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第二章 『一番星』
君を、いっそ、この手で
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「え?じゃあ、まだ返事してあげてないの?」
深夜の見回りは、従業員が持ち回りで担当している。警備ロボットも常駐はしているけれど、人の目という最終点検も必要だからだ。お客様の泊まる客室を確認するまでは行かないにせよ、骨董的価値のある美術品は館内のどこにでも確認できるから、盗難があった際はすぐに対応できるように、との竹之内総料理長の計らいからくる鶴の一言で、そうと取り決められたらしい。
それを聞いて、成る程、溝口支配人の頭の上がらない人間は、竹之内総料理長なんだな、とその話を耳にした当時、すぐに察したものである。
「うん……だって、返事するにも、僕達…」
館内の照明は、ご宿泊されているお客様の為に、基本的に24時間点灯がなされている。だから、夜の見回りは、そうした配慮がされない、従業員しか立ち入ることのできない区域に限定されていた。互いに持った懐中電灯の明かりが、文字通り僕達の道標となって、この先に進むべき道程を、儚く照らし出している。そんな、頼りない人工的な明かりだとしても、それを操作し、自分の手元で明かりを手懐けられる状況を作り出せる環境は、日中とはまた違う顔を見せる館内にあって、不気味な印象を抱いてしまう僕に、一握りの安心感を抱かせていた。
「言いたいことは分かるけど。でも、二人の間に、血の繋がりは無いんでしょ?なら、普通の兄弟のようにはいかないじゃん」
「そうなんだけど、分かるでしょう?何が問題か、とか」
「そんなもんかなぁ」
態々口に出さずとも、普通に考えてみたら当然の発想であり、帰結である筈なのに。割と長い期間お世話になってきても、結局、この三峰 弘樹という人物を、本当の意味で理解することはままならなかった。相変わらず、僕の予想の範疇を、いとも簡単に超えた発言を繰り返してくる奴だなぁ。血の繋がりはなくても、色々と関係性がややこし過ぎて、そうした類いの対象から敢えて外している僕の方が変、みたいな空気にするの、やめて貰ってもいいですかね……見回りにも集中したいので。
「実家関係のしがらみから遠ざかってるんなら、そこまで神経質にならなくても良さそうに思えるけど?」
何を、他人事の様に宣っているのやら。まぁ、事実として他人ではあるんだから、それはそうなんだけれど。でも、少しは僕の事情に照らして考えてみて欲しいんですよね。
父親の愛人の残したオーベルジュを丸ごと引き継ぐことになった職歴なしのお坊ちゃんの目の前に、突然血の繋がらない弟が現れたと思ったら、兄弟じゃなく本当の意味でパートナーになりたい、なんてニュアンスの話をされて、告白までされてしまいました……なんて、最初から最後まで意味が分からないでしょうに。僕だって、あの衝撃的な告白から三ヶ月が経った夏になっても、ちっとも意味が理解できていないんだから。
「それとも、お前にしか分からない問題が、他にも何かあるの?」
……流石は、我がオーベルジュ『espoir』において、顔とも言われる存在。『ホテルの主人』と称され、時と場合に応じては、支配人と同クラスの発言権と権力とを行使できる人間は、こうも察する力も鋭いのか。
これまであった、僕の立場を顧みていない言動も、全ては、この質問に誘導する為の布石と考えて差し支えはなさそうですね。これだから、人となりを簡単に知った気にはなれないんだよなぁ。油断ならないというか、なんというか……
同い年だからといっても、弘樹は、給仕を含む接客全般について指揮をする、立場ある存在だ。コミ・ド・レストランとして見習い期間を過ごし、シェフ・ド・ランとなってフロアに立つ以前から、彼は僕の一番身近で遠い師匠でもあった。穏やかさの中に、ひり、とした厳しさを感じさせる数々の指導の記憶は、いつだって鮮明に、脳裏によみがえらせることができる。
ただ、師匠と弟子、というスタートから始まった関係性だからこそ、話せる話もあるのかもしれない。そんな経緯から、僕は、自然なままに、自分自身の正直かつ率直な心境を、弘樹に向けて、ぽつり、ぽつり、と打ち明けていった。
「僕ね、いままで、人を好きになったことが、一度もないんだ。だから、人を好きになるっていう感覚自体が分からなくて……同性だっていうのには、特別、偏見とかないみたいなんだけど。それも、今回の件で、やっと自分でも気が付いたくらいに、恋愛自体に、本当に関心がなくて。相手の気持ちを、どう受け止めたらいいか、とか。どうやって接すればいいのか、とか。返事したら、関係性がどんな風に変わっちゃうんだろう、とか。色々、自分なりに考えたり、調べたりして。そうして悩んでるうちに、時間ばかり過ぎていって……」
そして、いまに至る、というわけです。
自分自身の中にある、信念、思想、自治、つまり、これまでの人生を送ってきた中でも、最も大切にしてきた、『価値観』と呼ばれるそれぞれに。僕は、恋愛という項目を、一度足りとも追加してこなかった。
愛人の存在が知ることになるまでの間も、父親の多方面に渡る女遊びは、殊更派手なものだった。父親の様に、家庭を捨ててまで恋に溺れきった、惨たらしい人間にだけは、なりたくなくて。恋愛にも、お金にも、人間関係のしがらみにも惑わされない、一人きりで生きていく自分というものを確立することだけを目標にして、これまで、自分なりに必死になって、精一杯生きてきた。
そうした努力を無駄にしてしまう。根底から前提を崩そうとしてくる人間は、すべからく、僕にとっては、そう。
恐怖の対象、でしかないんだ。
「全部全部、分からないから。だから、いま、凄く、千秋が、怖い」
