学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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日常と非日常の狭間の日々

日常と非日常の狭間の日々 その3

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 ミアが迷い込んだ獣道は、いつも使っている道から枝分かれしたもののうちの一つとミアは考えていた。
 なら、どちらか片方は、いつも使っている獣道につながるはずだ。
 記憶の限り、来た方向へと、元の獣道に戻るほうへと歩き始めた。
 いつも使っている獣道は、学院が用意した登山道と沢をつないでいるものだ。
 その獣道に戻りさえすれば、登山道か沢、どちらかには繋がる、そのいずれかでも学院まで帰ることはできる。
 幸い左肩に痛みはあるものの歩くための足には支障がない。左手はしばらく痛むだろうが学院まで帰れれば、それほど問題ない。
 せいぜい今日と明日、左腕次第ではもう少しの間、稼げなくなるのは辛いが、まだ貰った金貨もある。どうにかなるはずだ。
 そう、考えていたし、実際その通りのはずだった。
 けれどそう簡単な話ではなかった。
 いくら歩けどその景色はミアの知っているものにはならなかった。
 そこまで深く入り込んでいるとは思えなかったため、来る方角を間違えたのかとミアは後ろを振り返った。
 そして驚愕する。そこには今まで歩いてきたはずの道がなかった。
 足元を見ると、ミアの立っているその場所からミアの進んでいた方へと道が伸びている。
 ミアの立っている場所が、獣道の始まりになっていた。
 今まで歩いてきていたはずの、獣道があったはずの場所には、うっそうと茂っていて入るのを拒んでいるかのような木々があるだけだった。
「これは…… 化かされていますね」
 驚いていたせいか、つい言葉が漏れてしまう。
 改めて進んでいた方向へと振り返る。まるで誘導されているかのように一本の獣道だけが伸びているし、獣道の割には歩きやすそうな道が続いている。
 こういうことをしてくるのは、大体、山の主だ。
 その正体は、いたずら好きの精霊王だったり、御使いである悪魔だったり、神族そのものだったりと様々だ。
 だが、この裏山には山の主はいないと、ミアはそう学院で聞いていた。
 だから、遠慮なくこの山で採取や狩りをしても問題ないと言われていた。
 そして、それはこの裏山だけの話ではない、この辺り一帯には、少なくとも神は、神族はいない、との話だったはずだ。
 だからこそ、この場所が選ばれシュトゥルムルン魔術学院が建てられたのだ。
 魔術学院には大きく分けて二種類ある。
 一つは神のおひざ元で開かれる学院。
 その学院は神の庇護下にあり安全は保障される。
 が、その神と敵対しているような系統の神の魔術はもちろん学べないし、自ずとその神ばかりのことについて学ぶようになっていく。
 元からその神の信徒であれば良いが、そうでなければ少々どころではない疎外感を感じてしまう。
 またどうしても偏った内容を教えるため、魔術に対する見分は狭くなる。
 だが、本来祟り神の巫女などを受け入れられるのは、神がいる魔術学院の方だ。
 何かあっても、大概のことは神がいるのでどうにかなるからだ。
 そして、もう一つの種類が、どの神にも属さない魔術学院。
 シュトゥルムルン魔術学院も、どの神にも属さない中立の魔術学院の一つだ。
 特定の神がいない神無地に建てられる学院で、様々な魔術を自由に学ぶことができ、多種多様な人材が集まる騎士隊とも提携がしやすい。
 神の加護下にないため、本来なら祟り神などの巫女は受け入れない場合が多い。
 ミアの場合は、神が直接、学院名を指名してきたので学院側に拒否権がなかっただけに過ぎない。
 この辺りの土地は十分に調査され、神がいないとのことでシュトゥルムルン魔術学院が立てられている。
 裏山にいたっても学院が私物化する際に調査され、俗にいうところの山の主、そういった存在も確認されてないという事だったはずだ、少なくともミアはそう聞かされている。
 では、ミアが今体験している不可解な現象は何か。
