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第五章『魔王(仮)』
二
しおりを挟むロキとフレイアの関係は、表面上、それからもほとんど変わりなかった。ただ以前ほどフレイアはロキに執着しなくなり、ロキは感情のなかった家来たちとのやり取りに仄かな熱意を乗せるようになったくらい。
しかし、二人きりになると、二人はとたんに甘え合った。相思相愛の結婚間もない若年夫婦のように。
それまでの殺伐とした間柄は転じて隠れ蓑となり、二人の本当の関係に気付けるものはおらず、ロキとフレイアは姉弟の時間を取り戻すような睦まじい日々を過ごした。
だが、それも長くは続かなかった。
義姉フレイアの嫁ぎ先が決まったのだ。
翌日。王を含めた団長会議の場にロキは現れ、父王エーデルガルドの傍らに立つと、彼を鋭く糾弾した。
「母姉妹の人生を踏みにじり、家族に溝を生じさせ、憎悪と抑圧の坩堝に我ら姉弟を産み落とすだけに飽き足らず、貴様はまた我らの人生を勝手気ままに弄ぶというのか……畜生め! 親とは! そんなに偉いのか!」
エーデルガルドはゆったりと玉座にかけたまま、深い口髭を歪ませて、眼光と共に放った。
「親に向かって何たる口の利き方だ……貴様、俺を誰だと思っている?」
「誰なのだ? 断じて父などと思ったことはこちらにはない! 貴様こそ、俺たち子供を何だと思っている。部下か? それとも貴様の言うことを聞くだけのやすっぽい人形か!」
「黙れ小僧!」
エーデルガルドは一声怒鳴り上げると共に立ち上がり、ロキを見下ろした。
「誰のおかげで生きてこれたと思っている?! その着飾った衣装も地位も、そこまで大きくなるに貴様が得てきた糧の一つから、全てこの俺……親が手ずから勝ち取り、与えたもの! 生意気な口は一つでも自分の手で勝ち取ってから言え!」
「勝手に産んどいて偉そうなことを言うなっ!」
エーデルガルドの体格からすれば子犬のようなものだったが、ロキは吠えて切り返した。
「誰が産めと頼んだ? 誰が生きたいと願った! 俺も姉さんもこんな家に産まれるくらいならば死んでた方がマシだった! 責任を持って育てる、幸せにすると勝手に誓って愛し合い、産んだのは貴様ら親の方ではないかっ! 貴様のようなものがいるから——未来が歪んでいくのだっ!」
ロキは言い放つと共に、低く身構えた。腰の近くに重ねられた手のひらに膨大な魔力が集中している。
児戯などではない。明らかに有効な殺傷力を持った一撃だ!
「もういい……貴様はここで死ねっ! 魔王!」
各軍団長を始め、兵たちはたちまち騒然としたが、迂闊に飛び込めば自分たちの命さえ危うい。その威力にたじろいだ。
次の瞬間。エーデルガルドの巨体はロキの放つ極大破壊魔法に飲み込まれ、天井を貫く暗緑色の焔が会議の間を覆ったのだった。
爆轟の振動に室外からも兵士たちが飛び込んできた。
彼らの目の前で玉座が黒煙を噴き上げていた。
幾人かが悲鳴をあげ、エーデルガルドの名を叫びながら玉座に近づいた矢先——しかし、その粉塵を切り裂いて現れたのは大槍を抜いていたエーデルガルドと、その眼前で紅蓮の外套をひるがえした吸血鬼だった。
静かに佇み、王を守護する姿を見とめて、誰がが言った。
「レイスァータ・ロウリーク卿……!」
ロキにも似た青白い痩躯。するりと伸びた手足に、銀色の頭髪。切れ長ながらも女を惑わす丸こい目つき。尖った八重歯が少年のようなチャーミングさも備える。
国内の不死・死霊たちを束ねる古い吸血鬼の純血一族。その現当主にして、フレイアの夫となる男であった。
「双方、おやめください。血を分けた親子同士の命のやりとりなど……これほど見苦しいものも他にありますまい」
「ふん。無謀に挑みかかってきたのは、その躾のなっていない小僧だぞ」
「引いてみせるも大人の作法かと……」
エーデルガルドは舌打ちとともに槍を懐にしまった。ロキは未だ殺気を迸らせ、王の横顔を睨みつけていたが、それが息子の顔を見ることはもうなかった。
会議が終わり、要人が一人また一人と部屋から出てくると、その中にレイスァータの姿を見つけてロキは並びたつ。
そして静かに言った。
「よくも邪魔をしてくれたな。あのような俗物に頭を垂れるとは……恥を知れ! 貴様も父と同罪だ」
「そんなに死に急ぎたいのなら私の家に来るかい? 君の死体はさぞ良い戦力になるだろう」
「俺が負けたとでも? 本気で無謀だなどと思っているなら、貴様の目も節穴だな」
「王に傷の一つでもつけていたら、あの場の全てのものが君を反逆者として捕えていた……」
「ならば、その場で返り討ちにしたまでのこと!」
「おやおや」
レイスァータは臭いのきつい生ゴミでも見るようにロキを見下した。
「過剰な自信もほどほどになさい。でなければ、本当に王の言葉の方が正しく聴こえてくる」
「黙れ、下賎な錬金術師風情が!」
ロキは衆目も憚らずに怒鳴った。通りがかりの召使たちが心配そうに伺い、レイスァータも乗じて立ち止まる。
廊下の真ん中で二人の視線が交差する。
ロキが執拗に噛み付くのもこのためだった。この男レイスァータは吸血鬼でありながら、下法も辞さない錬金術師の側面も持つ。
世界各地に出回って人々を襲う、哀れな動物たちを勝手に混ぜ合わせた合成獣もそんな者らの仕業だった。