千秋が、怖い。何を考えているのか、いつから僕をそうした対象として見てきたのか、そもそも、どれくらい前から僕という存在を知っていたのか。その全てが、分からなくて。彼という存在や、彼自体が身の内に収めた価値観というものを理解したくても、恐怖で足がすくんで、身動き一つ、取れなくなってしまう。
そして、何より。
「それに、千秋には、僕なんかに引っ掛かって、これまでの自分の人生を、無駄にして欲しくないんだ。もしかしたら、僕に抱いている感情も、親離れが出来ていない子供のそれに近いのかもしれないし……」
その人が、どれだけ素晴らしい人格と経歴とを兼ね備えていても、ひとたび恋愛という事象が絡んでしまうと、途端に評価が覆ってしまう。これまで生きてきた中で、そんな残酷な場面には、幾つも遭遇してきたし、実際に全てを失ってしまった人間の末路というものも、この目で目の当たりにしてきた。
これまで積み重ねてきた、輝かしい人生が、男女関係の縺れの所為で完全に崩壊する場面に出会してしまった時に、つまり、僕の父親が、そうであったように。恋愛にかまけて、本来自分が一番大切にしているものを壊してしまうのは、ただただ勿体ないし、愚の骨頂と言わざるを得ない。
僕は、千秋に、父親と同じような真似をして、愚かな轍を踏んで欲しくない。自分自身のキャリアや、これまで磨き続けてきた類希なる才能や人格を、僕の為にこそ摩耗させるのではなく。その実力を正当に評価して貰える場所で、その輝きを放ち続けて欲しいんだ。僕という人間を、自分の人生から切り離して、輝きに満ちた道だけを歩んで行って貰いたい。その道行に、もしも僕という存在の手助けが必要なのなら、僕はいくらでも千秋を、陰から日向から、支援していきたかった。
まるで、親離れ子離れの時期を逃してしまった家族の様な僕達が、本来あるべき、健全な関係性を築いていく為にも。
「千秋の、僕に掛ける気持ちや、これまでの努力を否定したくはないけど。もし、雛鳥の刷り込みに近い感情を僕に抱いているのなら、そこは、兄として、違うよ、って伝えなくちゃいけないと思うんだ。でも、それを伝えたら、千秋が深く傷付くだろうって考えたら……それも怖くて」
話をしていくうちに、次第に肩を落としていった僕の隣で、弘樹は、口元に少しだけ指先を掛けると、うん、と小さく頷いてから、弘樹本人が生来から持つ、穏やかな性質が表れた微笑を浮かべた。その優しさに満ちた仕草と表情に、僕という存在を丸ごと受容してくれる趣きに、僕は既に泣き出してしまいたくなるような心境になっていた。
「春翔は、よく頑張ってるよ。相手の気持ちも、自分の気持ちも、大切にしようって、思ったんだよね。仕事にも打ち込んで、周りに迷惑を掛けないように必死になって毎日頑張りながら……でも、それって、普通、簡単にできることじゃないし、春翔は自覚してないかもしれないけど、俺からしてみたら、充分凄いことだと思えるよ」
心温まる共感と、手放しな賞賛と。それら全ての気遣いが、早く返事をしなければ、でも、相手を傷付けてしまうのが怖い……と、考えすぎて、悩みの渦中にあった僕の背中を、そっと優しく押してくれた。
それだけで、泣けてしまう。丸まっていた背中が、すぅ、と伸びる。考え過ぎて凝り固まっていた思考が、回り始める。
話せたのが、君で良かった。
本当に、ありがとう、弘樹。
「……僕、どうしたらいいのかな。このまま、何もせずに、ほったらかしにしてしまうのが、一番良くないって分かってるんだけど」
「うーん、そもそも告白されてから結構時間経ってるわけだし、仕事だって普通にできてるでしょ?だから、今更焦って、早く答えなくちゃ、なんて考えなくてもいいんじゃない?千秋も、ある程度は、春翔の気持ちを察しているから、大人しくしてるのかもしれないし」
本当に、そうなんだろうか。でも、確かに千秋は、あれ以降、全くといって僕に返事を催促してこなかった。
それだけでなく、簡単な日常会話もするし、仕事に関するアドバイスもしてくれているし、時には、軽いジョークを口にして、その場の空気を和ませてくれたりもしている。
だから、決して千秋が、無理をしている様には、僕の目からしても、そうとは見えなかったけれど。僕の目の届かない場所での彼の姿は、笑顔の下に隠された本心は、どうしても目には見えないから。
彼が、どれほどの心理的負担を抱えたまま日々を過ごしているのか、とか。
笑顔の下で、本当は膝を抱えて泣いてしまっているんじゃないか、とか。
……そんな想像をするだけで、胸が苦しくて堪らなくなる。
弘樹は気を利かせて、焦るな、なんて言ってくれたけれど。やっぱり、千秋を楽にする為にも、僕達が、きちんとそれぞれの道を歩んでいく為にも、一刻も早く、彼に返事をして……
「静かに」
空を割く、鋭利な声に、瞬間、その場で身を固める。すると、その声の主である弘樹が、人差し指を口元に持っていき、シーと微かに静止を促すポーズをとって、静かにする様にと促してきた。それに合わせて、僕も、全くの無言になる。すると、金属や、布同士が擦れ合う微かな物音や、荒々しい息遣いが、途切れ途切れに、僕の耳にも次第に届いてくるようになった。
「厨房の方からだ」
この時間帯に、厨房に用事がある人間は、そうはいない。明日の仕込みをする時間はとっくのとうに過ぎてしまっているし、明日は予約して下さったお客様の中に食物アレルギーを持つ方はいらっしゃらないから、前日から特別な配慮をして居残りをする必要はなかった。だから、そんな厨房から物音がするのは、確かに奇妙なことではあった。
このオーベルジュの厨房には、地元食材だけでなく、世界中から仕入れた古今東西の食材を正しく調理する為に、珍しい調理器具も、数多く取り揃えている。中には、入手困難な上に、桁外れの価格を有する器具も存在しているから、その価値を正しく理解している者が押し入って、物色している可能性は、ないとは言い切れなかった。
