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1巻
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(……なんだ、これ?)
目が眩みそうなほどの強い欲求は、リンダの意識を簡単に濁した。気がつけば目の前に、ぬっ、と手が差し出されていた。そんなに近くにいるわけでもないのに、目隠しをされたかのように、その手のひらしか目に入らない。
視界を全て奪われそうになった、その時。鋭い声が通りに響いた。
「そこでなにをしているっ」
リンダは、はっ、と息を吐き出す。まるで夢から醒めたような気分だった。なぜか今の今まで聞こえていなかった雨の音と、バシャバシャと水を跳ねる足音が、急に耳に入ってくる。
「……厄介な」
目の前の男は低い声で呟いた後、リンダに向かってにこりと微笑んだ。
「お嬢さん、またお会いしましょう」
帽子を取って、場違いなほど丁寧な礼をすると、男は再び傘をさす。その瞬間、男はまるで煙のようにその場から消えてしまった。鮮やかな赤い傘の色だけが、鮮明に目に焼きついた。
心臓が、どく、どく、と激しく脈打っているのがわかる。突然襲ってきた飢餓感は、男が消えるのに合わせて、ゆっくりと収まっていった。
「大丈夫かっ」
先ほどの鋭い声を上げた人物が、リンダに近寄ってくる。街灯の下に浮かび上がったその人影は、リンダが待ち焦がれていたファングだった。
リンダがファングに気がついたのと同じように、ファングもリンダを認識したのだろう、訝しむように目を細めている。
「リンダか?」
「兄さん……」
目の前で起こったことが信じられず、呆然としているリンダに、ファングもなぜか呆けたような声をかけた。
「リンダ、だな」
確かめるようなその声に、リンダはハッとフードに手をやる。先ほどのどさくさでフードがめくれ、リンダの額の小さな角は、ファングの目に晒されていた。
「う、うん、俺だよ。なんかわかんねぇんだけど、急にこんなになっちゃってさぁ……変だよな、こんな……」
リンダはとっさに、場を茶化すように笑った。自棄っぱちのように、自嘲するように。しかし、そんなリンダに対してファングは笑わない。ただ、黙ってリンダを見ていた。
「こんなの……、俺……」
「リンダ、無理をするな」
無理矢理に持ち上げた頬が引きつる。
ファングの短いその一言で、リンダの胸に様々な感情が去来した。あの落雷から、自分が姿を変えてから、ずっと不安だった気持ち。雨の中一人ファングの帰りを待つ心細い気持ち。わけのわからない男に襲われかけた恐ろしい気持ち。色々な気持ちがぐちゃぐちゃに交ざり合って、リンダの涙腺を刺激した。
「おれ……っ」
いい歳をして兄に涙など見せたくなくて、リンダは涙が落ちる前に、慌ててうつむいた。
ファングは、そんなリンダをジッと見てから自身の外套を脱ぐと、リンダの頭からばさりと被せた。視界は暗くなったが、怖くはない。ファングが、リンダの肩をグッと抱きしめたのがわかった。
「……もう大丈夫だ、怖かったな」
固くこわばった拳を開き、回された兄の腕を握りしめる。指先はかたかたと小さく震えていた。
「……うん、うん」
外套のおかげで、涙を見せなくて済む。
ファングの気遣いに感謝しながら、リンダはぽろぽろと涙を流した。
しばらく道の端で静かに涙を流してから、ファングに促されて、リンダは兄の家に入った。
独り住まいにしては十分な広さのある部屋で、リンダはファングが差し出してくれたタオルを目に乗せる。涙を流すなどあまりに久しぶりのことで、なんだか無性に疲れてしまった。
リンダは溜め息を吐きながら、部屋に置いてある一人掛けのソファにぐでっと倒れ込んだ。尻尾も疲れたように、くにゃ、としている。
「夕飯は食べたのか?」
「食べてない、けど……今日はいらねぇかな。そんな気分じゃ……」
「少しくらい腹になにか入れておけ。スープを温めてくる」
有無を言わせぬ態度で、ファングが別室へ消えていく。そして、綺麗に畳まれたタオルと服を持って戻ってきた。
「その前に風呂だ。話はそれからで、いいな?」
「……うん」
くしゃりと頭を撫でられて、リンダは素直に頷く。なんだか小さい頃に戻ったかのようだ。
本当はすぐにでも話をしたい。自分の体について、先ほどの男について。だが、ファングはそうさせる気はないようだ。まずリンダの冷えた体を温め、腹を満たしてやりたいらしい。
その気持ちがわかったので、無理に話をしようとは思わなかった。普段冷たいと言ってもいいくらいの対応しかされないので、こうも優しくされるとなんだかむず痒く、嬉しい。
「じゃれついていないで風呂に入ってこい」
「は? じゃれついて?」
意味不明な言葉とともに促されて、リンダは首をかしげる。と、ファングがちらりと下を見るので、リンダもつられてそちらを見下ろした。
「げっ」
なぜか、先ほどまで元気がなかった尻尾が、すりすりとまるで懐くようにファングの足に身を寄せていた。本当は巻きつきたいが、長さが足りないのだろう、ぴーんと張って、一生懸命にその身を伸ばして、確かに、じゃれついている。
「う……、おいっ」
手繰り寄せるように引っ張り、ゆらゆらと動く尻尾を押さえつける。それでも尻尾は名残惜しそうに、じたじたと暴れながらファングへ懸命に身を伸ばしていた。
これではまるで、尻尾がリンダの気持ちを代弁しているかのように見えてしまう。「違うんだ!」とリンダは叫びたくなった。が、なにを言っても言い訳のようになりそうで唇を噛みしめる。
「こ、これは……っ」
「まぁいい。とりあえず、入ってこい」
焦るリンダに構わず、ファングはくるりと踵を返してしまった。
「あ、ああ」
リンダは片手で尻尾を押さえ、片手でタオルを持って、頷く。尻尾は往生際悪く、ファングへその身を伸ばしていた。
風呂に入って、温かいスープを飲んで、ホッと人心地ついて。ほかほかのリンダと元気そうに揺れる尻尾を見て、ファングはようやく話をしてくれた。
「……じゃあ、さっきのあいつは、魔族?」
「ああ、空間の歪みを作り出していた。間違いなく上級の魔族だろう」
リンダはベッドに腰掛けて、ファングは一人掛けのソファに身を預け、先ほどの男について話し合っていた。ファングの言葉に、リンダは「そっか」と小さく返す。
「よいしょっ、と……。なんにせよ、ちょうど兄さんが帰ってきてくれてよかったよ」
ファングに借りた服は、はっきり言ってリンダには大きすぎる。リンダはずり落ちるシャツを引っ張って直した。
風呂に入って気がついたのだが、変化は、角や羽といったわかりやすいものだけではなかった。なんというか、体全体がふっくらとしていた。太ったというわけではない。ただ、肩や膝、腰といった男らしく角ばったところが、なんとなく丸くなった。まるで、筋肉がつく前の少年の体のように、凹凸が減り、滑らかな体型になってしまった。そのせいで、余計に肩から服が滑りやすいのだ。
「そうだな。あそこで割って入れて本当によかった」
ファング曰く「家に帰る途中、不穏な空気の歪みを感じ取ったので、慌てて駆けつけたところ、魔族と、それに絡まれているリンダがいた」とのことだった。ファングからは男の影になっていてリンダがよく見えず、まさか魔族にちょっかいを出されているのが自分の弟だとは、すぐには気づかなかったらしい。
リンダが風呂に入っている間に、聖騎士団にも今回の件について報告を入れた、と教えられた。「人間」に手を出そうとする魔族がいるのであれば、見過ごすわけにはいかないのだ。しかし、今の自分を果たして「人間」と呼んでいいのか、リンダにはわからなかった。
「俺、人間に化けた魔族なんて初めて見た」
そう言ってから、自分の姿を思い出す。リンダこそ、今の姿はまるで魔族そのものだったからだ。なんとなく気まずくなり、リンダはベッドの上で背中を丸める。
「兄さん、俺、どうしちゃったんだろ……」
そして、膝に置いた自分の手をじっと見下ろし、改めて問いかけた。ファングは、リンダの問いに答えることなく、黙り込む。そのままソファから立ち上がると、ベッドに腰掛けるリンダのそばにやってきた。そしてきょとんと見上げるリンダの頬に、すっ、と手を伸ばす。
「兄さん?」
急に触れられて目を瞬かせるリンダの少し長めの髪を、耳に掛ける。
