学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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日常と非日常の狭間の日々

日常と非日常の狭間の日々 その2

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 ミアはいつも通り早朝から裏山に薬草を採取に出かけていた。
 新しい服に新しい外套。大きな肩掛け鞄と籠を背負っている。気持ちミアの表情も嬉しそうに見える。
 背負った籠の邪魔にならないように、背負うものではなく肩掛け鞄にして正解だったとミアはとても満足していた。
 だが、薬草の集まり具合は普段より良くない。ほぼ雑草と言っても過言でもないラダナ草以外の集まりが特によくない。
 それは薬草以外にも泥人形の器となる苗木探しも並行して行っているせいだ。
 苗木ともなるとどれがどの木の苗木なのか、ミアにはまったく判断がつかない、けれどもついつい探してしまう。
 一応図鑑で調べ、使魔魔術の教授にも相談し、粘土質の土壌でも育ち、あまり大きく育たない種類の木であるヤマブキの苗木に目星をつけて来たのだが、そもそもミアはヤマブキという木を図鑑でしか見たことがない。
 裏山にも自生しているらしいのだが、正直ヤマブキの木自体がミアにはよくわからない。低木で黄色い花を咲かせることを図鑑で得た知識で知っている程度だ。
 そんな状態でいくら苗木を見ても見分けがつくはずがない。のだが、ついつい意識がそっちにいってしまう。
 少々、値段が付くかもしれないが購買部で取り寄せて注文するしかないと考えている。
 それでもなにかの苗木のような若木を見つければ、おのずと目が行ってしまう。
 しかも冬が終わった今の時期は、草木の芽もそこそこ目に付くから、薬草の採取もままらないのだ。
 ついつい薬草より苗木に目がいってしまう、なんてこともあるくらいだ。
 泥人形に使う器の部分は、泥人形の心臓部ともいえる部分で替えがきかない。失敗するわけには行かない。
 もし器部分で失敗してしまったら、集めている材料が全て無駄になってしまう。
 一度魔術の儀式で失敗して、そのとき使った材料を別の魔術に流用することは、意図的にそうしない限りは再利用しなほうがいい。
 まず一度魔術に用いられた素材には、その魔術の痕跡のようなものが魔術的にも霊的にも刻み込まれる。
 これは別の魔術を扱うときに邪魔になる要素であるとともに、利用できる要素でもある。
 とりあえずは、その素材本来の物とは魔術的に意味合いが異なって来てしまう。
 さらに何度も魔術的儀式を経ることでその素材自体に呪術的要素まで生まれてくる。更に繰り返せば本当に呪物となってしまう。
 その上、魔術同士の相性の話も出てくる。
 それは魔術を学び始めた生徒の手に負えるものではなく長年の経験が必要になってくる物だ。
 なにせ見た目では何もわからない。魔力感知能力で何かしら感じることはできるが、なにか違和感を感じるだけで確証などはない。そんな不確かなものなのだから。
 器の話に戻るが、器に仕込んだ術式の結果は、泥人形に組み込んで動かしてみて初めてわかる。
 しかも後から術式の修正は利かない。
 その上で苗木が粘土に根付いて枯れずに育ってくれないといけない。
 その難易度は、魔術という技術を、学問を、最近学び始めた者には少々難易度が高い。
 それなのに失敗すれば利用した素材を破棄しなければならないと来ている。
 ミアにとって、いや、ミアの経済状況は失敗を許さない。
 なので、ミアは最初、器に石を使おうと考えていた。
 石材を泥人形の器とすることは、初心者向きの方法の一つだ。魔術の成功だけを考えるのであればその選択は間違っていない。
 が、この魔術学院周りには、はぐれ精霊が多く存在し、泥人形の器に適した天然の石材にははぐれ精霊が憑りついていることが多い。
 なぜはぐれ精霊が多いのかというと、まだ魔術になれない生徒たちが精霊王と契約して精霊を受け取ったはいいが、精霊を御しきれなかったり、養えなかったりで、精霊が逃げ出し特に裏山に逃げ込んでいるのだという。
 そんなことから実は裏山は精霊魔術的にはかなり危険な場所ではあるのだが、精霊に無関心であるのならその住処を通り抜けるくらいではさほど害はない。のだけれども、はぐれ精霊が憑いている石を拾うだけならまだしも、それを魔術的儀式に使ってしまうことは、どんな温厚なはぐれ精霊でも激怒する事柄だ。
 はぐれ精霊からすれば、住んでいる家をいきなり不当に追い出されるような物だ。怒らないはずがない。
 はぐれ精霊を一度怒らせてしまうと始末が大変である。なにせ執念深いことこの上ないのにもかかわらず、ほぼ不死の存在なのだから。狙われた方は堪ったものではない。