口の中に湧いた唾を、ごくり、と飲み下し、前を行く弘樹の背中に隠れながら、ステンレス製の両開きの扉の前に立つ。目立った武器は特別用意していないけれど、そんな僕とは違って、弘樹は柔道を5歳の頃から嗜んでいた経験の持ち主だった。万が一、本当に不審者と遭遇した場合には、きっと弘樹が、その経歴と黒帯の色に恥じない活躍をしてくれる事だろう。弘樹が不審者と対峙している間、僕は、手持ちの会社契約のスマホで、提携している警備会社に連絡をする。その二つの手順を、殆ど無言のまま、視線の動きとジェスチャーだけで確認しあうと、僕達は、目の前にあるステンレス製の両開き扉のを微かに開けた隙間から、そろり、と中の様子を伺った。
中には、男性が、二名。一人は、これまたステンレスでできたカウンターの端に凭れ掛かるようにして立ち、もう一人は、その男性の隣に寄り添うようにして立っていた。押し入っている不審者としては太々しくも、自分達のいる場所にだけ、スポットライトの様に煌々と灯りを照らしている。お互いに高身長で、抜群にスタイルが良く、そして、半ば腰掛ける様にして背凭れにしているカウンターの上には、使い終わったワイングラスが、仲良く二つ、開栓されたワインボトルと共に並んでいた。
"まさか、本当に飲んでいたのか?こんな目立った場所で、明かりも消さずに……"
という、ありふれた感想を、胸に抱くことはなかった。その二人は、僕にとって、とても身近な人達だったから。
「あー……そろそろ遭遇しそうだなぁ、とは思ってたんだけど。まさか、春翔と一緒に回る日に当たるとはね」
腰に回された腕。その腕の主の太腿に絡みつく長い脚。日中は、決して乱れた様子を見せないくしゃくしゃに掻き混ぜられた銀髪。重ねられた唇。混じり合う、熱い吐息。
その、視覚と聴覚から受ける、全ての情報が、性的知識に疎い僕の頭に、あまりに強い衝撃を与える。
雄蕊と雌蕊。本来なら、そうでなくてはならない並びに、折り重なるようにして連なり、睦み合う彼らから、頭の天辺から杭を打たれたかのように、目が離せない。
「あんまり見てると悪いから、もう行こう」
労りと、気まずさと、その両方の複雑な感情が入り混じった弘樹の促しに、彼方に解き放っていた意識を、手元に引き寄せる。僕が、久しく油を刺していないブリキ人形の様にぎこちない動きで頷くと、僕達の存在に、全く気が付いた様子もない二人きりの世界にいる彼ら……溝口支配人と竹之内総料理長を厨房に残したまま、僕達は、弘樹の促した通りに、ステンレス製の扉の前からゆっくりと遠ざかり、足音を極力立てずに、その場を後にした。
厨房を後にし、廊下を真っ直ぐに渡り、玄関ホールを突っ切って、僕達は、そのままオーベルジュの建物の外に出た。詰めていた息を吐き、真夏特有の生温い外の空気を胸一杯吸い込んで、再び深い息を吐くと。季節に合わせてぐんぐんと勢力を伸ばす、色とりどりのハーブの園となったイングリッシュガーデンの、その中央にあるガゼボに設られたアンティーク製のベンチに、へなへなと座り込んで。僕は、暫く、その場から動けなくなってしまった。
「大丈夫?」
心配そうにこちらの様子を伺う弘樹に、力無い笑みを浮かべると、弘樹はそれに合わせて苦笑を返し、僕と視線を合わせるようにして、僕の隣に同じようにして腰を下ろした。
「……ありがとう、弘樹」
「いいよ。ゆっくり休んで」
気遣いが、身に染みる。弘樹だって、僕と同様の気まずさと衝撃とをその身に受けているだろうに。一緒に密会現場に遭遇した、こんな時にまで、優しさを向けてくれるなんて。元からの師弟の関係性も相まって、これはもう、一生頭が上がりそうもないな、と心の中で自嘲する。
溝口支配人と竹之内総料理長が、半ば、公然の秘密に近い関係性を築いている事が周知されていても、話に聞くのと、実際にこの目で見るのとでは、訳が違った。
誇り高く、気高く、在り在りと。何の躊躇いもなく互いを愛し、いまを生きる彼らの姿が、脳裏に焼き付いて、離れない。
お互いの存在を確かめ合う様に、激しいキスを繰り返していた、二人を見ていた時から、けたたましく肋骨の内側を打っていた心臓が。あの厨房から遠く離れた場所にあっても、落ち着かない。
「吃驚した?」
真夏特有の生温い夜風で、熱くなった頬を、ゆっくりと冷やす。これから先、秋にかけてその栄華を誇れるよう、充電期間を設けている秋咲の薔薇達の代わりに、その勢力を拡大しているハーブの園となったイングリッシュガーデンを棚引く風は、清々しく。副交感神経を優位にする効果があるとされている、イングリッシュラベンダーの仄かな香りが、僕の鼻を擽った。
「……そうだね、吃驚した。でも、なんだか、僕の方が悪いことしたかなって」
「まぁ、その気持ちは分かるよ」
視覚的にも、聴覚的にも強い衝撃を受けた僕に、一定の理解を示し、寄り添ってくれる弘樹の横顔は、とても穏やかなものだった。片方が落ち着いた様子を見せれば、もう片方の人間は、それに応じた心境を獲得していく。一般にも知られる、心理学的セオリーに則った僕は、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
すると、次第に冷静になってきた思考が、それとはまた別の回路と繋がり始めて。
千秋も、もしかしたら僕と、あんなことがしたいのかな。なんて想像が、頭の中で、膨らんで。
雄蕊と雌蕊の並びに連なる、淫猥な僕達の。
絡み合う四肢と、交じり合う唇と。
甘く溶け合う吐息と。
敬語を捨てた、君と。
見つめ合う。
"春翔"
眼。
「千秋のこと、前よりもっと、怖くなった?」
想像する。してしまった。するしかなかった。そして、ただでさえ鋭く聡い弘樹に、頭の中で膨らんだ想像が、まるっきり筒抜けになってしまった事実が。殊更、恥ずかしかった。
顔が、熱い。
全部、夏の所為にしたい。
「あのさ。そのまま、聞いてくれるだけで大丈夫なんだけど……いい?」
