沖田氏縁者異聞

春羅

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第三章

第三話

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 大成功に終わった池田屋での騒動の翌日、土方は早速町医者を呼び、昏倒したという建前の沖田を診せた。その診察を、鍼師の倅で多少医術の心得のある山崎烝が手伝う。

 様々な検査を行い医者を別の部屋に通すと、見計らったように土方がやって来た。

「どうですか? 先生、沖田は……」

「あんたがここの副長はんか?」

 見た事の無い程の低姿勢で問い掛ける土方に、医者はかなり横柄な態度で応じた。

 京に住む者では珍しく新撰組の鬼副長に対して畏れもせず、なおかつ感情露わに睨み付ける医者に山崎は内心ギョッとした。

「あないな病人に人を斬らせるなんてどうかしとるわ! 肺がやられとる……しばらく休ませなあかん!」

 呆れ気に叱りつけられるのを、土方は怖いくらい素直に頷きながら聞き、栄養のある食事や薬の服用について、詳しく説明を仰いだ。

「わかりました。ありがとうございます」

 かつ帰り際には門まで見送っている。

「まさか……血ぃは吐いとらんやろな?」

 しかし最後の問いかけについに仮面は剥がれ、表情は凍った。

「やっぱりなぁ……あのくそ坊主、頑として認めへんのや。見た目に因らず気ぃ強いなぁ」

 土方も山崎も黙り込んだ。

「まぁ、血ぃ吐いた後は一時的に症状が治まる場合がある。その間に専門家に診てもらうことや」

と、近所の医者の名前を教えた。

 その医者の専門は労咳。

 山崎は、喀血したなど初耳だ。だが土方を問い質すことも、他の隊士に言うこともしない。だからこそ、医者の案内係に選んだ。

 医者を呼んだ事さえ、他の隊士……近藤にも知らせていない。


 蒲団の中で俯せに寝転がる沖田は頬杖を付いている。

「あー……ヒーマでーすねぇー」

「ったく、忙しけりゃ文句垂れる癖に……黙って寝とけ」

 これでも大人しくなったのだ。

 土方が医者を見送っている隙に道場で稽古していたのを、とっ捕まえて寝床に引っ張り込んだところだった。

 油断も隙もありゃしねぇ。自分の躰をなんだと思ってやがんだ。

「お前が最後に斬った奴なぁ、松下村塾四天王の一人、吉田稔麿だったぜ」

 ……ああ、やっぱり人間だったんだ。

 魔性を……斬ったような気がしていた。

「へえぇ。お手柄ですねぇ」

 冗談混じりに笑うのを土方はじっと凝視して、ふと視線を逸らした。

「総司……お前なぁ。昔から思っていたが」

 なんだか眉間に皺が寄っているからお説教かと構えて、笑いながら茶々を入れた。

「なんですかぁ? 改まって」

「俺の前でまで……無理して笑うんじゃねぇ」

 気付いているのだろうか。

 僕が血を喀いたのを。

 僕の、みんなに……先生に置いて行かれるかもしれない、という恐怖を。

「それ……同情のおつもりですか」

 つい、誰にも見せたことがない程の本性が口をついた。

 ハッとして取り繕おうと……いや、機嫌を取ろうとして笑顔を上げると、土方は今までのどんな時よりも怖い……そして苦し気な表情を浮かべていた。

「“俺が”見てて辛ぇだけだ」

 そして、もう沖田を見ようとしなかった。

「お前本当は、人なんて斬りたくねぇだろう」

 そして話を逸らす。

 とうに沖田の思いとして感じ取っていただろうことを、今更ながらに打ち明けた。

「人斬りが好きな“人間”なんていませんよ。……でも、僕から剣を取ったら、なんにも残りませんから」

 ここからは、あなたにだけしか言いませんから。

 あなたも、知らなかったでしょう?