「新しいピアスをしていないな?」
ファングの言葉にリンダは「え?」と声を上げた。ファングはいつもの気難しそうな顔で、リンダの耳の辺りをじっと見ている。
「この間、俺が渡したピアスだ」
ファングの言葉に、リンダは「あっ」と声を上げた。そこに至ってようやく、リンダは先日兄がくれたピアスを、服のポケットにしまったままだったことを思い出した。自分でもなぜ忘れていたのか不思議なくらいで、リンダは忙しく目を瞬かせる。
「ごめん、最近なんか妙にばたばたしてて……、俺、忘れて……」
ファングはリンダの髪から手を離すと、そのままリンダの隣に腰掛けた。
「兄さん、どういうこと? ピアスと、この……俺が魔族になった件って、関係あるのか?」
リンダの問いに、ファングはすぐには答えなかった。彼にしては珍しく、なにか悩むようなそぶりを見せる。そして、観念したように、はぁ、と小さな息を吐いた。
「関係ある」
「え? ど、どんな?」
「リンダ」
リンダの言葉を遮り、ファングが体の向きを変える。ギシ、とベッドが軋み、気がつけばリンダは、ファングにその肩を掴まれていた。
「先に言っておくが……お前は、俺の大事な家族だ」
「え……?」
「その気持ちに嘘偽りはない。それは覚えておいてくれ」
ベッドの上で、リンダはファングと向かい合うように座り、その目を見つめる。ファングは真剣な顔をしていた。
「どういうことだよ。き、急に変なこと言うなよ、兄さん」
「リンダ、お前は……」
重たすぎる空気を誤魔化すように微笑むが、それはどことなく引きつったような笑顔になってしまった。ファングの言葉の先が、わかってしまったからだ。
「兄さん」
そう、わかってしまったからこそ、縋るようにそう呼んでしまう。兄だと、ファングこそが自分の兄なのだと。しかしファングは無情にも、ためらうことなく告げた。
「お前は実の兄弟じゃない。アズラエル家の、父と母の血を引いてはいないんだ」
「……に、いさん」
そう呼びかけていいのか迷って、舌の上で言葉が絡まる。だが、それ以外の呼び方なんて知らないリンダは、やはり、ファングを兄と呼んだ。たった今、そうではないと聞かされたばかりなのに。
「そして、お前の生みの母親は……魔族だ」
「……っ」
それは、もはや察していたことだった。「自分は純粋な人間ではないのだ」と。でなければ、この姿の説明がつかない。
「それから」
「ま、まだあるのか?」
呆然とするリンダに、ファングはさらに言葉を重ねる。既に衝撃的すぎる事実の連続で、リンダの精神はボロ雑巾のようにぐちゃぐちゃのしわしわになっているのだが、その雑巾をさらに、ぎゅぎゅっ、と力一杯絞るような言葉が、ファングの口から飛び出した。
「お前の母親は、淫魔だった」
「い、いん、ま……?」
「女性型、つまりサキュバスだな」
「サッ、キュッ」
バス、と続けようとした声は、途中で途切れた。あまりに衝撃すぎて喉が詰まったのだ。
「そしてお前は……、その血を濃く継いでしまっている」
ファングが、リンダを上から下まで眺めてから、呟く。
「えっ! ……あっ! えぇ?」
自分の頭に手をかざし、角に触れ、肩に下ろし羽に触れ、尻尾に触れ、最後に頬を両手で挟み込む。そんなリンダに、ファングはこくりと頷いてみせる。
「えぇぇ~~……」
もしかしたら自分は魔族のなにかかもしれないと、覚悟はしていた。が、しかし、なぜよりにもよって、淫魔、それもサキュバスなのだ。
リンダは、あんまりな事実にうなだれて、気の抜けた声を出してしまった。
言葉を失くしたリンダが復活するまで、ファングはなにも言わなかった。ファングは元々、積極的に人を慰めたりする性質ではない。
リンダは「はぁあ……」と深い息を吐いた。まだ自分の中で整理をつけるのは難しいが、こうなったら真実をきちんと知るほうがいいだろう。
「なぁ」
「なんだ?」
「俺のこと、できればもっと、詳しく知りたいんだけど……」
自分が何者なのか。本当の父は、母は、一体誰なのか。少しでも詳しく知りたい一心で兄を見上げる。
ファングは少し考え込んでから、生真面目に答えた。
「俺も全てを知っているわけではない。それでもいいか?」
「……うん、わかった。それでもいい、知っていること、教えてくれ」
リンダの真剣な眼差しを受け、ファングは「わかった」と簡潔に答えると、重々しく頷いた。そして、しばらく言葉を選ぶように黙り込んだ後、ゆっくりと語り出した。
「お前がアズラエル家に来たのは、生後、本当に間もない頃だった」
ということは、その時ファングは五歳だ。五歳なら、突然家族が増えればさすがにわかるだろう。ファングはリンダが家に来た時から、本当の弟ではないことを知っていたのだ。
「その時は、親父に『弟が増えたぞ』としか言われなかった。『弟が増えて嬉しいだろう』と」
確かにあの父ならそういうことを言いかねない。リンダは父を思い出して苦笑いを浮かべた。
ファングはそんなリンダをちらりと見てから、顔を正面に戻し、話を続けた。
「カインが産まれたのとお前が来たのはほとんど同時期だったから、二人を双子として育てることにしたようだった」
本当の兄弟ではないということは、カインとも双子ではない。
リンダはその事実に思い至って、ハッとした。自分とは似ていない、カインの顔が脳裏に浮かぶ。似ていないはずだ。本当の兄弟ではなかったのだから。
「お前の両親について聞いたのは、俺が聖騎士になってからだ」
カインのことを考えていたリンダは、ファングの言葉に顔を上げる。ファングが聖騎士になったのは、十六歳の時。今から八年前のことだ。
「お前の本当の父は、俺たちの親父と同じ聖騎士だった。親父とその人物は、親友だったらしい。……そして、どういう経緯かはわからないが、お前の父は魔族である女性と恋に落ち、やがてその女性は子どもを身籠った。……その魔族が、お前の母だ」
つまり、その子どもというのがリンダなのだろう。リンダはゆっくりと瞬きして、見たこともない、顔もわからない両親に想いを馳せる。……が、どうしてもその顔を、表情を、思い浮かべることはできなかった。
「聖騎士はいつ死ぬかわからない職業だ。親父は『もし自分になにかあったら妻と子を気にかけてやってほしい』と、お前の父から頼まれていたらしい。……残していく者を少しでも助けたいと思う、その気持ちは、わからないでもない」
自身も聖騎士だからだろうか、ファングはリンダの「本当の父」の気持ちに同調するように頷く。
ファングもそのようなことを考えたりするのだろうか。リンダは横に座る兄をちらりと見やった。
「お前がここにいるということは、つまり、もうわかっていると思うが、お前の父は、既に亡くなっている。お前が生まれる前に……魔獣との戦闘中だったらしい」
ファングの言葉に、リンダは頷く。そうだろう。本当の父が存命であれば、リンダがアズラエル家に引き取られているはずがない。そして、きっと母も同じく。
「お前の母も、お前を産んですぐに亡くなった」
予想通りの言葉に、リンダはもう一度頷いた。顔も知らぬ、今日その存在を知ったばかりの父と母だ。今はまだ、その実感はわかないけれども。
「お袋も同時期にカインを身籠っていたからな。産まれたばかりのお前を見捨てられなかったんだろう。それに、親父は親友との約束を守る必要があった。……そうして、お前はアズラエル家の人間になったんだ」
リンダは、自分の手を見下ろした。この体の中には、これまで家族だと思っていた父とも、母とも、隣に座るファングとも、まったく別の血が流れている。彼らとは赤の他人なのだ。
十数年間、当たり前と思っていたことがくつがえされ、自分という人間の土台が揺らぐ。
「そっか……、そうだったんだな……」
それ以外になにが言えるだろうか。嫌だと言ったところで、変わるものでも、捻じ曲げられるものでもない。背中に生えた羽や尻の尻尾が、ファングが語ることは事実だと告げている。
「じゃあもしかして、このピアスって、魔族化を防ぐ役割を果たしてたのか?」
リンダは、そっと耳に触れる。そこにはまったピアスは自分では見えないが、確かにそこにあることは、指先が教えてくれた。
「あぁ、そうだ」
その時、リンダの胸の内に、ふと、ある考えが浮かんだ。
「待ってくれ……もしかして、俺が魔法を使えないのって……」
