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第二章 『一番星』

『俺と一緒に、生きて下さい』

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沢山の、顔も分からない人々の手を渡り。ごく様々に、とりどりに、それぞれの年月を経てきたワインが、整然と並べられたワインセラーの。壁に等間隔で誂えられた燈會らんたんの灯りが、薄ぼんやりとしか届かない、それでいてなお、空気の澄んだ場所にあって。話し声が何処にも漏れる心配のない、そのひと区画は。外の世界とは完全に隔絶されたものとして、成立している。

「ボトルは、本物でした。ですから、まだフロアでの経験が不足している貴方の初見や対応に、間違っている点はありません」

こうして、顔を見合わせて対峙していても、目の前にある人物の表情は、おぼろげにしか伺えない。しかし、その分、発せられる声の質感や、その言葉そのものが持つニュアンスは、しっかりと強調されていた。

「ただ、最初から相手を陥れようとする人間は、こうした汚い手口を使ってくる時もあります。今後、少しでも異変や違和感を感じた時は、俺か、輪島さんを頼って下さい」

労りや、気遣い。言葉と言葉を紡ぐ行間。柔らかい口調。自然なまでに人柄が滲み出る、穏やかな佇まい。その全てが、大きな挫折を経験し、意気消沈の淵にいる僕を、心の底から安堵させる。

でも、だからといって、その配慮に甘えきっていて良い筈がない。

「そうはいっても、僕が反省すべき点はある。そうでしょう?」

「それは……」

千秋は、優しい。それが、時として仇となったり、諸刃もろはつるぎとして作用してしまうくらいに。そして、世界最高の栄冠を手に入れた経験を持つ人間として、その世界中にその名前を知られていても、決してそれを鼻に掛けることなく、人里離れたこの場所に留まることを選ぶ様な、謙虚な性質をしている。

そんな彼を、同僚として、血の繋がらない兄弟として、誇らしく思うのと同時に。どうしても、勿体無いと思わずにはいられなかった。

彼の経歴に照らしてみれば、尚のこと。彼は、世界中の名だたるレストランで、引く手数多になるのは、どうあっても避けられない人材だ。千秋の名前を看板にしたレストランやホテルが、この国の首都となる場所の一等地に作られたとしても、なんら驚きはなかった。このオーベルジュが、名だたるグルメガイドや権威あるホテル評価機関において、名店中の名店と称されているとはいえ、その規模でいったら、世界規模で展開している他店とは比べ物にはならない。

このオーベルジュにこだわる、なんらかの理由があるのであれば、多少の納得は効くけれど。それが一体何なのかは、ただでさえ彼との正しい距離感を計りかねている僕の、知る所になかった。

その理由の一つに、僕達の父親が関係している可能性は……あるかもしれない。愛人との間に生まれたという出自が、輝かしい功績を残せば残すほど、浴びる光が眩しいほど、その足元に、暗い影を落とす。

だとしたら、悲惨だ。惨いにも程がある。彼がこれまで、どれだけの努力を積み重ね、自分自身を錬磨してきたか、僕にだって分かるから。

表舞台に立ちたくても、生まれた環境が悪いというだけで、正当な評価をされる場所に立つことができない千秋が、哀れでならない。それが万が一、この場所に留まる理由としてあるならば、僕は、絶対に父親を許せなかった。

どうして、これまで守ってこなかった?どうして、僕達を引き離して育てた?どうして、彼を日の当たる場所で咲かせる努力をしなかったんだ。

悔しい。涙が出るほどに。噛み締めた奥歯が割れそうなくらいに。

………だけど。

「これまで、特別な職業訓練を受けてきた訳でもない僕が、一人前のサービススタッフになるまで、どれだけ迷惑を掛けてしまうか、まだよく分からないけれど。それでも、せめて、君のお荷物にならずにいられるまで、精一杯頑張るから……これからも、御指導御鞭撻の程、宜しくお願いします」

例え、どんな理由があって、この場所に千秋が留まっているにせよ。千秋が、僕の弟が大切に想っている場所ならば。その気持ちを尊重したいし、僕自身の手でも、この場所を大切にしていきたい。

その一助として、僕が一人前のサービススタッフになる必要があるというのなら。一端の経営者を名乗れるまでに成長する必要があるのなら。僕が、胸を張って兄だと紹介できる人間になることが必要なのだとしたら。そして、いつの日か、オーナーという立場すら立派にこなせる人間になることが必要なのだとしたら。

