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第2章 日常讃歌・相思憎愛
第5話 純心
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――キエエエエェェェェェェェェェェ――
校庭に居た8人は耳を塞ぎ、或いはあまりの恐怖に立っている事も儘ならず、その場にへたり込んでしまう。
「ひいいいぃぃぃぃ!!」
安部もまたその場に尻餅をつき、両手で耳を覆って余りの恐怖に何もできずにいた。
ナイフを持った工藤に迫られていた事も吹き飛んでしまう様な、恐怖を孕む音。
安部の行動を責めることはできない。この変貌した世界を美しいと感じ、己の望んだ世界と信じている工藤ですら足を止め、欅の木に見入っている。
「フハッ!何だ!何だよ!まだこんな面白れぇことあんのかよ!木が化け物になりやがった!」
欅の木の枝葉が大きき揺れる。風に揺れる程度だった揺れは、やがて強風で煽られるように激しく撓み、普通であればそのまま折れてしまう様な振れ幅となる。
まるで欅の木が踊り狂っている様な状態となり、皆がそれを見上げたままその場を動けずにいた。
1本10メートル以上ある巨大な枝が、撓りながら振り回され、伐採のため近くに駐車されていた高所作業車を直撃する。
恐らく6、7tはあるであろう車体が、玩具の様に宙を舞い、校庭に落下してゴロゴロと転がっていく。
更に振り回された枝の一撃で、作業員だった霊樹が千切れ跳ぶ。
幹は半ばで真っ二つに寸断され、葉から翠色の霊子を撒き散らして転がされていく。
切株の様に残った幹から、空気中を漂う霊子よりも大きな翠色の塊が漏れ出る。それすらも巨大な鞭と化した枝が、打ち据えて粉々に砕いていく。
まるで恨みでもあるかのように、徹底的して周囲の霊樹を粉々に砕いていく欅の木。
そんな光景を少し離れた場所から、茫然と立ち尽くして見ていた西風舘と仁代真理。
「な、んだ……これは……」
余りの光景に思わず構えを解いてしまい、見入る西風舘。
「先輩!危険です!離れましょう!!」
真理はそんな西風舘に声をかけ、この場を離れるように促す。
現状の脅威は工藤よりもこの欅の木だろう。あの枝の一撃を喰らえば、ただの人間ではひとたまりもない。
恐らく霊樹と同様に両断されるか、もしくは粉々に爆散してしまうかだ。
真理の言葉に西風舘もハッとなって頷く。2人とも、まずは欅の木が霊樹に執心している間に、枝の鞭が届かない圏外へと退避することが第一だと判断し、走り出す。
その時、1本の太い枝が鞭の様にしなり、空から落ちてきた。
――ズドンッ!!――
校庭に打ち付けられる欅の木の枝。
その一撃は、明確な殺意を持って放たれた一撃。
一抱え程ある枝の鞭は、工藤と安部の直ぐ真横に着弾し、もうもうと土煙を巻き上げる。
「フヒッ!!あぶねぇあぶねぇ。俺も死ぬところじゃねぇか、でもどうなってんだよこれ!面白れぇ!!」
そう言い放ちながら、ナイフを枝に突き立てる工藤。
突いた先から紅黒く変色し、ボロボロと樹皮が崩れていく。
まるで痛みを感じているかのように、悶え、翠の光を撒き散らす欅の木。
「フハッ!面白れぇ!最高だなこの世界は!」
猛る工藤に幾本もの欅の木の枝が襲いかかる。しかし工藤は、それを超人的な身体能力にものを言わせて躱していく。
躱しながらナイフで枝に傷を付け、傷口は次々と紅黒く変色し、ボロボロと崩れる。
「ひいぃぃぃぃぃぃ!誰か!助けて!もうこんな世界嫌だ!気持ち悪い!早く!誰か!その化け物を、何とかして!!」
