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【 旅と温泉グルメ しゃぶれどもしゃぶれども(中国編) 】
08: プレイバックpart3 「出雲、、神無月を過ぎても 1」
しおりを挟む最近のやや遠方の国内旅行といえば、相方と行った島根方面。
「出雲キルト美術館、一緒に見に行こうよ~」と手芸好きの相方にせがまれての旅でした。
ショーファー扱いされるのは毎度の事で、結果、「出雲キルト美術館、古民家を改良した美術館よね?良いねー、アンもそういうの結構好きかも」って言いながら出かけた旅なんですが、いつかその旅の記憶をまとめておこうと文章のタイトルを考えてました。
島根方面は何度目かの旅行なので、「再びの出雲」にしようかと考え始めた矢先に、昔書いた島根方面への旅行記録が残っていたのを発見しました。
かなり前の文なんだけど、直近の旅行と行程が殆ど大差ないので、こちらの方も多少のブラッシュアップをして前日談(笑)としてここに上げておきます。
このエッセイに登場する飲食店などは、もう廃業されていて現在存在しないかも知れませんが、最近の旅行で見た旅の光景と過去に記述した時の光景の差は(拡張・延長された道路以外は)、ほとんどなかったように思います。
逆に言えば、それこそが「地方」の問題なんだろうと思いますが、、、それは又、別の機会に。
ところでこのエッセイのサブタイトルは「プレイバックpart3」、もとネタは山口百恵さんの「プレイバックpart2」です。
アンの山口百恵さんリスペクトは、中森明菜繋がり、二人は雰囲気が似てる、、でも明菜は頑張りすぎ。
だからアンみたいな、彼女の全盛期を知らない人間に「酒の肴」で、人生論のモチーフとして熱く語られちゃう(笑)。
まあ中森明菜ブランドも、グラス片手に酔いどれる場面で似合うところまで成熟したってことなんでしょうが。
一方、山口百恵さんになると、もう完全に伝説の存在なんだけど、プレイバックpart2の「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」なんてフレーズを、今の女性歌手があんなに生々しく歌えるかなぁ?という点でリスペクトしてます。
というか、今はそういう尖った「歌」自体がないですよね。
当時、この歌詞を書いた阿木燿子さんって、相当シャープな人だったんだろうけど、時代的には一杯一杯で頑張ってたんじゃないかなぁ。
なのに「プレイバックpart2」は、今聞いても「強い歌」だという不思議。
平成も、もう終わろうかって言うのに、未だに女性が輝ける時代をとか言い続けててさ。
ほんと実質はどうなんだろう?
某女性ボーカルグループをプロデュースしてその歌詞を提供してる某男性作詞家の描いてるモノの内容なんか見てると、表面的にはそれらしい事書いてるけど、本質的には「、、、、」だし。
【 プレイバックpart3 「出雲、、神無月を過ぎても」 】
「ええい、行っちゃえ」旅行でした。
しかも前の旅行で利用した高速米子道を使っての復習編。
というのも、境港の魚山亭でまたまたカニが食べたくなったのと、何回この方面に出かけても、何故か見逃してしまう足立美術館を観たいというのが今回の旅の動機でした。
(てかホントの動機は、日頃の忙しさに、中半やけっぱちになってというのが本音のところ)
で今回は、結果的に美術館を三つほど見てまわる旅になりました。
もちろん温泉コレクションは外せません。
今回訪れた温泉は、オンセンキング「玉造」と、平成10年に温泉が出た兵庫県宍粟郡一宮「まほろばの湯」でした。
ところで島根は「出雲」って地名の通り、確かに雲が多いような気がしますね。
というのか、人の目の視線が自然に空に向かって流れていく風景というか、ロケーションなのかも知れませんね。
都会暮らしでは、たまに夜空を見上げて、月が浮かんでるのを見つけて、改めて空があったんだ、、って吃驚することもありますから(笑)。
で、この出雲のロケーションに、ピッタリなのが足立美術館なのです。
アンの知り合いでこの美術館に行った人はみな、「綺麗だったよー。」と一様に同じ感想を漏らします。
ところが、美術作品の展示面では、「誰それの作品が凄い」とかの話は聞かないし、「美術館が綺麗という言い方もなんだかなー?」という疑問を常々感じていたんですけど、その謎が今回とけました。
ここの売りは、絶対的に美術館内の「庭園」なんですね(笑)。
確かに異様に高い入館料も、この庭園の拝観料(?)だと思えば納得です。
「けばけばしたBIGな枯山水」というか、「超技巧の自然」というか、ここまで来てしまうと、本来の「庭」作りの思想から離れてしまっているような気がするんだけど、綺麗なものは綺麗なんです、はい。
庭の上空に見える澄み渡った空さえ、エアブラシで描いてあるんじゃない?というくらい。
