桜はまだか?

hiro75

文字の大きさ
上 下
31 / 87
第三章「焼き味噌団子」

1の1

しおりを挟む
 吹きつける風が温かくなって、江戸の桜も待ってましたとばかりに咲き乱れた。

 仄かな香りが、風に乗って町中に広がる。

 行き交う人々の足取りも、軽やかになるものである。

 だが、神谷源太郎の足取りは重かった。

 理由はただひとつ ―― お七の取調べが、遅々として進んでいなかったからだ。

 お七は、大番屋の仮牢に留め置かれていた。

 通常なら、罪状が固まり次第、大番屋から小伝馬町の牢屋敷へと送られるところである。

 お七も、市左衛門の問いかけに頷いただけとはいえ、一応は火付けを自白しているし、火付けの道具を持っていたので、牢屋敷に送るのに十分であった。

 だが源太郎は、入牢証文を作成するのを躊躇っていた。

 いまいち動機がはっきりしないのだ。

 それだけではない。

 小伝馬町に送れば、お七が酷い扱いを受けるのではないかとの心配もあった。

 小伝馬町にあった牢屋敷には、南町・北町両奉行からだけでなく、勘定奉行や寺社奉行、火付改、そして地方からも囚人が送られてくる。

 故に、その身分も様々で、江戸の町人ばかりでなく、身分の高い武士や神官・僧侶から、お目見え以下の武士、はたまた、火付改が捕まえた極悪人まで放り込まれた。

 もちろん、女性の囚人もいる。

 西口揚屋と呼ばれた特別な造りの牢獄が、それにあてられていた。

 牢屋敷の一切を取り仕切ったのは、囚獄しゅうごくと呼ばれた牢屋奉行の石出帯刀いしでたてわきである。

 一方で、牢内の一切を支配するのが、牢名主という囚人である。

 この下に、牢役人という囚人の組織があった。

 新入りは、牢役人たちに気に入られれば良いが、そうでなければ悲惨な目に合う。

「キメ板」といって、板で打ちのめされたり、人員減らしのために「作造り」と称して、夜の内に口元を押さえられて殺される者もいた。

 ―― 牢内は、将に生き地獄。

 大牢という男の牢内でこの有様だから、自我と情念が渦巻く女牢では、さらに悲惨を極めた。

 源太郎が、お七の入牢証文を作ることを躊躇ったのは、彼女がいまの状況で女牢に入れば、間違いなく女の牢役人たちと面倒を起こすことになると考えたし、「作造り」で殺されでもしたら………………という危惧もあったからだ。