「無理をして笑ったことなんか、一度もありませんよ。……僕は、先生と、土方さんと一緒に同じモノを見ていたくて、剣を取ったんです」

「お前っ病が……」

 初めにバカと言い掛けながら、今度は土方がハッとする番だった。

「ヤだなぁ! 僕を病人にしないでくださいよ! 僕の咳は癖みたいなものだし……心配しないでくださいね!」

 本当に、心配されるなんてゴメンです。

 だからお願いです。

 気付いたのなら、誰にも言わないでください。


 池田屋騒動の後、初めて見世に来た土方に、初めて心待ちにしていた月野は傍に行って躰を見渡した。

「土方さまっ! おケガは?」

 その直後、目の前には土方の胸があって、その腕にすっぽり覆われていた。

「……ひっ土方さま……」

 時間が止まったみたいだった。

 暖かな鼓動。

 髪の毛から、微かに感じる息使い。

「……っ」

 その息使いが僅かに詰まる。

 何も言えず、広い背中に手を伸す。

 土方が、泣いていた。

 手の平で確かめる。背中の震えを。

 確かめる。

 熱い涙の感触を。

「……悪ぃ……今日は帰る……」

「ッ待ってください!」

 言うより早く、背を向けた袖を掴んだ。

 涙の理由を聞きたくて聞けない月野を、土方はわかっている。

 振り返らないまま、苦しそうに掠れた声が宙から沈んだ。

「……総司が……倒れた」


 こんなつもりでは無かった。

 今夜月野の所に来たのは、ただ会いたかったからだ。

 少しは心配してくれていたであろう少女の、その顔が見たかった……と知られたらまた怒るだろうが。

 安心させてやりたかった。それなのに顔を見た途端、緊張の糸が切れた。

 不安が、止まらない。

 あの池田屋の夜から、失うかもしれない大事なものへの不安が心の底に常に溜まっていた。

 怖くて……たまらない。

 誰にも打ち明けられなかった。沖田本人にでさえ、気付かぬ振りをしていた。

 初めてだ。女の前で泣いたのは。

 初めてだった。女に弱みを見せたのは。


 袖を掴んだ指が、落ちた。力が入らない。

 ……どう、して……?

 声にならない。

 土方は、また来ると帰ってしまった。

 どうやって見送ったのか。

 どうやって、息をしていたのか、思い出せない。


 池田屋では多くの長州藩士……それも中心的人物が俺達新撰組によって斬り殺され、討幕の気配高まりつつあった長州勢の決意は固まり、久坂玄瑞らが率いる武装した大隊が上京を始めた。