 ミアはその場に立ち尽くして考える。
 ミアの現在の知識で思い当たるのは二つだった。
 まず、すぐに思いついたのが、はぐれ精霊の仕業だ。
 何かしらで、恐らくはロロカカ神に捧げ物をした儀式が理由で、はぐれ精霊の気を引いてしまった可能性だ。
 精霊王を含む精霊は神性を好む。これははぐれ精霊になっても変わらない。
 猪をロロカカ神に捧げた魔術的儀式を行ったことにより、はぐれ精霊の気を引いてしまった可能性は十分にある。
 次に考えれるのが、新しくこの山に住み着いた上位存在の可能性だ。
 可能性は少ないがないわけではない。シュトゥルムルン魔術学院は古くから存在し歴史ある魔術学院の一つだ。学院が建てられた当初、神がいなくてもいつの間にかに新しく住み着いている可能性も否定できない。
 神以外の上位存在の可能性ならもっと可能性はあるかもしれない。
 なんにせよ、ミアだけの力で解決することは不可能だ。
 この現状を打破するにはロロカカ神に力添えをお願いするしかない。
 だが、ミアは、いや、リッケルト村では神頼みなどはしない。ロロカカ神を崇めてはいるが、ロロカカ神に対して何かを願うようなことをする風習はない。
 もちろん日常的に祈る過程で安全祈願などを個人的に願うことならあるが、魔術的な正式な手続きをした儀式で、ロロカカ神に何かをお願いするようなことはしない。
 祭りなどもするが、それは安全や豊作を祈願するものではなく、今年も無事過ごせました、ロロカカ神ありがとうございました、と感謝を伝えるための祭りだ。
 リッケルト村ではロロカカ神は捧げ物をし、崇め、感謝する対象であって、願い事などをする対象ではない。
 フーベルト教授に言わせると、これも祟り神である可能性が増す要因の一つだ、という話だ。
 ロロカカ神が祟り神かどうかはとりあえず置いておく。
 ついでにだが、神の魔力を借りる、拝借呪文などの行為は、神から力を持たない人間種へ送られた権利であり、神頼みとはまた別の話となる。
 神族自身がそう決めたことだ。この世界の理のようなものの一つだ。
 なので上位種族は人に請われれば、借りる存在に個別差や条件付けはあるが、基本的には力を貸さなければならない。
 そう言う風にこの世界は神達によって定義づけられている。
 ただし、異世界から来たという竜と虫だけは別だ。
 竜は自身が認めた英雄にのみ力を貸すし、虫種とはそもそも意思の疎通自体が不可能だ。上位種族と同等の力を持った虫種も存在はしているのだが、それでも虫種と対話できたことはないという話だ。
 話を戻そう。
 ミアにとってそのような理由から、ロロカカ神に頼るのは最終手段と考えていた。
 本当に危険と、命の危機と感じたらロロカカ神に頼るしかない。自分は巫女として魔術を学び、リッケルト村に帰らなければならないからだ。それがロロカカ神から命じられた使命なのだ。
 ロロカカ神に願えば恐らくこの事態は解決される。だが、ミアにとって捧げ物を捧げるわけでもないのに、自分が困っているからと言ってロロカカ神を呼び出すなど言語道断のことである。
 ミアにとっては、まさしく死の瀬戸際のみにでてくる最終手段と言っていい。
 ならどうするか。その答えは簡単だ。
 何者かに化かされている以上、これ以上訳も分からず歩くのは危険だと判断し、ミアはその場に立ち尽くすことにしたのだ。
 一応は周りを警戒するが気休め程度のことだろう。警戒をしたところで、今のミアに何かができるわけではない。
 結局のところ、相手が自分に興味をなくしてくれるのを待つしかない、ということだ。
 その後のことを考えると、むやみやたらと歩き回るのは危険だ、と、そう結論付けただけだ。
 ミアがその場から動かないでいると、急に靄が、いや、濃霧と言っていいほどの濃い霧が立ち込めてきた。
 本格的に何かしかけて来たと、ミアは辺りを警戒するが、ミアの視界を一瞬だけ真っ白に奪い、すぐに霧は晴れた。
 一瞬何事もなかった、とミアは思ったが、辺りの様子が一変していた。
 ミアが立っている場所は先ほどいた場所とはまるで違う場所になっていた。
 相変わらず木々の合間に立たされていることは変わりないが、足場に石や岩が多く目立ち、土の地面が少なくなっている。先ほどまでは土の地面しかなかったのにだ。