「そのピアスが、魔力を押さえ込んでいたからだ」
ファングはためらうことなく、リンダに真実を告げた。リンダの指先がピクリと震えた。その震えは段々と大きくなり、リンダは、その手でファングの腕を掴んだ。
「なんで……」
爪が食い込むほどの力で腕を掴まれても、ファングは一切の抵抗をしなかった。ただ、まっすぐにリンダを見つめている。
「なんで……俺、魔法が使えなくて……俺、俺が……」
「リンダ」
「俺がどれだけ……っ!」
「リンダ」
激昂するリンダを宥めるでもなく、ファングは静かにその名を呼ぶ。
リンダは自分の全身の毛が逆立つのを感じた。わなわなとした震えに合わせて、自分の中からなにかが噴き出すのがわかった。
「ふっ、ふっ……、っ!」
毛を逆立てて相手を威嚇する動物のように、呼吸が荒くなる。自分の中に渦巻く力が気持ち悪く、苦しく、リンダはかきむしるように胸元を掴んだ。
「リンダ、落ち着け」
ファングがリンダの肩を掴む。そして気を落ち着かせるように、自身の額をリンダの額に当てる。
すると突然、先ほど魔族の男と会った時に感じた猛烈な飢餓感が、また、リンダを襲った。
「ふ――っ、うう、ぅぐっ!」
「リンダ」
苦しくて、苦しくて、尖った犬歯を剥き出しにして、歯を食いしばり、リンダは荒い呼吸を繰り返す。そんなリンダの背を優しく何度も撫でながら、ファングはリンダの名を繰り返し呼んだ。
「リンダ、大丈夫だ」
温かな力が、触れ合った額から、肌から、流れ込んできた。
リンダの中のなにかが懸命に「それ」を求めている。ファングから与えられる「それ」を、まるで貪るように味わっている。苦しくて仕方なかった体が、あっという間に幸福感に包まれていった。
もっともっと、もっと、とリンダの心が鳴る。満たされていく感覚に、体も心も、蕩けていく。
(もっと、欲しい……)
「くっ」
唐突にファングが呻き、リンダから体を離した。リンダは離れていくファングを、とろんと、蕩けたような気分で見ていた。
「……ふぁ……」
「落ち着いたか?」
冷静なファングの声が、どこか遠くから聞こえてくる。まるで二人の間に透明な膜を挟んだかのように。
「リンダ」
名前を呼ばれて、リンダは、ようやく正常な意識を取り戻した。
「……あ、あれ?」
温かな水の中から、急に地上に引きずり出されたような感覚だった。リンダはぱちぱちと目を瞬かせて、ファングを見上げる。
「お前の意見はもっともだ。だが、もう少し話を聞いてくれるか?」
「う、うん」
不思議な感覚を腹の底に残したまま、リンダはファングの言葉に頷いた。
ファングは「ふ」と短く息を吐くと、リンダから少し距離を置いてベッドに腰掛け直す。
「お前の本当の母は、亡くなる間際に『この子を、普通の人間として育ててほしい』と言い遺した、らしい」
「普通の、人間……」
リンダたちの暮らすヴァレンザーレ国は、いまだに魔族との戦闘を続ける他国に比べ、魔族に寛容だ。人間に害を与えないのであれば、特に干渉しない。魔族も同じく、ヴァレンザーレ国には比較的友好な態度を示している。
しかし、そのヴァレンザーレ国であっても、やはり魔族に対する偏見や差別はある。ましてや人間との間に生まれた半魔には、特に風当たりが強い。自分の種と、自分が理解し得ない種が交じり合ってできた、というのがどうにも受け入れられないのだろう。それに半魔は、魔族ほどの魔力を持たないことがほとんどのため、魔族よりも差別の標的になりやすい。要は、魔族は恐ろしくて直接は強く当たれないが、半魔にならそれができるということだ。
そしてそれは魔族の国にしても同じこと。半魔は人間の国でも魔族の国でも、生きづらい存在なのだ。
リンダもそういった事情があることは知っている。なので、普通の人間に、と望む「母」の気持ちは理解できた。きっと彼女も、もし生きて「父」とこの国で暮らしていたのならば、自分や子を人間と偽って生きていたはずだ。
「半分は魔族の血が流れているせいなのか、お前は歩き出すか出さないかのうちに魔法を使い始めた。それがただの魔法だったらよかったんだが……、お前はやたらと他人の精気を吸いたがってな」
「せ、精気?」
思いもよらない言葉に、リンダは間抜けな声を出す。ファングは「ああ」と頷いた。
「淫魔の血がそうさせるんだろう。幼い頃は俺も何度かお前に精気を与えたんだが……覚えているはずもないか」
「えぇっ」
当たり前だが、まったく覚えていない。
リンダは、ぶんぶんと首を振って「嘘だろ」と呟いた。そしてふと思い当たり、ファングに問う。
「もしかして、さっき俺に……精気、くれた?」
先ほど、合わさった額から流れ込んできた力は、おそらくファングの魔力を介した「精気」だ。だからこそリンダはあんなに夢中になったのだろう。淫魔の性がそうさせたのだ。
「そうだ。激昂したせいで魔力を制御しきれなくなっていたからな。落ち着かせるために、魔力に乗せて精気を譲渡した」
「譲渡?」
「精気は、体の一部を触れ合わせることによって譲渡できる」
(そうか。淫魔、も、性交……つまり肌や粘膜を合わせることによって精気を回収してるんだもんな)
思案するリンダに構わず、ファングは話を続ける。
「精気を吸う人間の子どもなんているわけがない。もしそんなところを見られたら、もし万が一他人を襲いでもしたら、お前が人間でないことは一発で露呈してしまう。……だから親父は、お前の魔力を封じることにしたんだ」
おそらく、両親なりの苦肉の策であったのだろう。魔族の血が入っているとバレないようにするには、魔力自体を封じるしかなかったのだ。
「どうしても、魔力の一部のみを封じることはできなかった。抑え込むなら、全てだ」
そして、リンダは魔力を失った。
父がリンダの魔力を封じたのは、リンダの実母との約束を果たすためであり、リンダ自身を守るためだった。リンダもその周囲の人も、リンダが間違いなく「人間である」と思えるように。
リンダが迷うことなく、自分はアズラエル家の一員であると思えるように。
「親父が俺にお前のことを話した時、『もし俺と母さんが死んだら、リンダのことを頼む』と言った。だから親父とお袋が亡くなってからは、俺がお前の魔力を封じていた。……そのピアスに、魔力封じの魔法をかけて」
そうか、とリンダは心中で納得する。だから必ずピアスをはめるように言っていたのだ。定期的に新しいものを与えたのは、おそらく効力にも一定の期間があるからだろう。今回それをはめなかったことで、リンダの魔力を封じていた力が弱まったのだ。
「魔力を封じるのは、お前のためだと思っていた」
続けられたファングの言葉に、リンダは思考を遮られた。そして、ファングへ目を向ける。
「お前には、魔力以外にもたくさんの才能があった。勉強もできたし、運動も得意だった。魔力が使えずとも色々な道があると思っていた。しかし……」
そこでファングは言葉を切る。リンダは視線をさまよわせてから、目を伏せた。
そう、魔力がなくとも選べる道はたくさんあったのだ。しかしリンダが選んだのは、家で弟たちを守ることだった。両親を亡くしたばかりの弟たちを、肉親である自分の手で守って、育ててやるのだと決めたのだ。
そういえば、自身の進路をファングに告げた時、彼にしては珍しく、少し渋っていたのを思い出した。「本当に、それでいいのか」と確認するように何度も聞いてきた。まるで、それ以外の道も選べるんだぞ、と言わんばかりに。
「魔力が欲しかったか?」
「それは……」
「魔力があれば、聖騎士となる道を選んだか?」
ファングの言葉に、リンダの手がぴくりと震える。先ほどリンダが激昂した際に漏らした言葉で、リンダの気持ちを察したのだろう。
とっさに、否定の言葉が出てこなかった。「そんなことはない」という気持ちと「もしかしたら」という気持ちがせめぎ合ってしまったからだ。
「お前は、幼い頃からずっと変わらず、聖騎士になりたかったんだな」
ファングがゆっくりと手を伸ばす。その手は、優しくリンダの頭を撫でた。リンダのぐしゃぐしゃにもつれた心の糸を解きほぐすように、優しく、優しく。
「……うん」
その気持ちを、兄に吐露するのは初めてだった。いや、自分から自発的にその言葉を口にするのは、幼い頃ぶりだった。
「うん、なりたかった。俺、父さんや、兄さんみたいな、立派な……立派な聖騎士になりたかったんだ……」