「イヤです……! 絶対行きます!」

「駄目だって言ってんだろ! 足手纏いだ!」

 新撰組も幕府の軍としての出陣が決まったのだが、案の定、沖田は自分も戦うと聞かない。

 土方もつい、思ってもないことを口にする。

 傷つくのは十分わかっている。それでも、今の沖田に剣を握らせるわけにはいかないのだ。

「総司、今回は休んでいなさい。まだ熱があるのだろう?」

「……先生……」

 近藤さんが来た途端しおらしくなりやがって……などと、土方は思ったが、助かった。

 沖田は近藤の言いつけなら何でも聞く。

 それだけ慕っているのだ……という浅い解釈しか、当時の土方はしていなかった。

「くれぐれも……お気を付けて……」

 胴まで着け始めていたのを素直に外した。

「おう! 任せろ!」

 二人が部屋を出る時、沖田は掌に眼を落としながら呟いた。

「僕が……なら……」

「……あ? 何だ?」

「いいえ。いってらっしゃい」

 近藤がいる。だから土方は、何と返事したらいいか見当も付かない。

 見つめていたその手を振る沖田に、どんな慰めも通用しない。

 聞こえなかった振りをした。しかし確かにこう言ったのだ。

「僕がいらないなら捨てればいいのに」


 “こんな時”というのは、今まさに幕府と長州藩の戦が始まろうとしているから。当たり前に、先輩芸妓達に止められた。

「大丈夫! 壬生に行くんやから……あそこなら戦場いくさばにはならへんでしょ?」

「壬生て……あんた、新撰組はんの屯所に行くん? 土方はんやて、戦に出とるんやない?」

 だから……行くの。

 わたしは、本当はひどく狡くて汚い。

 誰も知らないわたしが、本当のわたし。

 土方さまはもしかしたら、わたしを良く思ってくれているのかもしれない。

 わたしも、土方さまへの想いを感じていた。

 でも総司さんは……。総司さんはやっぱり特別。

 それなのに……土方さまに“嫌われてもいい”と決心できない。

 それなのに……総司さんに会いに行きたい自分を止められない。

 だから、誰も居ない時に会いに行く。

 総司さんと……土方さまに、恋する度に、自分のことが嫌いになっていった。


 “新撰組の沖田先生”

 ここではその呼び名が合っているのかなと思い、口にした。

「こんにちは……あの……新撰組の沖田先生……いてるかなぁ?」

 新撰組壬生屯所。という名の、八木源之丞邸。

 庭先に居た子ども達に声を掛けると、みんな目を丸くした。

「わぁあ! ねぇちゃん、お人形さまみたいやなぁ!」

「沖田センセて、総司のことやろぉ?」

「最近よう寝とるよなぁ?」

 顔を見合わせる子ども達の中から、一番小さいのに一際身なりのきちんとした子が、頬を赤くしてお屋敷の方を指さした。

「僕、ここん家の為三郎! 案内したるわ!」

 思わずキョロキョロしてしまうくらい広々としたお屋敷の中、キシキシと渡り廊下を鳴らしていると、為三郎は恥ずかし気に上目した。

「……ねぇちゃん、総司の妹なんかぁ?」

「ううん、妹やないよ」

と答えると、

「なーんだぁ」

とがっかりする。

 為三郎は寺子屋に通い始めたばかり。やっと漢字を学んだくらいで、万葉集を読み始めた。

 古典での“いも”は、恋仲の女という意味。

 恋仲か? と訊きたいつもりが、“いもうと”か? と訊いたのだ。

 月野がそれに気付いたとしても、きっと同じ答えをするだろうが。

 隊士の方の誰にも遭わないから、やっぱり戦に出ているんだ。土方さまも……。

 今の自分では、心配するのも申し訳ない気になった。

「ここだよっ! ここ、総司の部屋!」

 元気に指差すと、為三郎はまた遊びに行ってしまった。戸惑う月野の眼の前には、その部屋の障子があった。白さが少しだけ煤けるくらいの新しそうな障子の、その奥は静まり返っている。

 おやすみ中だろうか?

 南側にあるこの部屋の入り口は、この時刻、暑い陽当たりが項をチリチリ照らし、障子には月野の影が揺らめく。

 心臓が喉から出てきそうに、早鐘を鳴らしている。

「……そっ総司さん……」

 返事が無い。

 どうしよう……寝ているところに入っていけない……。

 起こすのは心が痛むけれど、それでも無事を確かめたい……というより、一目でも会いたくて、もう少し大きな声を出した。そのつもりが、緊張のし過ぎで喉の奥があまり開かず、大した声は出なかった。

