沖田氏縁者異聞

春羅

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第三章

第四話

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 水の北  山の南や  春の月

 譲り受けたその句集の中で、あのかたの心を最も語る句の一つ。

 誰も知らなくても、わたしと、そして総司さんが、“あなた”をちゃんと、知っていますから……。

 
「おっかえりなさーい! 先生!」

「おう、総司! いい子にしてたか?」

「もっちろんです! 先生、お土産はぁ?」

 土方は、江戸での隊士募集諸々の用事から帰ってきた近藤にすぐ様その結果を聞こうとしていたのを邪魔され、イライラしつつ親子さながらの遣り取りを聞いていた。

「局長」

 一声呼び掛けると、沖田はパッと、掴んでいた近藤の袖を離す。

「もーう! ズルいですよぉっ土方さんはぁっ! いっつも先生を独り占めしてぇ」

「してねぇだろ別にっ」

 科白ではゴネていても、仕事の話をこれからするとわかっている沖田は、すぐに道場の方向へ走っていった。

 こんな風に素直に、月野のこともお互い言い合えたなら、どんなにか楽だろう。

 ここ最近、沖田の病状は落ち着き、治ったのではないかと錯覚させられる程だった。寸暇を惜しむように、隊士達に稽古を付けていた。

 二人で近藤の部屋に入った途端、頬を上気させての言葉を聞かされた。

「伊東殿には全く感服した! 素晴らしい御仁だったぞ!」

 松前藩主との面談に次いで、北辰一刀流伊東道場の道場主・伊東大蔵と元同門の藤堂の仲介により面会をした近藤は、強いらしい尊王攘夷の念と癪な深い学識にそっくり引き込まれ、新撰組入隊希望をこちらこそと引き受けた。

 表から見ると山南に似ているようで全然違う性質を漂わせる男が、土方は気に食わなかったが、会ってみて一層その念が強くなった。

 数日後伊東は、実弟の鈴木三樹三郎、服部武雄、篠原泰之進ら門弟……というより信奉者を引き連れて入隊した。

 これがまた……いや、土方ならちっとも思わねぇ、と否定するだろうが鼻に付く程の美男で、まるで二枚目歌舞伎役者だと評判なものだから、人には言えないものの余計にいけ好かなかった。


 小走りで薄気味悪く現れたのは、噂をすれば影のあの男だ。

「土方君! 土方歳三君!」

 馴れ馴れしいんだよこんにゃろう。土方は舌打ちでもしたくなる。

「初めまして。これから共に上様の御為、延いては今上の御為に働きましょう」

「伊東大蔵殿……」

 近藤に倣って、こちらこそと精一杯の社交辞令を返すのを、微笑の浮かぶ白い顔で
止められた。

「念願の新撰組入隊の叶った今年……甲子きのえねに因み、改名致しました。以後、甲子かし太郎とお呼び下さい」

 うお、ムカつくー!

 と、思いながら……いや、顔にも出ていたか? ……土方も大人だ、

「よろしくお願いします」

だとかこの男に言うと、たったこれだけの台詞でも歯が浮きそうだった。

 大体、俺の方がいい男じゃねぇか、との感想は当然胸の中に仕舞っておくとして、土方はいち早く策略を練る。

 伊東甲子太郎。あいつは狐だ。

 認めたくねぇが、俺と同じ策略家独特の臭いがする。

 癪に障るあのしたり顔と、学識、大流派・北辰一刀流道場主の腕、そして監察方が調べた、熱烈な尊王思想。

 こんな男が……新撰組に入ってきた狙いは一つ。

 奴は、新撰組を乗っ取る気だ。

 幹部として入ってきた伊東の役職は、参謀。俺の手で、“名ばかり”の地位にしてやる。

 あくまで局長の次席は試衛館派だとする為、山南を総長とした。

 副長は、土方一人。一番隊、二番隊ら実働隊、監察方を全て副長直轄に置いた。

 しかしこの新編成は思いも寄らず、山南の方を追い詰める。

 “名ばかり”になるのは総長であることを、土方はまだ、知らない。

「と……副長、伊東さんが隊士達に学問を教えてくださるそうだ」

 学問だァ?