魔力がなく、自分が聖騎士になれないかもしれないと気づいてからは、誰にもその夢を話したことはなかった。聖騎士になるための勉強も、皆に隠れてやっていたほどだ。
同じ学年で学び、すぐそばにいたからか、双子の弟のカインだけは、なぜかリンダの気持ちを察していて、事あるごとに茶化してきた。しかしそのカインに対しても、自分から「聖騎士になりたい」と言葉にして告げたことはなかった。誰にも言えない、大切な夢だった。
「すまなかった」
ファングの静かな謝罪に、リンダはゆっくりと顔を上げる。
「お前を人間でいさせるためとはいえ、酷なことをした」
「それは、違う。ほかの道もあるのに、選ばなかったのは俺だ」
リンダはうつむきながら、小声で言葉を続ける。そして、その全てを振り切るように、顔を上げた。
「……それに俺、もし聖騎士になれる道があったとしても、きっと今と同じ選択をしてる」
それは、性格的なものもあるかもしれない。それに、次男という責任感も。なんにせよ、やはり、幼い弟たちを放って激務である聖騎士の職になど就けなかっただろう。少なくとも、弟たちに手がかかるうちは。
「さっきは、八つ当たりみたいに怒って、悪かったよ。兄さんだって好きで俺の魔力を封じてたわけじゃないのに。俺が、なにも気兼ねすることなく家族でいられるために、人間であるために、やっていてくれたのにな」
それに、魔力があったからといって、半魔では聖騎士になれるはずがない。聖騎士は「聖なる騎士」。魔族たる自分がなっていいものではないのだ。
ないと思っていた魔力があった。それだけでいいじゃないか、と胸の内で自分に語りかける。
「こんなかたちで、その努力を無駄にして、ごめんな。父さんと母さんが死んでから、今までずっと一人で秘密を抱えててくれたんだよな。……ありがとう」
ファングの手が少しだけ止まって、またゆっくりとリンダの頭を撫でた。
「俺、半魔だし、聖騎士にはなれないけど、なにか自分なりに夢を見つけるよ。いつかさ、半魔の俺でも、できることを」
そう。半魔だとわかった。ならば、半魔の自分でもできることを見つけていくしかない。いつかは弟たちも巣立って、将来について考える時がもう一度来るはずだ。その時、自分がどんな道を選ぶのか、今から考えなければならない。
「まぁ。ずっと、ずっと、ずーっと目指してた夢だからさ、すぐには切り替えられないけど……」
ちょっとおちゃらけて、リンダは、へへっ、と笑う。そうだ、そう簡単には切り替えられはしない。人生の目標と言っても過言ではないくらいに、ただひたすらに目指していた「聖騎士」という夢。潰えたからといって、すぐには納得できない。まだ諦められない気持ちもある。
「なにか新しい夢ができたら……今度はちゃんと、兄さんに相談するよ」
それでも、リンダはファングに向けて笑った。それは少し引きつったような、泣き笑いの笑顔かもしれない、心から笑えていないかもしれない。それでも、今の自分にできる精一杯で笑顔を作って見せた。
ファングは黙って、そんなリンダの頭をずっと撫でていてくれた。
話が一段落して、部屋の中が静かになった。
「ふう」とひと息吐いた、その時。リンダは、自身の尻尾がまたしても兄にまとわりつこうとしているのを目にした。
「このっ」
そろりと兄に近づく尻尾を両手で押さえつける。そして、変わらず頭を撫でる兄を見上げた。
「兄さん、また俺の魔力を封じてくれないか?」
「……いいのか?」
少しの間の後、ファングが確認するようにリンダに問うてくる。リンダはためらうことなく頷いた。
「うん。まぁ、このままの姿でいるわけにもいかないし」
リンダはぴちぴちと暴れる尻尾を掴んだまま苦笑う。
「そもそもこんな格好じゃ、家に帰れねぇよ。……俺、やっぱりあいつらの兄でいたい。ただの『アズラエル家のリンダ』として、本当の兄でいてやりたいんだ」
家に残してきた弟たちを思い浮かべる。歳を重ねるごとに生意気になっていく弟たちだが、それでも大切な存在であることに変わりはない。今さら「実は本当の兄弟じゃない」なんて、伝える必要もないだろう。
「だからさ、このことは、俺と兄さんだけの秘密にしてもらってもいいか?」
リンダは窺うように兄を見る。ファングは、ふっ、と微笑むように息を吐いて頷いた。
「もちろんだ」
ファングの言葉に、リンダはにこりと微笑む。たとえ血が繋がっていなくとも、種族が違っても、兄弟であることに変わりはない。リンダは、アズラエル家の次男だ。
「じゃあ、封じてもらおうかな……どうすればいい?」
「そのピアスに魔力封じの魔法をかけよう。いいか?」
ファングは、リンダがつけているピアスを指す。リンダはその言葉に頷いてから、ピアスを外して兄に渡した。
「魔法かけるところ、見てていい?」
「ああ、いいぞ」
ファングは片手にそのピアスを乗せて、もう片方の手をその上にかざした。
リンダはその手から目を逸らさないようにしながら、あとずさりしてベッドに乗り上がると、ぺたんと座り込む。少しだけわくわくしながら見つめていると、兄の手から、魔力が流れ出るのがわかった。
その瞬間。リンダは、本日三度目の「あの感覚」に襲われた。
ファングが魔法をかける、それに合わせるように、ひくひく、と羽が震える。そして、動きを止めたリンダの手から解放された尻尾が、ゆるりと動き出した。
「……リンダ?」
唐突に腕に絡みついてきた尻尾に、ファングは訝しむようにリンダに問いかける。が、リンダは無言だった。尻尾はまるで誘うように、するするとファングの腕を撫でている。
「リンダ、どうした」
「……それ、ちょうだい?」
ファングの問いに、答えになっていない返事をするリンダの声は、どこか舌足らずで妖しい熱を孕んでいた。
目が眩みそうなほどの強い欲求は、リンダの意識を簡単に濁した。気がつけば目の前に、ぬっ、と手が差し出されていた。そんなに近くにいるわけでもないのに、目隠しをされたかのように、その手のひらしか目に入らない。
視界を全て奪われそうになった、その時。鋭い声が通りに響いた。
「そこでなにをしているっ」
リンダは、はっ、と息を吐き出す。まるで夢から醒めたような気分だった。なぜか今の今まで聞こえていなかった雨の音と、バシャバシャと水を跳ねる足音が、急に耳に入ってくる。
「……厄介な」
目の前の男は低い声で呟いた後、リンダに向かってにこりと微笑んだ。
「お嬢さん、またお会いしましょう」
帽子を取って、場違いなほど丁寧な礼をすると、男は再び傘をさす。その瞬間、男はまるで煙のようにその場から消えてしまった。鮮やかな赤い傘の色だけが、鮮明に目に焼きついた。
心臓が、どく、どく、と激しく脈打っているのがわかる。突然襲ってきた飢餓感は、男が消えるのに合わせて、ゆっくりと収まっていった。
「大丈夫かっ」
先ほどの鋭い声を上げた人物が、リンダに近寄ってくる。街灯の下に浮かび上がったその人影は、リンダが待ち焦がれていたファングだった。
リンダがファングに気がついたのと同じように、ファングもリンダを認識したのだろう、訝しむように目を細めている。
「リンダか?」
「兄さん……」
目の前で起こったことが信じられず、呆然としているリンダに、ファングもなぜか呆けたような声をかけた。
「リンダ、だな」
確かめるようなその声に、リンダはハッとフードに手をやる。先ほどのどさくさでフードがめくれ、リンダの額の小さな角は、ファングの目に晒されていた。
「う、うん、俺だよ。なんかわかんねぇんだけど、急にこんなになっちゃってさぁ……変だよな、こんな……」
リンダはとっさに、場を茶化すように笑った。自棄っぱちのように、自嘲するように。しかし、そんなリンダに対してファングは笑わない。ただ、黙ってリンダを見ていた。
「こんなの……、俺……」
「リンダ、無理をするな」
無理矢理に持ち上げた頬が引きつる。
ファングの短いその一言で、リンダの胸に様々な感情が去来した。あの落雷から、自分が姿を変えてから、ずっと不安だった気持ち。雨の中一人ファングの帰りを待つ心細い気持ち。わけのわからない男に襲われかけた恐ろしい気持ち。色々な気持ちがぐちゃぐちゃに交ざり合って、リンダの涙腺を刺激した。
「おれ……っ」
いい歳をして兄に涙など見せたくなくて、リンダは涙が落ちる前に、慌ててうつむいた。