「総司さん……あの、月野です」

「……はい。少し、待っていてください」

 起きて、いたんだ。

 きっと、居留守を使おうとした。

 きっと、迷惑がっている。

 会うのは……あの土砂降りの夜の、雷の夜の、沖田が芹沢を斬った……そして見てしまった月野を、月野と気付かず斬ろうとした夜以来だ。

 そしてその前に、芸妓だと知られたくなくて医者の娘だなどと嘘を吐いていた月野と沖田は、新撰組隊士総揚げの宴会で遭っていた。

 嘘を、謝ってもいない。嫌われるのは、当然の報いだ。

 覚悟を決めたはずが、泣き出したくて、逃げ出したい。

 サッと、眼の前の障子が開かれた。

「お待たせしました! どうぞっ」


 どうして……天井の木目は、人の顔に見えるように出来ているのだろう。

 まるで、見下ろされているみたいだ。

 総司、お前は役立たずだ。

 剣を握れないお前は要らない。

 人を斬れないお前は、生きている意味が無い。

「そんなこと……わかっています」

 どうして……僕の躰は動かないのだろう。

 “風邪”くらいで……情けない。

 池田屋に斬り込んだ夜、止まらない咳の末、血を喀いた。

 こんな憎らしい赤は見たことがないと、虚ろに現実から離されようとする意識の中で、視界に痛い程の鮮血が、ゆっくりと、勝手に閉じる眼に焼き付いた。

 長州藩が、池田屋で大勢の仲間を斬られたことに憤慨し、攻めてきたのを迎え撃つ戦場へと赴く新撰組を、寝床で見送らなければならないなんて。

 烏滸がましいかもしれないけれど、先生の背中をお守りできないことに苛立ち、歯痒く苦しい。

 ――……

「足手纏いだ」

 ――……

 そう言われて引き下がったけれど、置いて行かれる哀しみを二度も味わうくらいなら、誰にも見せないと誓った涙を流してでも、地を這ってでもついて行けばよかったんだ。

 キシキシと廊下の鳴る音で為三郎の高い声で、ギクリと、冷や汗に背がスッとした。

 心が他人に聞こえるなんてありえないけれど、“本当の沖田総司”は、誰にも知られてはならない。

「ここだよっ! ここ、総司の部屋!」

 ……誰……?

 “見下ろされる”のは、もうゴメンだ。天井にも、他の誰にも。

 人の訪れを無視したくて、沖田はまた、瞼を閉じた。

「……そ……っ総司さん……」

 でもそれは、瞬きのように刹那のことだった。見開くだけに終わらず、反射的に飛び起きた。

 障子一枚隔てた向こうに、立っているひと。その細い影と、透き通る、風鈴みたいな声。

 僕はもう、きっとずっと、あなたを感じ間違えたりはしない。

 ……月野さんが、僕の返事を待っている。

 どんなに怖い思いをして、来てくれたのだろう。荒くれ武士の男所帯に、たった一人で。

 それも、唯一残っているのは、芹沢さんを眼の前で斬り殺し、あなたにさえ刀を振り上げた僕……沖田総司ですよ?

 あなたの土方さんは……今日は居ないのですよ?