安倍が校庭にへたり込んで、絶叫する。
「あ゙っ?!」
工藤が再度安倍の言葉に反応する。
「何だよ、まだそんな事言ってんのかよ。あ゙ぁ!つまんねぇ奴だなお前!何で分かんねぇんだよ!やっと、あのくだらねぇ世界から解放されたのによぉ!……いいや、もうお前いらね」
乱れ打たれる欅の木の枝を掻い潜り、工藤は安倍の目の前へと迫る。
「やめろ工藤!先生に近付くな!」
西風舘が声を上げるが、欅の木の暴風に阻まれて近付くことすらできない。それは真理も同様であり、2人とも霊子の光と、振るわれる枝葉の圏外から工藤と安倍を見ていることしかできずにいた。
「じゃあぁねぇ先生ぇ、さよーならー」
「ひっ……」
工藤はへたり込んでいる安倍の前にしゃがみ、ナイフを順手に持ち替えて安倍の左胸に滑り込ませる。
――ズブッ――
そん音が、聞こえた気がした。
ナイフを横に寝かせ、肋骨と肋骨の間を滑るように刺し入れ、そのまま安倍の心臓を切り裂く。そしてへたり込んでいた安倍の体を後ろへと押しやり、仰向けに倒す。
「あっ……」
ドサッという体が地面に倒れる音と共に、安倍の短い末期の言葉が漏れる。悶えようとする体を、工藤はナイフで地面に押さえつける。数秒の後に安倍の体から力が抜けていく。その間、工藤はずっと嗤っていた。
工藤はナイフを引き抜くと、紅黒い刃体には安倍の鮮血が混じり、真紅の彩を加える。
「あ゙ぁ゙……すげぇはこれ……癖になりそぉ……」
遠巻きに見ていた真理と西風舘がその光景を目の当たりにし、思わず目を背ける。
更に離れた場所から事態を見守っていた仁代伊緒は、目を見開き体を強張らせる。躬羽玲は伊緒の手を握ったままその場に座り込んでしまう。
東風谷が悲鳴を上げ、野口雫は黙って工藤と安部を見据えている。
各々が様々な反応を示しているが、一応に衝撃を受けている。
現代日本で生活していれば人の死、それも他殺の現場を目の当たりにすることなど、まず無いだろう。
あったとしても、それは漫画やアニメの世界の話と考えてしまう。それほどまでに、現代日本は平和なのだ。
人口10万人に0.23件という殺人事件の発生件数を考えれば、それも頷ける話である。
しかし今、現実に、目の前で、人が殺された。
それも見知っている教師が、生徒に、である。
それは動揺を禁じ得ない事であり、ましてや10代の少年少女が受けていい衝撃ではない。
身も心も成長途中の少年達の心に与えた傷は、消えない痕となり、其の者の在り方に大きな変革を与えてしまうだろう。
それこそ、自らその手にかけた者は、不可逆に変質してしまう程に。
事を成した工藤は、うっとりとナイフを眺めていた。今まで満たされることの無かった心の隙間に、確かな充足感を得て。
満たされる心、但し、満たすのは狂気。
「ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!」
工藤は嗤い狂いながら、無防備な体を晒す。荒れ狂っていた欅の木の枝が工藤の体を真横から捉える。
――ズドンッ――
工藤が横薙ぎにされて、宙を舞う。そのまま校庭に転がされ、ゴロゴロと小石の様に転がっていく。
高所作業車を吹き飛ばし、霊樹を粉々に砕いた欅の木の一撃をまともに喰らっているにも関わらず、人間としての原型を保ちながら転がる。
校庭の隅まで吹っ飛ばされながらも、工藤はゆっくりと、それでいてしっかりとした足取りで立ち上がる。
「――ヒヒッ、流石に痛てぇな!あぁ?泥だらけかよ……最悪。でも……大した傷はねぇな!サイコーだな!!」
