学院の魔女の日常的非日常

只野誠

文字の大きさ
上 下
28 / 113
金と欲望と私

金と欲望と私 その8

しおりを挟む
 スティフィが目を覚ますとなにやら美味しそうな匂いがあたりに広がっていた。
 自分が思った以上に深く眠り込んでいたことに驚きつつも、すぐにぼやけた目をこすりミアの姿を探す。
 ミアが寝ていた場所には痕跡はあるもののもういない。
 慌てて沢の方へと目をやると、ミアとエリックが沢の石で作ったお手製の竈を囲んで座っていた。
 安堵のため息が自然と漏れる。
「あっ、スティフィ起きたんですか、これ、凄く美味しいですよ。驚きです! こんなに茶色でドロドロなのに物凄く美味しいですよ!!」
 スティフィが起きたのにすぐに気づいたミアは言っている通りの茶色くてドロドロしたものを食べている。
 もうかなり蒸し暑い中、焚き火の前で熱い物を食べているのだから、二人とも妙に汗だくになっていた。
 なにやってんのよ、とスティフィは思いながらもそれは口に出さず立ち上がる。
 その代わりにミアの具合を確認する。
「あー、ミア、具合はもういいの?」
 そして、ミアに声をかけつつ自分の体の様子も確認する。堅い木に寄りかかり寝ていたせいか体中あちこち痛みがある。が、体が妙に軽い。
 いつも浅い眠りで済ませていたせいか、この頃重たかった体がぐっすりと深く寝ていた今は軽く感じられるし、頭の中も随分とすっきりしている。
 溜まっていた疲労がスっと全部抜け落ちた気までする。
「はい、結構休ませてもらいましたから」
 と、ミアが答える。ミアの魔力酔いが回復し食べ物もおいしそうに食べているところをみると、それなりには時間が立っているのだとスティフィは気が付いた。
「結構? 私、どれくらい寝てたの?」
 そう言いつつスティフィは空を見上げるが、ここは木の真下で葉や枝が邪魔で太陽を確認することはできない。
「今は…… 日の登り具合からお昼過ぎって感じですね」
 沢の方にいるミアが空を見上げ太陽を確認してそのように告げてくる。
「そんなに寝てたのか……」
 スティフィは、転寝のつもりがこんなにがっつり寝てしまうとは、と反省しつつ、服についた落ち葉やゴミを払いのけ沢の方へ出る。
「ええ、かなりぐっすりでしたよ」
 と、ミアがにこやかな笑顔を向けてくる。
 そこまで疲労がたまっていたのか、とスティフィは勘繰ったが、精神面での疲労ならかなり溜まっていた、その自覚はあった。そのせいかもしれない、いや、そのせいだ、と、一人で納得した。
「スティフィちゃんもどう? もうかなり煮込まれていい仕上がりになってっから」
 そしてエリックが木製の皿に茶色いドロドロしたものをよそって進めてくる。
 とてもいい香りがするし、遠目でも大きめに切られた野菜や肉を確認できて美味しそうに見える。
「グラン鍋ですっけ…… 騎士隊が遠征に行った時、曜日感覚を忘れないように決まった曜日に食べるっていう奴よね?」
 元々は神与知識で作られた料理だったものだが、騎士隊の隊長であるグランという人物がその権利を買い取り騎士隊の物にした、と言われている物だ。
 それは昔話の類で真偽は定かではない。少なくともスティフィの知っている神与知識にグラン鍋の作成方法というものはない。そもそもの名称が違うのかもしれないが。
 ただ大変美味とはスティフィも聞いてはいる。それを実際に口にしたことはまだないのだが。
「そそ、さすが物知りスティフィちゃん」
 エリックに物知りスティフィちゃんと呼ばれたことに怪訝そうな顔を向けつつも、木陰を出て竈のところまで行き座り、差し出された皿を受け取る。
「調理法は門外不出って噂じゃなかったけ?」
 スティフィの知識ではそういう話も聞いたことがある。これも本当かどうかも不明だが勝手に調理法を持ち出したりすると除隊処分などという話まである。 
「騎士隊の場所にもよるみたいだな。この地方の騎士隊は割と緩いみたい」
 と、エリックは適当に答えつつ、木製の匙も渡してきた。