 “トシ”と呼びそうになる近藤の前で内心半ギレになりながらだが、平静を装った。

 泳がせておけばいい。お前の策略を逆に利用して、追い出してやる。


 さて……どの綻びから切り崩しましょう……。

 もう一人の策士は、細面を白く歪ませて薄い笑いを漏らす。

 局長・近藤勇はただの百姓。

 田舎道場の主で一生を終えるのが性分に合っていたでしょうに、すっかり猿山の大将です。身分・地位・学問に強い憧憬を持つ彼を取り込むのは、これ程に、いとも手易い。

 しかし御し難いのはあの“九尾の黒狐”。

 副長・土方……朴訥なる“好漢”を祭り上げた男。

 あの男が最も衝撃を受ける方法で、夢ごとこの隊をひっくり返してあげますよ。

「予想通り……いいえ、それ以上に。壬生狼というのは野卑な輩です。側に寄ると血生臭さが移りそうですよ」

 手扇をすると、蝋燭の火にゆらりと浮かぶ額の傷が、迷いがちに俯いた。

「わかっていますよ……君は違う。……ね? 平助」

 痛々しく刻まれた刀傷に触れると、じんわりと熱を帯びていた。


 廊下を渡り、先行く背中は沖田。

 近藤・土方とは旧知で、鈴木三樹三郎の調べに因れば、ふらふらと楽観的な性格。

 土方を陥れるのに、彼以上の適任者があろうかと、伊東は目を付けた。

「沖田君! 待ってくれたまえ!」

「あっ伊東さぁん! おはようございまぁす!」

 私に“先生”を付けない“部下”は君が初めてです、と神経質にも伊東はむっとした。

 私の偉大さがわからない、まだほんの子どもなのでしょう、などと気にも掛けない風で微笑みかけた。

「これから朝稽古ですか」

「はいっ! 伊東さんもどうですかぁ?」

 屈託の無い笑顔を見上げると、隊内随一の剣の遣い手だとは信じられない。この少年のような男が人を斬る姿など、想像もつかなかった。

「いえ、私は……」

 しかしその眼は、どこか人を見透かすような光を放っている。

「はぁ……残念です」

 眉を下げる表情は、

「あなたと試合がしたかったのに」

と、ありありと語っている。

 そこで伊東は閃いた。

 剣術に傾倒する相手ならば、その剣術で私の技を見せつければ良い。そこから畏敬の念が生まれるものだと。

「そうおっしゃっていただけるのでしたら、参りましょうか」

 口々に名を呼ぶ囁き声が心地良い中、道場に入ると伊東にとっては久々の熱気がたち込めていた。

「どうです? 早速、一本お相手願えますか?」

 眩しいばかりの素直さで、沖田は肯いた。

 
 なんだ……? この殺気は……!

 そう驚愕したのは伊東。試合開始で向き合うと、今まで受けたこともない程の殺気を当てられた。

 互いに手に持つのは、竹刀。互いに防具を纏っているのに関わらず。

 殺される……この私が……脅えている? 馬鹿な……北辰一刀流を修めたこの私が、天然理心流などという田舎者の遊びに。いや……この男が、特別なのか?

「……伊東さん。どうしました」

 普段から、彼はこのように稽古をしているのか? それとも、相手が私だから……?

 冷えきった汗が額から巡り、顎から伝い落ちる。

「沖田隊長! 祇園松木屋に不逞浪士潜伏とのこと。一番隊に出動命令です!」

 ……助かった!

