちから聞いた。ファング自身は仕事が忙しく、あまり家に帰らない。聖騎士団のつめしょの近くに単身用の家を借りており、ほとんどそこで寝泊まりしている。もっぱら家にいるリンダは、兄と会う機会が弟たちより格段に少ないのだ。
 そう、リンダは聖騎士ではない。騎士でも、魔法使いでもない。かといって外に働きに出ているわけでもない。家で、家事を主としてこなすだけ。兄弟たちの面倒を見ながら、家を守っている……と言えば聞こえはいいが、要は「無職の主夫」だ。
 もちろん、リンダにも夢はあった。もちろんそれは主夫ではない。ただ、自分の夢が叶わないことも知っていたし、それを受け入れたのも自分だ。
 リンダは今日も、掃除、洗濯、子育てに全力を注いでいる。


 リンダが夕飯の支度を終えた頃、学園に通う弟たちが帰ってきた。

「ただいまっ! めちゃくちゃ腹減った! リンダ、なんか食べるものある?」
「リンダ~、明日園外学習なの忘れてた!」
「リンダ~、園外学習ってどんなことするの?」

 帰宅早々、五男のヴィルダ、六男のアレックス、七男のローディが各々リンダを呼ぶ。そろいもそろってかしましいことこの上ない。

「居間の机の上にクッキーがあるからそれ食べな。あ、もうすぐ夕飯だから食べすぎんなよ」

 リンダは、ピッと親指で居間を差して見せた。ヴィルダは「お、やったね」と奥へ走っていく。黒い髪をさっぱりと刈り上げて、見た目だけはだいぶ大人っぽくなったが、中身はまだまだ子どもだ。その姿を見送ってから、今度は双子のほうに向き合う。

「俺が通ってた頃のでよければ、園外学習についてまとめた資料が残っていたはずだ。後で出してやる」

 リンダの言葉を聞いた双子は、そろって顔を輝かせる。ふわりとした柔らかな癖毛を持つ二人は、おっとりとした喋り方からなにから、瓜二つだ。
 ちなみに、アズラエル家の兄弟の見た目はそれぞれ、骨太でたくましく黒髪の「父似」と、すらりと細身で柔らかな栗毛の「母似」とで分かれている。ファング、ヴィルダ、ガイルは父似、カイン、フィーリィ、アレックス、ローディ、シャンが母似、唯一どっちつかずなのが、細身で黒髪のリンダだ。いいとこ取り、とは言われるが、小さい頃は、なんとなく疎外感を覚えたものである。

「リンダありがとう~! やっぱり持つべきものは真面目な兄だなぁ。ヴィルダに聞いたら『そんなのあったか?』なんて言うんだよ? 信じらんないよねぇ」
「リンダありがとう~! 今夜も、僕らの勉強に付き合ってくれる?」
「わかったよ。ただし、やるからにはきっちりやるぞ。ヴィルダみたいに途中で逃げ出すなよ?」

 彼らのすぐ上の兄を引き合いに出して了承の意を示すと、アレックスとローディは「もちろん!」と明るい声を上げながらリンダに飛びついてきた。ガイルとシャンが子犬なら、彼らは大型犬だ。最近身長が伸び盛りで、自分とほぼ変わらない背丈になった双子に両側からへばりつかれると、少々暑苦しい。

「お前たちもクッキー食ってこい。あ、手は洗ったか? ヴィルダにも、食うなら手を洗ってからにしろって言っといてくれ」
「はいはーい」

 返事もそこそこ、二人は楽しそうに笑いながら駆け出した。仲の良いその様子を見ながら、リンダは苦笑する。
 居間のほうからはすぐに楽しげな声が聞こえてきた。きっとヴィルダたちが帰ってきたので、ガイルとシャンも喜んでいるのだろう。なんだかんだ、弟たちは皆仲良しなのだ。
 自分も輪の中に入って一緒に笑い合いたいが、残念ながらそんな時間はない。リンダは風呂を沸かすために風呂場へ移動した。
 ささっと風呂の準備を済ませ、弟たちに夕飯を食べさせる。その合間に調理道具を片づけ、食事の済んだガイルとシャンをまとめて風呂に入れて。その後弟たちを順番に風呂に追いやっている間に食器を片づけてから、ガイルとシャンの寝かしつけ。絵本を五冊読んでやって、寝ついたのを確認したら、今度はアレックスとローディの予習に付き合い、ヴィルダに明日の学園の準備をさせる。
 そうこうしていると、聖騎士団に勤める四男のフィーリィが帰ってきた。