「そうなんだ…… 私が寝ている間になんか変わったことは?」
 と、一応確認だけは欠かさない。
 ただこの様子からも分かるように特に何か起きたと言うことはなさそうなのはすぐにわかることだ。
「んー? ミアちゃんが回復したぐらいか?」
 と、エリックがてきとうに答える。
「そう。じゃあ、私もグラン鍋いただこうかしらね」
 スティフィが受け取った皿には茶色いドロドロしたものがよそられていた。
 匂いは香辛料独特のものだけれど非常に食欲をそそる。
 見ためから、肉、恐らく小鹿の物が大きなぶつ切りで入っていて、玉ネギと人参、それと恐らくはじゃが芋が確認できた。
 玉ネギはともかく、人参とじゃが芋は色々な権利の関係でかなり高級品のはずだが、それがかなりの大きさの塊で入れられている。
 あまり考えずに切るのが面倒で大きくざく切りにしているだけかもしれないが、スティフィにはそれがかえって豪勢に思える。
 色が茶色でドロドロなことをのぞけばとても美味しそうに見える事は確かだ。
 スティフィは恐る恐る木製の匙でそれをすくって口の中へ運んだ。
 途端に口の中に複数の様々な香辛料の複雑な風味と数々の食材を一緒に煮込んだことで味わえる調和された旨味が広がる。
 その味にスティフィの目が自然と見開くほどの衝撃を受ける。
「なにこれ、美味しい……」
 自然と口からその言葉が出た事にスティフィ自身が驚く。
「ですよね? ですよね? 私こんなに美味しい物、初めて食べたかもしれません」
 と、ミアが少し興奮気味に同意してくる。
「うん、本当に美味しい」
 と、スティフィも素直に言葉を繰り返した。
 旨味と甘さ、それに辛さ。それだけではない。いろんな風味が絡み合い、それでいてどの味もしっかりとしているにもかかわらずちゃんと調和されておりどの味もその味の良さを引き立て合っている。
 非常に濃く深みもあり濃厚な味わいなのにもかかわらず胸焼けもせずに永遠と食べ続けれる気さえする。
 恐らくはそれもこれも香辛料のおかげなのだろうが、それが調和されていて味同士の喧嘩がまるで起きていないのが奇跡のように思える。
 まるで食材全てが一つとなって旨さを引き立てているかのようだ。
「だろ? 俺も初めてこれを食べたときはさ、すんごい衝撃だったよ。んで、思わず調理法を盗み見ちゃったくらいだよ」
 エリックはポロっととんでもないことを言った。
 グレン鍋の調理法は門外不出とまで言われるような物のはずだ。
 それを訓練生の立場で盗み見たなどとほざいている。
「あんた、盗み見たって……」
 と呆れつつグレン鍋を口へ運ぶ。
 その度に口いっぱいに旨味が広がる。ぶつ切りにされた大きな肉も良く煮込まれていて口の中で簡単にとろけていく。
 そこに煮込まれた野菜の旨味と香辛料の風味が合わさりその旨さを数倍にも引き上げている。
 ミアはもちろんスティフィもこんな料理は今まで食べたことがない。
「いやさ、割と目の付くところに置いてあったからさ。良いのかなと? ん? んー、あっ、でも、一応グレン鍋のことはナイショにしといてよぉ?」
 エリックはそう言って笑っている。恐らくバレたらただごとじゃないんだろうな、とスティフィは感じつつも他人事なのでそれ以上は気にはしない。
「ええ!? えぇ…… まあ、はい…… わ、わかりました」
 その代わりミアのグレン鍋の食べる手があからさまに鈍る。
 何かを感じ取り、明らかにミアは後ろめたく感じているようだ。
 それを見たエリックが笑い出す。
「大丈夫大丈夫、一応俺だって騎士隊所属なんだからさー」
 と、どこから来るのかわからない自信で大きな声で笑っている。
「いや、あんたただの訓練生でしょう?」
 スティフィが冷静に突っ込むが、エリックは気にも留めていない。
「そう、訓練生なんだから所属してるようなもんだろ? まあ、ダメだとしたら今日が金曜日じゃない事だけじゃない?」
 スティフィもここの騎士団そんなに緩かったかしら、と頭を捻る。
「いや、あんたが良いならいいけど、ばれて怒られるのはあんただからね?」