耳を塞ぎ、目を閉じて、どれだけ現実から目を背けたくても。これだけの気遣いと配慮を向けてくれる、師であり、親友でもある弘樹の頼みを、断れる筈がない。だから、僕は静かに頷きを返し、弘樹の話に耳を傾けた。
「あいつさ、きっと、お前の気遣いとか、配慮とか、悩んでる姿とか、全部知ってるんだと思う。誰よりも、お前を見てきてる人間だから……だから、そんな風に大切に想う相手の嫌がる事を、無理強いはしないんじゃないかな」
………そんな事、僕だって、分かるよ。だからこそ、千秋と自分とが、さっき見た二人のように睦み合う想像を働かせてしまった時、胸に湧いたのは恐怖だけではなかったんだ。
鉛の塊を飲み込んだような罪悪感。ずしりとした確かな質量を感じるそれに、臓腑が鈍い痛みを訴えている。
ごめんね、千秋。
本当に、ごめんなさい。
君は、決して、そんな人じゃないのに。
無い筈、なのに。
「……弘樹は、千秋が、いつから僕のことを好きになったか、知ってる?」
ただ、これだけの批評を他者に下せるということは、対象者が、それだけ、その批評を口にした人間の興味対象にあるという裏付けになる。よって僕は、僕か、僕以上の興味関心を千秋に向けている弘樹に、胸の中にずっと抱えていた疑問を問い掛けた。
「詳しくは知らないけど……親父さんから、春翔の写真を、成長に合わせて定期的に見せて貰ってたらしいんだよね。その時の話を、本当に嬉しそうに話してくれたことがあったから、割と昔からなんじゃないかな?」
詳しくは知らないと言いながら、こんなネタを隠し持っているなんて。これだから、三峰 弘樹という人物は侮れない。告白を受けてから三ヶ月の間、僕が返事をどうしたらいいか悩んでいたのを、知っていたのに。何故、千秋に関する追加情報として、それを僕に伝えないのか……周り回って、それが千秋にとっての応援になるとは、考えないのだろうか。
もしかしたら、弘樹なりに、千秋の気持ちを考えて、黙っていたのかもしれないけれど。こと、恋愛においては、他者の応援や支援を不要とする人間もいるという話だし……いや、余計な詮索はやめておこう。弘樹には、弘樹なりの考えや信念があるのだろうし、そんな彼に、いま正に助けられている僕が、そんなことをするべきじゃない。
冷静になってよ、僕。自分自身に余裕がないからといって、優しく接してくれる人に、八つ当たりしていい理由なんて、ないでしょう。
「あいつは、春翔がこの場所を訪れる日を、ずっと待ってたんだ。そして、春翔を迎える時に、きちんとしたおもてなしができない恥ずかしい自分ではいられないからって、誰にも真似できない努力を重ねてきた。だから、直接の面識はなくても、春翔が千秋を育ててきたようなものなんだよ。そんな千秋を見ている俺達にも、影響があって……こうして、自然に春翔をこの場所に受け入れたのも、そうした受け入れる下地を、あいつが一生懸命に用意していたからなんだ」
誰もが知る、輝かしい功績。その功績に恥じない、努力と経験。幾多の挫折を繰り返しても、僕と邂逅するその日に向けて、只管に己を錬磨し続けてきた千秋の、その切なる想いが、どれほどのものか。僕は、本当にそれに、真剣な気持ちで、想像を働かせてきただろうか。
こうして、僕の知らない千秋の、これまで積み重ねてきた努力と献身を、一番近い場所で見てきた弘樹に、そうと促されるまで。僕は、時任 千秋という人物の気持ちに、願いに、情熱に、きちんと想いを馳せてこれたんだろうか。
そうか、弘樹は、そこまで考えて……千秋と僕とを観察して、一番程良い距離から、僕達を見守ってくれていたのか。だから、こうしてきっかけとなる場面に直面するタイミングを選んで、僕の気持ちに寄り添ってくれていたんだ。
……本当に、僕は至らない人間だ。君の親友として相応しい人間だなんて、僕は僕自身を決して評価し切れそうにない。
ありがとう、弘樹。そして、千秋、ごめんなさい。僕は、君の気持ちや、君自身から逃げていたんじゃない。
他者と正面から向き合い、その努力の先に信頼を築き、そんな誰かを自分以上に大切に想う……そんな、『普通』を当たり前のものとして成立させられない、出来損ないの自分から、逃げていたんだ。
この場所を訪れるまで。僕は、自分が一番、大事だった。母親を特別大切にしていたのは、彼女が、僕にとって、居場所を提供してくれる唯一の存在だったからでもある。育ててくれた恩も勿論あるし、愛情も、彼女なりの精一杯を与えてもらえた。けれど、もとより血の繋がりがない僕達親子が、父親の愛情という灯火が潰えた環境で、他の家庭と同様の絆を結んでいくのは、とても難しいことだった。
母親は、家庭を顧みることのない父親の代わりに、僕を夫の身代わりにしようとした。彼女が、精神的にすっかり壊れ切ってしまい、外とは隔絶された彼女専用の部屋で息を引き取るまで、その異常な関係性は続いた。実際に『肌』を交わすことは絶対に避けてきたけれど。そうした歪な愛情しか受け取ってこなかった僕に、普通の人間が持つ、人を愛する自分を愛する、という正常な感覚が宿る筈がなかったんだ。
母親という主軸を失ってしまった僕は、自分以外の誰かを愛する、という感覚自体も、彼女と共に葬り去ってしまった。
だから、あの日の母の葬儀は、僕自身の心の命日でもあったんだと思う。
「……千秋のお母さんも、父も、どうして、千秋にこのオーベルジュを任せようとしなかったんだろう。僕に、僕なんかに、どうしてみんな、そんな風に自然なままに、信頼を傾けてくれるの。こんな、何も持っていない、持ちたいと思わない、こんな僕に……一体、何を期待しているの」
だから、人を心の底から愛せる君が、眩しくて。こんな醜く歪んでしまった僕とは違う、綺麗で、純粋な君に触れたら、君に僕の穢れが移ってしまう気がして。
それが、堪らなく、怖かった。
「だったら、その気持ちは、これから直接、本人にぶつけてみたらどう?」
怖いんだよ。
「……千秋」
「春翔兄さん」
君を、いっそ、この手で。