口の中を切ったのか、血の混じった唾を吐き出す。それでも自身の身体を一通り確認し、大した傷が無いことを知ると、工藤は奇声を上げながら欅の木に向かって走り出ししていた。
「イヒャヒャヒャヒャ!!お前は何なんだよ!生きてるのか!おい!じゃあちょっと殺されてみてくんねぇか!」
工藤は尋常でない速度で校庭の端から駆け出す。右手のナイフを再度逆手に持ち替え、欅の木の攻撃圏内へと肉薄する。
欅の木は走って迫る工藤を、枝の暴風で迎え撃つ。大小様々な枝が縦横無尽に襲い掛かり、翠色に光る葉が舞い踊り、さながら光の舞踏となる。それも、一歩踏み込めば粉々に砕け散る、死の舞踏である。
激烈な一撃の嵐の中を、工藤は人間離れした反応速度と身体能力で次々に切り抜けていく。
つい先程まで、クラスの目立たない男子生徒だったとは思えない動きを見せ、時にナイフで枝を突き刺し、ボロボロと崩れさせていく。
「あいつ……人間か?」
伊緒はその場を動けずに工藤のことを目で追っていたが、人間の出していい動きを超越した動きを見せる工藤に、半ば呆れた声を漏らす。
――何かが起こっている――
そう思わせる光景が、目の前で繰り広げられていた。伊緒や真理達もその光景を固唾を飲んで見守る。
工藤は本能の赴くままに、欅の木の幹へと到達する。
そこに何かあると分かっていたかのように。
「うは!何だこれ!」
工藤が思わずナイフを突き刺す事を止めて、見入ってしまう。
そこには欅の木の洞の中に、大きな翠色の光の玉が揺らめていた。
それは魂の輝き。
その輝きは、力強く美しい。
この欅の木を、そうたらしめている核。
そんなことは微塵も知らない工藤だが、脈動する光の玉を見て直感する。
(これを壊せば、殺せる!)
工藤の口元が厭らしく釣り上がる。まるで新しい玩具を与えられたように。
工藤の殺気に反応したのか、欅の木は更に激しく枝葉を振り回す。しかし根本に立つ工藤を上手く捉えることができず、ただただ枝葉を振り回して暴れるだけになってしまっていた。
「イヒッ!!」
ニタリと嗤う工藤。
右手に持ったナイフを欅の木の洞にゆっくりと差し込んでいく。ナイフの切先が欅の木の魂に触れた。
――ドクンッ!!――
より一層大きく跳ねる様に鼓動する。
その様子を見て、より興奮したのか、工藤は更に嗤いながら身を乗り出す。
「何だよ、嫌なのか?フヒッ!」
身を乗り出しだ工藤は、そのまま魂を突き刺そうと洞の中に腕ごと入れていく。
――ミシミシミシン――
洞の口が動き出す。樹皮が蠢き、まるで傷口を塞ぐ様に、盛り上がってくる。
「お!何だ何だ?抵抗しようってかぁ?いいねぇ!」
工藤は余裕の表情で欅の木の抵抗を眺めていたが、突如洞を塞ごうとするスピードが上がり、一気に工藤の腕ごと穴を塞ぐ。
「うぉっと!ヒヒ!おもしれ!」
流石に腕を引き抜こうとする工藤。しかし思いのほか洞を塞ごうとする圧力が強く、工藤の右腕をがっちりと挟み込んでしまう。
「ぐっ!おら!離せ!」
かさぶたの様に盛り上がって洞を塞ぐ欅の木、工藤は力任せに右腕を引き抜こうと幹に足をかけ、思いきり体重をかける。
――ズルリ――ズルリ――
まだ固まりきらない樹皮の間をシャツがビリビリと破けながら、ゆっくりと右腕が抜けてくる。
しかし、ナイフを握った拳が邪魔をして、最後がうまく抜けない。
「ちっ!」
流石にこのままではまずいと感じたのか、工藤はナイフを手放し、欅の木の幹の中へと置き去りにしたまま、力の限り腕を引き抜く。
ズボッと捕らわれていた右腕が解放され、漸く自由となる。
「くそっ!折角のナイフが!いい色になってたのになぁ……」