 ありありと、伊東は安堵した。その感情を人生最大の汚点だとしながら、愚直にも胸を撫で下ろした。

「じゃあ、また今度お相手お願いします!」

 試合中とは別の人間を見るかのような笑顔を残して去った。

「遠慮致します」

 誰にも聞こえないよう呟きながら伊東は思う。

 この男は……私の手に負えないかも知れない。

 一番隊が帰ってから、屯所内は通常とはまた違う騒がしさに包まれた。

「成功したってのによ」

「切腹かもなぁ」

 再び策士の血が騒ぐ。

 早速捜していた沖田を見つけ声を掛けようとすると土方が目に入り、あっと息を飲み込んだ。

「土方さん待ってください……っ! 彼を切腹にはしないでください!」

「……しつけぇな……」

 部下の命を懇願する沖田と、あくまで隊規に準じ切腹に処すと曲げない土方。

 ここで私が沖田くんの味方に付き、切腹を止めれば……。彼の敬愛は近藤勇、土方くんをすり抜け……私のものです。

 伊東にとって、復たと無い好機だと。

 一方、土方はある感慨をもって口論に臨む。

 コイツ……総司と本気で喧嘩をするのは久し振りだ。

 一番隊の任務中に負傷者が出て、その原因と言える及び腰だった隊士を切腹させる。

 処分を告げると、沖田は必死になってその平隊士を庇った。

 局中法度で隊内を統制してから切腹など珍しくもなく、日常茶飯事とも言えた。僅かも不平を漏らさず、良いとも悪いとも言わずに黙々と介錯も斬首も行ってきた。いや、どんな残酷な仕事でも熟してきた沖田の、初めての反発だった。

「だいたい何で奴にそんな拘る? 隊規違反は切腹だ。特別扱いを許したら、新撰組は一気に崩れるぞ」

 なるべく煩そうに、声を低く落とす。眉間に皺を刻み腕を組んだまま、沖田とは目を合わせない。

「だって……っ彼は悪くない! 僕のせいなんです!」

「“自分の所為”か……。お前、一番隊の連中を巧く救ってたもんなぁ」

 鼻で嘲笑いさえする。

 背にだけ傷を負った者が居ればそこに敵を誘い込み、前から軽く斬らせてから助太刀し、一人も斬っていない者が居れば必ず斬らせる。一番隊に“士道不覚悟”で切腹した者は居ない。

「お前の行動を、俺が知らねぇと思うか?」

 隠すのを諦めたのか、沖田はふっと溜息を吐いた。

「……だからっ、僕が“労咳だから腕が鈍って充分に働けなかった”せいです! 悪いのは僕です!」

 ……沖田総司が……労咳! 不治の病ではないか、と驚いたのは盗み聞きの伊東だ。

 そんな状態で隊士に稽古を付け自らも鍛錬し、その上隊長として巡察に出ていたというのか? 労咳の人間が……私が気圧す、あんな殺気を放てると……?

 衝撃と、賛美と、畏れと、少しの憧憬、そして同情の念をももって。

 しかし同時に、沖田への執着心は見る見る冷えていった。

 近い将来、彼は伏すでしょう。

 人を斬ることのできない沖田総司に、どんな価値が望めますか?

 すっかり興醒めの伊東は、二人が言い合う場を後にした。

「いい加減にしやがれ!」

 土方はついに怒鳴りつけたが、子どもの時と違ってビクつきもしない。

「おめぇだってわかるだろ! “例外”は新撰組を……っ近藤勇を滅ぼす!」 

 この言葉を出すと、やっとで衝撃を受けたように、元々大きい眼をさらに見開いた。口を噤んだ沖田を背に念を押す。

「……わかったな」

「なら……僕も処断すればいい……。切腹にすればいいんだ」

 今度は、いつかの様に聞こえなかった振りはできなかった。と、言うよりも、カッとなって胸倉を捻じ上げていた。

「……総司……殴られてぇか」

「殴ればいいでしょう?」

 お前を殴れるわけねぇだろう!

