〜espoir〜五つ星オーベルジュのオーナーだなんて、こんな僕には向いてません!

鱗。

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第二章 『一番星』

本当に、これっぽっちも

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日中は、オーベルジュの一員として、他の従業員達と横並びになって就業し。夜は支配人室に通って、溝口支配人自らが教鞭を振るう講義を受け、支配人業務を覚えていく様になると。ただでさえ早く感じていた時間はあっという間に経過していき、ここを初めて訪れた時から数えて半年、という月日が、瞬く間に目の前を通り過ぎていった。

やるべき事。やらなければいけない事。やらざるを得ない事。考えなくてはならない事。その一つ一つが、どれか一つを取ってみても、いままで、碌に就業してきた経験のない僕の、人としての容量を超えたものとして存在していて。僕は、寝る間を惜しんで努力するとは、本当に寝る間を惜しんでいるのではなく、そうせざるを得ないからそうしているだけなんだという、悲しい現実を知ることとなった。

だから、束の間の癒しとも呼べる、薔薇の花が咲き乱れ、春の息吹を感じるこのイングリッシュガーデンで、ため息をつきながら、膝を抱えてしゃがみ込んでいる僕は、何処からどう見ても、サボっている様にしか、他人の目には映らないだろうけど。

どうか、勘違いしないで頂きたい。僕は、ただ単に、疲れ切って考え込んで、足らない頭をフル回転させて、熱暴走しそうになってしまう頭を、こうして薔薇やハーブの香りを嫋やかに運んでくれる、そよ風に当てて、冷やしているだけなんです。

溝口支配人。彼は、本当に僕と同じ人間なのでしょうか。はっきり言わせてもらいますが、貴方、超人過ぎやしないですかね。断言できる。超人とは、人を超えているから、超人と呼ばれるのだと。分かってるって?直訳してるだけじゃないかって?そうですよね、本当にそう。

支配人とは、ホテルにおけるすべての部門の最高責任者を指す。支配人はすべてのスタッフや業務を統括し、顧客満足度の向上、収益の最大化、施設の維持管理などホテルの運営に携わり、ホテルのビジョンや目標の実現を目指していく存在だ。幅広い分野の専門知識やリーダーとしての人望と能力が求められる、責任ある仕事でもある。

宿泊施設としてのお客様満足と、働く職場としての従業員満足を図りながら、収益の向上を追求するべくあらゆる業務を行い、施設の内情をきちんと把握し、ビジネス視点で客観的に市場や数字を見て現場と擦り合わせをしながら、ホテルを牽引してかなくてはならない。そう、従業員を含めたお客様達の命運のかかる、大型客船の舵取りを任せられる様なものなんだ。だから、その責任が、どれほど重いものか、分かってはいたけれど。いる、つもりでいたけれど。

……溝口支配人も、僕の周囲にいる人達も、みんな。何故だか僕を、まるで溝口支配人と同種の人間だと思っているみたいだけど。側から見れば、そう思えるだけで。中身なんて、溝口支配人に、何一つ追いついてはいない。

仕事するふり。リアクション。発言するタイミングの計り方。つまり、僕の場合、空気を読む力が、常人のそれより、少しばかり長けているというだけなんだ。家庭環境もあったとは思うけれど。これは、生きる為に必要だったから後天的に備わった、生存戦略にも似た技術に他ならない、と僕自身は総括そうかつしている。

先天的天才の理解力の範疇外はんちゅうがいにある、凡人にのみ備わった、ライフハック的要素が満載な、そんな複合物を、下から上から覗かれて。

『素晴らしい』
『飲み込みが早い』

と、おだてられましても。基本的に天才しか存在しないこの場所にあっては、自分の自己肯定感の底上げの一助にもならなかった。

(こんな調子で、本当に、このオーベルジュのオーナーになれるのかな)

みんなには、暖かく接してもらえているのは、充分過ぎるくらい分かっている。この先の未来で、本格的な相続が済み、僕がオーナーとして、このオーベルジュ『espoir』の新しい主人になったとしても、みんなが、僕に寄せてくれる献身と忠誠が変わらないだろうことも。更に、その傾向が増していくだろうことも。とても烏滸がましいけれど、なんとなく、じゃなく、事実に近い感覚で受け止めている。

だけど、僕自身が、オーナーとして君臨する未来の僕を許容したり、そんな自分を看過できそうになくて。致命的な自分の中にある問題点も相まって、僕は、こうして、時間を見つけてはこの場所へと繰り出し、膝を抱えながら、溜め息を吐く日々を過ごしていた。