ナイフを盗られた腹いせに欅の木を思い切り蹴り飛ばしながら、工藤は未練がましく穴の塞がった場所を睨め付ける。
欅の木は先程まで嵐の様に暴れ狂っていたが、今は嘘の様に静まり返っていた。
相変わらず葉からは翠色の光を放ち、枝や幹は蠢いているが工藤を攻撃しようとはしない。
工藤の蹴りにも反応することも無い。但し、人間離れした工藤の蹴りを受けてもその樹皮は何も変化がなかった。
傷一つ付かなくなった欅に木に、工藤も直ぐに興味をなくしてしまう。
そして興味は失くしたナイフの事へと移り行く。
逡巡してあることを思いつく。
「あ”ぁ”……そうか……また作ればいいのかぁ……」
得心がいったとばかりに、両手を天に掲げてニタリと嗤い、もう一度願う。
「ヒヒ!もっとだ!もっと殺したい!刺したい!グチャグチャにしたい!!足りない!!こんな中途半端な、お預け状態じゃぁ俺は満足できねぇぞ!!!」
工藤の右手に紅の光が集まり、それに呼応して周囲を漂っている翠色の霊子が集まり出す。つい先程と同じ光景が繰り広げられていた。
収束する光が収まり、工藤の右手にまた1本のナイフが握られている。先程の紅と翠色の斑ら模様のナイフに鮮血色の紋様が増えている。
「イヒッ!更にいい感じじゃねぇか!あ゙ぁ゙……いい色だ……ウヒッ!」
目を細め、うっとりと新たなナイフを舐める様に見つめる工藤。
その瞳には狂気が宿り、狂気は全身を巡る。
――狂気――
それは純粋な想い。
原始的な思考。
純粋な願い。
工藤が常日頃から思考し続けてきたもの、想い、願い。
それは習慣であり、身体に染みついた思考であり、心に刻まれた想いであり、発露した願いである。
純粋な願いを秘め、目立つことなく、ただただ日陰に生きてきた男の、心の声。
日常の中では決して解放されることなかった心。
しかし、世界が変わってしまった今、楔となって打ち込まれていた、常識や倫理感は容易く抜き放たれ、工藤を押さえているものは何もなくなってしまった。
そう、彼は己の心に忠実なのだ。
ただそう在りたいと願った、そうなれない世界を恨んだ、その想いが今日、この日、結実した。
そして、今この瞬間、この世界に「純心」を持った適応者が誕生した。
「さぁて、次は何ヤロうかねぇ」
狂気を解き放った純真の怪物が動き出す。
校庭に居た8人は耳を塞ぎ、或いはあまりの恐怖に立っている事も儘ならず、その場にへたり込んでしまう。
「ひいいいぃぃぃぃ!!」
安部もまたその場に尻餅をつき、両手で耳を覆って余りの恐怖に何もできずにいた。
ナイフを持った工藤に迫られていた事も吹き飛んでしまう様な、恐怖を孕む音。
安部の行動を責めることはできない。この変貌した世界を美しいと感じ、己の望んだ世界と信じている工藤ですら足を止め、欅の木に見入っている。
「フハッ!何だ!何だよ!まだこんな面白れぇことあんのかよ!木が化け物になりやがった!」
欅の木の枝葉が大きき揺れる。風に揺れる程度だった揺れは、やがて強風で煽られるように激しく撓み、普通であればそのまま折れてしまう様な振れ幅となる。
まるで欅の木が踊り狂っている様な状態となり、皆がそれを見上げたままその場を動けずにいた。
1本10メートル以上ある巨大な枝が、撓りながら振り回され、伐採のため近くに駐車されていた高所作業車を直撃する。
恐らく6、7tはあるであろう車体が、玩具の様に宙を舞い、校庭に落下してゴロゴロと転がっていく。
更に振り回された枝の一撃で、作業員だった霊樹が千切れ跳ぶ。
幹は半ばで真っ二つに寸断され、葉から翠色の霊子を撒き散らして転がされていく。