 場所を変えられた? 幻術? 転移? いくつか考えるがミアには理解が及ばない。
 わかることと言えば、恐らくははぐれ精霊の仕業なのだろうと考えていたのだが、ここまで大掛かりなことははぐれ精霊にはできない、という事だけだ。
 何らかの上位存在、さもなくば外道の関与、ということになる。
 外道の関与は、本来なら魔術学院の近くという事で省かれることだが、ついこの間、その魔術学院に外道が現れたばかりだ。
 その考えも今は省くことはできない。
 ミアが今、立たされている場所は、鬱蒼とした山中で前方だけ開けているといった感じで眩しいばかりの光が差し込んでいる。
 そちらに行けと、言っているような物だ。
 誘いに乗るかどうか、ミアは迷ったが、どうもこの不可解な現象を起こしている主はミアとの接触を望んでいるように思える。
 このまま待っていても自分に興味をなくさないように思えた。
 ミアは意を決して開けている方へと、光の方へと足を運んだ。
 一瞬、陽の光で目がくらむと、そこは見覚えのある場所だった。
「ここは頂上? 裏山の頂上…… なんで……」
 名もなき山、いや、少しでも上位存在が住み着くことを防ぐために名を剥奪された山の頂上はちょっとした広場になっている。
 これは人の手が加えられてそうなっている。
 山の頂には何かと強い力が集まるので、魔術の儀式などに使われるためだ。
 が、今は広場の中央に小さな焚き火が用意されており、その火に当たっている人物がいた。
 服というよりはボロ布を体に巻き付けた、言うならば浮浪者のような男がいた。
 それが焚き火ごしに座りながら、ミアの方を見つめていた。
 しばらくミアを観察した後、その男は手招きして、こちらに来て火にあたれ、と言わんばかりの仕草をした。
 相手は雰囲気から、その存在感から、どう考えても上位存在で、少なくとも人の姿をしてはいるが人間であるとはミアには思えなかった。
 これは逆らうだけ無駄、と考えたミアは素直に焚き火のところまで行き、焚き火を挟んで対面に立った。
 そうすると、今度は手で座れ、と手ぶりだけで伝えてくる。
 ミアはそれにも従いその場に腰を下ろした。
「……」
 しばらく火に当たっているが、それ以降、男からの反応はない。
 もう暑くなっているというのに、ただ焚き火にあたっているだけだ。
 そこでミアは考える。
 恐らく目の前の男は恐らく神族だ。それは男の発する雰囲気から判断するもので確証なんてものは何もない。
 ただ外道のようなものではないとなんとなく理解できる。
 また悪神などでもないようにミアは感じる。どことなくロロカカ神に近い、そんな雰囲気を男から感じていたからだ。
 なので恐らく良い神族などなのだろうと、ミアは勝手に考えていた、いや、直感でそう確信していた。
 そこでミアはフーベルト教授に言われていたことを思い出す。
 もしどこかしらで、特に神がいる神殿などではなく、主に野山などで神族に偶然出会ったならば、その存在が自ら神と名乗らない限り、神として接しては行けない、それが不意に神と相まみえたときの作法なのだという話だ。
 それを踏まえたうえで、ミアはとりあえず目の前の存在を山の主というふうに仮定して話しかける。
 必ずしも山の主が神であることはない。
「この山の主とお見受けいたします。勝手にこの山の獣を狩り、神に捧げたことは謝ります」
 土下座しようかとも思ったが、とりあえず頭を下げるだけにミアは留めておいた。
「……気にすることはない。この山の主ではない」
 その男はそう答えた。その声と表情からはなんの感情も感じられない。
 それだけに怒っているのか、歓迎されているのか、それもわからないのだが、こうして一緒に焚き火にあたっていることを考えるとミアに対して敵意だけはなさそうではある。
「では、なぜ私をお呼びに?」
 ミアは畏まり、慈悲を求めるように上目使いで問う。
「やはりダメか。人のふりは難しいものだ」
 男はそう言ってはいるが、男の表情にも声にも感情や人間味のような物は微塵も感じられない。
「やっぱり神ぞ…… 上位存在の方なのですか?」
 神族の方、と言いそうになるのを、慌てて言い換える。
 よく考えれば、ミアはまだロロカカ神以外の上位存在を知らない。