「ただいまぁ~……」
「お帰り。夕飯食べるか? 風呂にするか? 風呂なら沸かし直すけど」
「んー、風呂。……あ、リンダ、俺明日は飲みに行くから夕飯いらない」
「わかった」

 フィーリィはよほど疲れているのだろう、言葉少なに風呂場のほうへ消えていく。学生の頃は、毎晩女の子を引っかけに街に繰り出す軟派な男だったフィーリィだが、聖騎士になってからはめっきり遊び歩かなくなってしまった。若手だけあって、毎日きつい訓練が課せられているらしい。

「あ、フィーリィ。カインは?」

 風呂場に向かって声を張り上げると、フィーリィが顔だけをひょっこりと覗かせた。

「知らねぇよ? 別部隊だもん。あいつも役職もらって忙しいんだろ。ま、それかまたどっかで飲み歩いてるか、だな。あーぁ、俺も早くそうなりてぇなぁ。聖騎士の制服着て歩いてるだけでわんさか女の子が声かけてくるんだぜ? 入れ食いだよ入れ食い」

 俺もこんなにボロボロでなけりゃ一発楽しむのに、と恨みがましそうに呟くフィーリィの言葉に、リンダは苦笑を返すしかない。元々色素の薄い髪色をしているのに、わざわざ金に近い色で髪色を整えているフィーリィは、アズラエル家で一番のモテたがりだ。

「そうか。じゃあカイン、夕飯いらねぇかな」

 呟いたリンダを、フィーリィが冷めた目で見て、溜め息を吐いた。

「……はぁ、いいよなぁリンダは。飯だなんだって家のことだけ心配してりゃいいんだから」

 なんてことない軽口だ。しかし、心臓に小さな針をちくりと刺されたような心地になって、リンダは自身の目の端がぴくりと引きつるのがわかった。
 だが、それは一瞬だけのこと。リンダは片手を腰に当てて、ハッと吐き出すように笑った。

「国の平和はお前らが守ってくれ。俺は可愛い弟たちの胃袋の平和を守るので手一杯だからな。……あぁ、最近はすっかり可愛くなくなっちまった弟のも、な」

 フィーリィは一瞬きょとんと目を見張ってから、はははと笑った。

「なんだよー、いつまでも可愛い弟だろ?」

 けたけたと笑う弟に「かもな」とだけ返して、リンダはきびすを返す。
 居間に戻ると、アレックスとローディが、ワクワクしたような顔をしてリンダを待っていた。

「フィーリィ帰ってきたの? 俺、聖騎士団の話聞きたかったんだ!」
「ねぇリンダ、フィーリィが風呂から上がったら予習やめていい?」

 先ほどまでリンダと楽しげに話していた園外学習の話は一転、聖騎士団の話題一色となった。机の隅に追いやられた、学生の頃必死にまとめた資料を眺めながら、リンダは「お前らの判断に任せるよ」とわずかに顔をうつむけて微笑む。二人は嬉しそうにきゃっきゃとはしゃいでいた。
 その後、風呂から上がったフィーリィに夕飯を食べさせて、皆の話を聞きながら片づけと明日の仕込みを済ませて、頃合いを見計らって学生組にそろそろ寝るように言いつけて、自身の夕飯と風呂を終えて居間に戻れば……もう日付が変わる時間だった。
 リンダは「ふぅ」と溜め息を吐いてから、一人掛けのチェアに腰を落とす。ようやく、慌ただしい一日が終わりを告げようとしていた。少しだけ身を休めた後、カインのために皿に移した料理を机の上に並べ、居間の照明を落とし、自身も部屋へ戻ることにした。
 皆が寝静まったのを確認してから、部屋に入り、明かりを灯す。それから、本棚の奥に隠しておいた書物を取り出して、机に広げた。蝋燭ろうそくのわずかな光でそれを読みながら、帳面に書きとっていく。
 静かな部屋に、筆の走る音だけが響いた。


   *


「おい」

 呼びかけるような声に、リンダは、ハッと目を覚ました。どうやら居眠りしていたらしい。
 慌てて顔を起こす。頬が少しじんじんするのは、そこを机に押しつけて寝ていたからだろう。机に置いた蝋燭ろうそくは、かなり短くなっていた。いつから居眠りしていたのか定かではないが、そう短い時間ではないようだ。