 土方は自分で言った癖に、涼しい顔でツラリと突き放す沖田に心の中だけで反論した。

 くそっ……眉も動かさねぇでやがる……。

 その顔は憎たらしい程に澄んでいた。やや乱暴に手を離した。

「お前の責任じゃねぇのに、処分なんかしねぇ」

 これ以上の問答が辛い土方は、その場から“逃げた”。


島原の人気芸妓総出の踊り会に出ることになった月野は、聞き覚えの薄い声に呼ばれ振り向いた。

「……明里さん?」

 そこには、月野を“土方歳三と沖田総司を両天秤に掛けている”と罵った、そして見世がかりで大喧嘩をした他の置屋の天神・明里がいた。

 今では間違いとは言い切れないところが、月野の“自分嫌い”する所以だ。

「この前は堪忍ッ!」

 しばらくはどこで遇っても睨まれていたのに、急に謝られた。

「あないなこと言うてホンマ悪かった思てるんや……」

 申し訳なさそうに眉を八の字にしている。以前の明里とは違う女のようだ。

「どないしましたん? 急に」

 すると頭を上げて、柔らかく微笑みながら言った。

「うちな……最近、他人を妬んだり悪口言うたりすんの、バカらしぃ思えてん。みぃんなに優しぃしたいなぁなんて……それが今の目標!」

 年上の彼女が、月野には少女のように見えた。そのくらい真っ直ぐな瞳をしていた。

 好感を覚えるとともに、その瞳は月野にとって薄汚れた性根を照らすようで眩しく、意地の悪さが首を擡げた。

「えらい正反対やんなぁ」

 どんな顔をしているだろう。きっと醜い。

 誰も……総司さんも土方さまも、二度とわたしなんかに目もくれない。

「山南センセのおかげなん……。あのひとの穏やかさ。誰からも好かれて、誰も憎まないあのひとの隣に添える女になりたいんや。いつか……お嫁はんにしてもらうんや」

 今は亡きかつての局長の名くらいしかわからなかった以前の……芸妓になったばかりの頃、新撰組がまだ壬生浪士組だった頃よりは数段と新撰組に詳しくなったが、この時は山南の役職が、副長から総長に変わっていたことまでは知らなかった。