"穢してしまいたい"
と思ってしまう、自分自身が。
「お父様が、危篤です」
「え?じゃあ、まだ返事してあげてないの?」
深夜の見回りは、従業員が持ち回りで担当している。警備ロボットも常駐はしているけれど、人の目という最終点検も必要だからだ。お客様の泊まる客室を確認するまでは行かないにせよ、骨董的価値のある美術品は館内のどこにでも確認できるから、盗難があった際はすぐに対応できるように、との竹之内総料理長の計らいからくる鶴の一言で、そうと取り決められたらしい。
それを聞いて、成る程、溝口支配人の頭の上がらない人間は、竹之内総料理長なんだな、とその話を耳にした当時、すぐに察したものである。
「うん……だって、返事するにも、僕達…」
館内の照明は、ご宿泊されているお客様の為に、基本的に24時間点灯がなされている。だから、夜の見回りは、そうした配慮がされない、従業員しか立ち入ることのできない区域に限定されていた。互いに持った懐中電灯の明かりが、文字通り僕達の道標となって、この先に進むべき道程を、儚く照らし出している。そんな、頼りない人工的な明かりだとしても、それを操作し、自分の手元で明かりを手懐けられる状況を作り出せる環境は、日中とはまた違う顔を見せる館内にあって、不気味な印象を抱いてしまう僕に、一握りの安心感を抱かせていた。
「言いたいことは分かるけど。でも、二人の間に、血の繋がりは無いんでしょ?なら、普通の兄弟のようにはいかないじゃん」
「そうなんだけど、分かるでしょう?何が問題か、とか」
「そんなもんかなぁ」
態々口に出さずとも、普通に考えてみたら当然の発想であり、帰結である筈なのに。割と長い期間お世話になってきても、結局、この三峰 弘樹という人物を、本当の意味で理解することはままならなかった。相変わらず、僕の予想の範疇を、いとも簡単に超えた発言を繰り返してくる奴だなぁ。血の繋がりはなくても、色々と関係性がややこし過ぎて、そうした類いの対象から敢えて外している僕の方が変、みたいな空気にするの、やめて貰ってもいいですかね……見回りにも集中したいので。
「実家関係のしがらみから遠ざかってるんなら、そこまで神経質にならなくても良さそうに思えるけど?」
何を、他人事の様に宣っているのやら。まぁ、事実として他人ではあるんだから、それはそうなんだけれど。でも、少しは僕の事情に照らして考えてみて欲しいんですよね。
父親の愛人の残したオーベルジュを丸ごと引き継ぐことになった職歴なしのお坊ちゃんの目の前に、突然血の繋がらない弟が現れたと思ったら、兄弟じゃなく本当の意味でパートナーになりたい、なんてニュアンスの話をされて、告白までされてしまいました……なんて、最初から最後まで意味が分からないでしょうに。僕だって、あの衝撃的な告白から三ヶ月が経った夏になっても、ちっとも意味が理解できていないんだから。
「それとも、お前にしか分からない問題が、他にも何かあるの?」
……流石は、我がオーベルジュ『espoir』において、顔とも言われる存在。『ホテルの主人』と称され、時と場合に応じては、支配人と同クラスの発言権と権力とを行使できる人間は、こうも察する力も鋭いのか。
これまであった、僕の立場を顧みていない言動も、全ては、この質問に誘導する為の布石と考えて差し支えはなさそうですね。これだから、人となりを簡単に知った気にはなれないんだよなぁ。油断ならないというか、なんというか……
同い年だからといっても、弘樹は、給仕を含む接客全般について指揮をする、立場ある存在だ。コミ・ド・レストランとして見習い期間を過ごし、シェフ・ド・ランとなってフロアに立つ以前から、彼は僕の一番身近で遠い師匠でもあった。穏やかさの中に、ひり、とした厳しさを感じさせる数々の指導の記憶は、いつだって鮮明に、脳裏によみがえらせることができる。
ただ、師匠と弟子、というスタートから始まった関係性だからこそ、話せる話もあるのかもしれない。そんな経緯から、僕は、自然なままに、自分自身の正直かつ率直な心境を、弘樹に向けて、ぽつり、ぽつり、と打ち明けていった。
「僕ね、いままで、人を好きになったことが、一度もないんだ。だから、人を好きになるっていう感覚自体が分からなくて……同性だっていうのには、特別、偏見とかないみたいなんだけど。それも、今回の件で、やっと自分でも気が付いたくらいに、恋愛自体に、本当に関心がなくて。相手の気持ちを、どう受け止めたらいいか、とか。どうやって接すればいいのか、とか。返事したら、関係性がどんな風に変わっちゃうんだろう、とか。色々、自分なりに考えたり、調べたりして。そうして悩んでるうちに、時間ばかり過ぎていって……」
そして、いまに至る、というわけです。
自分自身の中にある、信念、思想、自治、つまり、これまでの人生を送ってきた中でも、最も大切にしてきた、『価値観』と呼ばれるそれぞれに。僕は、恋愛という項目を、一度足りとも追加してこなかった。
愛人の存在が知ることになるまでの間も、父親の多方面に渡る女遊びは、殊更派手なものだった。父親の様に、家庭を捨ててまで恋に溺れきった、惨たらしい人間にだけは、なりたくなくて。恋愛にも、お金にも、人間関係のしがらみにも惑わされない、一人きりで生きていく自分というものを確立することだけを目標にして、これまで、自分なりに必死になって、精一杯生きてきた。
そうした努力を無駄にしてしまう。根底から前提を崩そうとしてくる人間は、すべからく、僕にとっては、そう。
恐怖の対象、でしかないんだ。
「全部全部、分からないから。だから、いま、凄く、千秋が、怖い」
千秋が、怖い。何を考えているのか、いつから僕をそうした対象として見てきたのか、そもそも、どれくらい前から僕という存在を知っていたのか。その全てが、分からなくて。彼という存在や、彼自体が身の内に収めた価値観というものを理解したくても、恐怖で足がすくんで、身動き一つ、取れなくなってしまう。