「あ、え……カイン?」

 振り仰げばそこには、リンダの双子の弟、カインが立っていた。
 双子とはいっても、カインとリンダの見た目はまったく違う。黒髪のリンダに対し、カインは淡い蜂蜜色の毛。目の色も同じく、カインのほうが色素が薄い。そしてなにより、身長や骨格の作りがまったく違う。全体的に小づくりで細いリンダに対し、カインはすらりと背が高い。長男であるファングのようにがっしりとはいかないが、かなり筋肉質だ。

「ふぁ……、おか、えり」

 リンダは寝ぼけ眼でカインを見上げ、あくびまじりの声をかける。カインの垂れ目気味の目尻がきゅっと細くなり、目元の特徴的なほくろが隠れた。

「部屋に明かりがついてるから見に来てみれば……」

 呆れたような冷たい物言いに、リンダはカインの視線を辿り、ハッとする。カインの目は、机の上のものを見ていた。
 慌てて隠そうと伸ばした手は、あっという間に掴まれてしまう。自分より一回り以上も大きな手を、リンダは払いのけることができなかった。風呂上がりなのだろうか、カインの手はじわりと熱く、掴まれたそこから、なんともいえない熱が伝わってくる。

「いっ……!」
「なんでこんなもの読んでんの?」

 机の上に広げられていたのは、魔法書だ。学園で使われている教科書よりも数段階上の難しい内容のもので、ヴィルダに説明したところで内容は伝わらないだろう。弟たちの勉強を見るために、という言い訳はきかない。

「いいだろ、別に」
「ヴィルダたちならまだしも、ただの主夫に魔法書は必要ねぇだろ。……それとも、まさかいまだに諦めてねぇ、なんて言わないだろうな?」
「な、なにを……」
「なにって、聖騎士になることを、だろ?」

 カインの言葉に、カッとリンダの頬が赤くなる。図星だったからだ。
 しらばっくれようとしたが、どうしても無理だった。よりによって双子の片割れ、しかも既に聖騎士となっている優秀な弟に言い当てられて、恥ずかしさと悔しさと惨めな気持ちがごちゃまぜになって、リンダは言葉に詰まってしまう。

「……っ」
「図星かよ。なんつうか、ある意味すごい執念だな」

 心底呆れたような、溜め息まじりのカインの言葉に、リンダは無言でうつむく。
 そんなリンダをジッと眺めてから、カインは、突き放すように言った。

「……まぁ、なにしようがお前の勝手だけど」

 捕まえていた手もパッと離し、どうでもよさそうに明後日のほうを向いてしまった。そうだろう、とリンダは心中で思う。カインはリンダに、毛ほどの興味もないのだ。

「なんでもいいけど、飯はちゃんと作ってくれよ。それがお前の仕事なんだから」

 結局のところ、それが言いたかったのだ。リンダがなにをしようがどうでもいい、ただ自分に影響がないようにしろ、と。

「あんま夜更かしすんなよ、お兄ちゃん?」

 普段、兄などと絶対に呼ばないくせに、こんな時だけ強調するように言うカインに、リンダは口を閉じたまま歯を食いしばった。

「じゃ、おやすみ~」

 からかうような口調でそう言い捨てると、カインはリンダに視線をやることもなく部屋を出ていった。
 ドアが閉まるのを確認してから、リンダは溜め息を吐いて椅子に座り込む。もちろん、もう勉強なんて続けられる気分でもなく、目の前に広げられた本を閉じて、その上で拳を握りしめた。見下ろした手は少しだけ震えている。それが憤りからなのか、悲しみからなのか、リンダにはわからなかった。