僕は、その『』の為になら、どんな苦労も困難も越えてみせる。

そう、自分自身を鼓舞して。今日あった出来事を糧にして。前に一歩、進むために。

顔を上げた、その先に。

「どうやら、何か誤解をされているみたいなので訂正しますが。俺が貴方を……春翔兄さんを、お荷物だとか、負担に思うことは、今までもこれから先も、絶対にありません」

認めた、君の優しい微笑みに。

「俺も、最初のうちは、失敗ばかりでした。これまで、何度挫折を経験してきたか、数えるのも億劫なくらいです。でも、俺には自分自身が心に誓った、生きる目的ともいえる目標があったから。何があっても努力して、立ち上がって……こうして評価をされるまで、自分なりに懸命に生きてきました」

穏やかでいながら、反面、強い意志を宿した、その迷いのない、眼差しに。

「俺が、何度挫折を繰り返しても経験を積み、技術を磨き続けてきたのは。この世でたった一人の大切なお客様をおもてなしする時、恥ずかしくない自分でいられる為です」

限り無く清涼で、何処までも澄みきった、その瞳に。

「だから、どんな辛い経験も、過去も……その時の為にこそあるんだと思えば、なんの障害でもありませんでした」

映る、己自身を、見て。

「君みたいな人に、それだけ想われているなんて。その人は、幸福な人だね」

「貴方です」

その全てを。
事実を。
現実を。
目の当たりにした。
自らの、幸福を見つけた、僕は。

「生涯をかけて、おもてなしをしたい相手とは。俺が、ずっと待ち望んでいた人とは。春翔兄さん……貴方のことです」

とうとう、涙を堪える事が、できなくなってしまった。

「泣かないで下さい。貴方に、涙は似合わないから……貴方には、幸せそうに笑っていて欲しいんです。ずっと、俺の隣で」

ごめんね、すぐに泣き止むから。いい年をして、こんなのまるで、子供みたいだ。

「どうしよう……ごめんなさい、春翔兄さん……春翔さん。どうしたら泣き止んでくれますか?」

「ごめん、千秋、本当にごめんね」

「謝らないで下さい。俺が悪かったから……それに、今までも、冷たい態度をとってばかりいて、すみませんでした」

これじゃあ、どちらがお兄さんか、分からないよね。といって、茶化せるだけの心の余裕が、あればいいのに。

涙が、後から後から、清水の様に湧き出して。
本当の気持ちを、言葉として紡げない。

「素直に、ずっとお会いしたかったと話せれば良かったんですが。俺が、臆病なばかりに、いらぬ誤解を招いてしまって……本当に、すみませんでした」

「千秋は、悪くない」

「はい。貴方のその優しいお気遣いは、尊重します。ただ、それでも……ごめんなさい」

涙の理由を、どうしても君の所為にしたくない僕と。涙の理由を、どうしても自分の所為にしたい君と。

僅かな攻防をして、自然なままに、目と目が合って。

「だから、どうか……これから貴方を、もっと困らせてしまう俺を、許してくれませんか?」

君の瞳が、橙色だいだいいろした燈會の薄明かりの中、きらきらと、煌めいて。

「急かすつもりなんで、本当に、全然、少しも無かったけど。無いつもりだったけど。こんな機会、望んでも、この先きっと手に入らないから……言わせて下さい」

瞬間、悟る。

「貴方の関心が欲しくて、認めて貰いたくて、その一心でしか生きられない、俺だけど。こんな風にしか生きられない、強請ねだってばかりの、俺だけど」

僕達は、お互いの存在こそが。
支えであり、弱点であると。

「家族になって、くれませんか」

嗚呼、何てこと。

「貴方の隣にいても、いいですか」

君は、なんて綺麗に、涙するんだろう。

きらきらと、存在自体が奇跡みたいに煌めいた。

誰よりも真っ直ぐに。
純粋に。
直向きに。
僕を見つめる、君。

僕の、たった一人の弟で、どれだけ大切にしても足りないくらいの、特別な存在。

僕の希望。
僕の一番星。

だから、そんな君が。

「好きです」

唐突に口にした、その言葉の意味を。

「ずっと、ずっと昔から。貴方の事が、好きでした」

ただただ真っ直ぐに僕へと届けられた、その言葉の真意を、どう解釈すれば良かったのか。

「俺と一緒に、生きて下さい」

一体、どんな言葉を返せば良かったのか。

「貴方を、どうしようもなく愛してしまった、この俺と」

いまだ、分からずにいるんだ。


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