 明里の夢見るような一途な表情に、感動に近い羨ましさを思った。

 こんな風にひとを好きになれればいい、こんな風に一人の男のひとを。

「明里さん……わたしの方こそ、ごめんなさい。両方の夢、叶うといいですね」

 すっかり地の江戸言葉に戻り、明里も微笑みで応えた。その日の明里の舞は誰よりも華やいで、客の視線がうっとりと注がれていた。

 今夜の月野はよくひとに呼び止められる。

「おっ! 月野天神だ!」

「あ……新撰組の、永倉さま! 見に来てくれはったんですね!」

 永倉は話しかけた割に気恥ずかしげに手の平を上げた。舞台が終わっての帰り際、明里と一緒にいるところに声を掛けたのだ。

「きれいだったぜ! 土方の野郎、観られなくて残念がるだろうなぁ……」

 後で自慢してやろ! と、悪戯っぽく笑った後、明里に目を遣(や)った。

「あれ? こっちの妓は?」

 明里は誇らしげに、やや胸を張った。

「輪違屋の明里どす。山南センセにご贔屓いただいとります」

 永倉は目を見開いて声を上げる。

「はっ? マジ? へぇ~え! “あの”サンナンさんがねぇ……」

 明里さんすごい……わたしなんてそんな自信たっぷりに、愛されてるなんて言えない。だって土方さまは、きっと他にも通うところがあるはずだから。

 月野がぼんやりしていると、永倉は人懐こく笑った。髭を生やしているのは、幼い顔を隠す為だ、と土方が言っていたのを思い出す。

「あの人は……気配りばっかして、自分の悩みは溜め込んじまうから……あんたがよく聞いてやってくれよ?」

 明里がやはり元気よく返事すると、永倉は月野にも笑顔を向けた。

「月野ちゃんもだぜ? 土方とサンナンさん、どっか似てっからな。気を付けてやってくれよな!」


 土方はこれ以上無いという程苦い顔で、監察の山崎に本気の愚痴を溢した。

「伊東の野郎……陰で“信者”を増やしてやがるな……」


 さも仕事にしか興味の無い風情のこの寡黙な男に、試衛館以来の旧知の者と同然に信頼を置いていた。

「はい……。私の力不足で、中々尻尾は掴めませんが」

 山崎は言葉の割に表情を変えず瞑目し、頭を下げた。

「監察だけで動くと、やはり怪しまれるか……」

 普段から無表情の山崎は、急にピクンと眉を上げた。

 いや、嫌味じゃ無ぇんだが……と口に出さずに否定し、続ける。

「我々では、役に立たないと」

 んな不貞腐れなくてもいいだろうが、と苦笑いしながらも、土方は脳裏に浮かぶ狐を睨み付けた。

「“餌”と“罠”。両方に使える奴がいんだよ」


 伊東の開いた塾に、なんと斎藤一が現れた。

「斎藤君! 嬉しいなぁ、君が来てくれるなんて!」

「当然です。私とて、学問の大切さは存じているつもりです」

 無愛想だと誤解していたけれど、はにかんだりして可愛いじゃないですか! と、いう風に伊東には見えたらしい。

 伊東は、武力一辺倒の荒くれ達を学問に目覚めさせるのは勿論、何とか早く古参の中にも伊東派を築こうと、自ら講師を務める塾を開いたのだ。

 道場主だった時代に目を掛けていた藤堂は年若いながら八番隊隊長まで任され、それでこそ可愛がった甲斐もあるものというところだろうが、彼だけでは到底、役目に足りぬようだ。

 隊内での派閥をより決定的にする、惚れ込む味方が必須だ。

 その大役に第一と踏んでいた沖田総司が使えない病人と判った今、斎藤一は逃せられない駒なのです、と伊東は心から大歓迎である。

 斎藤は、無口、無表情で、試衛館以来の同士とも無駄な付き合いはしていない。

 しかし、仕事の腕は極上。

 浮ついたところが皆無の男が寝返ったとなれば、伊東と近藤……いや、土方のどちらにも従いていなかった平隊士達の、信頼と敬愛を一気にものにできる。

 その上あの仏頂面斎藤があんなに柔和なんて……余程心を開いてくれているのでしょう。冷たく精悍な面が微笑むのは……しかもはにかみがちなのは、男でも大変嬉しいことです、と浮き浮き喜びながら。


 月野の素朴な疑問

「明里さん、どうして山南さまを“先生”て呼ばはるんです?」

により、明里は山南と初めて出逢った夜を、昨日のことかのように思い出した。

 ――……

 月野のことは大嫌いだった。

 役者のような立ち姿と会津藩お預かりという地位を持つ、誰もが羨む相手・新撰組副長土方歳三に惚れ込まれ、独占し、されている。

 というのも、相手が相手だけに他の客が争いを怖れて寄り付かず、全然客を取らない。

 芸妓でありながら、好きな男にだけ抱かれていればいい、他の妓から見れば大層なご身分、というところだ。

 自分とは反対に、躰を汚さないまま、舞や唄(うたい)の技量だけで天神に成り上がったのも、明里としては気に入らない。

 喧嘩を吹っ掛けたりして大人げなかったとは反省していたが、あれだけ悪態ついたのに涙の一つも流さないどころか全く動じない、小生意気な気性も鼻につく。

 なんとか、月野に勝つ方法は無いものかと考えた。

 そこへ、無表情の禿が部屋に入ってきた。

 この禿は頑なに京言葉を覚えようともしないし、愛想も無くて、必要以外口もきかない。出来が悪ければ芸妓にならなくて済むと思っての行動だと、昔の自分を見るようで、よくわかる。けれど日本人形のような整った容姿の為、引っ込み禿になってしまった。