 それらの理由から裏山で魔術的に適した天然の石材を入手することはかなり危険が伴う、結局は購買部で買った方が安全ではある。
 ただ魔力との相性が良く魔術用の石材ともなると、安全ではあるのだが割と値段が高かったりもする。
 そこで、ミアが手に入れられる素材で泥人形の器として適しているのが苗木となる。
 苗木、つまりは木であり、木は木曜種で精霊は水曜種である。水曜種である精霊は石に憑りついていたように木には憑りつく、この場合は宿る、いや、住み着く、という表現の方がただしいかもしれない、が、それがない。
 とりあえずは木曜種である生きている木々に、はぐれ精霊などが宿るという事はない。 
 その点は安全ではあるが、逆に木曜種である木に対して術式を仕込むのは、石に術式を仕込むのと違いかなり難しい。
 その上でその苗木を枯らしてはいけない、という条件まで付いてくる。
 扱いが色々と難しいうえに苗木の種類により魔術的な意味合いもまた違ってくるため、苗木の種類が不明のまま器にすることもできない。
 判別が難しい苗木では、なおさら術の難易度が増す。
 野生の物の方が魔術的意味での生命力は強いのだが、その種類の判別には素人であるミアにはその判断は難しい。
 結局のところ、苗木も学院の購買部で取り寄せたほうが確実であり、ミアもしぶしぶではあるがそのつもりでいる。
 ついでに器として最も優れているとされる宝石類もあるが、これはミアの金銭的な理由から候補にすら挙がっていない。
 今は金銭に多少余裕があるが、それは一時的なものでしかない。
 しかし、石材にしろ苗木にしろ、どうせ購買部で注文することになるのなら、どちらにすべきかミアは決めかねていた。
 そのことを使魔魔術の教授であるグランドン教授に相談すると、
「ふむ…… まあ、用途によりますねぇ。
 石材は確かに初心者向きではありますが、魔力をためておける量が極端に少ないです。
 そのため石を器とした泥人形の使い方は、普段は眠らせておき必要な時だけ起こす。そう言った使い方がいいでしょうなぁ。
 ミア君の話を聞く限り、荷物持ちとして長時間追従させるのであれば、宝石や苗木を使うべきです。
 我としても、荷物持ちとして使うのであれば、多少難易度は増すでしょうが苗木を推しますかな」
 と、言う返答が帰ってきて、ミアは素直にそれに従った。
 そこですでに図書館で調べ、ヤマブキの苗木に目星をつけていることを告げると、
「それは良い選択ですねぇ。良く調べてあります。
 粘土主体の泥人形であるのならば悪くないです。ヤマブキは枯れにくいですからねぇ。多少魔力の貯蔵に関して難はありますが石材よりは大分良いですし。
 なるほどなるほど、あのダーウィック教授の御眼鏡にかなうのも納得です。
 あなたには恩を売っておいて損はないでしょうし、これからも我にどんどん相談してきてください。邪険にはしませんよぉ」
 と、嫌な笑顔でそう言われた。
 ミアはその言葉と笑顔に若干引きつつ、とりあえずヤマブキの苗木を使うことに決めたのだが、それを自然の中で見分けることはやっぱりできない。
 購買部で注文するしかない、とわかっていても他の材料がそろうまで、まだまだ時間がかかる。
 その間だけでも裏山で探すのも悪くはない、どうしてもそう考えてしまう。
 鑑定だけなら安く済むし、だれかしらの教授に聞けば教えてくれるかもしれない。
 それに薬草集めのついでにすれば、特に問題はないはずだ。
 そう考えたのだが、ミアの想像以上に意識を持ってかれてしまっている。
 本来の目的である薬草採取がおざなりになるくらいには、だ。
 色々なことが重なり注意力が散漫になっていた。それもある。
 苗木に目移りし少々道を、それも獣道に深く入り込んでしまったことにミアは気が付かないでいた。
 獣道。
 本来は獣が通る道。いや、獣が通ったことでできた道だ。
 そう、獣が通ることでできた道であり、それは獣がいるという証拠なのだ。
 苗木探しに夢中だったミアが違和感に気づいた時にはもう遅かった。
 それは何者かの発する荒い息遣いだった。
 荒い息遣いは少しはなれた藪から聞こえてきていた。
 そこで初めてミアは自分が苗木探しに夢中になりすぎていて、少し山に深く入り過ぎていたことに気が付いた。
 普段、自分が薬草を採取していた場所より、かなり深い所まで来てしまっていた。
 そしてその結果、恐らくはこの獣道の主と鉢合わせしてしまった。
 
 猪は意外と神経質で警戒心が強い獣だ。
 山の中で人間を見かけても猪の方から手を出すことは稀で基本的には猪の方から避けてくれる。
 けれど興奮状態にある猪となれば話は別だ。
 たまたま虫の居所が悪かったのか、それとも近くに巣でもあったのか、ゆっくりと様子を伺うように藪から出てきた猪はミアに対し敵意を露わにしていた。
 ミアは背筋が寒くなるのを感じた。
 何が獲物だ、何が肉にありつけるだ、荷物持ちが必要?