ファングは、そんなリンダをジッと見てから自身の外套を脱ぐと、リンダの頭からばさりと被せた。視界は暗くなったが、怖くはない。ファングが、リンダの肩をグッと抱きしめたのがわかった。
「……もう大丈夫だ、怖かったな」
固くこわばった拳を開き、回された兄の腕を握りしめる。指先はかたかたと小さく震えていた。
「……うん、うん」
外套のおかげで、涙を見せなくて済む。
ファングの気遣いに感謝しながら、リンダはぽろぽろと涙を流した。
しばらく道の端で静かに涙を流してから、ファングに促されて、リンダは兄の家に入った。
独り住まいにしては十分な広さのある部屋で、リンダはファングが差し出してくれたタオルを目に乗せる。涙を流すなどあまりに久しぶりのことで、なんだか無性に疲れてしまった。
リンダは溜め息を吐きながら、部屋に置いてある一人掛けのソファにぐでっと倒れ込んだ。尻尾も疲れたように、くにゃ、としている。
「夕飯は食べたのか?」
「食べてない、けど……今日はいらねぇかな。そんな気分じゃ……」
「少しくらい腹になにか入れておけ。スープを温めてくる」
有無を言わせぬ態度で、ファングが別室へ消えていく。そして、綺麗に畳まれたタオルと服を持って戻ってきた。
「その前に風呂だ。話はそれからで、いいな?」
「……うん」
くしゃりと頭を撫でられて、リンダは素直に頷く。なんだか小さい頃に戻ったかのようだ。
本当はすぐにでも話をしたい。自分の体について、先ほどの男について。だが、ファングはそうさせる気はないようだ。まずリンダの冷えた体を温め、腹を満たしてやりたいらしい。
その気持ちがわかったので、無理に話をしようとは思わなかった。普段冷たいと言ってもいいくらいの対応しかされないので、こうも優しくされるとなんだかむず痒く、嬉しい。
「じゃれついていないで風呂に入ってこい」
「は? じゃれついて?」
意味不明な言葉とともに促されて、リンダは首をかしげる。と、ファングがちらりと下を見るので、リンダもつられてそちらを見下ろした。
「げっ」
なぜか、先ほどまで元気がなかった尻尾が、すりすりとまるで懐くようにファングの足に身を寄せていた。本当は巻きつきたいが、長さが足りないのだろう、ぴーんと張って、一生懸命にその身を伸ばして、確かに、じゃれついている。
「う……、おいっ」
手繰り寄せるように引っ張り、ゆらゆらと動く尻尾を押さえつける。それでも尻尾は名残惜しそうに、じたじたと暴れながらファングへ懸命に身を伸ばしていた。
これではまるで、尻尾がリンダの気持ちを代弁しているかのように見えてしまう。「違うんだ!」とリンダは叫びたくなった。が、なにを言っても言い訳のようになりそうで唇を噛みしめる。
「こ、これは……っ」
「まぁいい。とりあえず、入ってこい」
焦るリンダに構わず、ファングはくるりと踵を返してしまった。
「あ、ああ」
リンダは片手で尻尾を押さえ、片手でタオルを持って、頷く。尻尾は往生際悪く、ファングへその身を伸ばしていた。
風呂に入って、温かいスープを飲んで、ホッと人心地ついて。ほかほかのリンダと元気そうに揺れる尻尾を見て、ファングはようやく話をしてくれた。
「……じゃあ、さっきのあいつは、魔族?」
「ああ、空間の歪みを作り出していた。間違いなく上級の魔族だろう」
リンダはベッドに腰掛けて、ファングは一人掛けのソファに身を預け、先ほどの男について話し合っていた。ファングの言葉に、リンダは「そっか」と小さく返す。
「よいしょっ、と……。なんにせよ、ちょうど兄さんが帰ってきてくれてよかったよ」
ファングに借りた服は、はっきり言ってリンダには大きすぎる。リンダはずり落ちるシャツを引っ張って直した。
風呂に入って気がついたのだが、変化は、角や羽といったわかりやすいものだけではなかった。なんというか、体全体がふっくらとしていた。太ったというわけではない。ただ、肩や膝、腰といった男らしく角ばったところが、なんとなく丸くなった。まるで、筋肉がつく前の少年の体のように、凹凸が減り、滑らかな体型になってしまった。そのせいで、余計に肩から服が滑りやすいのだ。
「そうだな。あそこで割って入れて本当によかった」
ファング曰く「家に帰る途中、不穏な空気の歪みを感じ取ったので、慌てて駆けつけたところ、魔族と、それに絡まれているリンダがいた」とのことだった。ファングからは男の影になっていてリンダがよく見えず、まさか魔族にちょっかいを出されているのが自分の弟だとは、すぐには気づかなかったらしい。
リンダが風呂に入っている間に、聖騎士団にも今回の件について報告を入れた、と教えられた。「人間」に手を出そうとする魔族がいるのであれば、見過ごすわけにはいかないのだ。しかし、今の自分を果たして「人間」と呼んでいいのか、リンダにはわからなかった。
「俺、人間に化けた魔族なんて初めて見た」
そう言ってから、自分の姿を思い出す。リンダこそ、今の姿はまるで魔族そのものだったからだ。なんとなく気まずくなり、リンダはベッドの上で背中を丸める。
「兄さん、俺、どうしちゃったんだろ……」
そして、膝に置いた自分の手をじっと見下ろし、改めて問いかけた。ファングは、リンダの問いに答えることなく、黙り込む。そのままソファから立ち上がると、ベッドに腰掛けるリンダのそばにやってきた。そしてきょとんと見上げるリンダの頬に、すっ、と手を伸ばす。
「兄さん?」
急に触れられて目を瞬かせるリンダの少し長めの髪を、耳に掛ける。
「新しいピアスをしていないな?」
ファングの言葉にリンダは「え?」と声を上げた。ファングはいつもの気難しそうな顔で、リンダの耳の辺りをじっと見ている。
「この間、俺が渡したピアスだ」
ファングの言葉に、リンダは「あっ」と声を上げた。そこに至ってようやく、リンダは先日兄がくれたピアスを、服のポケットにしまったままだったことを思い出した。自分でもなぜ忘れていたのか不思議なくらいで、リンダは忙しく目を瞬かせる。
「ごめん、最近なんか妙にばたばたしてて……、俺、忘れて……」
ファングはリンダの髪から手を離すと、そのままリンダの隣に腰掛けた。
「兄さん、どういうこと? ピアスと、この……俺が魔族になった件って、関係あるのか?」
リンダの問いに、ファングはすぐには答えなかった。彼にしては珍しく、なにか悩むようなそぶりを見せる。そして、観念したように、はぁ、と小さな息を吐いた。
「関係ある」
「え? ど、どんな?」
「リンダ」
リンダの言葉を遮り、ファングが体の向きを変える。ギシ、とベッドが軋み、気がつけばリンダは、ファングにその肩を掴まれていた。
「先に言っておくが……お前は、俺の大事な家族だ」
「え……?」
「その気持ちに嘘偽りはない。それは覚えておいてくれ」
ベッドの上で、リンダはファングと向かい合うように座り、その目を見つめる。ファングは真剣な顔をしていた。
「どういうことだよ。き、急に変なこと言うなよ、兄さん」
「リンダ、お前は……」
重たすぎる空気を誤魔化すように微笑むが、それはどことなく引きつったような笑顔になってしまった。ファングの言葉の先が、わかってしまったからだ。
「兄さん」
そう、わかってしまったからこそ、縋るようにそう呼んでしまう。兄だと、ファングこそが自分の兄なのだと。しかしファングは無情にも、ためらうことなく告げた。
「お前は実の兄弟じゃない。アズラエル家の、父と母の血を引いてはいないんだ」
「……に、いさん」
そう呼びかけていいのか迷って、舌の上で言葉が絡まる。だが、それ以外の呼び方なんて知らないリンダは、やはり、ファングを兄と呼んだ。たった今、そうではないと聞かされたばかりなのに。
「そして、お前の生みの母親は……魔族だ」
「……っ」
それは、もはや察していたことだった。「自分は純粋な人間ではないのだ」と。でなければ、この姿の説明がつかない。
「それから」
「ま、まだあるのか?」
呆然とするリンダに、ファングはさらに言葉を重ねる。既に衝撃的すぎる事実の連続で、リンダの精神はボロ雑巾のようにぐちゃぐちゃのしわしわになっているのだが、その雑巾をさらに、ぎゅぎゅっ、と力一杯絞るような言葉が、ファングの口から飛び出した。
「お前の母親は、淫魔だった」
「い、いん、ま……?」
