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第2章 日常讃歌・相思憎愛
第6話 優先順位
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陽も高く上り、仁代星斗と仁代亜依の2人に、5月とは思えない程の容赦ない日差しが照り付ける。
だが、一度風が吹き抜ければそれはまだ5月の爽やかな風となり、2人の頬を掠めていく。
新緑の葉が揺れ、霊子が飛び回り、霊樹から煌々と霊子が生まれていく。
そんな霊子の海に沈んでしまった世界で、2人は亜衣の両親を自宅へと帰してあげた。
次なる目標の仁代伊緒と仁代真理の双子の兄妹の生存確認のため、双子の兄妹とその友人が通い、星斗の親友が教師を務める深山高校へと向かおうとしていた。
そんな中で、亜依の口から零れた言葉に星斗は衝撃を受ける。
「そっか、何で忘れてたんだろう……お母さんは向こう側にいるよ。それで、お父さん!お母さん達を助けてあげて!」
亜依の母親であり、星斗の亡くなった妻である、仁代美夏を助けて欲しいとの懇願。
それも”お母さん達”と。
美夏は3年前、目の前で確かに亡くなっている。
それは星斗が痛いくらいに分かっていることだ。
体温が引いていく手。
響く双子の兄妹の嗚咽。
忙しなく処置を繰り返す医師や看護師達。
病室を出され、手術室へと運ばれていく美夏を見送る事しかできなかった。
守ると決めたものを、守れなかった不甲斐なさ。
今でも鮮明に思い出す、脳裏に刻まれた痕。
そこからの記憶は朧気であり、覚えてはいるが俯瞰した様な、どこか他人事の様に感じられて、今も自分自身の体験した記憶か実感を持てずにいる。
棺の中で花に囲まれて眠る妻。その横に並べられた小さな、小さな棺。
淡々と葬儀をこなし、火葬され星斗の手に帰ってきたのは2つの骨壺のみ。
――随分と軽くなってしまった――
2人を抱え、抱けた想いはその程度。
あの日。
もう戻って来ないと知ってしまった。
それでも生きねばならないと、必死に子供達の手を引いた、あの日。
3年が経ち、各々が現実をどうにか受け入れ、必死に歩んできた日々。
亜依からもたらされた言葉に、星斗は去来する様々な感情に心を掻き乱されながらも、核心を尋ねる。
「美夏は……亜依……お母さんは……生きてるの……か?」
「お母さんは……生きてる?……ん~~……今のあたしとは……違うのかな?」
要領を得ない亜依の回答に、星斗も理解が追いつかない。
美夏は確かにこの世を去り、遺骨は埋葬されている。
しかし、亜依という亡くなったはずの存在が、現実に今ここに、目の前で存在している。
確かに、亜依の身体は亜衣のものを借りているし、出会った時は光の玉であった。
それが亜衣の身体と亜依の魂が融合することで、目の前の亜依が存在している。
で、あるならば。
亜依はそれまで何処に居たのか?
誰と居たのか?
どうやって存在していたのか?
ハッと目を見開き、星斗は亜依にその疑問をぶつける。
「亜依!お母さんから話を聞いたって言ったよな!?」
突然の星斗の剣幕に、若干気圧されながらも亜依はしっかりとした口調で答える。
「う、うん!お母さんのお腹の中に居た時とか、沢山お話してくれたんだよ!」
「お母さんのお腹の中……お母さんは亜依みたいに光の玉じゃなかった、ってことでいいかな?」
細い、細い糸を手繰り寄せる様に、亜依から状況を引き出す星斗。
「そうだよ!あたしと違ってお母さん達は身体があったんだよ。あたしはずっと魂の状態だったんだよ」
亜依の言葉に、星斗は暫し自身の思考に耽る。
(亜依は魂の状態だった……美夏は身体があって、その身体に亜依は宿っていた……)
「お母さんは、今の亜依やお父さんみたいな姿だったんだな?」
「そうだよ!一緒だよ!」
そこでまた考え込む星斗。
(何らかの形であれ、美夏は存在している……あと問題は……お母さん達……)