 普段なら、

「あんたその言葉遣いええ加減なんとかしい!」

とか叱りつけるところだ。

「明里天神、今夜は新撰組の副長さまがお越しです。お支度を」

「土方歳三?」

 ハッと立ち上がった。

「いえ。山南さま、という方です」

 島原では聞いたことのない名前だった。

 しかし明里は、月野と同じ相手、“新撰組副長”を誑し込んでやろうと、自然、化粧にも熱が入った。

「おおきにぃ。明里と申しますぅ」

 顔を上げ、穏やかな笑顔に出会った。

「初めまして。山南敬介です」

 山南はまるで対等の男同士のようにしっかりと一礼したので、ここが遊廓だと忘れてしまいそうだった。

「……待った」

「え?」

 他愛の無い話をしながらお酌をして、もうそろそろいいだろうと、山南の白い肌に手を掛けた……のを止められた。

「あてが……お気に召しまへんか?」

 早くこの新撰組副長をモノにしようと、自慢の色香を惜しみなく、ありったけ使って言った。

「こんな風に自分を売っては、君が勿体無い」

 バカにされたと、たかが遊女に絆(ほだ)されるものかと見下されたと思い、途端に離れて姿勢を正した。

「何やのそれ! 買いに来はったくせに!」

 すると山南は、なぜ怒ったかわからないといった様子だ。

「いや、今夜は君と話をしていたいんだ」

「あっそ。ほんならどうぞ? お話しください?」

 飛び上がるくらいの殺し文句をさらりと受け流すと、山南は苦笑いした。

「おいおい、休みに来た客に話をさせるのかい? 困った天神だ」

 一夜で、といってもただ話をしただけで夢中になった。

「山南先生! やっぱりまた来てくれはった!」

 一晩中話していても飽きることはなく、朝が恨めしいくらいだった。芸妓になって、客と一緒にいて、初めて思ったことだ。

「なんだい? その“先生”って」

「なんでも知ってはるから! うちの先生やもん。おイヤ?」

 すると山南は、気恥ずかしそうに笑った。

「いいや、学者になるのが夢だったんだ」

 ――……

 山南はいつも、程良い加減の洒落た着物で来る。

「山南センセ! お待ちしとりました!」

「明里……君は天神だというのに、いつ来ても澄ましたりしないんだね」

 明里は、洛中を見廻りしている時と少し違う格好の山南に会えるのが楽しみで、他の女に対する優越も感じていた。

「そんなん! 相手が山南センセやからに決まっとるでしょ?」

 こうして本音を言っても、冗談を聞いたみたいに笑うだけだった。

「そういえば、うちの永倉くんに何か言ったらしいね?」

 冗談ぽく言われ、自分でもわかるくらいに見る見る赤くなった。

「あ……っあたしったら勝手に……」

「いやいや、いいんだよ」

 勝手に“恋仲”と言ったことを謝ろうとした明里を、山南は笑顔で遮った。

「彼は楽しいだろう? ……君には、ああいう男が合ってるのではないかな、と思うよ」

 “もう来ない”と言われた気がした。

「山南センセ……怒ってはります……?」

「私が、君を怒る筈が無いよ」

 黙り込んだ。その言葉が嬉しいからではない。

 ただ情けを掛けて通っているに過ぎない、上辺だけの“芸妓”と見られていることを感じたから。

 そんなつもりで言ったのではないと、わかっている。

 でも確実に、本気で惚れ込んでいるのは一方的な想いだと。

 だから沈黙の後の不意の言葉を聞いた途端には、涙が溢れた。

 必死で、応えた。

「私が、京を離れると言ったら……君も、一緒に来るかい?」

「はいっ! ……ついていきます! ……身請けしてなんて……言いまへん! 見世は抜けます!」

 山南はまた、少し笑った。

「……その、言葉だけで十分だ……」

 ……え、冗談だったのかな……?