 もしかしたら上位存在というものは、皆こういった雰囲気を持っているのかもしれない。
「それよりも、そなたが仕留めた獲物を頂こう。ただ死ぬよりも喰われた方があの猪もうかばれようて」
 そう言うと男は不意に立ち上がり、近くの藪の中へと無造作に入っていった。
 藪に入っていったと思ったら、すぐに右手にミアが仕留めた猪を手にもって帰ってきた。
 ミアよりも大きそうな猪を、まるで子兎か何かのように右手だけで軽々と持ち上げている。
 それに少なくともミアが猪と遭遇した場所は、山の頂上よりも裾のほうが近い場所だったはずだ。
 この男にとって、ミアをこの頂上に招いたように、距離などお構いなしという事なのだろう。
 そんな存在がミアに何の用があるというのだろうか。
 ミアにはまるで見当がつかなかった。
 男は持って帰ってきた猪を地面に置き、何処に持っていたかもわからないが、黒く尖った石を使って猪を解体し始めた。
 その手際はとても良くあっという間の作業だった。まるで手品でも見せられているように、あっという間に大猪が解体されていった。
 解体された猪は、皮と肉、それと臓器に分けられていた。
 大きな猪を一匹解体したというのに、男はまるで汚れていない。
 既に血と心臓をロロカカ様に捧げ、血抜きされたような状態であるとはいえ、通常ではあり得ないことだ。
「さて、肉を焼こう。これは大物だ。食いでがある」
 男は表情を変えずにそう言った。
 ミアがポカンとした表情で見ていると、
「そう言えば、これはそなたが仕留めた獲物だったな。ご相伴にあずかれるかな?」
 と問いかけてきた。
「い、いえ、滅相もない。私は捨て置くしかできなかったのです。どうぞお召し上がりください」
 ミアが頭を下げそう告げる。
「一人で食べるのは何かと寂しい、こうして火を囲んでいるのだから、そなたも食べたまえよ」
 そう言って細切れにした肉にどこからだしかのか、木の串を刺し焚き火の近くに手際よく何本も突き刺していく。
 何やら塩や香辛料のようなものまでいつの間にか振りかけられていて、火に焙られるとそれはすぐに良い匂いを放ち始めた。
「は、はい……」
 ミアは目の前の大量の肉とそれが発する香に危うく涎があふれ出てしまう。
「うむ、いい毛皮だ。この毛皮貰っても?」
 その存在はそうは言ってはいるが、毛皮はまだ泥まみれだ。
 だが、実際ちゃんと洗い、なめし皮として処理さえすれば、それは猪の物ではあるが上物の毛皮であることは間違いないだろう。
「は、はい、どうぞお納めください」
「ふむ、人として接したかったのだが上手くいかないものだ」
 感情はやはり感じられないのだが、どこかしら寂しげな感じもする。
 ミアは何か言った方がいいのかと思い、
「雰囲気が、なんと言いますか、独特でしたので……」
 と、伝えた。
「そうか」
 と、だけ返事をし、代わりにとばかり焚き火に突き立てた串を二本取り一本をミアに手渡してきた。
「ほら、焼けたぞ」
 ミアが、もう焼けたの? と声には出さないが驚く。
 先ほど火にかけたばかりだと思っていたが、見た目は確かに火が通っているように見える。
 男は既に肉にうまそうにかぶりついている。その食べ方はとても豪快だ。
 見る見るうちに、肉を平らげていく。
 ミアは手渡された肉を改めてみる。物凄く美味そうだ。匂いもいい。
 試しにかじってみると確かに中までちゃんと火が通っている。
 すぐに火が通ったのも神通力か何かなのかと、ミアは納得するしかなかった。
 観念して肉を頬張る。
 しばらく味わっていなかった新鮮な動物性たんぱく質とその脂、しかもロロカカ神に捧げたばかりの縁起物、の味が口いっぱいに広がる。
 肉の旨味が広がり、噛むごとに肉汁が溢れでる。
 上位存在の手によって焼かれたせいか、今まで食べたことがないほどの旨さと幸福感をミアは感じた。
 ただの猪の肉とは思えない旨さだ。
 ミアは手渡された串を、男に負けないくらいの勢いですぐに食べきってしまう。
「ハハハッ、良い喰いっぷりだ」
 と、その存在は初めて表情らしい表情をミアに見せた。
 それが笑顔でミアは安心した。もし敵意に満ちた表情であったなら、生きた心地はしなかっただろう。
「あっ、いえ、すいません、美味しくて……」