「総司さん……あの、月野です」

「……はい。少し……待っていてください。」

 声に応えてから、後悔した。

 月野さんの前では、明るくて元気な僕で居たかったのに、なんて暗い声を出してしまったのだろう。

 絶対に知られたくない。

 この胸に蔓延る、嫉妬と焦燥と、独占を夢見る欲望。

 先生へと同じ程の強さで、僕の気持ちと、病を隠しておきたかったのに。

 いつもの……“月野さんといる総司”にならなければ。

 下ろしていた髪を結い上げる。元結は、紫苑に匂う、僕の宝物。

 必死に装っている。僕には何の異変も無いと。

 恥ずかしいくらい、ひどく滑稽だ。

 ひとつ、意識的に呼吸をしてから障子を開けた。


 刀台の上に、赤茶色の漆に塗られた鞘の大刀が収まっている。端には黒い文机。その上には、使った跡がほとんど無い硯。

 物といったらそれくらいの、さっぱりとした部屋だ。

「あ、暑いから開けておいてくださぁい」

 言われた通り、障子を開けておく。月野は言葉のまま、ほんとに暑いなぁ……なんて思っていた。気遣いだと知るのには、あと一年かかった。

 怖がっていたことを知っていたのだ。

 でも、恐怖心はその笑顔で全て忘れていた。というより、慕う気持ちの方が遙かに勝っていた。

「……どうしたんですか?」

 ああ……総司さんだ。

 あんなにも怖がっていたのに。

 こんなにも、わたしはこのひとに会いたかった。

「あの……わたし、嘘をついていて……ごめんなさい」

 会えたなら、ずっと言いたいと思っていた言葉。

 総司は、月野より一層申し訳なさそうな声になった。

「それは、僕の方です。ごめんなさい……あなたには……知られたく、なかった」

 下げていた頭を上げた。

 ぼぅっと熱を感じるくらい頬が赤いのは、急に頭を下げたから。赤くなった理由を、総司がそう思うよう、願った。

「その為に、来てくれたんですか? ……危ないですよ?」

 遠くでは大砲の音が響く。その音に構っていられない程に、静まらない、言うことを聞かない胸の鼓動が気にかかる。

 そして、先を促しながら傍に正座する、衣擦れの音も。

 どうしようもない。

「倒れたと聞きました……あの、お加減はいかがですか?」

「……ああ。心配して、来てくれたんですか? 情けないですけど、ただの、暑気あたりなんです」

 暑気あたりだという言い訳をどれ程練習したのだろう。

 僅かにも瞳を泳がせずに。顔色一つ歪ませず、むしろ微笑んで。

 おかげで、まるっきりその演技に呑まれた月野は、すっかり安心した。

 再会に、舞い上がった浅はかさは、怖ろしい。それだけで、あの土方が涙を流す筈など無いのに。

 総司はいつも通り髪を結い上げていて、その元結の紫が月野の心を揺らす。

 寝込んでいた、まだ暖かい蒲団はその部屋には無い。しっかりと袴を穿いている。

 なぜ、そこまでして病を隠すのか……それは振り返る今になってもわからないまま。

 そして話を逸らすように、総司は障子に挟まれた景色の庭を眺めながら口を開いた。

「あの……池田屋の夜、一瞬だけ……先生が危ない時があったんです。辛うじて僕が助けることができた。……思うんです……僕は、あの時……先生を助ける為に生まれたんだって」