亜依が繰り返し答える「お母さん達」と言う言葉。
亜依と美夏の他に誰かいる事になる。
それは味方となる者なのか。
(亜依が助けを求める位だから、敵では無いのだろうが……)
「亜依……”お母さん達”を助けて欲しいんだよな?」
星斗が恐る恐る亜依に尋ねる。
「そうだよ。お母さんとサリエお姉ちゃんが居るんだよ!」
「サリエ……」
亜依の口からもたらされた「サリエ」という人物の名。
星斗はその名を反芻しながら、自身の記憶を辿っていく。
しかし、その名前に聞き覚えはなかった。
(俺の知り合いにそんな名前の人物はいない……だとすると美夏の知り合いか……あるいはまったく別の……お姉ちゃんという位だから女性なんだろう……)
星斗が考え込んで押し黙っているなか、亜依はサリエに関しての話を続けていた。
「サリエお姉ちゃんはね、お母さんと仲良しなんだよ!あたしもね、沢山お話して貰ったの!」
「……そうか、サリエさんはお母さんと仲がいいのか。亜依、お母さんとサリエさんは助けが必要な状態なんだな?何処に居るか分かるか?」
星斗はサリエのことを美夏の味方と判断する。
無条件で信じてしまう訳にはいかないが、亜依の口から語られるサリエの様子、そして妻の人を見る目を信じる事にする。
その上で、本題の2人の状況について聞き取りを始める。
「うん……お母さん達は……えっと……あれ?何でだろう……思い出せない……」
「亜依、無理しなくていいぞ。ゆっくり思い出してみてくれ」
「わかった……あたしは向こう側の特別な部屋に居て……そこで……っ!ダメ!やめて!!壊さないで!!」
亜依は突如叫び出し、顔を覆ってその場に座り込んでしまう。
驚いた星斗は、戸惑いながらも亜依の前にしゃがみ込み、優しく声をかける。
「亜依、もう大丈夫だ。思い出さなくていいぞ。さっ、お父さんの手を握って」
星斗が亜依の前に手を差し伸べる。亜依は恐る恐る顔から手を外し、差し出された星斗の手を取る。
「ごめんな、辛かっただろ。お母さん達はお父さんが助けに行くからな」
「……ごめんなさい。どうしても上手く思い出せなくて……でも!お母さん達が大変なのは本当だから!!嘘じゃないから!だから……助けてあげて……」
星斗に出会うために、こんな小さな子供がたった1人でここまでやって来たのだ。
その気持ちを慮ることもせず、美夏にまた会える可能性があると知って、亜依の事を考えずに急いて話を進めてしまった。
星斗はそんな己の気持ちを諌め、改めて亜依と向き合う。
「立てるか?お母さん達はお父さんが何とかするよ。亜依は思い出した事があったら教えてくれればいい」
「うん。お父さん、お願い」
「ああ、任せとけ」
星斗は亜依の頭に手を乗せ、頭を撫でる。
そして今この状況を、幸運だと噛み締める。
(こんな絶望しかない世界で、俺は希望を見出せている。失った家族が戻って来てくれた。それに……美夏にもまた会えるかもしれない……じゃあ、やるしかないだろ!誰がやるんだ!?俺がやるんだろ。俺がやらなきゃ誰がやる!!こんな終末世界でも、守るべき家族が居るんだ!藻掻け!泥に塗れても足掻け!足掻いて!家族と共に生きてやる!!)
星斗はそっと拳を握り込み、覚悟を決める。
今、星斗がる事、やらねばならぬ事は家族を守ること。
警察官としての誇りと使命感はある。国家と国民に奉仕する身だが、それでも外せぬ一線がある、泣かせてはならない人達がいる。
脳裏に浮かぶのは初任科の時の教官の言葉。
◆◆◆
「お前ら、1番の非違事案は何だと思う?では若林!」
「はい!法を破る事です!」
初任科の担任教官である佐藤教官から指名された若林は、さっと立ち上がり元気よく答える。
その回答は模範的である。
教官は首肯しながらまた別の者を指名する。
「伊藤!どうだ?」
「はい!酒やギャンブルに溺れてしまう事だと思います!」
「それはお前が気を付ける事だな」