 ミアは顔を赤くして畏まるが、男はその食べっぷりに感心しているだけで他意はなそうだ。
 それどころか追加の肉を手渡してくれた。
「いや、いい。肉はまだまだ大量にある。元よりそなたが仕留めた獲物だ。遠慮など最初からいらない、好きなだけ焼いてやろう。思う存分喰らい腹を満たすといい。まあ、肉しかないがな」
 そう言われて、ミアは思い出す。
 今日も食堂のおばちゃんから、硬いパンを貰っていたことを。
 どうも試行錯誤して柔らかいパンを作るというよりは、ミアのためにあのおばちゃんはこれを毎朝焼いてくれている気がする。
 少なくとも試行錯誤の後はない。が、ミアはこのパンにとても助けられている。
 この固く焼き固められたパンは思いのほか腹持ちがいい。なんらかの油が一緒に練り込まれているおかげだろうか。
 軽く薄いが塩味があり食いでもあって腹持ちがいい。欠点と言えば、喉が渇くことくらいだ。山に入るミアはとても助かっている。
 ミアはそのパンのことを思い出し、包みを鞄から取り出す。
 紙で包まれているそれを開ける。
 さすがにもう冷めてしまってはいる。猪との乱闘があって数枚割れてはいるが、運よく全部が割れているわけではなさそうだ。
 ミアはその中でも一番無事な物をおずおずと差し出した。
「もしよろしければですが、こちらもどうぞ。お口に合うかどうかはわかりませんが、口直しにはなるかもしれません」
 男がまた表情を見せた。それは、まるで奇妙な物を見るような表情だった。
「これは…… 煎餅か?」
 ミアは失敗だったかも、と思いながらも必死で説明する。
「いえ、パンというものらしいのです。本来はもっとふわふわしているものだそうですが、これを作っている者はその方法を知りませんので……」
「なるほど、パンか。気にすることもない。パンの種類にはこういうものもある。それと、発酵した物を欲しているならば教えよう」
「いいのですか?」
 ミアにはよくわからない言葉も含まれていたが、恐らくはふわふわのパンの作り方を教えてくれるのだろう。
「人に何かを教えるのは、今はまだ神の役目である」
 その男が発した言葉に、ミアは胸を撫でおろす。
 やはり神族の方だったのかと。
「やっぱり神族の方だったのですね」
「もう隠しても仕方あるまいて。どれ、一筆したためてやろう」
 そう言ってその神は、どこから取り出したかはミアにはわからないがいつの間にかに紙を広げた。その紙は不思議なことに空中にとどまっている。
 これまたどこからか取り出した筆のようなもので、その紙にすらすらとなにかを書き綴った。
 薄い紙は空中でとどまり、筆圧にもまったく動きを見せない。まるで見えない机でもあるかのようだ。
 何とも不思議な光景だ。
 すぐに書き終わり、紙を丸めてミアに寄こした。
「これをこのパンを作っている者に渡すとよい」
「あ、ありがとうございます」
 山で出会った神様が教えてくれました、と言ってこれを食堂のおばちゃんに渡したらどんな顔をするのだろうか。
 とりあえずは、ミアが食べたこともない、ふわふわのパンというものが食堂のお品書きに加わることは確かだろう。
「うむ。では本題に入ろう。そなたをここに呼んだのは、懐かしき気を感じたからだ」
 そう言われてミアが思い当たるのはロロカカ神のことくらいだ。それしか思い浮かばない。
「懐かしき気…… ロロカカ様のことでしょうか?」
 ミアがその名を口にすると、目の前の神の表情がわかりやすく明るくなった。
「やはりか。ロロカカ殿の縁ある者か?」
 名もわからぬとはいえ神族に、ロロカカ神の名を出されミアも高揚を隠せない。
 胸がどうしょうもなく高鳴るのを感じる。
「はい!! 私はミアと申します。未熟ですが、ロロカカ様の巫女をさせて頂いております」
 この魔術学院に来て以来、誰もロロカカ神のことを知らなかった。それだけではない、祟り神扱いされていたミアにとって、これほどうれしいことはなかった。
 が、ミアの発したその言葉に、目の前の神族は明らかに訝しむような表情を見せた。
「ロロカカ殿が巫女を……? だが、変わった方だからな。何かしらの気が向いたのだろうか、それとも…… いや、まださすがに早い、その時期ではないはずだ。しかし、ロロカカ殿は東の地におられるはず、なぜ巫女のそなたが離れたこの地へ?」