 とも付け加えておく。
「大丈夫大丈夫、ばれやしないってさ。それよりも肉もいい焼き加減だよ。ちょいと焼けすぎになってるけどこれもこれでうまいよ! これにもグレン鍋で使っている香辛料かけてるんだから旨いよ」
「あ、ありがとう。いただくわ」
 エリックから串に刺され焼かれた肉を受け取る。
 火にかけられてから時間が結構たっているせいか、少し焼けすぎている感じは否めない。
 それでもこの串焼きも大変美味だ。まだ若い小鹿だからだろうか癖も臭みもない。外側は焼けすぎだがその中身の肉はまだとても瑞々しく柔らかい。
 グレン鍋でも使われているという香辛料のおかげで、肉自体は淡白な味わいなのだが飽きも来ない。
 外は流石に焼きすぎではあるが、噛みつくとそこから瑞々しい肉汁がまだあふれ出てくる。その食感の差が逆に新鮮な刺激となり美味しく感じさせていることまである。
 外が焼かれすぎていることで、肉汁を内部に押しとどめているせいなのかもしれない。
 とにかく香辛料をかけただ焼いただけの串焼きとは思えないほどの旨さだ。
「このお肉も美味しいですよね。香辛料って偉大ですね…… 私、しょっぱいか辛い物だと思ってました」
 ミアがしみじみとそう言う。
 素のサァーナしか食べてないのに何言ってるの、とスティフィは言いたかったが口に入れた肉の筋がそれを許してくれなかった。
 さすがに筋だけは口の中に残り続ける。
 肉の下処理は甘いが、その文句を黙らせる味をグレン鍋も串焼きも持っているので、スティフィも言葉にすることを止めた。
「だろー? 俺が同行してよかっただろー?」
 と、エリックが自慢げそうにしている。その様子にスティフィはなぜか腹立たしかったが、確かに今日は同行してくれて良かったとは思う。
 これだけ美味しいものならば、定期的に食べたいと思いすらする。
「ええ、初めてエリックさんに感謝したかもしれません」
 とミアが目を輝かせながらそう言った。
「私も」
 とスティフィもそれに短い言葉で賛同する。
 そして、噛み切れない強情なすじ肉を密かに吐き捨てる。
「えぇ!? 初めてって…… 相変わらず二人とも酷いなぁ。でも今日は感謝されたってことだろ? じゃあ、まあ、いいか」
 と、エリックがにこやかに笑う。いい加減ではあるがそれだけに大らかな人柄が出ているのかもしれない。
 そして、それは突然現れた。
 いや、突然ではない。荷物持ち君だけがその存在に大分前から気づいていた。
 ミアやエリック、スティフィですらグレン鍋の旨さに気を取られていた。その中で人知れず荷物持ち君は一人無言で沢の方へと、その脅威に対処するために移動していた。
 スティフィは寝起きだからだろうか、それとも完全に気が抜けてしまっていたのだろうか、とにかく気が付くのが遅れていた。
 気を張り詰めていればすぐに気づけただろうに。
「みぃーつぅーけぇーたぁーよぉ!!!!」
 沢の反対の獣道からそれは現れた。手には鉈と見間違うほどの大きな包丁を持っている。
 恰幅のいい中年の女性。その人が怒りを露わにしながら現れた。
「え? グ、グランラさん?」
 と、少し遠目ながらもそれを見たミアがその人物の名を困惑しながらも声にする。
「ん? なんで食堂のおばちゃんがこんなところに?」
 と、エリックも困惑している。
 ただ、その者の放つ殺気から荷物持ち君は既に臨戦態勢だ。スティフィも慌てて臨戦態勢に入る。
 荷物持ち君がミアを庇うように沢の川を挟んで立ちはだかる。
 スティフィも皿を即座において、音もなく立ち上がり右手で隠し持っていた細身の短刀を逆手に構えミアのすぐ前に立つ。
「あんた!! よくも私のかわいい息子にあんなひどいことを!! ひもじそうにしていたから、色々してやったというのにこんなことで恩を返すってのかい!! グラアアアアアアアアァァァァ!!!!」
 食堂のおばちゃん、グランラは憤怒の形相を見せ、叫び、獣ような唸り声を発する。
 完全に怒りで我を忘れている。