教場が笑いに包まれる。
こう言う時にしっこりとぶっ込んでくるあたり、流石の営業職からの転職組である。
星斗が警察学校に入校して暫くたったある日、3組の担任教官である佐藤教官はその大きな体を揺らしながら、厳つい顔で初任生を相手に非違事案について話をしていた。
星斗達の教場は男だけの所謂"男クラ"であり、中途採用の転職組も多く在籍している教場であった。
星斗も大学を卒業し、警察学校の門をくぐった者の1人であり、まだ警察の"け"の字も知らない初任科生である。
初任科生とは、各都道府県警察で採用された警察職員が各都道府県に設置されている警察学校に入校し、警察官としての基礎を学ぶ"初任科教養"を受けるている警察学校に入校したての、ピヨピヨの警察官達のことである。
大卒で6か月、高卒で10か月間、みっちりと法律から逮捕術まで、警察官に必要な基礎を叩きこまれる。
その間、初任科生は警察学校内の寮で共同生活をし、卒業と同時に警察署へと配属される。
事務職等の一般職員が、1か月の教養を受けて各々の配属先に出ていくのとは期間が根本的に違うため、様々なカリキュラムが組まれている。
その中の1つが、非違事案防止教養である。
非違事案とは所謂”不祥事”のことであり、重大な違法行為から交通違反、不倫等の非倫理的行為まで幅広く対象となるものである。
「では牧田!」
「はい!国民の信頼を裏切る事です!」
おぉ!っと教場に感嘆の声が響く。
牧田は3組の代表、副総代を務める人物である。
同じ期の中にその期の代表である総代、各組の代表である副総代がおり、成績が優秀であり、且つ人格に優れた者が選出される。
星斗より年が1歳上の男は、他の模範となる回答を示す。
「うむ。警察職員の職務倫理及び服務に関する規則第2条に、警察職員は、警察の任務が国民から負託されたものであることを自覚し、国民の信頼にこたえることができるよう、高い倫理観の涵養に努め、職務倫理を保持しなければならない。という職務倫理の基本がある、また第五条には、警察職員は、国民の信頼及び協力が警察の任務を遂行する上で不可欠であることを自覚し、その職の信用を傷つけ、又は警察の不名誉となるような行為をしてはならない。という信用失墜行為の禁止がある。よく覚えておくように」
「「「はい!!!」」」
初任科生の大きく揃った返事が教場に響く。教官は教場の中の初任科生達を見渡し、鷹揚に頷いて口を開く。
「今のが授業で教える基本だ。だがな、俺はそうは思わない。俺はもっと重大な、避けるべき非違事案があると思ってる。仁代なんだと思う?」
「はっ、はい!」
突然の指名に星斗は驚きつつも返事をして立ち上がる。
「えーと……死んでしまう事でしょうか」
シンっと静まり返った教場に星斗の声が通る。
「……何故そう思う?」
教官が静かに問いかける。
その目は問い質す様なものではない、寧ろ真剣に星斗に対して問うている。
「残された者は、辛いですから……家族も国民ですので」
教官はそっと目を閉じ、普段は見せない優し気な表情を見せる。
恐らく、この優し気な表情が本来の教官の顔なのだろう。
今は無理をして厳しく初任科生に接しているが、根は優しい人なのだと分かってしまう表情だ。
「すまない。お前は既に知っているんだったな」
「……はい。今はもう大丈夫ですが、やはり大切な人を亡くすのは、辛いですので」
星斗の両親は既に亡くなっていた。
それも突然の交通事故で。
心の準備のできていない、覚悟のできていない喪失は、できている者のそれとは比べものにならない衝撃と悲しみをもたらす。
星斗は知っている、突然の死がどれほど人を悲しませるかを。