「女性型、つまりサキュバスだな」
「サッ、キュッ」
バス、と続けようとした声は、途中で途切れた。あまりに衝撃すぎて喉が詰まったのだ。
「そしてお前は……、その血を濃く継いでしまっている」
ファングが、リンダを上から下まで眺めてから、呟く。
「えっ! ……あっ! えぇ?」
自分の頭に手をかざし、角に触れ、肩に下ろし羽に触れ、尻尾に触れ、最後に頬を両手で挟み込む。そんなリンダに、ファングはこくりと頷いてみせる。
「えぇぇ~~……」
もしかしたら自分は魔族のなにかかもしれないと、覚悟はしていた。が、しかし、なぜよりにもよって、淫魔、それもサキュバスなのだ。
リンダは、あんまりな事実にうなだれて、気の抜けた声を出してしまった。
言葉を失くしたリンダが復活するまで、ファングはなにも言わなかった。ファングは元々、積極的に人を慰めたりする性質ではない。
リンダは「はぁあ……」と深い息を吐いた。まだ自分の中で整理をつけるのは難しいが、こうなったら真実をきちんと知るほうがいいだろう。
「なぁ」
「なんだ?」
「俺のこと、できればもっと、詳しく知りたいんだけど……」
自分が何者なのか。本当の父は、母は、一体誰なのか。少しでも詳しく知りたい一心で兄を見上げる。
ファングは少し考え込んでから、生真面目に答えた。
「俺も全てを知っているわけではない。それでもいいか?」
「……うん、わかった。それでもいい、知っていること、教えてくれ」
リンダの真剣な眼差しを受け、ファングは「わかった」と簡潔に答えると、重々しく頷いた。そして、しばらく言葉を選ぶように黙り込んだ後、ゆっくりと語り出した。
「お前がアズラエル家に来たのは、生後、本当に間もない頃だった」
ということは、その時ファングは五歳だ。五歳なら、突然家族が増えればさすがにわかるだろう。ファングはリンダが家に来た時から、本当の弟ではないことを知っていたのだ。
「その時は、親父に『弟が増えたぞ』としか言われなかった。『弟が増えて嬉しいだろう』と」
確かにあの父ならそういうことを言いかねない。リンダは父を思い出して苦笑いを浮かべた。
ファングはそんなリンダをちらりと見てから、顔を正面に戻し、話を続けた。
「カインが産まれたのとお前が来たのはほとんど同時期だったから、二人を双子として育てることにしたようだった」
本当の兄弟ではないということは、カインとも双子ではない。
リンダはその事実に思い至って、ハッとした。自分とは似ていない、カインの顔が脳裏に浮かぶ。似ていないはずだ。本当の兄弟ではなかったのだから。
「お前の両親について聞いたのは、俺が聖騎士になってからだ」
カインのことを考えていたリンダは、ファングの言葉に顔を上げる。ファングが聖騎士になったのは、十六歳の時。今から八年前のことだ。
「お前の本当の父は、俺たちの親父と同じ聖騎士だった。親父とその人物は、親友だったらしい。……そして、どういう経緯かはわからないが、お前の父は魔族である女性と恋に落ち、やがてその女性は子どもを身籠った。……その魔族が、お前の母だ」
つまり、その子どもというのがリンダなのだろう。リンダはゆっくりと瞬きして、見たこともない、顔もわからない両親に想いを馳せる。……が、どうしてもその顔を、表情を、思い浮かべることはできなかった。
「聖騎士はいつ死ぬかわからない職業だ。親父は『もし自分になにかあったら妻と子を気にかけてやってほしい』と、お前の父から頼まれていたらしい。……残していく者を少しでも助けたいと思う、その気持ちは、わからないでもない」
自身も聖騎士だからだろうか、ファングはリンダの「本当の父」の気持ちに同調するように頷く。
ファングもそのようなことを考えたりするのだろうか。リンダは横に座る兄をちらりと見やった。
「お前がここにいるということは、つまり、もうわかっていると思うが、お前の父は、既に亡くなっている。お前が生まれる前に……魔獣との戦闘中だったらしい」
ファングの言葉に、リンダは頷く。そうだろう。本当の父が存命であれば、リンダがアズラエル家に引き取られているはずがない。そして、きっと母も同じく。
「お前の母も、お前を産んですぐに亡くなった」
予想通りの言葉に、リンダはもう一度頷いた。顔も知らぬ、今日その存在を知ったばかりの父と母だ。今はまだ、その実感はわかないけれども。
「お袋も同時期にカインを身籠っていたからな。産まれたばかりのお前を見捨てられなかったんだろう。それに、親父は親友との約束を守る必要があった。……そうして、お前はアズラエル家の人間になったんだ」
リンダは、自分の手を見下ろした。この体の中には、これまで家族だと思っていた父とも、母とも、隣に座るファングとも、まったく別の血が流れている。彼らとは赤の他人なのだ。
十数年間、当たり前と思っていたことがくつがえされ、自分という人間の土台が揺らぐ。
「そっか……、そうだったんだな……」
それ以外になにが言えるだろうか。嫌だと言ったところで、変わるものでも、捻じ曲げられるものでもない。背中に生えた羽や尻の尻尾が、ファングが語ることは事実だと告げている。
「じゃあもしかして、このピアスって、魔族化を防ぐ役割を果たしてたのか?」
リンダは、そっと耳に触れる。そこにはまったピアスは自分では見えないが、確かにそこにあることは、指先が教えてくれた。
「あぁ、そうだ」
その時、リンダの胸の内に、ふと、ある考えが浮かんだ。
「待ってくれ……もしかして、俺が魔法を使えないのって……」
「そのピアスが、魔力を押さえ込んでいたからだ」
ファングはためらうことなく、リンダに真実を告げた。リンダの指先がピクリと震えた。その震えは段々と大きくなり、リンダは、その手でファングの腕を掴んだ。
「なんで……」
爪が食い込むほどの力で腕を掴まれても、ファングは一切の抵抗をしなかった。ただ、まっすぐにリンダを見つめている。
「なんで……俺、魔法が使えなくて……俺、俺が……」
「リンダ」
「俺がどれだけ……っ!」
「リンダ」
激昂するリンダを宥めるでもなく、ファングは静かにその名を呼ぶ。
リンダは自分の全身の毛が逆立つのを感じた。わなわなとした震えに合わせて、自分の中からなにかが噴き出すのがわかった。
「ふっ、ふっ……、っ!」
毛を逆立てて相手を威嚇する動物のように、呼吸が荒くなる。自分の中に渦巻く力が気持ち悪く、苦しく、リンダはかきむしるように胸元を掴んだ。
「リンダ、落ち着け」
ファングがリンダの肩を掴む。そして気を落ち着かせるように、自身の額をリンダの額に当てる。
すると突然、先ほど魔族の男と会った時に感じた猛烈な飢餓感が、また、リンダを襲った。
「ふ――っ、うう、ぅぐっ!」
「リンダ」
苦しくて、苦しくて、尖った犬歯を剥き出しにして、歯を食いしばり、リンダは荒い呼吸を繰り返す。そんなリンダの背を優しく何度も撫でながら、ファングはリンダの名を繰り返し呼んだ。
「リンダ、大丈夫だ」
温かな力が、触れ合った額から、肌から、流れ込んできた。
リンダの中のなにかが懸命に「それ」を求めている。ファングから与えられる「それ」を、まるで貪るように味わっている。苦しくて仕方なかった体が、あっという間に幸福感に包まれていった。
もっともっと、もっと、とリンダの心が鳴る。満たされていく感覚に、体も心も、蕩けていく。
(もっと、欲しい……)
「くっ」
唐突にファングが呻き、リンダから体を離した。リンダは離れていくファングを、とろんと、蕩けたような気分で見ていた。
「……ふぁ……」
「落ち着いたか?」
冷静なファングの声が、どこか遠くから聞こえてくる。まるで二人の間に透明な膜を挟んだかのように。
「リンダ」
名前を呼ばれて、リンダは、ようやく正常な意識を取り戻した。
「……あ、あれ?」
温かな水の中から、急に地上に引きずり出されたような感覚だった。リンダはぱちぱちと目を瞬かせて、ファングを見上げる。
「お前の意見はもっともだ。だが、もう少し話を聞いてくれるか?」
「う、うん」
不思議な感覚を腹の底に残したまま、リンダはファングの言葉に頷いた。
ファングは「ふ」と短く息を吐くと、リンダから少し距離を置いてベッドに腰掛け直す。
「お前の本当の母は、亡くなる間際に『この子を、普通の人間として育ててほしい』と言い遺した、らしい」
