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終章 ゴーレムの王子は光の妖精の夢を見る

汽車の中

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 汽車の中でコールドチキンとサラダの弁当を食べ終え、俺は車掌が持ってきた熱いお茶を一杯飲んで、シートにもたれて車窓を眺めていた。夜汽車の外は暗い。漆黒の闇が続く中、通過する小さな駅の灯りが通り過ぎる。そしてぽつぽつと窓外を流れていく、村々の小さな灯。

 ――十二年前も、こんな風に俺は、無言で窓の外を見ていた。

 あの時、池に落ちた俺は高熱を出して、命も危うかったという。もともと栄養状態も悪く、数日、起き上がれなかった。だが、あのまま王宮で療養することはできないと、父上は判断した。
 
 書類上、実の母親である王妃に俺を引き渡せと言われれば、国王と言えども父親は拒否できない。弱った俺を王妃に渡せば、今度こそ息の根を止めるかもしれない。
 虐待の事実を公表するわけにはいかない。俺の出生に疑問が持ち上がり、あるいは王妃が真実を明らかにすれば、これまでの犠牲が――ローズの献身が、すべて無駄になってしまう。

 結局、父上は藁にも縋るように、マックス・アシュバートンを頼った。

 俺は王宮の病室でマックスと引き合わされた。父上からの説明も、何もなかった。――父上は不器用な人なのだろう。俺を愛しているとの走り書き一つだけ。これを信じるほど、俺はもう純粋じゃなかった。俺はただ、着替えの詰め込まれた小さなトランク一つだけ持って、熱が下がったばかりのフラフラの状態で、王宮から連れ出された。初めて降り立つ王都の西駅の喧騒に頭がガンガンしたのだけは、憶えている。
 俺は夜行列車に乗せられ、最初の数時間、座席を占領して横になり、ずっと眠っていた。

 目が覚めたのは夜明け前。窓の外はまだ暗くて――俺は、その暗闇をずっと、一人で見つめていた。




 その後、マックスも目覚めて、俺は車掌から熱いお茶をもらって、ようやく頭がはっきりした。そうして、彼がマックス・アシュバートン少佐であり、彼の領地であるリンドホルムに向かっていると知った。

『田舎の、古い城だよ。……ストラスシャーの有名な、荒野ムアのただなかにある』
『……嵐の丘、だっけ? 読んだことあるよ』
『そうだ。あとは……』
『有名な、王様の話』

 マックスは、見かけはいかつい中年男性だったけれど、きさくで穏やかな紳士だった。俺の事情は特には聴かず、ただ、体調についていくつか質問をしてきた。それから好きな食べ物など。

『特にないよ。……甘い物はあまり好きじゃないくらい』
『珍しいね。子供は甘いチョコレートが好物と思っていたが』

 見れば、マックスの隣の座席には、王都の有名チョコレート店の紙袋が置かれていた。

『子供たちへのお土産だよ。……急に、王都に呼び出されたからね』
『……あなたの、子供?』
『そう、まだずっと小さい』

 それからマックスが俺に尋ねた。

『勉強はどうしている?』
『……家庭教師ガヴァネスの先生がついてる……』

 王妃の手先で、俺のあることないこと告げ口ばかりして、時々セックスを要求してくるムカつく中年女クソババアだ。

『君は療養が目的だから、しばらく家庭教師はつけないで置こうと思うのだがね。……勉強が遅れるのは心配だ』
『別にいいよ。どーせ……』

 どうせ、俺はスペアのゴーレムだから――そんな言葉を飲み込んだ俺の様子を、マックスのブルーグレーの瞳がじっと見つめていた。

『だが差し当たって、歳の近い友人もいないし、退屈だと思うのだ。君はもう十四だから、そのあたりの年齢の少年を連れてきて、事情を詮索されると厄介だからね』
『僕も別に友達なんかいらないよ。それより――』

 俺は言いかけて、口を噤む。――よく知らない人に、あれこれ要求をすべきじゃないと思ったからだ。

『それより、何か欲しいものがあるのか?』

 俺は窓の外に続く、朝焼けに輝く田園風景を横目に見ながら、小さな声で言った。

『……その、絵を描いてみたい』
『絵?』
『そう……油絵具が欲しいと言ったけれど、買ってもらえなかった』
『そのぐらいならお安い御用だよ。……小さなセットなら、リンドホルムの街にもあるかもしれないな。なければ王都から取り寄せよう』