 リンダは聖騎士になりたかった。大好きな父や長兄と同じように、誉れ高い聖騎士となり、国を守りたかったのだ。
 戦の多いヴァレンザーレ国を最先端で守り続ける、聖騎士。父は長く家を空けがちだったし、帰れば必ず怪我が増えていた。それでも、真白い聖騎士の制服に身を包む姿は、いつだってしびれるほど格好よかった。そんな父の背中を見て育ったリンダは、自分も聖騎士となり、弟たちを……ひいてはこの国全ての人を守るのだと、幼い頃から心に誓っていた。その道を進むのが自分の使命だと、当たり前のように思っていたのだ。
 幼い頃は、カインと「どちらが先に聖騎士になれるか競争だ」なんて言い合っていた。リンダもカインも、自分が聖騎士になると疑ってもいなかったし、相手もまた聖騎士になるに違いないと信じていたのだ。後はどちらが早いかだけの勝負だった。そのはずだった。
 幼い頃は、そう差もなかったように思う。むしろリンダのほうに魔力の片鱗が見えていた。それを悔しがるカインの姿も覚えている。しかし、学園に入学してから、全てが変わっていった。リンダには魔力がほとんどなかったのだ。片鱗を見せていたのはなんだったのかというくらいのからっけつ。基本魔法のひとつすら満足に使うことができない。
 そんなリンダを尻目に、カインのほうは、在学中から「将来は立派な聖騎士になるだろう」と噂されていた。長男のファングが優秀な聖騎士として既に勤めていたこともあり、余計に注目されていたのだ。
 もちろん、リンダも努力をしなかったわけではない。魔力がダメなら、と座学を必死で頑張った。体力をつけるために運動も欠かさなかった。魔力の試験以外では、常に上位の成績を修めていた。だが、ダメなのだ。聖騎士になるには魔法が使えなければならない。
 騎士になる道もあったが、教師から「騎士は聖騎士と違って力勝負なところがある。いくら体力があっても、その体格ではめられてしまうだろう」と、遠回しに「騎士には向いていない」と言われてしまった。鍛えても鍛えても、筋肉があまりつかない体質だったのだ。体力や体術には自信があったが、筋力のないひょろっとした体は、何歳になっても変わらなかった。
 教師の言葉で騎士になることを諦めたわけではないが、結局、そちらを目指すことはなかった。心のどこかにやはり「父と同じ聖騎士になりたい」という気持ちがあったからだ。
 しかし、自分の将来について深く考える前に、そう悠長に構えていられない事態におちいった。両親が、相次いで亡くなったのだ。
 それまでも、両親がいない間の家事や弟の面倒などの家のことは、リンダが一手に引き受けていた。既に聖騎士として勤めていたファングは家を空けがちだったので、実質リンダがアズラエル家での最年長だったからだ。リンダには、次男として「弟たちを守らなければならない」という責任があった。
 いつなにがあるかわからない聖騎士や騎士になって、もしファングや自分、それにカインになにかあったらどうなるだろう。あんなに強かった両親ですら、呆気なく死んでしまった。その上自分たちもいなくなったら、まだ学生の弟や、幼い弟は、どうやって生活していくというのだ。
 リンダは、悩んだ。悩みに悩みぬいて……、そして、どこにも就職しないことに決めた。いなくなってしまった両親に代わり、家を、そして弟たちを守ることにしたのだ。


 机の上を片づけて、ベッドに横たわる。そのまま、シーツの波間にずぶずぶと沈みこむように体を丸めた。なんの明かりもない部屋で目を開いて、じっと暗闇を見つめる。

(それでも……)

 家を守ると決めたのは自分だ。魔力のない自分は聖騎士にはなれないから、と。
 カインの言う通り、いい加減諦めればいいのに、それでも魔法の勉強をすることをやめられない。魔力がなくても、それに変わるなにかができないだろうかと、調べて、あがき続けている。

(それでも、聖騎士に……)

 家を守ると決めたのは決して生半可な覚悟ではなかった。ただ、一度その進路を選んだからといって、将来的に修正が利かないとは考えていない。弟たちもやがては巣立っていく。リンダとて、一生を家で過ごすつもりはないのだ。今すぐにではなく、もう少し、もう少し経ってから。弟たちに手がかからなくなってから。それからでも、聖騎士になることができたら……
 夢のような話だ、とわかっている。リンダはさらに、ぎゅっ、と体を丸める。
 魔力のない自分は聖騎士になれない。
 それでも諦められない夢と、どうしようもない現実との間で揺蕩たゆたって、そして、いつしか夢も見ないほどの深い眠りに落ちていた。


   *


(なんか、歯……痛いな)