 どうやってこの場所を探り当てたのかまではわからないが偶然というわけでもないだろう。
「自業自得でしょう? それに恩は既に十分すぎるほどに返してもらったでしょうに。まったく」
 とスティフィが言い返すが、グランラにその言葉は聞こえても理解できるほど冷静ではない。
「あれは私の正当な権利だよ!! やっぱり祟り神の子は祟り神だねぇ! 私がわからせてやるよ!!」
 そう言って右手に持っている肉厚で幅広の包丁をブンブンと力任せに素振りする。
 素人のそれだが怒り狂っているせいか容赦がまるで感じられない。
 まともに当たったら、それだけで命を失いかねない勢いだ。
「え? え? え? なに? どうしたのさ、おばちゃんそんなに目くじら立ててさ? おばちゃんもこっち来て鍋たべようぜ? うまいよ?」
 一人だけ事情を何も知らないエリックがひたすら困惑しながらも、荷物持ち君を超え、沢のほとりまで行きそう促す。
 話しぶりからして面識でもあるのだろう。だが普段と違い怒りに身を任せたグランラには通じない。
「うるさいよぉ!!!!」
 というグランラの雄叫びともとれるような叫び声を発し走り出し、もうそう細くないどころか、かなりの川幅を一気に飛び越え、包丁の持っていない左手でエリックの顔面を豪快に殴り飛ばした。
 殴られたエリックは綺麗なきりもみ回転をして吹き飛び石だらけの沢の地面を転がっていき、そのまま動かなくなった。
 そして、グランラは包丁をミアに向ける。
「あんたはこんな程度じゃ済まされないよ」
 伝承にある鬼のような、真っ赤で憤怒に染まった形相でそう宣告した。
「それって宣戦布告ってことよね?」
 スティフィが冷静に、ミアの手前一応は確認のためにそう聞くと、
「なに生ぬるいこと言ってるんだい!!」
 という言葉が返ってきた。
 その言葉を受けてスティフィが目を細める。
 狙いはミアなことは間違いなく、その命をも狙っているとすら思える気迫を感じとれる。
「ス、スティフィ!!」
 と、ミアがその名を呼び焦った表情で懇願するように視線を送る。
「わかってるって。殺さないように手加減してあげるから」
 そう言って返事を待たずスティフィは自らの獲物を見る。
 手に持っている物は細い刺殺用の短剣だ。これであの肉厚な包丁を正面から受けることは流石にできない。
 戦闘用ではないが力任せに振るわれるあの肉厚な包丁を受けたら、先に折られるのはスティフィの持つ短剣の方だろう。
「邪教徒の小娘が! 何を偉そうに!!!」
 そう吠えるグランラに荷物持ち君が主の脅威を排除しようと無言でにじり寄っていく。
「に、荷物持ち君も手加減してください!!」
 それに気づいたミアが荷物持ち君に声をかける。そうすると荷物持ち君はグランラに近寄るのをやめ、今度は逆にミアの方へと戻って行った。
 まるで手加減などできないから守りに徹する。そう言っているかのようだ。
「いい度胸だ!! 祟り神の巫女か何だか知らんが、舐めてくれるなよぉ!!」
 グランラはそう言って包丁を振り上げ、その体形とは裏腹に恐ろしい速さで突進してきた。
「ミア、あんたはまだ魔力酔いの最中なんだから、そこで見てなさいよ。間違っても魔術を使わないでよね。それと泥人形! ミアの護衛は任せたわよ」
 そう言ってスティフィも前方へと駆け出す。
 グランラの移動方法を一直線に駆ける突進する猪とするならば、スティフィの移動方法は地面を這うように低くそれでいて蛇行してなお速い襲い掛かる蛇のようだ。
 二人は一瞬に距離を詰める。
 グランラが容赦なく鉈のように肉厚で大きな包丁をスティフィに向けて振り下ろす。
 切っ先を含む刃先は平らで刺すような包丁ではない。ただただ対象をぶった切る。それに特化したまさに鉈のような包丁だ。
 怒りに任せ振り下ろされた包丁は豪快に空を切る。
 そんな大振りな攻撃をまともに受けるつもりはスティフィにはない。
 相手が包丁とはいえ鉈のように肉厚なものであれば、恐らくスティフィの獲物の方が先に折れてしまう事も十分わかっている。