「我々警察官の大先輩方は、時に己の命を投げ打って国家と国民に奉仕してきた。己の命で救った命があり、確かにその先輩方は崇高な志をもって職務を全うした。今も英霊として祭られている。俺は先輩方を偉大な人達だと思う、だが!尊敬はしない!!残された家族はどうなる!!己の命を賭して何人救い、何人泣かせた!!親や兄弟を、妻や我が子を、家族を、友人を、そして同期を泣かせるな!!!生きて職務を執行しろ!!!生きている限り、救い続けられる!!!死ぬな!!!!分かったか!!!!!」
「「「「「「はい!!!!!!」」」」」
教官の熱に侵され、教場の星斗達は声を張り上げて返事をする。
◆◆◆
死ぬな。大切な人を泣かせるな。
教官の言葉が今の星斗の胸に残る。
(俺は、目の前の我が子を泣かせるわけにはいかない。まだ無事かどうかも分からない子供達を助けなければならない。助けを待っている大切な人がいる)
「亜依、生きるぞ」
「えっ……お父さん?」
「こんな世界になっちまったけど、この世界で生きていくぞ。まずは伊緒と真理の無事を確かめる。それから美夏を、お母さんを助ける。勿論、お母さんと一緒にいるサリエさんもな」
星斗がそう宣言する。それは己に対する覚悟と決意の表明である。
「お父さん……ありがとう……あたしも手伝うから!頑張るから!」
「ああ、頼むぞ。お母さん達のことは亜依が頼りだからな」
「うん!任せて!絶対思い出してみせるから!!」
今日初めて出会った親子は、家族を助けるという1つの目標のために、その意思を固める。
星斗の中の優先順位が入れ替わった瞬間であった。
だが、一度風が吹き抜ければそれはまだ5月の爽やかな風となり、2人の頬を掠めていく。
新緑の葉が揺れ、霊子が飛び回り、霊樹から煌々と霊子が生まれていく。
そんな霊子の海に沈んでしまった世界で、2人は亜衣の両親を自宅へと帰してあげた。
次なる目標の仁代伊緒と仁代真理の双子の兄妹の生存確認のため、双子の兄妹とその友人が通い、星斗の親友が教師を務める深山高校へと向かおうとしていた。
そんな中で、亜依の口から零れた言葉に星斗は衝撃を受ける。
「そっか、何で忘れてたんだろう……お母さんは向こう側にいるよ。それで、お父さん!お母さん達を助けてあげて!」
亜依の母親であり、星斗の亡くなった妻である、仁代美夏を助けて欲しいとの懇願。
それも”お母さん達”と。
美夏は3年前、目の前で確かに亡くなっている。
それは星斗が痛いくらいに分かっていることだ。
体温が引いていく手。
響く双子の兄妹の嗚咽。
忙しなく処置を繰り返す医師や看護師達。
病室を出され、手術室へと運ばれていく美夏を見送る事しかできなかった。
守ると決めたものを、守れなかった不甲斐なさ。
今でも鮮明に思い出す、脳裏に刻まれた痕。
そこからの記憶は朧気であり、覚えてはいるが俯瞰した様な、どこか他人事の様に感じられて、今も自分自身の体験した記憶か実感を持てずにいる。
棺の中で花に囲まれて眠る妻。その横に並べられた小さな、小さな棺。
淡々と葬儀をこなし、火葬され星斗の手に帰ってきたのは2つの骨壺のみ。
――随分と軽くなってしまった――
2人を抱え、抱けた想いはその程度。
あの日。
もう戻って来ないと知ってしまった。
それでも生きねばならないと、必死に子供達の手を引いた、あの日。
3年が経ち、各々が現実をどうにか受け入れ、必死に歩んできた日々。
亜依からもたらされた言葉に、星斗は去来する様々な感情に心を掻き乱されながらも、核心を尋ねる。
「美夏は……亜依……お母さんは……生きてるの……か?」
「お母さんは……生きてる?……ん~~……今のあたしとは……違うのかな?」
要領を得ない亜依の回答に、星斗も理解が追いつかない。
美夏は確かにこの世を去り、遺骨は埋葬されている。
しかし、亜依という亡くなったはずの存在が、現実に今ここに、目の前で存在している。
確かに、亜依の身体は亜衣のものを借りているし、出会った時は光の玉であった。
それが亜衣の身体と亜依の魂が融合することで、目の前の亜依が存在している。
で、あるならば。
亜依はそれまで何処に居たのか?
誰と居たのか?
どうやって存在していたのか?