 翌朝、いつも通り夜明け前に起きて朝食の準備を始めたリンダは、妙に痛む犬歯の辺りに舌をわせた。触ったから痛むというものではなく、奥のほうからずくずくとうずくような感覚だ。気になりはしたが、ずっとそのことを考えている暇などない。
 怒涛の勢いで朝食を準備して、一回目の洗濯を済ませてから、フィーリィを起こす。寝ぼけ眼の彼を洗面所に突っ込み顔を洗うように指示してから、カインにも声をかける。昨夜の気まずさはあったが、カインは気にした様子もなく、リンダの呼びかけに「……おぉ」と眠たそうに答えた。しょせんカインにとっては、取るに足らないことなのだろう。リンダは、ほっ、と溜め息を吐いた。
 朝食を温めて二人に食べさせてから、ヴィルダとアレックス、ローディの学生組を順番に起こす。特に寝汚いヴィルダは首根っこを掴んで、これまたフィーリィと同じように、まずは冷たい水で顔を洗わせる。こうしないと、いつまで経っても起きやしないのだ。
 人数が増えると、それに合わせて家の中がうるさくなってくる。やれ「靴下がない」だの「朝飯いらない」だの「仕事行きたくない」だの。男だらけなのにやたらとかしましい。挙げ句の果てに、ヴィルダは朝食を食べながら突っ伏して眠り出す始末だ。リンダはそんな弟の頬を引っ張って、無理矢理起こす。
 そうこうしていると、物音でガイルとシャンが起きてくる。そうなるともう、騒がしさの極みだ。リンダはそんな喧騒の中でも黙々と作業……など、到底できるはずもなく、あっちへ叫びこっちへ怒鳴りながらどうにか朝の戦場を駆け抜ける。
 しぶとく机にかじりついていたヴィルダを送り出し、ようやく下の二人以外が家を出た頃には、リンダはひとつふたつ歳を取ったかのような気分になっていた。いつの間にか、ぼさぼさと飛び跳ねてしまった髪を撫でつけながら、このままでは後数年で寿命が尽きてしまいそうだ、と溜め息を吐く。

「リン兄ぃ、ミルク飲みたい」

 嵐の過ぎ去った居間で、脱力して呆けていたリンダに、シャンが目をこすりながらコップを差し出してくる。

「ああ、うん。ちょっと待ってろ」

 リンダはシャンからコップを受け取りながら、はたと気がつく。ふい、と壁のカレンダーを見ると、今日の日付のところに、赤丸が記してあった。

(あ、そうか。今日は……)

 長男であるファングが、家に帰ってくる日だ。
 ファングは忙しい仕事の合間をって、定期的に家に帰ってくる。もちろんかなり期間が空きはするが。弟たちそれぞれとゆっくり話す時間はなくとも、ファングがいるだけで、いつもてんでバラバラな家族がまとまるように感じる。
 なので、リンダもファングが帰ってくる日は嬉しい。嬉しい、が、手放しに「嬉しい!」とはしゃぐこともない。もう兄に甘えて飛びつくような歳ではないからだ。それに、ファングが帰ってくるならば、夕飯もいつもより手が込んだものにしなければならない。

(早めに買い物行くかぁ)

 リンダはさらに込み上げてきそうになった溜め息を噛み殺して、シャンのコップにミルクを注ぐ。
 すると、思い出したように犬歯の辺りがズキズキとうずき出し、リンダは舌で歯を優しく撫でた。


 買い物や、ガイルとシャンのおやつ作りを終え、いつもより早い時間に夕飯を仕込んでいると、玄関のほうで物音がした。
 おそらくそうだろう、と思いながらそちらに足を向けると、リンダの予想通り、玄関ホールにはがいとうを脱ぐファングがいた。

「兄さん、おか……」
「ファング兄~っ!」
「おかえりなさいっ!」

 声をかけようとしたリンダの足元を二匹の子犬、もとい、ガイルとシャンが駆け抜けていく。

「ただいま、ガイル、シャン。元気にしていたか?」
「うん! 元気! 今ね今ね、お絵かきしてたの! ファング兄見て見て!」
「俺のも! 俺のも見て!」

 シャンとガイルはちょろちょろとファングの足元を回りながら、ふんふんと鼻息も荒く、競い合うように話しかけている。

「わかった、順番に見よう。だがその前に済まさなければならないことがある。先に部屋に行って待っていなさい。それから、廊下は走らない」
「はい!」

 リンダに対しては絶対に出てくることのない、行儀のいい返事だ。二人はファングの言葉に手を挙げて仲良く返事をすると、そろってそろそろとゆっくり部屋に戻っていく。なにも足音を立てるなとまでは言っていないのだが、ファングの言葉は効果覿てきめんだ。

「リンダ」
「……へっ、あ、なに?」

 こそこそと歩いていくガイルとシャンを微笑ましい気持ちで見守っていたら、ファングから名前を呼ばれた。

「まだお前からの挨拶を聞いていない」

 真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、リンダは少し面食らってしまう。兄はこういうところがあるのだ。真面目というか、堅物というか。