切株の様に残った幹から、空気中を漂う霊子よりも大きな翠色の塊が漏れ出る。それすらも巨大な鞭と化した枝が、打ち据えて粉々に砕いていく。
まるで恨みでもあるかのように、徹底的して周囲の霊樹を粉々に砕いていく欅の木。
そんな光景を少し離れた場所から、茫然と立ち尽くして見ていた西風舘と仁代真理。
「な、んだ……これは……」
余りの光景に思わず構えを解いてしまい、見入る西風舘。
「先輩!危険です!離れましょう!!」
真理はそんな西風舘に声をかけ、この場を離れるように促す。
現状の脅威は工藤よりもこの欅の木だろう。あの枝の一撃を喰らえば、ただの人間ではひとたまりもない。
恐らく霊樹と同様に両断されるか、もしくは粉々に爆散してしまうかだ。
真理の言葉に西風舘もハッとなって頷く。2人とも、まずは欅の木が霊樹に執心している間に、枝の鞭が届かない圏外へと退避することが第一だと判断し、走り出す。
その時、1本の太い枝が鞭の様にしなり、空から落ちてきた。
――ズドンッ!!――
校庭に打ち付けられる欅の木の枝。
その一撃は、明確な殺意を持って放たれた一撃。
一抱え程ある枝の鞭は、工藤と安部の直ぐ真横に着弾し、もうもうと土煙を巻き上げる。
「フヒッ!!あぶねぇあぶねぇ。俺も死ぬところじゃねぇか、でもどうなってんだよこれ!面白れぇ!!」
そう言い放ちながら、ナイフを枝に突き立てる工藤。
突いた先から紅黒く変色し、ボロボロと樹皮が崩れていく。
まるで痛みを感じているかのように、悶え、翠の光を撒き散らす欅の木。
「フハッ!面白れぇ!最高だなこの世界は!」
猛る工藤に幾本もの欅の木の枝が襲いかかる。しかし工藤は、それを超人的な身体能力にものを言わせて躱していく。
躱しながらナイフで枝に傷を付け、傷口は次々と紅黒く変色し、ボロボロと崩れる。
「ひいぃぃぃぃぃぃ!誰か!助けて!もうこんな世界嫌だ!気持ち悪い!早く!誰か!その化け物を、何とかして!!」
安倍が校庭にへたり込んで、絶叫する。
「あ゙っ?!」
工藤が再度安倍の言葉に反応する。
「何だよ、まだそんな事言ってんのかよ。あ゙ぁ!つまんねぇ奴だなお前!何で分かんねぇんだよ!やっと、あのくだらねぇ世界から解放されたのによぉ!……いいや、もうお前いらね」
乱れ打たれる欅の木の枝を掻い潜り、工藤は安倍の目の前へと迫る。
「やめろ工藤!先生に近付くな!」
西風舘が声を上げるが、欅の木の暴風に阻まれて近付くことすらできない。それは真理も同様であり、2人とも霊子の光と、振るわれる枝葉の圏外から工藤と安倍を見ていることしかできずにいた。
「じゃあぁねぇ先生ぇ、さよーならー」
「ひっ……」
工藤はへたり込んでいる安倍の前にしゃがみ、ナイフを順手に持ち替えて安倍の左胸に滑り込ませる。
――ズブッ――
そん音が、聞こえた気がした。
ナイフを横に寝かせ、肋骨と肋骨の間を滑るように刺し入れ、そのまま安倍の心臓を切り裂く。そしてへたり込んでいた安倍の体を後ろへと押しやり、仰向けに倒す。
「あっ……」
ドサッという体が地面に倒れる音と共に、安倍の短い末期の言葉が漏れる。悶えようとする体を、工藤はナイフで地面に押さえつける。数秒の後に安倍の体から力が抜けていく。その間、工藤はずっと嗤っていた。
工藤はナイフを引き抜くと、紅黒い刃体には安倍の鮮血が混じり、真紅の彩を加える。
「あ゙ぁ゙……すげぇはこれ……癖になりそぉ……」
遠巻きに見ていた真理と西風舘がその光景を目の当たりにし、思わず目を背ける。
更に離れた場所から事態を見守っていた仁代伊緒は、目を見開き体を強張らせる。躬羽玲は伊緒の手を握ったままその場に座り込んでしまう。