そして、何より。
「それに、千秋には、僕なんかに引っ掛かって、これまでの自分の人生を、無駄にして欲しくないんだ。もしかしたら、僕に抱いている感情も、親離れが出来ていない子供のそれに近いのかもしれないし……」
その人が、どれだけ素晴らしい人格と経歴とを兼ね備えていても、ひとたび恋愛という事象が絡んでしまうと、途端に評価が覆ってしまう。これまで生きてきた中で、そんな残酷な場面には、幾つも遭遇してきたし、実際に全てを失ってしまった人間の末路というものも、この目で目の当たりにしてきた。
これまで積み重ねてきた、輝かしい人生が、男女関係の縺れの所為で完全に崩壊する場面に出会してしまった時に、つまり、僕の父親が、そうであったように。恋愛にかまけて、本来自分が一番大切にしているものを壊してしまうのは、ただただ勿体ないし、愚の骨頂と言わざるを得ない。
僕は、千秋に、父親と同じような真似をして、愚かな轍を踏んで欲しくない。自分自身のキャリアや、これまで磨き続けてきた類希なる才能や人格を、僕の為にこそ摩耗させるのではなく。その実力を正当に評価して貰える場所で、その輝きを放ち続けて欲しいんだ。僕という人間を、自分の人生から切り離して、輝きに満ちた道だけを歩んで行って貰いたい。その道行に、もしも僕という存在の手助けが必要なのなら、僕はいくらでも千秋を、陰から日向から、支援していきたかった。
まるで、親離れ子離れの時期を逃してしまった家族の様な僕達が、本来あるべき、健全な関係性を築いていく為にも。
「千秋の、僕に掛ける気持ちや、これまでの努力を否定したくはないけど。もし、雛鳥の刷り込みに近い感情を僕に抱いているのなら、そこは、兄として、違うよ、って伝えなくちゃいけないと思うんだ。でも、それを伝えたら、千秋が深く傷付くだろうって考えたら……それも怖くて」
話をしていくうちに、次第に肩を落としていった僕の隣で、弘樹は、口元に少しだけ指先を掛けると、うん、と小さく頷いてから、弘樹本人が生来から持つ、穏やかな性質が表れた微笑を浮かべた。その優しさに満ちた仕草と表情に、僕という存在を丸ごと受容してくれる趣きに、僕は既に泣き出してしまいたくなるような心境になっていた。
「春翔は、よく頑張ってるよ。相手の気持ちも、自分の気持ちも、大切にしようって、思ったんだよね。仕事にも打ち込んで、周りに迷惑を掛けないように必死になって毎日頑張りながら……でも、それって、普通、簡単にできることじゃないし、春翔は自覚してないかもしれないけど、俺からしてみたら、充分凄いことだと思えるよ」
心温まる共感と、手放しな賞賛と。それら全ての気遣いが、早く返事をしなければ、でも、相手を傷付けてしまうのが怖い……と、考えすぎて、悩みの渦中にあった僕の背中を、そっと優しく押してくれた。
それだけで、泣けてしまう。丸まっていた背中が、すぅ、と伸びる。考え過ぎて凝り固まっていた思考が、回り始める。
話せたのが、君で良かった。
本当に、ありがとう、弘樹。
「……僕、どうしたらいいのかな。このまま、何もせずに、ほったらかしにしてしまうのが、一番良くないって分かってるんだけど」
「うーん、そもそも告白されてから結構時間経ってるわけだし、仕事だって普通にできてるでしょ?だから、今更焦って、早く答えなくちゃ、なんて考えなくてもいいんじゃない?千秋も、ある程度は、春翔の気持ちを察しているから、大人しくしてるのかもしれないし」
本当に、そうなんだろうか。でも、確かに千秋は、あれ以降、全くといって僕に返事を催促してこなかった。
それだけでなく、簡単な日常会話もするし、仕事に関するアドバイスもしてくれているし、時には、軽いジョークを口にして、その場の空気を和ませてくれたりもしている。
だから、決して千秋が、無理をしている様には、僕の目からしても、そうとは見えなかったけれど。僕の目の届かない場所での彼の姿は、笑顔の下に隠された本心は、どうしても目には見えないから。
彼が、どれほどの心理的負担を抱えたまま日々を過ごしているのか、とか。
笑顔の下で、本当は膝を抱えて泣いてしまっているんじゃないか、とか。
……そんな想像をするだけで、胸が苦しくて堪らなくなる。
弘樹は気を利かせて、焦るな、なんて言ってくれたけれど。やっぱり、千秋を楽にする為にも、僕達が、きちんとそれぞれの道を歩んでいく為にも、一刻も早く、彼に返事をして……
「静かに」
空を割く、鋭利な声に、瞬間、その場で身を固める。すると、その声の主である弘樹が、人差し指を口元に持っていき、シーと微かに静止を促すポーズをとって、静かにする様にと促してきた。それに合わせて、僕も、全くの無言になる。すると、金属や、布同士が擦れ合う微かな物音や、荒々しい息遣いが、途切れ途切れに、僕の耳にも次第に届いてくるようになった。
「厨房の方からだ」
この時間帯に、厨房に用事がある人間は、そうはいない。明日の仕込みをする時間はとっくのとうに過ぎてしまっているし、明日は予約して下さったお客様の中に食物アレルギーを持つ方はいらっしゃらないから、前日から特別な配慮をして居残りをする必要はなかった。だから、そんな厨房から物音がするのは、確かに奇妙なことではあった。
このオーベルジュの厨房には、地元食材だけでなく、世界中から仕入れた古今東西の食材を正しく調理する為に、珍しい調理器具も、数多く取り揃えている。中には、入手困難な上に、桁外れの価格を有する器具も存在しているから、その価値を正しく理解している者が押し入って、物色している可能性は、ないとは言い切れなかった。