 違う、必要なのは狩人だ。
 ミアは確かに幼いころからロロカカ様の巫女として、狩りのお供で山に入っていた。
 それは事実だ。
 けれど、それはあくまで巫女として、ロロカカ様に仕留めた獲物を捧げる儀式をするために山に入っていたわけであり、ミア自身が狩りをしていたわけではない。
 熟練の狩人達があまりにも簡単に獲物をしとめていたからミアは気が付かなかった。
 リッケルト村では腕の悪い狩人はいない。いや、腕のいい狩人でなければ生き残れない。
 その中でもミアを同行させるような狩人達は上位の、超一流の熟練の狩人達だった。
 そんな狩人達が簡単に獲物を仕留めるのだから、ミアが勘違いしてしまっても無理はない。
 鹿や猪、それどころか狼に留まらず、熊や虎でさえも獲物であって、狩られるだけの動物であると。
 だが、実際一人きりで猪と対面してみてどうだ。
 自分に狩れる相手なのかと問うと、絶対に無理だ、としか返ってこない。
 一応、止め刺し用の短剣は持参している。
 捧げ物の儀式で使ってきた短剣だ。肌身離さず持っていたおかげで盗まれずに手元に残っているものだ。
 だけど、刃の短い短剣で目の前の猪に致命傷を与えれるか、と問われれば無理です、と即答できる。
 それに猪は泥の鎧を纏っていた。
 猪の習性の一つで、泥を全身に浴びて泥を身にまとう。
 どういった理由で猪がそれをやるのかミアには理解できなかったが、ミアの力で短剣を振るったところで、その泥の鎧すら貫通させることだけでも一苦労だろう。
 一つだけ幸運があったとすれば、ミアの目の前の猪には牙がない雌であったことだけか。
 猪の牙に貫かれれば致命傷になりかねない。少なくとも大怪我になることだけは確かだ。
 ミアは慌てながらもゆっくりと猪を刺激しないように、肩掛け鞄に両手を回し二つの物を探し当て手に取る。
 右手には魔力の水薬を、そして左手には止め刺し用の短剣を鞘に入ったまま手にかまえた。
 震える手で、指で、どうにか片手だけで魔力の水薬の瓶の蓋を開けようとするが、中々うまくいかない。
 短剣も鞘から抜きたかったが、魔力を得るほうを優先した。
 本来なら、拝借呪文を唱えたかったが、ミアがロロカカ神の魔力を借りるには精神集中しなければならない。
 とてもじゃないが、興奮している猪の目の前でそんなことをしている暇はない。
「ブルルゥ、プシュゥー、プシュゥ……」
 猪の荒い息遣いが聞こえてくる。
 ミアがゆっくりと後ろに下がろうとすると、猪は前足で数度に渡り地面を引っ掻いた。
 慌ててミアが鞘付きの短剣を前に突き出すと、猪は警戒してかその動きを止めた。
 数瞬でも、瞬きさえも煩わしいほど、ミアは猪を凝視する。
 目を少しでも離したらやられる、そんな予感がしてならない。
 今、現時点でミアがこの猪から逃れるか、倒すかにせよ、それはミアの右手に持った魔力の水薬から魔力を得られるかどうかにかかっている。
 ミアの知っている魔術はどれも陣を書いたり儀式をしたりと何かと事前の準備に時間がかかるものばかりだが、魔力を得ることで猪を撃退できる方法がないわけではない。
 魔力を操り円状に回転させることで魔力は力を、魔術を行使するための力場ともいえるようなものを発生させることができる。
 その魔術の原動力ともいえるような力場を、魔術に使わず放出することで物理的な力を瞬間的に発生させることが可能だ。
 ある意味、意識的に魔力を暴発させるようなもので危険でもあり、魔力の効率的には非常に悪いものではあるが、打開策はそれしかない。
 内心、こんなことなら戦闘目的の魔術、使徒魔術も学んでおくべきだったかも、とミアは反省する。
 もし無事に学園に帰れたら、使徒魔術の講義も出ようと心に固く誓う。
 使徒魔術であれば、短い口頭の呪文だけでも攻撃的な魔術を行使することができる。