東風谷が悲鳴を上げ、野口雫は黙って工藤と安部を見据えている。
各々が様々な反応を示しているが、一応に衝撃を受けている。
現代日本で生活していれば人の死、それも他殺の現場を目の当たりにすることなど、まず無いだろう。
あったとしても、それは漫画やアニメの世界の話と考えてしまう。それほどまでに、現代日本は平和なのだ。
人口10万人に0.23件という殺人事件の発生件数を考えれば、それも頷ける話である。
しかし今、現実に、目の前で、人が殺された。
それも見知っている教師が、生徒に、である。
それは動揺を禁じ得ない事であり、ましてや10代の少年少女が受けていい衝撃ではない。
身も心も成長途中の少年達の心に与えた傷は、消えない痕となり、其の者の在り方に大きな変革を与えてしまうだろう。
それこそ、自らその手にかけた者は、不可逆に変質してしまう程に。
事を成した工藤は、うっとりとナイフを眺めていた。今まで満たされることの無かった心の隙間に、確かな充足感を得て。
満たされる心、但し、満たすのは狂気。
「ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!」
工藤は嗤い狂いながら、無防備な体を晒す。荒れ狂っていた欅の木の枝が工藤の体を真横から捉える。
――ズドンッ――
工藤が横薙ぎにされて、宙を舞う。そのまま校庭に転がされ、ゴロゴロと小石の様に転がっていく。
高所作業車を吹き飛ばし、霊樹を粉々に砕いた欅の木の一撃をまともに喰らっているにも関わらず、人間としての原型を保ちながら転がる。
校庭の隅まで吹っ飛ばされながらも、工藤はゆっくりと、それでいてしっかりとした足取りで立ち上がる。
「――ヒヒッ、流石に痛てぇな!あぁ?泥だらけかよ……最悪。でも……大した傷はねぇな!サイコーだな!!」
口の中を切ったのか、血の混じった唾を吐き出す。それでも自身の身体を一通り確認し、大した傷が無いことを知ると、工藤は奇声を上げながら欅の木に向かって走り出ししていた。
「イヒャヒャヒャヒャ!!お前は何なんだよ!生きてるのか!おい!じゃあちょっと殺されてみてくんねぇか!」
工藤は尋常でない速度で校庭の端から駆け出す。右手のナイフを再度逆手に持ち替え、欅の木の攻撃圏内へと肉薄する。
欅の木は走って迫る工藤を、枝の暴風で迎え撃つ。大小様々な枝が縦横無尽に襲い掛かり、翠色に光る葉が舞い踊り、さながら光の舞踏となる。それも、一歩踏み込めば粉々に砕け散る、死の舞踏である。
激烈な一撃の嵐の中を、工藤は人間離れした反応速度と身体能力で次々に切り抜けていく。
つい先程まで、クラスの目立たない男子生徒だったとは思えない動きを見せ、時にナイフで枝を突き刺し、ボロボロと崩れさせていく。
「あいつ……人間か?」
伊緒はその場を動けずに工藤のことを目で追っていたが、人間の出していい動きを超越した動きを見せる工藤に、半ば呆れた声を漏らす。
――何かが起こっている――
そう思わせる光景が、目の前で繰り広げられていた。伊緒や真理達もその光景を固唾を飲んで見守る。
工藤は本能の赴くままに、欅の木の幹へと到達する。
そこに何かあると分かっていたかのように。
「うは!何だこれ!」
工藤が思わずナイフを突き刺す事を止めて、見入ってしまう。
そこには欅の木の洞の中に、大きな翠色の光の玉が揺らめていた。
それは魂の輝き。
その輝きは、力強く美しい。
この欅の木を、そうたらしめている核。
そんなことは微塵も知らない工藤だが、脈動する光の玉を見て直感する。
(これを壊せば、殺せる!)