 この時の明里はそう、思った。

 そして記憶さえ、初めて抱かれた夜の幸福に上塗りされ、忘れていった。

 ここは遊郭なのに、明里はこんなにも想っているのに、山南は律儀に言った。

「君を、抱きた……」

 唇を、指先で止めた。

「その為に、今夜まで生きてきたの」


 私と彼が正反対だというのなら、生涯このまま、彼の鏡を全うしよう。

 決して重なることはないけれど、私の姿を見て、彼が今の自分の姿を確認できるように。

 透き通るような綺麗さも、割れてしまうような繊細さも、本当は持ち合わせてはいないのだけれど。

 裏と表のように言われる二人は、知っているのかな? 実は一番近くにいるのだ。

「山南さぁん、ちょっとコレ見てくださぁい」

 この暗闇……空間のことではなく山南の心中なのだが、それに飲み込まれそうな時、決まって仲間の誰かが察知したように部屋を訪ねてくる。

 幸せだ、良い仲間に恵まれて。

 捨てようと決心した時こそ、身に沁みる。

 山南から見た沖田は、素直で一途で、いつまでも少年のようでそれなのに、誰も敵わないくらい剣術が強い。何かにつけて褒めてもらいたい子どもの如く、丁寧に両手で帳面を開くこの青年が、弟のようにかわいかった。

 それも、きっと彼と同じ気持ちだろう、と思いつつ。

「……俳諧、だね」

 指差す先の句に目を通した。

 水の北 山の南や 春の月

「沖田くんが? 俳諧を詠むとは知らなかったな」

 感心すると、幼げな顔を一層あどけなく綻ばせた。

「僕じゃないですよう! ……どう思います? この句」

 批評をしてくれ、という意味なのかな?

 声に出さずに窺うと、敏感に

「遠慮なくどうぞ」

と返された。

「……そうだねぇ……うぅーん……なかなか難しい句だね」

 そう言った瞬間、沖田は堪らず吹き出した。いいや、涙目になってまで大笑いを始めている。

「……春の月……という言葉がいいね。清らかで」

 なおも笑いが止まらない沖田は、ついに腹を抱えてしまった。

「きっ清らか! あははは! ご、ごめんなさ……あまりに、詠んだ人の雰囲気と違うので」

「そうなのかい? 随分と純粋で素朴な印象だけれど……」

 もう沖田は苦しげに、呼吸すら危うくなっている。

 そんなに笑わなくても……。

 女性のように細く流れるような字で、けれど余計な虚飾がなくていい句だと、山南は評する。

「“春の月”はこの人のお得意なんです。大好きなんですよ!」

 ではこの水の北と、山の南とは、なんだろう?

 しげしげと見詰めていると漸く息を整えながら、以前からの癖で小首を傾げた。

「これは、そんな難しく解釈していただく句じゃないですよ」

 確かに、そうだね。

 もっと単純に、正面から向き合うべきかもしれないね。

「ただ言いたかったのは、こうして並べたくなるくらい、両方とも大好きだってことなんです」

 この句の意味がわかる頃では、遅過ぎた。

 嫌ってくれている方が、気が楽だったよ。

 どうして信じていられなかったのだ。

 どうしてこの時の沖田くんの気持ちに応えてあげられなかったのだ。

 自分勝手なのは私の方だ。

 私達は、互いに鏡だったのに。

 片方が割れてしまっては、姿かたちがわからなくなってしまうじゃないか。

 それでも、独り善がりでも、祈ることをやめられない。

 願わくば、鏡の割れたその表面でも、永遠に歪まないでほしい。


 土方は不機嫌そうに、横顔で口を尖らせるだけに留めた。

「土方くん、私は反対だ!」

 かつて、君は子どもか、と笑われた仕草だ。反対されるのは予測していたが、敢えて訊く。

「何故だ」

「当然だろう? 西本願寺に屯所を移転だなどと……そんなこと、許される訳が無い!」

 少しもおかしくない。けれど鼻で笑った。

「誰が許す許さねぇじゃ無ぇ。決めたんだ」

「どうかしている! 寺社を、私達武装集団の屯所にするなど……京の民がなんと思うか……」

 そして土方は思い切り顔を顰める。

「あの寺はなぁ、前の長州との戦の時、奴らの味方をしたんだ。倒幕派だ、あそこの連中は」

 黙った山南の隙をつくように、まるで悪役の鋭い眼光を走らせる。

「第一、厭がられるのが目的だ。追い出されるのがな」

「どういう意味だ……?」

 漸く逆撫でされた山南は語気を荒げる。

「新屯所移転の金を、奴らに出させる」

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