 それでもスティフィの技量なら受けきれないことはないのだが何度も受けきれるものではない。
 それに加えここは沢だ。地面は石や岩だらけで足場が悪い。
 気を付けなければ足を取られかねない。
 実際にグランラは足を止め、その場で包丁を振り回すことの方が多い。
 足を使って攻撃をかわすスティフィの方が不利に思える。
 確かに足場は悪くスティフィの方が不利に思えるのだが、スティフィはそれを苦ともせず絶妙な足運びと流れるような体裁きで、力任せに振るわれる包丁を易々とかわしていく。
 スティフィの顔にはあざ笑うかのような余裕の表情すら見える。
 グランラの振るう包丁はかすりすらしない。グランラが空ぶるごとにその息が上がっていくのも目に見えてわかる。
 素人のミアが見ても力量の差は歴然だった。
「スティフィ凄い……」
 ミアが自然とそうつぶやいた瞬間、グランラの包丁がスティフィを捕らえた。
 いや、スティフィの狙い通りに打ち込まれたというべきか。
 勢いよく真上から振り下ろされる包丁を、スティフィは逆手に持った短剣の刃で受ける。が、受けたはずなのに音も衝撃もなにもない。
 肉厚の包丁はまるで断ち切れない真綿にでも振り下ろされたかのようにふんわりと音もなく受け止められる。絶妙な角度と筋肉の柔軟さで威力を完全に殺し受けきり、そのまま流れるように短剣の刃を滑り綺麗に受け流す。
 受け流される最後に、スティフィは短剣の剣先を包丁に絡ませ打ち上げる。
 それを逆手持ちでやって見せたのだ、それだけでもスティフィの技量の高さがうかがえる。
 肉厚の包丁だけが綺麗に宙に舞った。
 宙に投げ出された包丁は回転しながら沢に流れる川の中へと綺麗に落ちていった。
 まるで曲芸でも見ているかのような鮮やかな剣さばきだった。
 スティフィが余裕の表情を見せる。その息すら乱れていない。
 逆にグランラはあっけに取られた表情を一瞬だけ見せた。
 が、荒い息遣いながらも早急に動きスティフィから距離を取る。
 そのまま腰に差しておいた分厚い革の巻物をほどき、それを地面に素早く投げつけるように置いた。
 それに簡易魔法陣が描かれている物だとスティフィはすぐに見抜く。しかも既に魔法陣の足りない部分は書き足され完成された魔法陣であることをスティフィは見逃さない。
 恐らくこの場所を探るために使い、魔法陣を無効化せずにそのまま持ち歩いてきたのだろう。
「アブルベルト、ダスタンド……」
 グランラが信仰する豊穣を司る大地の女神の拝借呪文を唱えようとする。
 恐らく魔法陣もその神のものだろう。さすがに神を呼ばれたら形勢は不利になるし、神の力を使われたら同じく神の力を使わねば防ぎ様がない。
 スティフィも今から暗黒神にすぐさま助力を求める用意はできてない。
 だが発動させなければ良いだけの話だ。
「流石にそれは見逃せないわよ」
 素早く短剣をしまい右手のみの指で特殊な形を作り印を結ぶ。
 印は親指と人差し指と中指で円を作り、薬指をピンっと天に向けて立たせ、逆に小指は地面に水平になるように伸ばされる。
 意図しなければその形にはならないような指の形をしている。
「害する者の虚ろに燃える黒き片翼よ。障害を腐り朽ち果てたまえ」
 鍵となる呪文を唱え、結んだ印を地面の置かれたグランラの魔法陣へと向ける。
 呪文が発動するための鍵であるならば、指で結ぶ印は安全装置のようなものだ。
 さらに使徒魔術には中核となる触媒が必要だか、本来は杖などを魔術の触媒とするがスティフィは己の肉体を触媒としている。
 だから、見た目には触媒を何も持っていなくともスティフィの使徒魔術は発動する。
 その効果はすぐに表れる。
 魔法陣の書かれた革が凄い勢いで、まるで自壊するように黒く変色して崩れ落ちていった。
 後には塵一つ残らない。綺麗に魔法陣が描かれた革だけを溶かし消え去っていった。
「なっ、なんてことをするんだい!!」
 信仰する神の魔法陣を破壊されグランラが怒り狂う、が、流石にここで気づく。
「使徒魔術? 触媒もないのに?」