 そもそも、本当に狩猟も考えていくのであれば、ミアにとって必須な魔術でもあるはずだ。
 狩れもしない獲物の荷物持ちを作るよりも先に、狩る方法を準備しなければならない。
 使徒魔術も使えない今のミアには、魔力の水薬で魔力を得てそれで力場を生成し、それを暴発させてどうにかするしかない。
 恐らく一度限りの機会だ。
 魔力の水薬も右手に持つ一瓶しかない。
 文字通り暴発させなければならない。魔力を絞っている余裕もない。
 が、それ以前にミアの震える手では魔力の水薬の瓶の蓋を取ることができない。
 もどかしい、こんなことなら短剣は取り出さなければよかった、とミアは反省するが、今、左手で不格好ではあるが突き出している短剣をどうにかしようものなら、猪はすぐにでもミアに向かって突進してくるだろう。
 それをかわす自信はミアにはない。
 右手の親指に力を入れて、瓶の蓋を取ろうとするが、緊張のあまりか魔力の水薬の瓶ごと落としそうになる。
 なんとか、握り直し落とさずに済んだが、蓋は取れそうにない。
 それもそのはずだ、この便はまだ新品で魔力が漏れ出されないようにしっかりと封がされている。
 蓋が中々あかないことでミアは焦りだし、目の前の猪から視線を外しがちになった瞬間、猪が動いた。
 それに驚いたミアは魔力の水薬の瓶を無意識に猪に向かい投げ、それに慌てたミア自身は後ろ向きに倒れ込んでしまう。
 魔力の水薬を猪に投げつけてしまったことに絶望したが、倒れ込んだことが幸いか、猪の突撃をまともに受けることはなかった。
 ただ物凄い質量の何かがすれすれのところでミアの上を通り過ぎていった。
 被っていたロロカカ様の帽子が飛ばされはしたが、ミアが猪に踏まれなかったことは奇跡に近い。
 いや、猪がミアに当たる直前に跳ねたので、そのおかげかもしれない。
 猪にとってもミアが倒れ込んだのは予想外だったのかもしれない。
 ミアは急いで身を起こす。左半身に打ち身にも似た痛みがあるが今は気にしている暇はない。
 猪の突進をまともには受けなかったが、左半身にかすってはいたようだ。
 左手で持っていた短剣を右手に持ち直し鞘から素早く抜く。
 そして、魔力の水薬の瓶の行方を捜す。
 そう簡単に割れる作りの瓶ではない。
 が、辺りには見渡らない。
 バシャン。そう音がして何かが滴る音がした。
 音の方へと視線を向けると猪に投げつけた瓶を猪は口で咥えこんでいた。
 猪が寸前で跳ねたのは、水薬の瓶を咥えるためだったようだ。そして、それを今、噛み割ったのだ。
「その瓶! 高いのに!! 返せばお金が帰ってくるのに!!」
 ミアは吠えた。
 そして必死で魔力を操作する。
 猪まで多少距離はあったが、迷っている暇はない。やらなければ殺される。
 全神経を、全意識を、集中して瓶をかみ砕かれたことであふれ出た魔力を操作し、猪を中心とした円状に、制御のことなど全く考えず全力で最速で回転させる。
 もしこの猪が知能ある獣で魔術を、魔力を扱う術を知っていたのであれば、距離的にその魔力を猪が利用できてしまっていただろう。
 が、それはなかったようだ。
 かみ砕かれた魔力の水薬、大量にラダナ草を使った臭く苦い液体に、猪が面食らっている間にミアはあふれ出た魔力を全力で掌握していた。
 そして、すぐにそれを制御を考えないで全力で回転させる。
 猪も魔力を感じれないなりにも野生の勘かなにかで違和感を感じたのか、その場で身を強張らせた。
 ミアにとっては絶好の機会だ。これを逃せば次はなく、次の突進ももうかわすことはできないだろう。
 実際に耳に、音として聞こえるわけではないし、音として発しているわけではない。
 ただ感じているだけだ。
 ミアの操作を受けた魔力は、高音の回転音を発しているが如く高速で回転していた。