工藤の口元が厭らしく釣り上がる。まるで新しい玩具を与えられたように。
工藤の殺気に反応したのか、欅の木は更に激しく枝葉を振り回す。しかし根本に立つ工藤を上手く捉えることができず、ただただ枝葉を振り回して暴れるだけになってしまっていた。
「イヒッ!!」
ニタリと嗤う工藤。
右手に持ったナイフを欅の木の洞にゆっくりと差し込んでいく。ナイフの切先が欅の木の魂に触れた。
――ドクンッ!!――
より一層大きく跳ねる様に鼓動する。
その様子を見て、より興奮したのか、工藤は更に嗤いながら身を乗り出す。
「何だよ、嫌なのか?フヒッ!」
身を乗り出しだ工藤は、そのまま魂を突き刺そうと洞の中に腕ごと入れていく。
――ミシミシミシン――
洞の口が動き出す。樹皮が蠢き、まるで傷口を塞ぐ様に、盛り上がってくる。
「お!何だ何だ?抵抗しようってかぁ?いいねぇ!」
工藤は余裕の表情で欅の木の抵抗を眺めていたが、突如洞を塞ごうとするスピードが上がり、一気に工藤の腕ごと穴を塞ぐ。
「うぉっと!ヒヒ!おもしれ!」
流石に腕を引き抜こうとする工藤。しかし思いのほか洞を塞ごうとする圧力が強く、工藤の右腕をがっちりと挟み込んでしまう。
「ぐっ!おら!離せ!」
かさぶたの様に盛り上がって洞を塞ぐ欅の木、工藤は力任せに右腕を引き抜こうと幹に足をかけ、思いきり体重をかける。
――ズルリ――ズルリ――
まだ固まりきらない樹皮の間をシャツがビリビリと破けながら、ゆっくりと右腕が抜けてくる。
しかし、ナイフを握った拳が邪魔をして、最後がうまく抜けない。
「ちっ!」
流石にこのままではまずいと感じたのか、工藤はナイフを手放し、欅の木の幹の中へと置き去りにしたまま、力の限り腕を引き抜く。
ズボッと捕らわれていた右腕が解放され、漸く自由となる。
「くそっ!折角のナイフが!いい色になってたのになぁ……」
ナイフを盗られた腹いせに欅の木を思い切り蹴り飛ばしながら、工藤は未練がましく穴の塞がった場所を睨め付ける。
欅の木は先程まで嵐の様に暴れ狂っていたが、今は嘘の様に静まり返っていた。
相変わらず葉からは翠色の光を放ち、枝や幹は蠢いているが工藤を攻撃しようとはしない。
工藤の蹴りにも反応することも無い。但し、人間離れした工藤の蹴りを受けてもその樹皮は何も変化がなかった。
傷一つ付かなくなった欅に木に、工藤も直ぐに興味をなくしてしまう。
そして興味は失くしたナイフの事へと移り行く。
逡巡してあることを思いつく。
「あ”ぁ”……そうか……また作ればいいのかぁ……」
得心がいったとばかりに、両手を天に掲げてニタリと嗤い、もう一度願う。
「ヒヒ!もっとだ!もっと殺したい!刺したい!グチャグチャにしたい!!足りない!!こんな中途半端な、お預け状態じゃぁ俺は満足できねぇぞ!!!」
工藤の右手に紅の光が集まり、それに呼応して周囲を漂っている翠色の霊子が集まり出す。つい先程と同じ光景が繰り広げられていた。
収束する光が収まり、工藤の右手にまた1本のナイフが握られている。先程の紅と翠色の斑ら模様のナイフに鮮血色の紋様が増えている。
「イヒッ!更にいい感じじゃねぇか!あ゙ぁ゙……いい色だ……ウヒッ!」
目を細め、うっとりと新たなナイフを舐める様に見つめる工藤。
その瞳には狂気が宿り、狂気は全身を巡る。
――狂気――
それは純粋な想い。
原始的な思考。
純粋な願い。
工藤が常日頃から思考し続けてきたもの、想い、願い。
それは習慣であり、身体に染みついた思考であり、心に刻まれた想いであり、発露した願いである。
純粋な願いを秘め、目立つことなく、ただただ日陰に生きてきた男の、心の声。
日常の中では決して解放されることなかった心。
しかし、世界が変わってしまった今、楔となって打ち込まれていた、常識や倫理感は容易く抜き放たれ、工藤を押さえているものは何もなくなってしまった。
そう、彼は己の心に忠実なのだ。
ただそう在りたいと願った、そうなれない世界を恨んだ、その想いが今日、この日、結実した。
そして、今この瞬間、この世界に「純心」を持った適応者が誕生した。
「さぁて、次は何ヤロうかねぇ」
狂気を解き放った純真の怪物が動き出す。
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これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。

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神崎未緒里
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※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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