 そして、ゆっくりスティフィを観察し冷静になり更に距離を取った。
 グランラにもただの学生だと思っていた小娘がただものではないことがやっと理解できた。
「大人しくしてくれる? あなたを殺すのなんてとっても簡単なの。でもミアは優しいから、あなたを助けたいんだってさ」
 スティフィはグランラを見下しながらそう言った。
 見下されたことで再びグランラの怒りに火が鈍くともる。
「いつどこで助けられたって言うんだい!」
 とはいえ、さすがに力量の差を理解したのか、それで仕掛けてくるようなことはしない。
 警戒し距離を取り虚勢を張る。今のグランラにできる事はそれだけだ。
 奥の手ともいえる自分が信仰する神へと繋がるための魔法陣を、ああも簡単に破壊されてしまったらもう手の打ちようがない。
 それに元々グランラが信仰する豊穣を司る大地の女神がもたらす御力では、相手の居場所を探れても戦闘には不向きだ。
「少なくとも昨日。ダーウィック大神官様に、あなた達親子を助けるために直接嘆願しには行ったわね」
 スティフィが静かに言った。その言葉には確かな怒りと殺気が込められている。
「な、なんでダーウィック教授が!?」
 ダーウィック教授の名が出て初めてグランラが狼狽しだす。
 当たり前だ。表向きは魔術学院の教授でも、その本来の姿は邪教と名高くその規模も影響力も大きいデミアス教、その中でも最高位の十三人いる大神官のうちの一人なのだから。
 スティフィにとってはダーウィック教授の威光で狼狽えるグランラの様子が楽しくて仕方がない。
「あなたのかわいい息子ちゃんから聞いてないの? ミアはね、ダーウィック大神官様のお気に入りなの。だから、そのミアを害そうとしたあなた達親子を…… どうするところだったと思う? デミアス教の大神官が自分の物に手を出した相手に、何をすると思う?」
 邪悪な笑みを浮かべ、態々言葉に含みを持たせて、スティフィは嬉しそうに言い放った。
 すでに解決したことではあるがそれを相手に伝えてやる義理はない。
 それで相手からはもう戦意は消えている。
「じゃ、邪教のすることなんて……」
 グランラは辛うじて口答えするが、もうその言葉に怒りや覇気はまるで感じられない。
 戦意などあろうはずがない。
 ダーウィック。その名を聞いて完全に委縮してしまっている。
「今あなたが生きているのは、ミアが命がけでダーウィック大神官様に嘆願してくれたおかげなのよ? 私なんかそれに巻き込まれて、昨日危うく死ぬところだったのよ?」
 それが真実なだけに、本当に怒りと殺気を込めてスティフィは告げる。
 その言葉か殺気を受けてかはわからないが、グランラが震えだす。
「な、なにを言って……」
 怒りで我を忘れていたものが徐々に戻って来る。
 正気、判断力、そして恐怖もだ。
 デミアス教徒相手にもうこうなってしまったら終わりだ。恐怖に付け込まれなすが儘にされるだけだ。デミアス教徒にとっては恐怖も交渉手段の一つなのだ。
「ミアもそのせいでミアの神様を不機嫌にさせちゃってさ。今日も講義を休んで貢物を魔力酔いになるまで捧げてさぁ。大変だったのよ? 私も講義出れなかったし。はぁ、で、あんたは、親子ともどもミアに手を出して無事でいられるとでも?」
 殺気を纏わせた短剣をわざとちらつかせながらスティフィは脅すように睨む。
 グランラは腰が抜けたように尻もちをつき、その場から震えて動けなくなった。
「ス、スティフィ! デミアス教は…… ダーウィック教授は、何もしないと約束してくれました」
 と、ミアが心配してか、既にそのことが解決していることを言ってしまう。
 スティフィはもう少しこの恩知らずな女をいたぶりたかったが仕方がない。
「ええ、そうね。デミアス教自体ではね。でも私個人が私の欲望に従って行動しても、何も問題ないわよね? 私は、本当に死ぬところだったのよ? しかも、親友の手で? ねえ? わかる?」
 と、最後にもう一度だけ脅しをかけておく。
 短剣にまとわせている殺気をグランラに向ける。いつでも簡単に殺せる、という事をわからせるために。