「普通の、人間……」
リンダたちの暮らすヴァレンザーレ国は、いまだに魔族との戦闘を続ける他国に比べ、魔族に寛容だ。人間に害を与えないのであれば、特に干渉しない。魔族も同じく、ヴァレンザーレ国には比較的友好な態度を示している。
しかし、そのヴァレンザーレ国であっても、やはり魔族に対する偏見や差別はある。ましてや人間との間に生まれた半魔には、特に風当たりが強い。自分の種と、自分が理解し得ない種が交じり合ってできた、というのがどうにも受け入れられないのだろう。それに半魔は、魔族ほどの魔力を持たないことがほとんどのため、魔族よりも差別の標的になりやすい。要は、魔族は恐ろしくて直接は強く当たれないが、半魔にならそれができるということだ。
そしてそれは魔族の国にしても同じこと。半魔は人間の国でも魔族の国でも、生きづらい存在なのだ。
リンダもそういった事情があることは知っている。なので、普通の人間に、と望む「母」の気持ちは理解できた。きっと彼女も、もし生きて「父」とこの国で暮らしていたのならば、自分や子を人間と偽って生きていたはずだ。
「半分は魔族の血が流れているせいなのか、お前は歩き出すか出さないかのうちに魔法を使い始めた。それがただの魔法だったらよかったんだが……、お前はやたらと他人の精気を吸いたがってな」
「せ、精気?」
思いもよらない言葉に、リンダは間抜けな声を出す。ファングは「ああ」と頷いた。
「淫魔の血がそうさせるんだろう。幼い頃は俺も何度かお前に精気を与えたんだが……覚えているはずもないか」
「えぇっ」
当たり前だが、まったく覚えていない。
リンダは、ぶんぶんと首を振って「嘘だろ」と呟いた。そしてふと思い当たり、ファングに問う。
「もしかして、さっき俺に……精気、くれた?」
先ほど、合わさった額から流れ込んできた力は、おそらくファングの魔力を介した「精気」だ。だからこそリンダはあんなに夢中になったのだろう。淫魔の性がそうさせたのだ。
「そうだ。激昂したせいで魔力を制御しきれなくなっていたからな。落ち着かせるために、魔力に乗せて精気を譲渡した」
「譲渡?」
「精気は、体の一部を触れ合わせることによって譲渡できる」
(そうか。淫魔、も、性交……つまり肌や粘膜を合わせることによって精気を回収してるんだもんな)
思案するリンダに構わず、ファングは話を続ける。
「精気を吸う人間の子どもなんているわけがない。もしそんなところを見られたら、もし万が一他人を襲いでもしたら、お前が人間でないことは一発で露呈してしまう。……だから親父は、お前の魔力を封じることにしたんだ」
おそらく、両親なりの苦肉の策であったのだろう。魔族の血が入っているとバレないようにするには、魔力自体を封じるしかなかったのだ。
「どうしても、魔力の一部のみを封じることはできなかった。抑え込むなら、全てだ」
そして、リンダは魔力を失った。
父がリンダの魔力を封じたのは、リンダの実母との約束を果たすためであり、リンダ自身を守るためだった。リンダもその周囲の人も、リンダが間違いなく「人間である」と思えるように。
リンダが迷うことなく、自分はアズラエル家の一員であると思えるように。
「親父が俺にお前のことを話した時、『もし俺と母さんが死んだら、リンダのことを頼む』と言った。だから親父とお袋が亡くなってからは、俺がお前の魔力を封じていた。……そのピアスに、魔力封じの魔法をかけて」
そうか、とリンダは心中で納得する。だから必ずピアスをはめるように言っていたのだ。定期的に新しいものを与えたのは、おそらく効力にも一定の期間があるからだろう。今回それをはめなかったことで、リンダの魔力を封じていた力が弱まったのだ。
「魔力を封じるのは、お前のためだと思っていた」
続けられたファングの言葉に、リンダは思考を遮られた。そして、ファングへ目を向ける。
「お前には、魔力以外にもたくさんの才能があった。勉強もできたし、運動も得意だった。魔力が使えずとも色々な道があると思っていた。しかし……」
そこでファングは言葉を切る。リンダは視線をさまよわせてから、目を伏せた。
そう、魔力がなくとも選べる道はたくさんあったのだ。しかしリンダが選んだのは、家で弟たちを守ることだった。両親を亡くしたばかりの弟たちを、肉親である自分の手で守って、育ててやるのだと決めたのだ。
そういえば、自身の進路をファングに告げた時、彼にしては珍しく、少し渋っていたのを思い出した。「本当に、それでいいのか」と確認するように何度も聞いてきた。まるで、それ以外の道も選べるんだぞ、と言わんばかりに。
「魔力が欲しかったか?」
「それは……」
「魔力があれば、聖騎士となる道を選んだか?」
ファングの言葉に、リンダの手がぴくりと震える。先ほどリンダが激昂した際に漏らした言葉で、リンダの気持ちを察したのだろう。
とっさに、否定の言葉が出てこなかった。「そんなことはない」という気持ちと「もしかしたら」という気持ちがせめぎ合ってしまったからだ。
「お前は、幼い頃からずっと変わらず、聖騎士になりたかったんだな」
ファングがゆっくりと手を伸ばす。その手は、優しくリンダの頭を撫でた。リンダのぐしゃぐしゃにもつれた心の糸を解きほぐすように、優しく、優しく。
「……うん」
その気持ちを、兄に吐露するのは初めてだった。いや、自分から自発的にその言葉を口にするのは、幼い頃ぶりだった。
「うん、なりたかった。俺、父さんや、兄さんみたいな、立派な……立派な聖騎士になりたかったんだ……」
魔力がなく、自分が聖騎士になれないかもしれないと気づいてからは、誰にもその夢を話したことはなかった。聖騎士になるための勉強も、皆に隠れてやっていたほどだ。
同じ学年で学び、すぐそばにいたからか、双子の弟のカインだけは、なぜかリンダの気持ちを察していて、事あるごとに茶化してきた。しかしそのカインに対しても、自分から「聖騎士になりたい」と言葉にして告げたことはなかった。誰にも言えない、大切な夢だった。
「すまなかった」
ファングの静かな謝罪に、リンダはゆっくりと顔を上げる。
「お前を人間でいさせるためとはいえ、酷なことをした」
「それは、違う。ほかの道もあるのに、選ばなかったのは俺だ」
リンダはうつむきながら、小声で言葉を続ける。そして、その全てを振り切るように、顔を上げた。
「……それに俺、もし聖騎士になれる道があったとしても、きっと今と同じ選択をしてる」
それは、性格的なものもあるかもしれない。それに、次男という責任感も。なんにせよ、やはり、幼い弟たちを放って激務である聖騎士の職になど就けなかっただろう。少なくとも、弟たちに手がかかるうちは。
「さっきは、八つ当たりみたいに怒って、悪かったよ。兄さんだって好きで俺の魔力を封じてたわけじゃないのに。俺が、なにも気兼ねすることなく家族でいられるために、人間であるために、やっていてくれたのにな」
それに、魔力があったからといって、半魔では聖騎士になれるはずがない。聖騎士は「聖なる騎士」。魔族たる自分がなっていいものではないのだ。
ないと思っていた魔力があった。それだけでいいじゃないか、と胸の内で自分に語りかける。
「こんなかたちで、その努力を無駄にして、ごめんな。父さんと母さんが死んでから、今までずっと一人で秘密を抱えててくれたんだよな。……ありがとう」
ファングの手が少しだけ止まって、またゆっくりとリンダの頭を撫でた。
「俺、半魔だし、聖騎士にはなれないけど、なにか自分なりに夢を見つけるよ。いつかさ、半魔の俺でも、できることを」
そう。半魔だとわかった。ならば、半魔の自分でもできることを見つけていくしかない。いつかは弟たちも巣立って、将来について考える時がもう一度来るはずだ。その時、自分がどんな道を選ぶのか、今から考えなければならない。
「まぁ。ずっと、ずっと、ずーっと目指してた夢だからさ、すぐには切り替えられないけど……」
ちょっとおちゃらけて、リンダは、へへっ、と笑う。そうだ、そう簡単には切り替えられはしない。人生の目標と言っても過言ではないくらいに、ただひたすらに目指していた「聖騎士」という夢。潰えたからといって、すぐには納得できない。まだ諦められない気持ちもある。
「なにか新しい夢ができたら……今度はちゃんと、兄さんに相談するよ」