 神には神の事情があるのだろう。人の身でそれを理解するのはおこがましい話だ。
 ミアはそのなんだかの事情が気になりはしたが、深く詮索しない方が賢明というものだ。
 それに、ロロカカ神が遥か東の地に居ることも事実だ。
「はい、私の魔術が拙いのでこの山のふもとにある魔術学院で学んで来いと」
「ロロカカ殿が?」
 その話を聞いて目の前の神族が驚いた表情を見せる。
 ミアは心の中で、神族をも驚愕させるロロカカ様はさすがです、と、わけのわからない誇り方をしていた。
「はい!」
 と元気に返事をする。
 それとは逆に目の前の神族は今まで見せていた表情が再び消え、非人間的な雰囲気を纏う。
「ふむ…… ロロカカ殿は今どうしておられる?」
「チェレリコ山、その周辺の山々の主をされておられます」
 ミアがそう答えると、その神は安心したような表情を見せ、纏う雰囲気も柔らかくなる。
「なるほど、御役目は果たされていると。となるとなぜこんな早々に巫女を持ったのか、よくわからないが、ロロカカ殿ことであるし…… ふむ、何を聴くべきか…… そうだな、ロロカカ殿ならこれが一番良い。今はどんな姿をなされている?」
 ロロカカ神の御役目、という言葉にミアは何かときめきにも似たなにかを感じつつ、そが何か聞き返したい願望を必死に押さえつける。
 そして、ロロカカ神の姿を思い描く。
 その思い描いた姿はミアにとっては、最高の造形なのだが、どうも他の人間には理解できないものらしい。
 けれど、相手が神であるならば、話は別のはずだ。ロロカカ神の素晴らしい造形美をわかってくださるはずだ、ミアは確信していた。
「曰く、雄々しき獅子の顔と燃え盛る炎の鬣を持ち、その胴は大蛇であり、四対の節のある足を持ち、背中から無数の手を生やしている…… と、伝承では言われております。私が実際に目にしたのは大蛇の尻尾の部分くらいなのですが……」
 そう言って目の前の神の様子を見るが、その表情は若干引いたような微妙な表情を浮かべていた。
「またあの方は奇妙な恰好を…… いや、確かにその奇妙な恰好はロロカカ殿であろうな。数いる神の中でもそのような恰好を好むのはロロカカ殿くらいのものだ。あの方は物好き故、奇妙な恰好を好まれる」
 奇妙な姿と別の神にも言われ、ミアは茫然とした。神族の方でもロロカカ神の造形美が理解できないとはと。
 ミアがそんなことを思っていると、不意にその神と視線が合う。
 違う。神の視線はミアの目の上の方、その頭にかぶっている帽子を見ている。
「その帽子は……」
「は、はい! ロロカカ様に頂きました」
「否、違うな」
 ミアの言葉は即座に否定された。
 この帽子はミアが巫女になるときロロカカ神から授けられ、朝起きると枕元に置かれていた帽子だ。
 リッケルト村の人達もこの帽子のことは知らないと言うし、村長も夢見で手渡されたなら、ロロカカ様からの贈り物と言っていた。
 ミアもそう思う。この帽子からはロロカカ様の御力を、魔力を、感じられていたからだ。
 だが、目の前の神はそうではないと言っている。
「え? そ、そんな……ことは……」
 ミアの中で何かが瓦解していく。
 ロロカカ様から送られたと信じていた帽子がそうではなかった? では、この帽子はなんなのかと。
「それは、ロロカカ殿の配下からの贈り物だ」
 ミアの中で瓦解したものが即座に復旧された。
 確かにロロカカ神のような尊い神が直接自分なんかに贈り物をするわけがない。
 ロロカカ神ともなればその配下、御使いの方々がいても何ら不思議ではない。
 ロロカカ神に御使いがいたということはミアも知らなかったし伝承などにも語られはしていなかったことだ。
 そもそも御使いという存在をミアが知ったのは魔術学院に来てからのことだ。
「ロロカカ様の配下…… 御使いの方でしょうか?」
「うむ」
 ロロカカ神の御使い。その言葉だけでミアの心は踊る。
 御使いは神の剣である。
 御使いは神が他の神を攻撃するために、あるいはその攻撃を防ぐために火より作り出された種族なのだという。
 故に、御使い達の力を借りた魔術、使徒魔術は攻撃的であり戦闘に特化したものが多いのだという。
「そ、そうなのですね……」
 ミアが聞いている伝承ではロロカカ神に御使いがいたという話はない。