「ん、ごめん。おかえりなさい、兄さん。いつもお仕事お疲れさま」

 先ほど言いかけた言葉のことを言っているのだろう。確かにまだきちんと言えていなかった。「もう言った」なんて意地を張って反発するような歳でもないし、リンダは素直に挨拶と、仕事を労う言葉を述べた。

「ただいま。長く家を任せっきりで、すまん」

 いつもと変わらない兄に、リンダは苦笑を浮かべて首を振った。

「いいや。……それにしても遅かったな。休みじゃなかったのかよ」
「非番だったんだが、急な仕事が入ってな」

 さらりと告げるファングに、特段不満そうな様子はない。
 休みの日まで仕事とは恐れ入った。と、リンダは感心の溜め息をこぼした。

「毎日仕事で大変だな。体は大丈夫かよ? 飯はちゃんと食べてる?」
「問題ない」

 心配して聞いてみれば、帰ってきたのはそっけない返事。いつものことなので、リンダも特に気にしない。

「リンダ、土産だ。団の連中が弟たちにと」

 ファングはがいとうを掛けてから、足元に置いてあった箱や袋を指差して言った。
 アズラエル家に兄弟が多いことは聖騎士団の中でも広く知られているようで、実家に帰る際には、皆が気前よく菓子やらなにやらと持たせてくるらしい。毎度のことではあるが、大変ありがたい。いつか直接礼を言いに行きたいが、そんな暇もなく、たまにガイルやシャンとともに「お礼の手紙」を書いてファングに持っていってもらっている。
 土産の山の一角には、ファングから弟たちへのものもある。両親が亡くなるまでは、それは両親の役目だった。長い期間家を空けた後は息子たちそれぞれにお土産を買ってくる、それがアズラエル家の決まり事だったのだ。

「それから、これはお前に」

 ファングがリンダに手を差し出すようにうながす。リンダが手のひらを向けると、そこにころりと小さな箱が乗せられた。

「ありがとう。開けていい?」
「ああ」

 リンダの問いに、ファングが頷く。丁寧に箱を開くと、そこには赤い色の小さなピアスが一組入っていた。

「へぇ、洒落た作りじゃん。兄さん、ありがとう」

 リンダの感想に、ファングはあまり興味がなさそうに頷く。が、その後すぐに真面目な顔をしてリンダを見やった。

「リンダ。必ず新しいものにつけ替え……」
「つけ替えろ、だろ。わかってるって。今つけてるやつも……ほら、この間もらったやつだし」
「そうか。それなら、いい」

 ちらりとリンダの耳に目をやって、ファングはあっさりその話を切り上げてしまった。一体この兄がどんな顔をして、毎度洒落た装飾品を購入しているのか気になるところではある。が、リンダもそれ以上はなにも言わず、箱を服のポケットにしまう。
 兄からのリンダへの土産は、毎回必ず「ピアス」だ。ほかの弟たちには、年齢や時季に合わせてそれぞれ色々なものを用意しているようなのだが、リンダにだけはそれがない。
 少しの不満もない、と言えば嘘になるが、忙しい兄がわざわざ選んでくれるだけでもありがたい。事あるごとに兄が「ピアスはつけているか」と聞いてくるので、基本的には、片時も離さずつけたままにしている。

「なにか変わったことは?」

 ファングに問いかけられて、リンダは「うーん」と最近のことを思い出す。これといって変化はない。しいていえば今朝からの歯のとうつうくらいだが、それはわざわざ報告すべきことではないだろう。

「んー、特にないかな。兄さんは? 最近なにかあった?」
「いや、特にない」

 なくはないだろ、兄さん部隊長になったんだろ。とは、言えなかった。弟たちから聞いたなど、なんとなく恥ずかしくて言えやしない。
 本当は、今日はファングが部隊長になった、ささやかな祝いをしようと考えていた。ちょうど、ファングが好きな果物を使ったケーキを作っている途中だった。しかしなにもないと本人に言われてしまうと「お祝いしようぜ」とはなかなか言いづらい。
 リンダは「そっか」とだけ答えて、夕食を作るから、と台所へ向かった。しばらくして、どこからかガイルとシャンの楽しそうな声が聞こえてきた。きっとファングが面倒を見てくれているのだろう。

(どうすっかなぁ、このケーキ)

 弟たちのはしゃぐ声を聞きながら、作りかけのケーキを前に腕組みする。まぁ、なにかしら理由をつけて出せば、皆喜ぶだろう。アズラエル家にケーキを嫌いな者はいない。
 リンダは、いつもより少し豪華な夕飯と、ファングが好きな味のケーキの準備に戻った。


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