「スティフィ!!」
 と、ミアが悲鳴のように叫ぶ。
 どうもここら辺が潮時のようだ。スティフィからするともう少し、肉体的にも精神的にも、もう二度と歯向かう気すら起こさせない程度にはいたぶるべきだと思うのだが、ミアはそんなことは望まない。
 ならば、スティフィもそれに従うだけだ。
「わかってる。でも実際どうするのよ? もうこの親子は学院にはいられないでしょうね。ほんとバカね。せっかくミアが与えてくれたパンを作れて、その売り上げを貰う権利も無駄にするだなんて」
 スティフィは目線だけはグランラから外さずに、呆れるような仕草を大げさにして見せる。
「な、なに言っているのよ、パンを作って売り上げを貰う権利は……!!」
 と、グランラが震えながらも言ってくる。
 その様子を見てスティフィは心底呆れかえる。あの息子にして母か、と。
「それは…… はぁ…… あなたの権利はこの学院の食堂のみでパンを焼く権利よ。そうミアが頂いた書面には書かれていたそうよ、その神もこうなるってわかってたんじゃないのかしら?」
 恐らくはそうなることが分かっていたのだろう。
 だからだろうか、グランラに与えられている権利は酷く限定的な物として神からの書状に書かれていた。
 おかげで都の商会と話を付けるのは楽だったとも聞いている。
「なにを……」
 と、この場にいるグランラだけが理解をできていない。
「ちゃんとあの守銭奴の教授から聞いてないの? 今回の神与知識の権利の大元はミアで、あなたの権利はとても限定的なものでミアのおこぼれを貰っていただけだってことに。大方、金の事しか頭になくて何も聞いていなかったんでしょう?」
 そう言われてもグランラには何のことかまるで分らない。
 ただ、確かにパンを作れば作るほど大金が手に入る、そのことしか頭に入ってこなかったことも確かだ。
「そ、そんな神与知識は絶対の権利で……」
 そんな中でも自分にとって都合のいいことだけは耳にしっかりと残っている。
「その絶対の権利を持っているのはミアなの。あなたの権利はその派生でしかないの。ミアが望めばあなたの権利なんかいつでも撤回される物でしかないの」
 と、スティフィは告げる。
 だがこれは嘘だ。神が与えた書状に書かれていることのほうが絶対的に優先される。なのでミアにグランラの権利を撤回することはできない。
 スティフィも実はパンの調理法が書かれていたと言われる書状の内容を詳しくは聞かされていない。
 ただの一般的なこの世界の常識に当てはめていっただけに過ぎない。
「そんな……」
 だが、正気を取り戻し恐怖に追いやられたグランラはそれを素直に信じてしまう。
 ただどちらにせよ、生徒を誘拐しようとし、その母親は逆上して生徒に包丁で斬りかかったのだ。
 フィルロック親子がこれまで通りこの学院で働いていけるわけはない。そしてグランラが有するのはシュトゥルムルン魔術学院の食堂のみでパンを焼く、いや、パンを焼いてよい、という権利だけだ。
 学院をクビになればその権利を行使することもできない。
「もし無事に帰れたら、もう一度サンドラ教授に確認したら? ほんと大金って奴は人を狂わせるのよね。ミアが受け取らずに寄付したのは正解だったのかもね」
 と、スティフィは毒づく。
 ミアが大金を手に入れ金に溺れるところをどうなるか、見たい気持ちもスティフィにもあるが、恐らくではあるがダーウィック大神官もそうなることは望んでない。
 金に溺れる者など、はいてすてるほどいるのだから。
「え? もうパンは作られなくなるんですか?」
 と、今度はミアが驚いてスティフィに声をかけた。
「そうよ、ミア」
 と、スティフィは返事を返すがあまり良い予感がしない。ミアがまた無茶を言い出す予感しかしないからだ。
「そ、それは困ります!! ジュダ神の社が完成するまでは……」
 と、ミアは慌てふためきだす。
 ミアにとってロロカカ神を知り友というジュダ神には親愛の念でもあるのかもしれない。