溝口支配人と、連日連夜、一緒に支配人業務に取り組んで分かった、経営者としての、致命的な問題点。それは、僕の性質からくる、『決断力の無さ』だった。

いつも誰かに、僕の人生はコントロールされてきた。父親に命じられるがままに生き、母親とともに肩身の狭い思いをして、これまでの人生、親族や周囲にいる人の顔色ばかりを伺って生きてきた。

自分の意思のみで決定して行動に移した経験がない僕にとって、自分以外の他者の人生に関わったり、業務内容について忠言ちゅうげんしたり、経営者として采配を振るったり、時にはオーベルジュ全体の利益を考えて残酷な決断を行使したり、といった手腕が求められる状況に置かれるのは……ただただ、ストレス過多な環境だとしか言い表せない。

僕の中に今あるのは、『僕に出来るかな』、という不安ではなく。『僕には絶対に不可能だ』、という事実の確信、それのみだった。

だけど、僕みたいな人間を、盛り立ててくれて、嬉しそうに担ぎ上げてくれて、期待している人が、この場所には沢山いて。

その中には、この半年で絆を結んできた、同僚、先輩、上司がいて。

それぞれの顔が、頭にフッと蘇ると。彼らはみんな、真っ直ぐに、僕の目を見て、柔らかい笑顔を浮かべてくれて。

『おはよう』
『お疲れ様』
『おやすみなさい』

労りと気遣いを、向けてくれて。

『ありがとう』

そこにいてくれて、ありがとう、と口々に感謝を述べてくれて。

ああ、居場所って、こんな人達がいる場所を、そう表すのか。なんて、思えてくるから。この場所にいる人達の期待に、優しさに、応えてみたくて。

『まぁ、やるだけやってみようかな』
『違う、やりたいな』
『いやいや、やっぱり、頑張りますかね』
『よっしゃ、やるぞー』

とかなんとか、段々と、自分の中にある意欲や、やる気が、ぐんぐん育っていって。

そんな、次第に勢いを取り戻していく、僕の傍にいて。僕と一緒に、イングリッシュガーデンに咲く薔薇やハーブの手入れと、その収穫をしてくれている眞田副料理長に……この、居心地の良い場所を提供して、共有してくれている彼に。

僕はいつも、最後に。
ありがとう、と告げるんだ。

「俺は、なんもしてねぇよ。お前が勝手に落ち込んだり、勝手に元気になってるのは、自分と喧嘩して負けても、すぐに立ち上がって、結局は、その喧嘩に勝ってるからだ。だから、いちいちお礼なんてしなくて、いいんだよ」

「でも、眞田さんと、土いじりしたり、薔薇やハーブと触れ合ったりする時間が、自分と向き合ったり、癒されたりする時間になっているのは、事実ですから」

「こき使ってるだけだよ、こんなもん。買い被りすんな」

本当に、この人は、素直じゃないんだから。感謝されるのが、逆に負担になるかと思って、少しの間、言葉にしない時があったときは、何となく寂しそうにしていた癖に。去っていく時の僕の後ろ姿を、寂しそうな目で追っていたの、知ってるんだからね。

今だって、ほら、口元が何処となく緩んでますよ。笑顔隠しきれてないですよ。

「また、眞田さんのピアノ、聴きたいです」

「お客様がいなかったらな」

「この前は、お客様がいても、弾いてくれたじゃないですか」

「あれは、ある意味、万人受けを狙ってたからな。お前の好みが、まだよく分からなかったし……だから、もう、お前の前ではあんな風には弾かない」

眞田さんのピアノの実力を、言葉として表現するのは、難しい。圧倒的に語彙力が追いつかないというか……兎に角、神様は、どうしてこんなにも情け容赦なく、彼に料理の才能だけでなく、ピアノを弾く才まで与えたもうたのか。と、頬を伝う涙を堪えきれずに思ったものだ。

人の演奏を聴いて落涙した経験が無かったから、自分でも驚いてしまった。一番驚いていたのが、いま僕の隣にいるピアノ奏者、眞田 崇人ご本人だったから、落涙していた事実に気が付いたのは、彼の反応を見てからだった。

あんなに綺麗にアイロンを当てたシルク製のハンカチを、ぐしゃぐしゃにしてしまって、ごめんなさい。洗って、アイロンを掛けて返した時の、あの何とも表現しきれない、苦虫を噛んだ様な独特の表情は、忘れられないです。