命を命とも思わず、神をも恐れぬ所業を生業にして魔王軍に貢献しているのだ。
今度見下す眼差しを向けるのはロキの方だった。
「血生臭いぞ。貴様の口からは吐き気を催す腐ったドブの匂いがする! もし姉さんに何かしたら、その時は即日で貴様の不死を終わらせてやる……!」
続けて「肝に銘じておけ!」と吐き捨てて、ロキはレイスァータを廊下に置き去りにしていくのだった。
「ふむ……険悪の仲と聞いていたが、まるで話と違う……あれではまるで恋敵のようじゃあないか……」
レイスァータは顎に手を当てて、独りごちた。
「嫌だなぁ。それでは私の心が嫉妬で傷ついてしまうではないか……くくく」
そう、妖しく微笑みながら。
◇
その夜もロキは義姉フレイアの寝室にいた。
寝台に寝そべり、頭を膝下に乗せて落ち着きながら、フレイアの説教を聴いた。
その日の出来事は間もなく城内全域に広まっていたのだ。
「ロキ。お願いだから、これ以上危ないことはやめて。私なら平気だから」
「姉さんは判っていない。錬金術師というのは〈賢者の石〉を始めとして秘宝や真実を追求する……しかしそういったお題目で、実のところ神をも恐れぬ禁忌を平気で破るような人たちだというのが専らの見解なんだよ。死霊術師、ネクロマンサーともいう。奴の家にだって、各国からかき集めた死体が山ほど保管されてるって……」
フレイアは吹き出した。
「噂でしょう? 大方あの美貌に嫉妬した平民や地位の低い人たちが根も葉もないことを言ってるんだわ」
「姉さんは……いいの?」
今度は吹き出さず、フレイアはロキの熱い眼差しを真剣に受け止めて慈悲深く返した。
「いい? そもそも私たちが間違っているのよ。そしてロキ、あなたにもいずれ相応しい女性が必ず現れるわ。そうしたらその人に夢中になって、私のことは見捨ててっちゃうくせに、お姉さんはその時一人になれっていうの?」
ロキは勢いよく上体を起こして言った。
「見捨てない! 絶対に俺は……俺は姉さんがいれば何もいらないから!」
フレイアは驚いて、少し困惑したあとに、ゆっくりと首を振る。
「ありがとう。本当に嬉しい。この数ヶ月……たった数ヶ月だったけど、あなたといられて……分かち合えて、本当に幸せだった。けどね……けど——現実がそれを認めることはないの」
「……っ」
ロキは俯き、静かに涙を流し、フレイアはそんなロキを惜しむように胸に抱え込んだ。
「だから、このことは思い出にするの。そうして私たちの心の中だけで、密かに保たれていくんだよ、ロキ——愛してる。これからどうなろうとも、ずっとね」
二人は気付かなかった。
その夜も。次の夜も。
そうしてフレイアがロウリーク家に輿入れするまで。
夜な夜な二人の寝室の外に留まる、一匹のコウモリが飛んでいたことに——。
◇
巨人の一撃が寺院の内部を打ち抜いて、側面をごっそりと削り取っていた。
ロキの前にはメルキオールが立ちはだかって、薄い防護膜を張っていたが、業者たちは哀れ、ぺしゃんこだった。そして——ロキは目を見張っていた。
腕を伸ばす。
(ああ……なんてことだ。やっとここまで来たのに……俺の手からまたしてもマモノンカードが遠ざかっていくではないか! かくも得難し、マモノンカード……!)
ロキは空の影に向かって、一日にして積もり積もった万感の執着を込めるように怒鳴り上げた。
「きっ……さまっ……俺のマモノンカードに傷ひとつつけてみろっ! 貴様の血はそれでしま——」
しかし、啖呵を切り終えるよりも早くメルキオールの腕が伸びていた。ロキの身体を抱え込むようにして、周囲の瓦礫と共に墜落していく。
影が再度大きくなった。
ずどん、と大地が揺れる。
巨人がまた打ち下ろしを見舞ったのだった。
その体躯は巨木を比べても余りあり、山と称するに遜色がない。それほどの巨体は通常のヒトのように歩くだけで音速を軽く超える。それが全霊を持って腕を振り抜けば、それだけでヒトの戦略兵器以上の威力が優に得られた。
地響きは爆轟をこえて、周囲の木々をつんざいていた。
生き物たちの鼓膜は破れ、音と衝撃に近くにいるだけで、その身体は無惨にも内側から解かれるようにバラバラになった。
鼻の詰まった感覚。埃臭さが良質な思考を遮る。鼻先ががびがびして、ロキは鼻を鳴らすとともに起き上がった。
メルキオールに庇われて、気づけば地べたが目の前にあった。彼女はすでに体勢を立て直して、ロキを庇うように杖を地面と平行に構え、巨人の泥垢だらけの爪先に立ちはだかっている。そして言った。
「若。気をつけてください。今のあなたならあの程度のパンチでも死んでいましたよ……」
何事もないような口ぶりだった。
見れば巨人の拳は二人の頭上ではなく、その脇の地面に落ちている。文字通り、落ちている。腕を辿ればその付け根から外れて、青々とした血飛沫が舞い上がるのが見えた。
今の一瞬にメルキオールが魔力を鋭利な刃物に変えて、山のように見える巨人の袂まで撃ち放っていたのだ。
巨人が途切れた腕を探して、もがき、大地を揺るがす雄叫びをあげた。
しかし、どんな波動も二人を中心に描かれる円の内側には届かない。
「ま、当たっていたら、ですが……」
「ふん。そのために、メルキオール、貴様がいるのであろ」
ロキは不甲斐なさに歯噛みして答えた。
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