 しかも自分のせいでその社を立てなくてはいけなくなったと思っているミアにとっては、パンの売り上げの寄付は贖罪の一つだったのかもしれない。
 ただ、さっきスティフィが口にした通り、ジュダ神より与えられたパンに関する大元の権利はミアが有している。
 だからこそ、都の商会の連中にグランラではなくミアが狙われたりもしたのだ。
「ミアが望めばあの食堂ででも、都ででも、パンを作って売ることは可能よ。大元の権利を持っているんだから」
 と、スティフィはすまし顔でそう言う。
 それに対しミアは何か煮え切らない、と言った表情を浮かべる。それはスティフィの想像してた通りだ。
「それはわかってますが……」
 ミアとしてはグランラに今まで通りパンを作って欲しいのだろう。
 が、さすがに逆上して生徒に斬りかかるような職員は辞めさせられることは当然だ。いくらミアが望んでもそれが覆ることはない。
 エリックを丸め込めば今回の件は周りにはばれないのかもしれない。
 が、この世界では人間以外の上位種が存在し彼らはいつも気まぐれに世界を見ている。
 人が見ていないからと言って隠し通せるものでもない。
 何かのきっかけで公になる確率の方が高い。それに上位種という事で言えば、荷物持ち君の核は古老樹であり上位種なのだ。
 荷物持ち君に伝えるつもりがなくとも、そこからのつながりで公になっていくことは大いにありうる話だ。
「まあ、都での販売はできなくはないけどしないほうが賢明よね。敵を増やしすぎるしね。やるにしてももう少し時期を見てからかしらね。今は…… 学院の食堂だけで作るっていう風にするのが落としどころだったのよね」
 スティフィも偉そうに語ってはいるが、実は神与権利のことなどそれほど詳しくはない。
 ただそれっぽいことを言って、主にミアを納得させたいだけだ。
「そ、それは私の…… 権利……」
 とグランラが震えながら手を伸ばす。
 が、その手から掴みたかったものはすべてすり抜けていくようにしかグランラ自身にも思えなかった。
「あなたがミアを襲わなければ、そして息子を切り捨てれば、その未来もあったのかもね。でも、もう遅いの。ミアを襲い、訓練生とはいえ騎士隊にまで手を出しちゃったんだから、この学院にいられると思う? あなたは、いえ、あなたとあなたの息子はみすみすの大金を逃し、神与知識の権利すらも手放したのよ?」
 スティフィは冷酷に真実を告げる。
 特に息子のナゴーロの罪は重い。神与知識の権利狙いで未遂とはいえミアを誘拐しようとしたのだからまず投獄は免れない。
 グランラの方もそれなりに罪は重いはずだ。少なくとも魔術学院の職員でいることはできない。
「そ、そんな馬鹿な話が!」
 グランラも冷静になりわかってはいるのだが、脳が理解することを拒否してしまっている。
「どうせあたしの話は信じられないんでしょう? 学院に帰ってから聞きなさいよ。あー、あとあなたの息子ね。酷いありさまだけれども、ほっておいても、看病無しでも死ぬことはないそうよ。一週間後、もう五日後かな? にはすっかり良くなるそうよ」
「そんな……」
 と、驚きの表情をグランラは見せる。
 あの酷い症状があと数日で治るという。祟り神の祟りと聞いた。息子はもう助からない、そう思っていた。
 だからこそ後先考えず怒りに身を任せたというのに。
 怒りに身を任せたその結果、グランラはすべてを失った。
「はぁ、もうなんだかなぁ、ミアと一緒にいると予想外の事が起きすぎて退屈しないわねぇ、まったく。あっ、そうそう、あんたが学院を追い出された後、パンでも作ろうものなら、デミアス教じゃなくても都の商会連中に襲われるだろうからそのつもりでね。そう言う風に話を付けて来たって話だからね」
 とスティフィは釘を刺しておく。
 商会の連中は商人だがその利益を守るためなら何でもやる連中だ。
 少なからず商いに携わる人間であればその貪欲さや怖さは理解できているはずだ。
 グランラはただただ絶望に打ちひしがれることしかできないでいた。


しおりを挟む

処理中です...