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第三章「焼き味噌団子」
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翌朝、浅蜊売りの声で源太郎が目を覚ますと、柔らかな匂いが鼻を擽った。
幸恵の頭が目の前にあった。
(そうか、あのまま寝てしまったか……)
娘の細い髪の毛を眺めながら、ぼんやりと昨日の夜のことを思い浮かべた。
源太郎は、幸恵の乳臭く、甘い匂いに誘われて、彼女の頭に鼻を近づける。
鬢付け油も付けていないのに、なぜ子供の髪は、これほどいい香りがするのか。
それも、吐き気を催すような甘い香りではなく、清々しい甘さ、胸の中のもやもやが、すべて掻き消されるような甘い香りである。
源太郎は、このままこの匂いに溺れていたいと思った。
が、書類の山が瞼の裏に浮かぶ。
お七の青白い顔も浮かんできた。
源太郎は甘い誘惑を打ち消し、ええいやっと起き上がると、朝の支度を始めた。
早めに出所し、溜まりきった仕事を片付けていると、昼八ツ(十四時)に年番方与力の関谷源十郎から、
「神谷、御奉行がお呼びだ」
と呼び出された。
「お呼びでしょうか?」
奉行の部屋に入ると、甲斐庄正親が、右足を伸ばして膝の辺りを摩っていた。
「すまんな、こんな格好で」
「いえ」
源太郎は平伏した。
「ときに、お七の件は如何なっておる?」
と訊いた正親の傍らには、しかめっ面をした狐顔がある。
「はあ、申し訳ございません」
「まだ、何も喋らんか?」
「はあ……」
源太郎は頭を下げた。
「聴き込みは如何なっておる? 秋山は、何か掴んでおらんのか? お七の持っておったという火打袋のほうはどうじゃ?」
「秋山も、随分聴き込みを続けているようですが、これといった情報は……。それと火打袋のほうですが……」
岡っ引きの栄助が、手下を使って本郷界隈だけでなく、江戸中の火口屋を捜させたが、丸に〝豊〟を使う店はなかった。
「いまのところ、お七の件に関して目新しい事は何も」
すると、傍らにいた澤田久太郎が、眉の両端を小刻みに揺らしながら、
「お前が娘っ子ひとりに手を焼いておるから、また殿が嫌味を言われたではないか」
と厳しい口調で言った。
「はあ、それは申し訳ございませぬ。また、中山様ですか?」
「いや、今日は阿部様よ」
「豊後守様ですか?」
源太郎は驚いて頭を上げた。
「うむ」
正親は、右足を摩りながら話し始めた。
幸恵の頭が目の前にあった。
(そうか、あのまま寝てしまったか……)
娘の細い髪の毛を眺めながら、ぼんやりと昨日の夜のことを思い浮かべた。
源太郎は、幸恵の乳臭く、甘い匂いに誘われて、彼女の頭に鼻を近づける。
鬢付け油も付けていないのに、なぜ子供の髪は、これほどいい香りがするのか。
それも、吐き気を催すような甘い香りではなく、清々しい甘さ、胸の中のもやもやが、すべて掻き消されるような甘い香りである。
源太郎は、このままこの匂いに溺れていたいと思った。
が、書類の山が瞼の裏に浮かぶ。
お七の青白い顔も浮かんできた。
源太郎は甘い誘惑を打ち消し、ええいやっと起き上がると、朝の支度を始めた。
早めに出所し、溜まりきった仕事を片付けていると、昼八ツ(十四時)に年番方与力の関谷源十郎から、
「神谷、御奉行がお呼びだ」
と呼び出された。
「お呼びでしょうか?」
奉行の部屋に入ると、甲斐庄正親が、右足を伸ばして膝の辺りを摩っていた。
「すまんな、こんな格好で」
「いえ」
源太郎は平伏した。
「ときに、お七の件は如何なっておる?」
と訊いた正親の傍らには、しかめっ面をした狐顔がある。
「はあ、申し訳ございません」
「まだ、何も喋らんか?」
「はあ……」
源太郎は頭を下げた。
「聴き込みは如何なっておる? 秋山は、何か掴んでおらんのか? お七の持っておったという火打袋のほうはどうじゃ?」
「秋山も、随分聴き込みを続けているようですが、これといった情報は……。それと火打袋のほうですが……」
岡っ引きの栄助が、手下を使って本郷界隈だけでなく、江戸中の火口屋を捜させたが、丸に〝豊〟を使う店はなかった。
「いまのところ、お七の件に関して目新しい事は何も」
すると、傍らにいた澤田久太郎が、眉の両端を小刻みに揺らしながら、
「お前が娘っ子ひとりに手を焼いておるから、また殿が嫌味を言われたではないか」
と厳しい口調で言った。
「はあ、それは申し訳ございませぬ。また、中山様ですか?」
「いや、今日は阿部様よ」
「豊後守様ですか?」
源太郎は驚いて頭を上げた。
「うむ」
正親は、右足を摩りながら話し始めた。
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