ハッと目を見開き、星斗は亜依にその疑問をぶつける。
「亜依!お母さんから話を聞いたって言ったよな!?」
突然の星斗の剣幕に、若干気圧されながらも亜依はしっかりとした口調で答える。
「う、うん!お母さんのお腹の中に居た時とか、沢山お話してくれたんだよ!」
「お母さんのお腹の中……お母さんは亜依みたいに光の玉じゃなかった、ってことでいいかな?」
細い、細い糸を手繰り寄せる様に、亜依から状況を引き出す星斗。
「そうだよ!あたしと違ってお母さん達は身体があったんだよ。あたしはずっと魂の状態だったんだよ」
亜依の言葉に、星斗は暫し自身の思考に耽る。
(亜依は魂の状態だった……美夏は身体があって、その身体に亜依は宿っていた……)
「お母さんは、今の亜依やお父さんみたいな姿だったんだな?」
「そうだよ!一緒だよ!」
そこでまた考え込む星斗。
(何らかの形であれ、美夏は存在している……あと問題は……お母さん達……)
亜依が繰り返し答える「お母さん達」と言う言葉。
亜依と美夏の他に誰かいる事になる。
それは味方となる者なのか。
(亜依が助けを求める位だから、敵では無いのだろうが……)
「亜依……”お母さん達”を助けて欲しいんだよな?」
星斗が恐る恐る亜依に尋ねる。
「そうだよ。お母さんとサリエお姉ちゃんが居るんだよ!」
「サリエ……」
亜依の口からもたらされた「サリエ」という人物の名。
星斗はその名を反芻しながら、自身の記憶を辿っていく。
しかし、その名前に聞き覚えはなかった。
(俺の知り合いにそんな名前の人物はいない……だとすると美夏の知り合いか……あるいはまったく別の……お姉ちゃんという位だから女性なんだろう……)
星斗が考え込んで押し黙っているなか、亜依はサリエに関しての話を続けていた。
「サリエお姉ちゃんはね、お母さんと仲良しなんだよ!あたしもね、沢山お話して貰ったの!」
「……そうか、サリエさんはお母さんと仲がいいのか。亜依、お母さんとサリエさんは助けが必要な状態なんだな?何処に居るか分かるか?」
星斗はサリエのことを美夏の味方と判断する。
無条件で信じてしまう訳にはいかないが、亜依の口から語られるサリエの様子、そして妻の人を見る目を信じる事にする。
その上で、本題の2人の状況について聞き取りを始める。
「うん……お母さん達は……えっと……あれ?何でだろう……思い出せない……」
「亜依、無理しなくていいぞ。ゆっくり思い出してみてくれ」
「わかった……あたしは向こう側の特別な部屋に居て……そこで……っ!ダメ!やめて!!壊さないで!!」
亜依は突如叫び出し、顔を覆ってその場に座り込んでしまう。
驚いた星斗は、戸惑いながらも亜依の前にしゃがみ込み、優しく声をかける。
「亜依、もう大丈夫だ。思い出さなくていいぞ。さっ、お父さんの手を握って」
星斗が亜依の前に手を差し伸べる。亜依は恐る恐る顔から手を外し、差し出された星斗の手を取る。
「ごめんな、辛かっただろ。お母さん達はお父さんが助けに行くからな」
「……ごめんなさい。どうしても上手く思い出せなくて……でも!お母さん達が大変なのは本当だから!!嘘じゃないから!だから……助けてあげて……」
星斗に出会うために、こんな小さな子供がたった1人でここまでやって来たのだ。
その気持ちを慮ることもせず、美夏にまた会える可能性があると知って、亜依の事を考えずに急いて話を進めてしまった。
星斗はそんな己の気持ちを諌め、改めて亜依と向き合う。
「立てるか?お母さん達はお父さんが何とかするよ。亜依は思い出した事があったら教えてくれればいい」
「うん。お父さん、お願い」
「ああ、任せとけ」
星斗は亜依の頭に手を乗せ、頭を撫でる。
そして今この状況を、幸運だと噛み締める。
(こんな絶望しかない世界で、俺は希望を見出せている。失った家族が戻って来てくれた。それに……美夏にもまた会えるかもしれない……じゃあ、やるしかないだろ!誰がやるんだ!?俺がやるんだろ。俺がやらなきゃ誰がやる!!こんな終末世界でも、守るべき家族が居るんだ!藻掻け!泥に塗れても足掻け!足掻いて!家族と共に生きてやる!!)