 その表情は誇らしげに見えた。横顔だったけれど……。

「だから倒れたとき、このまま死んでもいいと思った。……でも月野さん、あなたにこうして会えるなら……生きていて本当によかったです」

 このかたと一緒に居ると、泣きたくなる。

 ひとがこんなに愛おしいということも、ひとが涙するのは悲しい時ではないことも、みんなこのかたに教えてもらった。

 漏らす吐息の欠片さえ、愛おしい。

 ひとは胸がいっぱいになった時、それが溢れた分だけ涙がこぼれるんだ。

「……っ変なこと言ってごめんなさい……!」

 総司は、涙に慌てた。優しさに、余計に涙が次々止まらない。

「……泣かないで?」

 なんだか夢みたいだ。

 総司さんに髪を撫でられている。

 それなのに同時に、土方さまを想った。

 あのかたも、十綾姉さんの死に泣くわたしをこうして慰めてくれた。

 わたしはとても薄情で、土方さまと居るときに総司さんを想い、総司さんと居るときは土方さまに会いたくなる。

 この優しい手に触れる今でさえ、潤む瞳の奥では土方さまを描く。

「あなたが生まれたのは……“あなたが”幸せになるためです」

 そうして自分も優しい人間であるかのように振る舞って、このかたに好かれようとするんだ。

 この“あなたの隣”という名の地獄で、わたしはまるで鬼みたいだ。
 

 もう蜩の声がする頃、沖田は一人、自らの意志で町医者に来た。誰に言われたわけでもなく、ただ確かめようとした。きっと土方は病を知っているのだと、予想していた。

 それどころか数日前に、この診療所の門を叩いていたのだ。

 情け容赦無い人斬りだいう噂からの想像と違って優し気な、女顔の男だと、医者の記憶に残っている。その男は、泣き出すのではないかというくらいの必死さで頭を下げたとも。

「うちの沖田を……どうかよろしくお願いします! 治してやってください!」

 ただの部下だとは思っていないことは、一目瞭だった。

「あんた、新撰組の沖田はんやろ? やぁっと来よったか」

 ここの医者は、もう一度診察してもらいたいと土方に相談したら教えてくれた“専門家”だ。

「なぜ……、ああ、ひじ……副長から言われてましたか?」

 土方は、

「ついていってやろうか?」

などと、笑ってしまいそうなくらいに優しかった。

「えぇえ? いいですよぉ! コドモじゃないんだから!」

と、笑って返した。

 あの時、確かに血を吐いた。

 池田屋の中は人間の耳やら指やらまでが散らばって、血だらけだった。

 それなのに、ポタリと床に落ちた滴だけがまるで現実を伝えるように、煌めく様に妖しく光を湛える様に、紅に染みを広げていた。

 今日の医者はこの前使っていなかった器具を使いながら次々と検査をしていたが、次々と顔色が苦くなっていった。

「……あかんわ。これ以上新撰組の仕事なんかしてはったら、確実に命縮めてまう。滋養つけて、大人しく寝とくことや」

 労咳だ。しかもこの様子だと、喀血発作も起こしている。医者はそこまで見抜いた。

 新撰組の一番隊隊長だというからどんな猛者だと思っていたら、まるで少年の風貌の若者ではないかと、哀れみも一層に増す。

 自分の肺から逆流ってきた鮮血を見た時の衝撃は、計り知れない程だろう。

 医者は常に願っている。この患者に、生きてほしい。少しでも長く。

 心を鬼に変えてはっきり言うのが患者の為であり、当たり前な医者の務めだ。

「いつまで……ですか……?」

「っそりゃあ、治るまでや! 当然やろ?」

「……いいえ。……いつまで剣を振るえるか……と訊いています」

 束の間の哀れみは消え、重病患者を目の前にして、背筋の凍る寒気に見舞われた。

 病に冒されたこの躰で……素直そうな瞳をここまで“人斬り”の眼光にする。

 沖田が人を斬る時の手筋が泡立つ感触と戦う一方、医者は否応なしに迫る恐怖を振り払うように、がなり声を上げた。

「……阿呆ッ! 休め言うとるやないか! 上の人に言いにくいんやったらわしが……」

「そんなことをしたら……僕はあなたを許さない。どこまでも追いかけて斬りますよ?」

 どこまでも追いかけて斬る。

 単なる脅しでその言葉を遣う程、残忍な武芸者ではない。

 痛々しいくらい……本気だ。

「待ちや! 必ず薬は服むんやで! 薬が切れたり、どうにもあかん時は我慢せえへんでわしを呼ぶんや! ええな!」

 かなりのお座成りさで立ち上がり足早に歩を進めた癖に、苦し紛れの台詞に振り返って、ペコンと頭を下げて行った。

 なぜそこまで剣に……療養すれば生きられる命を捨ててまで、執着するのか……医者には不可解としか言い様が無かった。

 それは、幼少期にまで遡る。

 ――……

「それではね……宗次郎、いい子でね……」

「……ッイ……っ」

 イヤだ……! 行かないで!

 捨てないで!