 他にも理由はある。

 入牢すれば、取調べは奉行所で行われることになる。

 取調べのたびに、小伝馬町から奉行所まで囚人を護送せねばならない。

 うら若き乙女が、縄を結わえられて公衆の面前を引き連れられて行く ―― どうにも不憫でならなかった。

 内与力の澤田久太郎からは、

『火付けは大罪だぞ! 自白もして、証拠も挙がっておるのであろう。早く調書を作って、鈴が森送りにしろ!』

 と急き立てられる。

 そこを、

『自白も、市左衛門の問いかけに頷いただけにございます。それに、火付けの訳が明らかではありませんので』

 と弁解していた。

 この弁解も、あながち嘘ではない。

 お七が自分の家の塀に火を付けた理由は、依然判明していない。

 取り調べの最中、お七は呆けたように床を見詰めて、源太郎の手を煩わせている。

 同心の秋山小次郎や小者の貞吉、岡っ引きの栄助たちも、朝から駆け回っているが、これといった明確な証言も証拠も出てこなかった。

 だからといって源太郎も、お七の一件ばかりに関わっているわけにもいかない。

 お七を取り調べている間にも、彼の文机の上は、他の事件の調書が山積みとなっている。

 それを片付けると、組屋敷に帰宅するのは宵五ツ(二十時)ぐらいになる。

 お陰で、最近は娘の幸恵と話もしていない。

 それだけなら良いのだが、幸恵の泣き腫らした寝顔を見ると、可哀相になってしまう。

「お父様はお仕事で遅いので、先にお休みなさいと叱ったのですが、どうしてもお帰りを待つと駄々を捏ねまして……、でも、泣き疲れて眠ってしまったようですわ」

 多恵は、申し訳なさそうに言う。

 申し訳ないのは自分のほうだと、源太郎は思う。

「そうか、可哀相なことをした」

 源太郎は、幸恵の乱れた髪を直してやる。

「火付けの娘さんの件、上手くいきませんの?」

「ん? うむ……」

 源太郎は、幸恵に添い寝をしながら言う。

「よっぽど思い詰めたのでしょうね」

 多恵が夕餉の準備をしていると、幸恵と違った寝息が聞こえてくる。

 見れば、源太郎の瞼が落ちている。

「あなた、お疲れですわ」

 多恵は、源太郎に夜着を掛ける。

 これが、ここ最近の神谷一家の様子であった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

首切り女とぼんくら男

hiro75
歴史・時代
 ―― 江戸時代  由比は、岩沼領の剣術指南役である佐伯家の一人娘、容姿端麗でありながら、剣術の腕も男を圧倒する程。  そんな彼女に、他の道場で腕前一と称させる男との縁談話が持ち上がったのだが、彼女が選んだのは、「ぼんくら男」と噂される槇田仁左衛門だった………………  領内の派閥争いに巻き込まれる女と男の、儚くも、美しい恋模様………………

幽霊、笑った

hiro75
歴史・時代
世は、天保の改革の真っ盛りで、巷は不景気の話が絶えないが、料理茶屋「鶴久屋」は、お上のおみねを筆頭に、今日も笑顔が絶えない。 そんな店に足しげく通う若侍、仕事もなく、生きがいもなく、ただお酒を飲む日々……、そんな彼が不思議な話をしだして……………… 小さな料理茶屋で起こった、ちょっと不思議な、悲しくも、温かい人情物語………………

忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛
歴史・時代
 八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。  服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。  忍者同心の誕生である。  だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。  それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……

なよたけの……

水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の番外編?みたいな話です。 子ども達がただひたすらにわちゃわちゃしているだけ。

信乃介捕物帳✨💕 平家伝説殺人捕物帳✨✨鳴かぬなら 裁いてくれよう ホトトギス❗ 織田信長の末裔❗ 信乃介が天に代わって悪を討つ✨✨

オズ研究所《横須賀ストーリー紅白へ》
歴史・時代
信長の末裔、信乃介が江戸に蔓延る悪を成敗していく。 信乃介は平家ゆかりの清雅とお蝶を助けたことから平家の隠し財宝を巡る争いに巻き込まれた。 母親の遺品の羽子板と千羽鶴から隠し財宝の在り処を掴んだ清雅は信乃介と平賀源内等とともに平家の郷へ乗り込んだ。

証なるもの

笹目いく子
歴史・時代
 あれは、我が父と弟だった。天保11年夏、高家旗本の千川家が火付盗賊改方の襲撃を受け、当主と嫡子が殺害された−−。千川家に無実の罪を着せ、取り潰したのは誰の陰謀か?実は千川家庶子であり、わけあって豪商大鳥屋の若き店主となっていた紀堂は、悲嘆の中探索と復讐を密かに決意する。  片腕である大番頭や、許嫁、親友との間に広がる溝に苦しみ、孤独な戦いを続けながら、やがて紀堂は巨大な陰謀の渦中で、己が本当は何者であるのかを知る。  絡み合う過去、愛と葛藤と後悔の果てに、紀堂は何を選択するのか?(性描写はありませんが暴力表現あり)  

藤散華

水城真以
歴史・時代
――藤と梅の下に埋められた、禁忌と、恋と、呪い。 時は平安――左大臣の一の姫・彰子は、父・道長の命令で今上帝の女御となる。顔も知らない夫となった人に焦がれる彰子だが、既に帝には、定子という最愛の妃がいた。 やがて年月は過ぎ、定子の夭折により、帝と彰子の距離は必然的に近づいたように見えたが、彰子は新たな中宮となって数年が経っても懐妊の兆しはなかった。焦燥に駆られた左大臣に、妖しの影が忍び寄る。 非凡な運命に絡め取られた少女の命運は。

吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~

裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか ――― 将軍?捨て子? 貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。 その暮らしは長く続かない。兄の不審死。 呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。 次第に明らかになる不審死の謎。 運命に導かれるようになりあがる吉宗。 将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。 ※※ 暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。 低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。 民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。 徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。 本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。 数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。 本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか…… 突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。 そして御三家を模倣した御三卿を作る。 決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。 彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。 そして独自の政策や改革を断行した。 いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。 破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。 おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。 その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。 本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

処理中です...