で、美術展示品では、横山大観の絵と北大路魯山人の焼き物以外は、アンあたりの凡人感覚からすると、これは!っていうのは殆どなかったですね。
・・伊東深水とか言われてもねー。
美術の授業で習ったような習っていないような、、。
あっと、でもアン的には、魯山人の展示室に居候してた河井寛次郎さん、この人には何故か凄い親近感を覚えてしまいましたよ。
特に河井寛次郎さんの「此世は自分を探しに来た処 此世は自分を見に来たところ」の言葉にぐっと来ました。
格好良いなぁ、この言葉。
「この世界に自分を探しに来たら、女だった筈の自分が男だったり、その自分の姿を様々な思いで眺めながらも、もう少しあがいて生きてみるよ」みたいな読替えも出来るなぁ、、。
実際の河井寛次郎のこの言葉の思いは、生き甲斐とか仕事とか、そういゆー事に向いていると思うんですが、でもそれは、今風な「自己実現」みたいな言葉よりも、生死観に繋がった、もうちょっと深い所にあるものだとアンは思います。
この話はいずれまた。
その他の感想では、足立美術館の北大路魯山人、横山大観の作品を見ていて、ある種の「稚気」を感じた事を書いておきます。
(とういうか、足立美術館のメインの展示物は130点におよぶ横山大観の作品なんですよね。)
この巨匠たちの作品を見ていて、「稚気」あるいは、技巧を突き抜けてしまった「凄み」みたいなものが、優れた芸術の必須条件じゃないかって気がしたんです。
素人考えなんですけど、こうやって芸術品を目の前にして思うのは、表現っていうのは、ただ絵が旨い、ものつくりが上手だけでは、駄目なんだって事ですね。
大観なんかも、画力だけで言えばそんなに巧いって感じはしないけれど、大観の作品の中には、世界を新鮮な目で見つめる子どもぽっさというのか、あるいは「作る」行為への実験精神というのか、そういうのがあって、それがこっちに伝わってきて、作品の背後に大観がいるのが作品を見ていて判るんです。
身近な例でこの事を考えて見ると、Webページのデザイン(特に服飾関係)なんかでも、小洒落た感じのサイトをズラーって眺めていくと、その完成度が高くなる程、不思議な事に印象が均一化する傾向がある事と、相反した関係ですね。
均一化の理由は、Webページの作り手の美意識を支えている(あるいはサンプルにしている)「洒落たデザイン」が、既にそこら中に出回っていて標準化し、そこから逸脱出来ずに、その感性をコピー・増殖しているのに過ぎないからだと思うんですよね。
要するに創造(クリエイティブ)ぽく見えるけど、その底は「流行」「模倣」だって事かな。
これじゃいくらWebページが綺麗になっても、何かを伝える為の媒体として突き抜けたモノになる可能性はぐんと落ちる。
その代わりブランド力は高まるのかもしれませんが。
もちろん「突き抜け」なくても、雰囲気があればいいという構えも、嫌いじゃないけど、そんな構えのサイトは綺麗な見た目と裏腹に内容は極めて薄くて、まさに「虚飾の神髄」という感じ。
それが商業デザイン表現と個人表現の差なんだよといわれれば、それまでなんですけどね。
あっ、又、話が横道にそれちゃった(笑)。
まあ、そんなこんなで、どんな世界でも抜きんでる存在というものは、やっぱり技術以上の何かを持っているという事なんだろうと思っちゃいました。
そうそう足立美術館では、横山大観以外に語るべき人物がもう一人いました。
北大路魯山人、回転寿司のTVCMに出演してる北大路さんじゃありませんよ(笑)。
魯山人の奔放な生き方は、いかにも「芸術家」って言う感じで判りやすいです。
魯山人って、日本人が芸術家を思い浮かべる時の「典型」みたいですね。
でも今はこういう人は、そう沢山出て来ないだろうなと思います。
足立美術館の入り口近くに、凄く手の込んだ工芸品の細工が置いてあったんですけど、一人の人間に許された時間というか、流れている時間が、今と昔では全然違うんだなって。
今の人でも、当時の時間の流れを与えて貰ったら、これくらいのものを作る能力はあると思うんだけど、実際にはムリでしょ。
だから第二の魯山人は、「美味しんぼ」の海原雄山しか存在しない(笑)。
魯山人が焼いた料理の器も、大観の作品と一緒で、技や綺麗さだけでいうなら、その世界の作品群の中ではトップと言うわけでもないのだろうと思うんですよね。
生意気な口を叩くけれど、少なくともアンは、魯山人の焼いた器に料理が盛られていても、それを「美味しそう」には感じない。
今だって魯山人のそれより、美味しそうに感じる器は山ほどあると思う。
けれど、これぐらい「語りかけて」くる器はない。
逆の言い方をすると、現代に第二の魯山人が出現しない理由は、何かを「語りかける」必要が時代の方に、ないからじゃないかしら(笑)。
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