 行き場のない力場を発生させ、そして、はじけた。
 見事なまでの魔力の暴走による暴発だ、形成された力場の崩壊だ。
 解き放たれた力は猪を直撃した。
 魔力の水薬。それはそれほど多くの量の魔力を保存しておけるわけではない。
 良くて拝借呪文で得られる魔力の五分の一程度の魔力しか保存しておくことはできない。
 それでも便利なことには変わりないが、その魔力量の総量は決して多くはない。
 それをただ高速回転させて暴走させたと言って得られる力場の力はたかが知れている。
 魔力は結局のところ、術式に流し込んで初めて意味を成し力を得るものなのだから。
 それでも猪を直撃した衝撃はそれなりのもので、猪のその巨体をよろめかした。
「プギィ……」
 弱々しい鳴き声を上げて、猪がヨロヨロと体制を立て直そうとしていた。
 ただ暴走させた力場の開放で生じた物理的な力の爆発だけでは、猪をよろめかす程度の物でしかない。
 それでも、決定的な好機には違いない。これを逃すことはできない。
 ミアは考えるよりも早く動いた。止め刺し用の短剣を両手で持ち、猪の懐に潜り込む。
 猪の心臓の位置はよく知っている。
 何度も、何度もこの短剣を差し込んできた。
 流石に、拘束もされていない生きた猪にしたことなかった。
 それでも、ミアにとっては慣れた作業だ。
 深く突き立てる。しゃくりあげるように深く低い位置から突き立てる。
 猪と抱き合うかのようにも思えるほどに。
 生暖かく、生臭い、猪の息が、その最後の息がミアの頬に掛かる。
 何度か前足で蹴られるが気にしない。している余裕はない。
 突き立てた短剣を少し捻ってそれから、勢いよく引き抜いた。
 確実に猪の命を奪うためだ。
 短剣を引き抜いた瞬間から、真っ赤な、まだ暖かい血が溢れだす。
 猪はその場に力なく崩れ落ちる。
「ハァハァハァハァ……」
 ミアは思い出したかのように息をする。
 自分の心臓が凄い勢いで脈打つのを感じる。
 ミアはそのままそこ場にへたり込む。
 腰が抜けたわけではないが、一気に状況を理解して少し参ってしまっただけだ。
 少しの間をおいてミアは立ち上がる。
 両手は血で汚れ、買ったばかりの服も血で汚れてしまっている。
 でも何とか猪を狩ることができた。
 ミアがそれを認識すると今度は全身から汗が噴き出てくる。
 どれだけ危機的状況下にあったのか理解できた。
 猪を仕留めれたのは、運が良かっただけだろう。
 本来なら死んでいたのはミアの方だ。
 鞄から布を取り出して、止め刺し用の短剣のと手の血をぬぐう。
 ほとんど無心でだが、ミアが次に思ったことはロロカカ様のことだ。
 初めて自分が仕留めたこの獲物を、早くロロカカ様に捧げなければならない、その一心でミアは体の痛みを無視し行動した。
 もう一度鞄に手を突っ込んで一枚の大きな布を取り出す。
 蝋で加工した防水布だ。
 その布をこの辺りで一番平らな地面を探し広げる。
 その防水布には魔法陣のようなものが刺繍されていた。
 が、その陣はところどころ見る限り抜けている、欠陥しているといった印象がある。
 広げた防水布の四つ角を適当な石で固定して、ミアは猪の方を振り向く。
 ゆっくりと血が、血だまりが広がっていっている。
 猪の前足を引っ張り上げ引きずって布の上、欠けている陣の上までなんとか無理にでも引きずる。
 何とか不格好ながらも陣の上に移動させたミアは、猪からあふれ出ている血を指につけ、欠けている魔法陣に書き加えていく。
 広く用いられている簡易陣や欠陥陣と呼ばれる方法で、あらかじめ陣に意味を持たせない程度に書いて置き、必要な時にそれに書き足して陣を完成させる技法だ。
 書き足した部分を消せば、その陣は再び陣としての意味を失い、何度でも利用できる便利なものだ。