 また必ずしも神に御使いがいるわけでもないので、ロロカカ神には御使いがいないとミアは考えていた。
 だが、それは間違いだった。ロロカカ神なのだから、御使いくらいいてもおかしくはないはずだ。
 なら、ミアが学ぶべき使徒魔術は決まったようなものだ。
 ミアの中で何かが激しく燃え上がる。
「とはいえ、ロロカカ殿の力が込められていることは確かだ。大事にするがよい」
「は、はい!!」
 結局この帽子にはロロカカ神の御力が込められている。
 なら何ら変わりはない。
 その上で、ミアも知らなかったロロカカ神の御使いの存在が明らかになった。
 なんと素晴らしきことだろうか。ミアは異様な幸福感に包まれていた。
「そうか、ロロカカ殿が巫女を持つようなことがあるとはな……」
 けれど、目の前の神はなにか納得がいかないかのように、そうぽつりとつぶやいた。
「私が伝え聞いている話では、リッケルト村ができたときから、ロロカカ神の巫女は存在していたらしいですが…… 確か…… いつ頃昔かは記憶には残ってないのですが、リッケルト村のご先祖達が今のリッケルト村の場所にたどり着いたとき、ロロカカ様に助けられ、それから巫女をたて崇め始めたと聞いています」
「いや、疑っているわけではない。ロロカカ殿が巫女を持つと言うこと自体が、我々にとってちょっとした意味のある事なのでな。少々驚いているのだよ」
「そ、そうなのですか?」
 神族の方でも驚くようなことがあるのですね、という言葉をミアは飲み込んだ。
 ロロカカ様が巫女を持つ意味、それをミアは少し自分なりに考えたが、その答えは出なかった。
「いや、なるほど。そういうことであるか。いやはや、ロロカカ殿らしい理由だ。全て納得した。あいわかった。よろしく伝えてくれ」
 不意に目の前の神が全て納得したようにうなずきながらそう言葉を発した。
「な、なにがでしょうか?」
 わけが変わらないミアはそう聞き返してしまうのも無理はない。
「いや、今しがた、その帽子を通して使いの者から話があっただけだ。そなた達、人には言えないが大事はない」
「は、はい」
 そう言われはしたが、ミア的には凄い気になる。
 巫女本人であるし、ロロカカ神のことだ。気にならないわけがないが、神が言えない、と言っている以上聞き返すことはできない。
 が、気になる。尋常じゃないほどミアは気になって仕方がない。
 ロロカカ様が巫女を持つ意味とは。
 それを考えるだけで頭の中がグルグルとかき回される。
 それにこの帽子を通してロロカカ神の御使いの方と話ができる? なんと素晴らしき帽子なのだろう、と改めて感動する。
 それもだが、ロロカカ神に御使いがいたこと自体が驚きであり、ミアにとっては喜ばしいことだ。
 いろんな感情が混ざりあり、頭の中でグルグルと掻きまわされ処理が追い付かない。
 だが、ミアが一番気になるのはやはり、ロロカカ神のお役目という言葉だ。
 それを聞くことは流石にできない。
 なので、ミアは少し失礼かもしれないと、思いつつも気になっている別の質問を投げかけた。そうでもしないと居てもたってもいられなかったからだ。
「あの…… 失礼でしたら、お答えしていただかなくてよろしいのですが、貴方様とロロカカ様は……」
「ジュダだ。我が名はジュダと申す。ロロカカ殿とは…… まあ、古くからの知り合いのようなものだ。そなたたちの言葉では、友という言葉が妥当か」
 ミアが投げかけた質問に想像以上の答えが返ってきた。
 まず、この神の名。
 神の名を、神自身から教えてもらえることは滅多にない。
 またみだりに神の名を言うことを、禁止されているわけではないが、あまり良くない、もしくはむやみやたらと呼んでは失礼にあたる、そう言われているくらいではある。
 それをあっさりと教えてくれたのだ。これは驚くべきことだ。
 その上で、この神はロロカカ神の友だというのである。
「友!? ロロカカ様の!!」
 ミアは無意識のうちにひれ伏した。
 額を地面につけてひれ伏していた。自然と体が動いていた。意識など全くしていなかったが、体が勝手に動いていた。
 この時、初めて気が付いたが、左肩の痛みがいつの間にかに消えている。
 ただ、そんなことよりもミアの中で、ロロカカ神の友であらせられる神が目の前にいる。そのことだけが頭の大部分を占めていた。