 ――……

 泣き声さえ、出てこなかった。

 心の奥には、あの日、試衛館に置いて行かれた日の、“幼い宗次郎”がいつまでも住んでいた。

 試衛館道場主の養子だった後の近藤勇……先生に思い切り縋った。精神の根底から。

 甘えたりは、誰にもできなかった。

 役に立てるなら……誰よりも、何倍も稽古をしたし、何でも言うことを聞いた。

 人に……先生に、必要とされなくなるのが怖かった。

 今でも。

 いらなくなって、足手纏いになって……捨てられるのが、何より怖い。

 独り……置いていかれるのが、何より怖いのだ。

 使いモノにならないこの躰に……ひどく腹が立つ。

 自分でさえいらないと思うのに、先生に必要とされるわけがない。

 本当にあの少年に、奪われてしまう。

 あの子に微笑いかける先生。剣術を教える先生。

 僕じゃない人間に“周平”という名前と、“近藤”という姓をあげた……“大好き”“尊敬”の言葉では表しきれない、僕の生涯最初で最後の、“先生”。

「宗次郎! 俺の息子になるか?」

 小さい沖田に冗談混じりに言っていた近藤とは、土方と三人で義兄弟の杯を交わした。

 充分過ぎる。満足しなければならないのに、“宗次郎”がまた、行かないでと叫ぶ。

 奪われてしまうんだ……僕の唯一つの居場所が。

 父が亡くなった時に幼過ぎて家督を継げなかった、姉と婿養子の家庭でどうしようも無く厄介者のお荷物だった沖田が、やっと手に入れた居場所が。

 第一次隊士募集で、三兄弟揃って入隊してきた谷昌武。

 備中松山藩藩主・板倉勝静の家臣の家系との、長兄の七番隊隊長・谷三十郎が言うところの“由緒正しい生まれ”が、近藤を引き付けた。

 先生は、試衛館道場を継がせるおつもりなのだろうか。池田屋で、先生の為に剣も振るえない、ほんの少年に。

 ただ、嫉妬をしていた。

 初めて覚えた純粋な憎悪に戸惑い、罪の意識に悩んだ。

 それでも、僕の欲しいものを手に入れたあの子が、ただ、羨ましかった。


 ここの見世ではどの芸妓と会っても親しげに名前を呼ばれるくらい、土方は常連だった。それと他の見世と大きく違う点は、誰も色目を使ってこない所だ。

「あらぁ! 土方さま!」

 “月野の客”という印象が定着し過ぎている。

「この前は月野がご迷惑おかけしましたぁ」

「ちょお、やめなよぉ」

 ニヤニヤ笑いながら冷やかし気味に顔を見合わせる芸妓二人だが、土方としては意味が分からない。

「なんのことだ?」

「いややわぁ! とぼけはって!」

「新選組はんのトコにおじゃましましたやろ?」

 月野が、屯所に来たのか……?

 会っていない。

 余計に意味が分からない。

「いつだ」

「長州はんとの戦の時ですやろぉ?」

「壬生に行くって、あてらが危ない言うても聞かんで。帰りも遅かったしぃ……土方はん、屯所に居てたんですねぇ」

 まだ惚る気か忘れたのかと呆れられながら、胸の奥が、ヒタリ、ヒタリと冷えていくのを虚ろに感じていた。

 月野は、俺に会いに来たのではない。

 長州勢と戦場と化した京市中に居た時、屯所に残った隊士はただ一人。

 総司と……月野が会っていたのだ。

 あの二人が初めて会ったのは、芹沢を斬った夜の、宴会の最中ではなかったのか?

 その日から親しくしていたのか。

 それとも……以前から、知り合いだったのだろうか。

 俺から総司が倒れたと聞いて、心配で見舞いに行ったのか。

 月野……総司が、好きなのか……?