口の中に湧いた唾を、ごくり、と飲み下し、前を行く弘樹の背中に隠れながら、ステンレス製の両開きの扉の前に立つ。目立った武器は特別用意していないけれど、そんな僕とは違って、弘樹は柔道を5歳の頃から嗜んでいた経験の持ち主だった。万が一、本当に不審者と遭遇した場合には、きっと弘樹が、その経歴と黒帯の色に恥じない活躍をしてくれる事だろう。弘樹が不審者と対峙している間、僕は、手持ちの会社契約のスマホで、提携している警備会社に連絡をする。その二つの手順を、殆ど無言のまま、視線の動きとジェスチャーだけで確認しあうと、僕達は、目の前にあるステンレス製の両開き扉のを微かに開けた隙間から、そろり、と中の様子を伺った。
中には、男性が、二名。一人は、これまたステンレスでできたカウンターの端に凭れ掛かるようにして立ち、もう一人は、その男性の隣に寄り添うようにして立っていた。押し入っている不審者としては太々しくも、自分達のいる場所にだけ、スポットライトの様に煌々と灯りを照らしている。お互いに高身長で、抜群にスタイルが良く、そして、半ば腰掛ける様にして背凭れにしているカウンターの上には、使い終わったワイングラスが、仲良く二つ、開栓されたワインボトルと共に並んでいた。
"まさか、本当に飲んでいたのか?こんな目立った場所で、明かりも消さずに……"
という、ありふれた感想を、胸に抱くことはなかった。その二人は、僕にとって、とても身近な人達だったから。
「あー……そろそろ遭遇しそうだなぁ、とは思ってたんだけど。まさか、春翔と一緒に回る日に当たるとはね」
腰に回された腕。その腕の主の太腿に絡みつく長い脚。日中は、決して乱れた様子を見せないくしゃくしゃに掻き混ぜられた銀髪。重ねられた唇。混じり合う、熱い吐息。
その、視覚と聴覚から受ける、全ての情報が、性的知識に疎い僕の頭に、あまりに強い衝撃を与える。
雄蕊と雌蕊。本来なら、そうでなくてはならない並びに、折り重なるようにして連なり、睦み合う彼らから、頭の天辺から杭を打たれたかのように、目が離せない。
「あんまり見てると悪いから、もう行こう」
労りと、気まずさと、その両方の複雑な感情が入り混じった弘樹の促しに、彼方に解き放っていた意識を、手元に引き寄せる。僕が、久しく油を刺していないブリキ人形の様にぎこちない動きで頷くと、僕達の存在に、全く気が付いた様子もない二人きりの世界にいる彼ら……溝口支配人と竹之内総料理長を厨房に残したまま、僕達は、弘樹の促した通りに、ステンレス製の扉の前からゆっくりと遠ざかり、足音を極力立てずに、その場を後にした。
厨房を後にし、廊下を真っ直ぐに渡り、玄関ホールを突っ切って、僕達は、そのままオーベルジュの建物の外に出た。詰めていた息を吐き、真夏特有の生温い外の空気を胸一杯吸い込んで、再び深い息を吐くと。季節に合わせてぐんぐんと勢力を伸ばす、色とりどりのハーブの園となったイングリッシュガーデンの、その中央にあるガゼボに設られたアンティーク製のベンチに、へなへなと座り込んで。僕は、暫く、その場から動けなくなってしまった。
「大丈夫?」
心配そうにこちらの様子を伺う弘樹に、力無い笑みを浮かべると、弘樹はそれに合わせて苦笑を返し、僕と視線を合わせるようにして、僕の隣に同じようにして腰を下ろした。
「……ありがとう、弘樹」
「いいよ。ゆっくり休んで」
気遣いが、身に染みる。弘樹だって、僕と同様の気まずさと衝撃とをその身に受けているだろうに。一緒に密会現場に遭遇した、こんな時にまで、優しさを向けてくれるなんて。元からの師弟の関係性も相まって、これはもう、一生頭が上がりそうもないな、と心の中で自嘲する。
溝口支配人と竹之内総料理長が、半ば、公然の秘密に近い関係性を築いている事が周知されていても、話に聞くのと、実際にこの目で見るのとでは、訳が違った。
誇り高く、気高く、在り在りと。何の躊躇いもなく互いを愛し、いまを生きる彼らの姿が、脳裏に焼き付いて、離れない。
お互いの存在を確かめ合う様に、激しいキスを繰り返していた、二人を見ていた時から、けたたましく肋骨の内側を打っていた心臓が。あの厨房から遠く離れた場所にあっても、落ち着かない。
「吃驚した?」
真夏特有の生温い夜風で、熱くなった頬を、ゆっくりと冷やす。これから先、秋にかけてその栄華を誇れるよう、充電期間を設けている秋咲の薔薇達の代わりに、その勢力を拡大しているハーブの園となったイングリッシュガーデンを棚引く風は、清々しく。副交感神経を優位にする効果があるとされている、イングリッシュラベンダーの仄かな香りが、僕の鼻を擽った。
「……そうだね、吃驚した。でも、なんだか、僕の方が悪いことしたかなって」
「まぁ、その気持ちは分かるよ」
視覚的にも、聴覚的にも強い衝撃を受けた僕に、一定の理解を示し、寄り添ってくれる弘樹の横顔は、とても穏やかなものだった。片方が落ち着いた様子を見せれば、もう片方の人間は、それに応じた心境を獲得していく。一般にも知られる、心理学的セオリーに則った僕は、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
すると、次第に冷静になってきた思考が、それとはまた別の回路と繋がり始めて。
千秋も、もしかしたら僕と、あんなことがしたいのかな。なんて想像が、頭の中で、膨らんで。
雄蕊と雌蕊の並びに連なる、淫猥な僕達の。
絡み合う四肢と、交じり合う唇と。
甘く溶け合う吐息と。
敬語を捨てた、君と。
見つめ合う。
"春翔"
眼。
「千秋のこと、前よりもっと、怖くなった?」
想像する。してしまった。するしかなかった。そして、ただでさえ鋭く聡い弘樹に、頭の中で膨らんだ想像が、まるっきり筒抜けになってしまった事実が。殊更、恥ずかしかった。
顔が、熱い。
全部、夏の所為にしたい。
「あのさ。そのまま、聞いてくれるだけで大丈夫なんだけど……いい?」
耳を塞ぎ、目を閉じて、どれだけ現実から目を背けたくても。これだけの気遣いと配慮を向けてくれる、師であり、親友でもある弘樹の頼みを、断れる筈がない。だから、僕は静かに頷きを返し、弘樹の話に耳を傾けた。