星斗はそっと拳を握り込み、覚悟を決める。
今、星斗がる事、やらねばならぬ事は家族を守ること。
警察官としての誇りと使命感はある。国家と国民に奉仕する身だが、それでも外せぬ一線がある、泣かせてはならない人達がいる。
脳裏に浮かぶのは初任科の時の教官の言葉。
◆◆◆
「お前ら、1番の非違事案は何だと思う?では若林!」
「はい!法を破る事です!」
初任科の担任教官である佐藤教官から指名された若林は、さっと立ち上がり元気よく答える。
その回答は模範的である。
教官は首肯しながらまた別の者を指名する。
「伊藤!どうだ?」
「はい!酒やギャンブルに溺れてしまう事だと思います!」
「それはお前が気を付ける事だな」
教場が笑いに包まれる。
こう言う時にしっこりとぶっ込んでくるあたり、流石の営業職からの転職組である。
星斗が警察学校に入校して暫くたったある日、3組の担任教官である佐藤教官はその大きな体を揺らしながら、厳つい顔で初任生を相手に非違事案について話をしていた。
星斗達の教場は男だけの所謂"男クラ"であり、中途採用の転職組も多く在籍している教場であった。
星斗も大学を卒業し、警察学校の門をくぐった者の1人であり、まだ警察の"け"の字も知らない初任科生である。
初任科生とは、各都道府県警察で採用された警察職員が各都道府県に設置されている警察学校に入校し、警察官としての基礎を学ぶ"初任科教養"を受けるている警察学校に入校したての、ピヨピヨの警察官達のことである。
大卒で6か月、高卒で10か月間、みっちりと法律から逮捕術まで、警察官に必要な基礎を叩きこまれる。
その間、初任科生は警察学校内の寮で共同生活をし、卒業と同時に警察署へと配属される。
事務職等の一般職員が、1か月の教養を受けて各々の配属先に出ていくのとは期間が根本的に違うため、様々なカリキュラムが組まれている。
その中の1つが、非違事案防止教養である。
非違事案とは所謂”不祥事”のことであり、重大な違法行為から交通違反、不倫等の非倫理的行為まで幅広く対象となるものである。
「では牧田!」
「はい!国民の信頼を裏切る事です!」
おぉ!っと教場に感嘆の声が響く。
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同じ期の中にその期の代表である総代、各組の代表である副総代がおり、成績が優秀であり、且つ人格に優れた者が選出される。
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「うむ。警察職員の職務倫理及び服務に関する規則第2条に、警察職員は、警察の任務が国民から負託されたものであることを自覚し、国民の信頼にこたえることができるよう、高い倫理観の涵養に努め、職務倫理を保持しなければならない。という職務倫理の基本がある、また第五条には、警察職員は、国民の信頼及び協力が警察の任務を遂行する上で不可欠であることを自覚し、その職の信用を傷つけ、又は警察の不名誉となるような行為をしてはならない。という信用失墜行為の禁止がある。よく覚えておくように」
「「「はい!!!」」」
初任科生の大きく揃った返事が教場に響く。教官は教場の中の初任科生達を見渡し、鷹揚に頷いて口を開く。
「今のが授業で教える基本だ。だがな、俺はそうは思わない。俺はもっと重大な、避けるべき非違事案があると思ってる。仁代なんだと思う?」
「はっ、はい!」
突然の指名に星斗は驚きつつも返事をして立ち上がる。
「えーと……死んでしまう事でしょうか」
シンっと静まり返った教場に星斗の声が通る。
「……何故そう思う?」
教官が静かに問いかける。
その目は問い質す様なものではない、寧ろ真剣に星斗に対して問うている。
「残された者は、辛いですから……家族も国民ですので」
教官はそっと目を閉じ、普段は見せない優し気な表情を見せる。
恐らく、この優し気な表情が本来の教官の顔なのだろう。
今は無理をして厳しく初任科生に接しているが、根は優しい人なのだと分かってしまう表情だ。
「すまない。お前は既に知っているんだったな」
「……はい。今はもう大丈夫ですが、やはり大切な人を亡くすのは、辛いですので」
星斗の両親は既に亡くなっていた。
それも突然の交通事故で。
心の準備のできていない、覚悟のできていない喪失は、できている者のそれとは比べものにならない衝撃と悲しみをもたらす。
星斗は知っている、突然の死がどれほど人を悲しませるかを。
「我々警察官の大先輩方は、時に己の命を投げ打って国家と国民に奉仕してきた。己の命で救った命があり、確かにその先輩方は崇高な志をもって職務を全うした。今も英霊として祭られている。俺は先輩方を偉大な人達だと思う、だが!尊敬はしない!!残された家族はどうなる!!己の命を賭して何人救い、何人泣かせた!!親や兄弟を、妻や我が子を、家族を、友人を、そして同期を泣かせるな!!!生きて職務を執行しろ!!!生きている限り、救い続けられる!!!死ぬな!!!!分かったか!!!!!」
「「「「「「はい!!!!!!」」」」」
教官の熱に侵され、教場の星斗達は声を張り上げて返事をする。
◆◆◆
死ぬな。大切な人を泣かせるな。
教官の言葉が今の星斗の胸に残る。
(俺は、目の前の我が子を泣かせるわけにはいかない。まだ無事かどうかも分からない子供達を助けなければならない。助けを待っている大切な人がいる)
「亜依、生きるぞ」
「えっ……お父さん?」
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星斗がそう宣言する。それは己に対する覚悟と決意の表明である。
「お父さん……ありがとう……あたしも手伝うから!頑張るから!」
「ああ、頼むぞ。お母さん達のことは亜依が頼りだからな」
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