 形さえ、陣の意味さえあっていれば効果を発動する陣魔術ならではのものだ。
 この技術はミア的にはあまり好きなものではない。ミアはロロカカ様の陣を書くこと自体が好きではあったし、その方が失礼がないのでは、と勝手に考えていた。
 これは講義で作らされたものだ。
 使うことはない、と思いつつも欠陥陣とはいえ、ロロカカ様の陣をミアが処分できるわけもなく持ち歩いていたのだが、使ってみると便利なものではある。
 特に山中で大きな陣を書くことなど困難を極める。
 それを手軽にできるのだから悪いものでもない。
 猪の血で陣を完成させ、ミアは拝借呪文を唱える。
「フゥベフゥベロアロロアニーア、フゥベフゥベロアロロアニーア……」
 意識を集中させる。深く深く、意識を潜らせる。
 何かと繋がる。ミアが絶対的と盲信する何かと繋がる。
 非常に力強く神秘的な魔力がミアに宿る。
 意識が朦朧としながらも、やることだけは鮮明に理解できている。
 完成した陣に魔力を流し込み、ゆっくりと魔力を回転させ丁寧に力場を形成する。
 その力場に陣が意味を、役割を、持たせてくれる。
 この陣の意味は、ロロカカ神の招来だ。ミアが捧げ物を捧げるために、ロロカカ神を呼ぶための物だ。
「ロロカカ様、ロロカカ様。
 今日初めて私の手だけで獲物を仕留めました。どうぞお納めください」
 ミアはその場に跪き祈る。
 ミアは祈ることに集中していて見ていないが、白い半透明な手が陣の中央から急に生えた。
 やはり動くところは確認できず、動いた後しか認知できない。
 生えた手はすぐに猪の中へと手を突っ込む。もちろんその動作はなく、動いた後だけを確認できるだけだ。
 その次の瞬間には、手は猪の心臓を掴みかかげるように持っている。
 その時には既に握られた心臓からも猪からも血はあふれ出ていない。
 心臓と共に、白い半透明な手に抜き取られているようだった。そして半透明の白い手は握った心臓と共に消えていった。
 血抜きされた猪のみが陣の上に横たわっていた。
 そしてミアはその場に崩れ落ちた。
 気は失ってはいない。
 全身に強い痛みと強い疲労感を感じる。
 猪の突進をかすっただけと思っていたが、そうでもなかったらしい。
 左半身、特に左肩が特に痛い。
 猪を仕留め、それを捧げたことで緊張の糸が切れた。
 それまで押しとどめていた痛みがやってきたのだ。
「いてててて…… 朝の講義までに帰れるでしょうか……」
 地面に倒れ込みながらミアは独り言を発した。
 ミアもわかっている。講義に間に合うどころか無事に帰れるかどうかも怪しい。
 なんとか痛みに耐え身を起こして周りを見回すが、まるで見覚えがない場所だ。
 ロロカカ様の領域の山でないとはいえ、山の神の巫女が山で迷子になるなど笑い者です、とミアは自分に言い聞かせて痛みに耐えて立ち上がる。
 改めて仕留めた猪を見る。
 かなりの大物だ。
 残念だがこれを持ち帰ることは不可能だ。この場に破棄していくしかない。
 ミアは防水布に血で書いた部分と汚れている部分を綺麗にふき取り鞄へとしまった。
 痛みに耐えながら一息ついて周りを見渡す。
 猪との乱闘で既に自分がどっちから来たかもわからない。
「これはちょっとまずいですね……」
 ミアは誰に言うでもなくつぶやいた。
 猪に飛ばされたロロカカ様の帽子を左手で拾い上げる。
 そのとき左肩に激痛が走る。
 猪の突進が当たった場所は左肩だったようだ。
 打撲で済んでいればいいが。
 帽子を右手に持ち替えてそれを深々と被る。
「これは…… ちょっと、まずいですね……」
 ミアはもう一度その言葉を口にした。



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