でも、何であの時、そんなに不機嫌そうにしていたんでしょうかね、この人は。

「じゃあ、もう僕の前では、弾いてくれないんですか?」

「違う。そうじゃない。ただ、その……」

おや、これは、もしや。あの時、不機嫌だった理由とかも、ついでに聞けたりするんじゃないか?もう少し、黙って様子を伺ってみよう。

「……お前が、泣くだろ。だから、あんな、あからさまに人の感情を揺さぶる品の無い演奏は、もうしない。次に弾くなら、もっと相手の気持ちに寄り添った曲を弾いてやりたい」

その相手って、つまりは、僕のことですよね?恥ずかしがり屋な眞田さんにしてみたら、これは、とんでもない発言ですよ。相手の気持ちを考えて、眞田さん程の奏者が、自分のスタイルを変えて対処しようだなんて。有難いなぁ、でも、申し訳なさも、少しだけ感じる。

後で、弘樹辺りに自慢しようかな。弘樹の事だから、絶対に羨ましがる筈。

後は、そうだな。

『好きです』

千秋。

『ずっと、ずっと昔から。貴方の事が、好きでした』

とか。

「聴いてくれる人を、もっと、癒せるような。そこにいるだけで、気持ちが和むような……できるなら、そんな演奏がしたい」

「泣いたって別にいいじゃないですか。少なくとも、あの時、僕は、泣けて良かったです」

「……泣けて良かった?」

剪定バサミを右手で持ちながら、眉間に皺を寄せて、怪訝そうな顔をする眞田さんの。少なくとも、彼にとって僕は、身内に近いカテゴライズがなされた存在なんだなぁと、そこから、容易に伺い知れてしまって。

あぁ、この人になら、話してもいいかな、なんて。

甘えだよなぁ。

「告白されて」

「は?」

「突然だったから、分かんなくて。相手の気持ちも、自分の気持ちも」

「……はぁ」

「だから、眞田さんのピアノを聴いて、自分が足元から揺さぶられた気持ちになって……その場所で踏ん張ってみたら、足場が漸く安定した気がして。それで、漸く泣けてきて」

「……そうか」

「返事、待たれてて」

「うん」

「いま、滅茶苦茶、しんどいです」

「………」

しんどい。
そうか、僕はいま、辛いのか。

眞田さんと話していて、漸く分かった。自分の気持ちが。

その、遣る瀬なさと、困惑とが、頭の中でぐちゃぐちゃになって。

考え方が無秩序になって、何も手につかなくなって。

だから、なりふり構わず仕事に手を付けて、忙しい環境に自分自身を埋没させて。こうして、何も考えずに作業に没頭していられる環境に身を置いて。疲れ切った頭と身体を、束の間であっても癒したいと、そう思っていたんだ。

そう、僕は、このオーベルジュの地下にあるワインセラーで。互いに涙し、絆を確かめ合った、まさに、その時。

千秋から、血の繋がらない弟から、突然、告白を受けてしまった。

唐突にも感じられる、僕からしてみたら、そうとしか思えないタイミングで。けれど、彼からしてみれば、積年の想いを打ち明けるに相応しい、またとない、絶好のタイミングで。

そして、冷たいワインセラーの石壁に身体を押し付けられて。同じ男性とは思えない体格差を埋める様に、ぎゅう、と抱き締められて。泣きながら、再び謝られて。

『ごめんなさい』

と、僕の首筋に顔を埋めながらゆるしをう彼が、一体、何に対して謝っていたのか。最後まで僕には、分からなかった。

『好き』という、純粋かつ清涼な感情のどこに、謝らなければならない要素があるというのか。僕には、ちっとも分からないのだけれど。

ねぇ、千秋。

君が、相手を好きでいられるだけじゃ、その感情を満足させられないのだとしたら。君が、僕と歩む未来を、本当に、心の底から渇望しているのだとしたら。一つだけ、聞いてみたいことがあるんだ。

一体全体、君は、こんな、どう仕様も無い人間の。

何処を選んで。
繰り抜いて。
好きだと言ってくれたの?

『俺と一緒に、生きて下さい』

僕の隣にいたいと、家族になりたいと、君が、そう望んでくれるなら。僕はいつだって、兄として、その役割を果たす準備ができたのに。

まるで、永遠の契りを交わした男女の様な関係を結びたいと、もしも君が望んでいるのであれば。僕は、そんな君を、兄として突き放さなければならなくなる。

ねぇ、千秋。

君が、僕という人間の、何処を魅力として錯覚してくれているかは、分からないけれど。

『貴方を、どうしようもなく愛してしまった、この俺と』

君は、僕という人間を、本当に、これっぽっちも、分かっちゃいないんだよ。

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