「あ! 土方さまっ!」

 その呼び掛けは不意に目覚めさせる愛しい声で、現実に引き戻させもし、更なる夢へも吸い込まれる心地がした。

 先走りかもしれない思い込みから救われもしたが、見つめる双瞳に、ひょっとしたら……と期待をする自分が居たのだ。

「おケガは?」

 月野は、遙か遠くにまで感じるあの日と同じように土方の躯を見渡した。

 くるくると、よく動く元気な様を見れば瞭然に……あいつ……総司のことだ、自分の病状については話していないのだろうとわかる。

 告げてやりたくなる。

 総司は……労咳だ。

 永く、生きられない。

 確実に沖田の為では無く、伝染るのを心配しての、月野の為でさえ無い。

 もう、会うな。

 消耗された喉元まで込み上げた勝手な衝動は、只管に、息苦しいくらいに自分自身の為だった。

 総司のことは、簡単には言えない程に大事に思っている。

 独りで膝と悩みを抱え込んでいた……幼少の頃から知っている。

 いくつになっても、その背が自分を越しても。

 末に生まれた俺にできた弟の様だった。

 大袈裟に表現すれば在り来たりで笑える比喩だが、目に入れても痛くない。

 それがどうして。

 どうして、俺の巡らせた思考は、総司を陥れる事ばかりで一杯なんだ。

 女嫌いの総司が、きっと惹かれているであろう最初で……最後の一人を、どうして出し抜いてでも取り上げようと、窒息する程に必死なんだ。

「この前の戦では大勝だったと聞きました」

 思わず抱きしめた夜以来初めて会うが、月野は不思議なくらい普段通りだ。

 全く意識されていないか、それとも敢えて装っているのか。

 透けるように見通せた筈だ。半分程の歳の少女の心が、今はまるでわからない。

 のめり込み過ぎた。不安になる程に。

「池田屋で新選組が守った京が、全部焼けちまった。俺達にとっては苦い勝利だぜ」

 土方は、隊士達に使い古した返事をやっと返した。

「総司には……可哀想なことをした」

 ――……

「足手纏いだ」

 ――……

 沖田はかつて見たこともない、悲しげと、寂しげと言っても足りない……孤独の形相で見上げた。

 生涯忘れられない程……沖田を思い出そうとすると、真っ先にその顔が浮かぶ程に。

 語ってみて優しい人間の振りをするが、月野の前で沖田の話をして、試しているのかもしれない。

 どんな反応をするかを。

 月野は、予想していた内の半分の通り、落ち着いた面持ちで呟いた。

「土方さま……前におっしゃいましたよね? わたしと……“沖田さま”が似ていると。でも……わたしなんかと、全然違います。とても……強いかた。ご病気を……患っているのでしょう?」

 ……知って、いたのか。

 総司が話したのか……? いや、まさか! あいつが話すはずがない。

 それとも……それ程の仲なのか?

「誰に……聞いた?」

 少し間を置いて、月野は言った。

「誰にも……。土方さまが、泣いていたから」

 ……なるほど。

 逢瀬を隠すことも合わせ、妙に納得した。


 土方さまと部屋に入って突然、総司さんの話を持ち出されたわたしは、このかたの鋭く暖かい眼にどう映っているのだろう。いつのまにか、なりたくないと思っていた“芸妓”になってしまっていた気がする。

 心はこの“お客さま”に、他の男のひとと会ったことを知られたくない……騙す気持ちで満ちていた。

 このかたを恋い慕う気持ちがいくら真実でも、わたしのその姿勢は、天下の島原老舗置屋の天神の名にふさわしい。

 総司さんが何かの病なのかもしれないと、言葉通り、土方さまの涙で知らされた。

 総司さんと別れて漸く冷静になったわたしは、このかたに会いたいと望むと同時に、その熱い涙を宙に描いた。

 でも、治る病気だと、当然に考えていた。

 やっぱりどんなに足掻いても、子どもで、未熟で、浅はかだった。

 あの涙は、土方さまが話したように、任務に就けない総司さんを考えてのことだと思っていた。
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加藤虎之助15歳、山崎シノ17歳 一族の出世頭、又従弟秀吉に翻弄(祝福?)されながら、 二人は夫婦としてやっていけるのか、身分が違う二人が真の夫婦になるまでの物語。 若い虎之助とシノの新婚生活を温かく包む羽柴家の人々。しかし身分違いの二人の祝言が、織田信長の耳に入り、まさかの展開に。少年加藤虎之助が加藤清正になるまでのモノカタリである。

新撰組のものがたり

琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。 ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。 近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。 町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。 近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。 最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。 主人公は土方歳三。 彼の恋と戦いの日々がメインとなります。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。 独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす 【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す 【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す 【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす 【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))

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