「そう畏まるな。我はまだ神としての役割もなく神の座にもいない。そう言った意味では人にとってまだ神ではない」
「いえ、ロロカカ様の友であらせられるのであれば、私がこうする理由には十分です」
 ロロカカ神の友であらせられる神に失礼があってはまずい。
 ああ、なんで自分は試作品のパンなど出してしまったのだと後悔し、その他に何か失礼なことがなかったか必死に思い返す。
 思い返すと色々不作法があったのではと思えてくる。
「困ったものだな。まあ良い。もう日が暮れる。今晩はここで暖を取り休んでいくとよい。そなた、ミアと言ったな。ロロカカ殿の巫女であるならば、またそのうち相まみえることもあるだろう。おお、そうだ。確か苗木を探しておったな。一つ良い苗木を持っている。よく言い聞かしておくので使うがよい。肉と毛皮、そしてパン、何よりロロカカ殿の近況を聴けたお礼だ、受け取るがいい」
 日が暮れる? ミアがそう思って頭を上げるともうジュダと名乗った神はその場にはいなかった。
 男が座っていた場所には、言葉通り袋に包まれた苗木が一つ置かれていた。
 そして、その言葉通りあたりはもう日が暮れ始めていた。
 ミアの体感では山へ入ってから一、二時間程度のことだったはずなのに、もう日が暮れている。
 登山道があるので帰ることはできたが、ミアは言葉通りここで一晩過ごすことにした。
 夜の山道は見知った道とはいえ危険が付きまとう。
 何よりロロカカ神の友である神に言われたのだ、その言いつけを守らないわけには行かない。
 それに、ここにはまだ肉が山のようにまだある。
 しかも、そのすべてに丁寧に下準備をしていってくれているようだ。なんとありがたいことなのだろうか。
 これを食べないわけにもいかない。
 失礼がないようにすべて自分が責任をもって食べないといけない、とミアは心に誓った。

「と、いう事があり、昨日の講義には出席できませんでした。申し訳ありません」
 結局ミアが学院に帰れたのは次の日の朝の講義が始まるギリギリになってからだ。
 結局一睡もせずミアは猪を食べ続けた。さすがに辛くはあったがミアは乗り切った。
 下準備してあった肉をすべてを腹の中に治めてきた。
 そして、もろもろの後始末をし、下山したらちょうどその時間だった。
 そのまま教室に行き、既に来ていたダーウィック教授にミアは説明し、謝罪の言葉を述べたところだ。
「裏山に神族が? それは本当なのですか?」
 あのダーウィック教授が珍しく驚きの表情を見せている。
 しかも、ダーウィック教授がそう言ったまま数瞬ではあるが固まっている。あのダーウィック教授がだ。酷く珍しいことだ。
「ダーウィック教授はジュダ神をご存じですか?」
 ミアはロロカカ様の友である神のことが気になって仕方がない。
 とにかくジュダ神のことが知りたかった。
 講義に出れなかったことは反省しているが、講義は一度きりではなく同じ講義を繰り返ししているので取り返しは容易でもある。
「私とて全ての神を知っているわけではありません。それにジュダという名の神は私が知っているだけでも複数存在します。そのうちのどれか、と問われれば断定することはできません」
「そうですか……」
「また緊急会議ですねぇ、これは…… とはいえ、講義をあけるわけも行きませんし、夕方の部が終わる時間に、ミア君も本校舎の会議室へと来てください。それまでに、身なりを整え、その苗木とジュダ神が書かれた物を持って自室にて待機していてください」
「え? 今日の講義は?」
 ミアがそう聞き返すと、ダーウィック教授はいつも通りのつまらなそうな無表情に戻っていた。
「お休みなさい。どちらにせよ、昨日の講義を休んでいるので今日の講義を出る意味はありません。昨日の講義と同じ講義は…… たしか一週間後でしたか。そのあたりは自分で時間割を確認してください」
 そう言ってダーウィック教授はミアから視線を外した。
 これ以上食い下がればダーウィック教授の怒りを買うだけだろう。
「は、はい…… わかりました」
 ミアは仕方なく教室を後にした。


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