「あいつさ、きっと、お前の気遣いとか、配慮とか、悩んでる姿とか、全部知ってるんだと思う。誰よりも、お前を見てきてる人間だから……だから、そんな風に大切に想う相手の嫌がる事を、無理強いはしないんじゃないかな」
………そんな事、僕だって、分かるよ。だからこそ、千秋と自分とが、さっき見た二人のように睦み合う想像を働かせてしまった時、胸に湧いたのは恐怖だけではなかったんだ。
鉛の塊を飲み込んだような罪悪感。ずしりとした確かな質量を感じるそれに、臓腑が鈍い痛みを訴えている。
ごめんね、千秋。
本当に、ごめんなさい。
君は、決して、そんな人じゃないのに。
無い筈、なのに。
「……弘樹は、千秋が、いつから僕のことを好きになったか、知ってる?」
ただ、これだけの批評を他者に下せるということは、対象者が、それだけ、その批評を口にした人間の興味対象にあるという裏付けになる。よって僕は、僕か、僕以上の興味関心を千秋に向けている弘樹に、胸の中にずっと抱えていた疑問を問い掛けた。
「詳しくは知らないけど……親父さんから、春翔の写真を、成長に合わせて定期的に見せて貰ってたらしいんだよね。その時の話を、本当に嬉しそうに話してくれたことがあったから、割と昔からなんじゃないかな?」
詳しくは知らないと言いながら、こんなネタを隠し持っているなんて。これだから、三峰 弘樹という人物は侮れない。告白を受けてから三ヶ月の間、僕が返事をどうしたらいいか悩んでいたのを、知っていたのに。何故、千秋に関する追加情報として、それを僕に伝えないのか……周り回って、それが千秋にとっての応援になるとは、考えないのだろうか。
もしかしたら、弘樹なりに、千秋の気持ちを考えて、黙っていたのかもしれないけれど。こと、恋愛においては、他者の応援や支援を不要とする人間もいるという話だし……いや、余計な詮索はやめておこう。弘樹には、弘樹なりの考えや信念があるのだろうし、そんな彼に、いま正に助けられている僕が、そんなことをするべきじゃない。
冷静になってよ、僕。自分自身に余裕がないからといって、優しく接してくれる人に、八つ当たりしていい理由なんて、ないでしょう。
「あいつは、春翔がこの場所を訪れる日を、ずっと待ってたんだ。そして、春翔を迎える時に、きちんとしたおもてなしができない恥ずかしい自分ではいられないからって、誰にも真似できない努力を重ねてきた。だから、直接の面識はなくても、春翔が千秋を育ててきたようなものなんだよ。そんな千秋を見ている俺達にも、影響があって……こうして、自然に春翔をこの場所に受け入れたのも、そうした受け入れる下地を、あいつが一生懸命に用意していたからなんだ」
誰もが知る、輝かしい功績。その功績に恥じない、努力と経験。幾多の挫折を繰り返しても、僕と邂逅するその日に向けて、只管に己を錬磨し続けてきた千秋の、その切なる想いが、どれほどのものか。僕は、本当にそれに、真剣な気持ちで、想像を働かせてきただろうか。
こうして、僕の知らない千秋の、これまで積み重ねてきた努力と献身を、一番近い場所で見てきた弘樹に、そうと促されるまで。僕は、時任 千秋という人物の気持ちに、願いに、情熱に、きちんと想いを馳せてこれたんだろうか。
そうか、弘樹は、そこまで考えて……千秋と僕とを観察して、一番程良い距離から、僕達を見守ってくれていたのか。だから、こうしてきっかけとなる場面に直面するタイミングを選んで、僕の気持ちに寄り添ってくれていたんだ。
……本当に、僕は至らない人間だ。君の親友として相応しい人間だなんて、僕は僕自身を決して評価し切れそうにない。
ありがとう、弘樹。そして、千秋、ごめんなさい。僕は、君の気持ちや、君自身から逃げていたんじゃない。
他者と正面から向き合い、その努力の先に信頼を築き、そんな誰かを自分以上に大切に想う……そんな、『普通』を当たり前のものとして成立させられない、出来損ないの自分から、逃げていたんだ。
この場所を訪れるまで。僕は、自分が一番、大事だった。母親を特別大切にしていたのは、彼女が、僕にとって、居場所を提供してくれる唯一の存在だったからでもある。育ててくれた恩も勿論あるし、愛情も、彼女なりの精一杯を与えてもらえた。けれど、もとより血の繋がりがない僕達親子が、父親の愛情という灯火が潰えた環境で、他の家庭と同様の絆を結んでいくのは、とても難しいことだった。
母親は、家庭を顧みることのない父親の代わりに、僕を夫の身代わりにしようとした。彼女が、精神的にすっかり壊れ切ってしまい、外とは隔絶された彼女専用の部屋で息を引き取るまで、その異常な関係性は続いた。実際に『肌』を交わすことは絶対に避けてきたけれど。そうした歪な愛情しか受け取ってこなかった僕に、普通の人間が持つ、人を愛する自分を愛する、という正常な感覚が宿る筈がなかったんだ。
母親という主軸を失ってしまった僕は、自分以外の誰かを愛する、という感覚自体も、彼女と共に葬り去ってしまった。
だから、あの日の母の葬儀は、僕自身の心の命日でもあったんだと思う。
「……千秋のお母さんも、父も、どうして、千秋にこのオーベルジュを任せようとしなかったんだろう。僕に、僕なんかに、どうしてみんな、そんな風に自然なままに、信頼を傾けてくれるの。こんな、何も持っていない、持ちたいと思わない、こんな僕に……一体、何を期待しているの」
だから、人を心の底から愛せる君が、眩しくて。こんな醜く歪んでしまった僕とは違う、綺麗で、純粋な君に触れたら、君に僕の穢れが移ってしまう気がして。
それが、堪らなく、怖かった。
「だったら、その気持ちは、これから直接、本人にぶつけてみたらどう?」
怖いんだよ。
「……千秋」
「春翔兄さん」
君を、いっそ、この手で。
"穢してしまいたい"
と思ってしまう、自分自身が。
「お父様が、危篤です」
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