それでも、リンダはファングに向けて笑った。それは少し引きつったような、泣き笑いの笑顔かもしれない、心から笑えていないかもしれない。それでも、今の自分にできる精一杯で笑顔を作って見せた。
ファングは黙って、そんなリンダの頭をずっと撫でていてくれた。
話が一段落して、部屋の中が静かになった。
「ふう」とひと息吐いた、その時。リンダは、自身の尻尾がまたしても兄にまとわりつこうとしているのを目にした。
「このっ」
そろりと兄に近づく尻尾を両手で押さえつける。そして、変わらず頭を撫でる兄を見上げた。
「兄さん、また俺の魔力を封じてくれないか?」
「……いいのか?」
少しの間の後、ファングが確認するようにリンダに問うてくる。リンダはためらうことなく頷いた。
「うん。まぁ、このままの姿でいるわけにもいかないし」
リンダはぴちぴちと暴れる尻尾を掴んだまま苦笑う。
「そもそもこんな格好じゃ、家に帰れねぇよ。……俺、やっぱりあいつらの兄でいたい。ただの『アズラエル家のリンダ』として、本当の兄でいてやりたいんだ」
家に残してきた弟たちを思い浮かべる。歳を重ねるごとに生意気になっていく弟たちだが、それでも大切な存在であることに変わりはない。今さら「実は本当の兄弟じゃない」なんて、伝える必要もないだろう。
「だからさ、このことは、俺と兄さんだけの秘密にしてもらってもいいか?」
リンダは窺うように兄を見る。ファングは、ふっ、と微笑むように息を吐いて頷いた。
「もちろんだ」
ファングの言葉に、リンダはにこりと微笑む。たとえ血が繋がっていなくとも、種族が違っても、兄弟であることに変わりはない。リンダは、アズラエル家の次男だ。
「じゃあ、封じてもらおうかな……どうすればいい?」
「そのピアスに魔力封じの魔法をかけよう。いいか?」
ファングは、リンダがつけているピアスを指す。リンダはその言葉に頷いてから、ピアスを外して兄に渡した。
「魔法かけるところ、見てていい?」
「ああ、いいぞ」
ファングは片手にそのピアスを乗せて、もう片方の手をその上にかざした。
リンダはその手から目を逸らさないようにしながら、あとずさりしてベッドに乗り上がると、ぺたんと座り込む。少しだけわくわくしながら見つめていると、兄の手から、魔力が流れ出るのがわかった。
その瞬間。リンダは、本日三度目の「あの感覚」に襲われた。
ファングが魔法をかける、それに合わせるように、ひくひく、と羽が震える。そして、動きを止めたリンダの手から解放された尻尾が、ゆるりと動き出した。
「……リンダ?」
唐突に腕に絡みついてきた尻尾に、ファングは訝しむようにリンダに問いかける。が、リンダは無言だった。尻尾はまるで誘うように、するするとファングの腕を撫でている。
「リンダ、どうした」
「……それ、ちょうだい?」
ファングの問いに、答えになっていない返事をするリンダの声は、どこか舌足らずで妖しい熱を孕んでいた。
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『転生したいらない子は異世界お兄さんたちに守護られ中!(副題・薔薇と雄鹿と宝石と)』で
発売中です!
イラストレーター様は一為先生です(涙)ありがたや……(涙)
なお出版契約に基づき、子供編は来月の刊行日前に非公開となります。
大人編(2部)は盛大なネタバレを含む為、2月20日(火)に非公開となります。申し訳ありません……(シワシワ顔)
※大人編公開につきましては、現在書籍化したばかりで、大人編という最大のネタバレ部分が
公開中なのは宜しくないのではという話で、一時的に非公開にさせて頂いております(申し訳ありません)
まだ今後がどうなるか未確定で、私からは詳細を申し上げれる状態ではありませんが、
続報がわかり次第、近況ボードやX(https://twitter.com/mohikanhyatthaa)の方で
直ぐに告知させていただきたいと思っております……!
結末も! 大人の雪夜も! いっぱいたくさん! 見てもらいたいのでッッ!!(涙)
美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
白銀の人狼は生贄の王子に愛を捧ぐ
伊達きよ
BL
古くからユーディスティ王国の北方を守る狼の民・ザノゥサ。王国は守護の代わりに貢物を捧げ、彼らとの友好を保っていた。けれど時が過ぎ、その関係を軽んじた王は「王の子を嫁がせよ」というザノゥサの求めに対し、姫ではなく王子のシャニに白羽の矢を立てた。海軍将校として生きていた彼は一転、ザノゥサへの生贄として雪深い山脈へ向かうことになる。そこに待ち受けていたのは、美しい白銀の狼。シャニは自分こそが妻だと主張するが、子を産めぬ男に用はないとばかりに置き去りにされてしまう。それでも一人凍える雪の中で生き抜こうと耐えるシャニのもとに再び現れた狼は、なんと人の形に姿を変えて――!?
異世界転生先でアホのふりしてたら執着された俺の話
深山恐竜
BL
俺はよくあるBL魔法学園ゲームの世界に異世界転生したらしい。よりにもよって、役どころは作中最悪の悪役令息だ。何重にも張られた没落エンドフラグをへし折る日々……なんてまっぴらごめんなので、前世のスキル(引きこもり)を最大限活用して平和を勝ち取る! ……はずだったのだが、どういうわけか俺の従者が「坊ちゃんの足すべすべ~」なんて言い出して!?
宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている
飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話
アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。
無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。
ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。
朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。
連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。
※6/20追記。
少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。
今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。
1話目はちょっと暗めですが………。
宜しかったらお付き合い下さいませ。
多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。
ストックが切れるまで、毎日更新予定です。
不憫王子に転生したら、獣人王太子の番になりました
織緒こん
BL
日本の大学生だった前世の記憶を持つクラフトクリフは異世界の王子に転生したものの、母親の身分が低く、同母の姉と共に継母である王妃に虐げられていた。そんなある日、父王が獣人族の国へ戦争を仕掛け、あっという間に負けてしまう。戦勝国の代表として乗り込んできたのは、なんと獅子獣人の王太子のリカルデロ! 彼は臣下にクラフトクリフを戦利品として側妃にしたらどうかとすすめられるが、王子があまりに痩せて見すぼらしいせいか、きっぱり「いらない」と断る。それでもクラフトクリフの処遇を決めかねた臣下たちは、彼をリカルデロの後宮に入れた。そこで、しばらく世話をされたクラフトクリフはやがて健康を取り戻し、再び、リカルデロと会う。すると、何故か、リカルデロは突然、クラフトクリフを溺愛し始めた。リカルデロの態度に心当たりのないクラフトクリフは情熱的な彼に戸惑うばかりで――!?
男子寮のベットの軋む音
なる
BL
ある大学に男子寮が存在した。
そこでは、思春期の男達が住んでおり先輩と後輩からなる相部屋制度。
ある一室からは夜な夜なベットの軋む音が聞こえる。
女子禁制の禁断の場所。
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