 マックスは安心したように座り直し、俺に約束した。――そして、絵具はすぐに、俺の手元に届けられた。
 それは初めて、俺が自分の望んだものを手に入れた瞬間だった。

 それ以前の俺は、何も望まず、他人に何も求めなかった。
 ――求めたところで、誰も俺の要求など聞いてくれたためしがないからだ。

 
 俺は、ロベルトが買ってきた安物のウィスキーを小さなカップでちびちび舐めながら、ずっと窓の外を眺め――いつの間にか眠っていた。





 うたた寝に、俺はエルシーの夢を見た。
 戦場ではいつも見ていた、リンドホルムの夢。
 
 ――再会してからは、見ることのなかった夢。そりゃそうだ、夢に逃げなくとも、現実でいくらでも、俺はエルシーに溺れることができたから。

 薔薇に溢れたローズの庭ローズ・ガーデンで、幼いエルシーが金色の髪をなびかせて走ってきて、俺に言う。薄紫のちょうちん袖のワンピースに、白いレースのエプロン。足元は白と臙脂えんじのコンビのショートブーツ。

『雑草を抜いてくれた? 雑草を抜いてくれたら、あなたは特別に許してあげる』

 そう言ってエルシーは俺の腕の中に飛び込み――次の瞬間には、エルシーは十九歳の大人の彼女になっていた。
 柔らかな肢体、甘い香り――俺の脳髄から蕩かしてく、馨しいすべて。

 俺はエルシーのうなじを片手で押さえ、唇を奪って――。



 あなたは特別に許してあげる――。


 きっと、エルシーにとっては、取るに足らない、何気ない一言。
 リジーのことを思い出した今も、おそらく覚えてはいないだろう。

 でも、あの瞬間、俺の中の世界は色を変えた。


 光も射さぬ永劫の闇を、一筋の光が貫いて。俺の世界は鮮やかな色彩に覆われていった。

 エルシーと生きることを諦めていた日々も、俺の心の中にはあの頃の風景が広がっていた。
 王都の、砂を噛むような思うに任せぬ日常でも。
 戦場の、暗くジメジメとした塹壕ざんごうの底でも。

 銃弾の雨を潜り抜け、死体の上を乗り越える毎日の中でも。


 
 俺はただ、エルシーに許してほしい。愛して欲しい。そばにいたい。

 今さら、それを伝えても、傷ついたエルシーの救いにはならないかもしれないけれど。
 でもせめて、思い出の庭だけは、俺の手で取り戻したい。
 




 
 目が覚めた時、列車は賑やかな駅で停車していた。冷たい空気が流れ込み、俺は思わず身震いする。ロベルトが窓を開け、ホームの売り子から朝食を買っていた。

「そのベーグルサンドと、そっちのゆで卵と――おっと、そっちの彼はフィッシュ・アンド・チップスじゃん! 全部三つずつちょーだい! あとホットコーヒー売りはいないのかよ!」

 喧騒に負けない大声でロベルトがホームに呼ばわり、たちまち望むものを手に入れ、銀貨を払ってロベルトは俺たちに朝食をふるまう。

 朝食を食べながら、ロベルトが言った。

「そうそう、殿下酔っぱらってる間に、動きがありましてね、リンドホルムの方に」
「リンドホルムに?」
「現伯爵のサイラス・アシュバートン卿が、庭の一部を売りに出したんです」

 俺はタラのフライを齧ったまま、ロベルトを見た。

「ほふはは?!」
「もう何言ってんのかわかりませんが、本当です。……庭園の一部、噴水のある壁庭ウォール・ガーデンの一角、とあります」

 俺は慌てて口の中のフライを飲み込んで言う。

「そこ! 俺とエルシーの思い出の庭のある場所だ! 絶対に押さえろ!」
「……思い出の庭って、ちょっとキモ……いえまあ、そうおっしゃるかもと思い、すでに不動産屋を通して仮押さえをかけました。……王家の意向を超、匂わせてね。だから今回、仮契約まで持ち込もうと思んです」
「でかした! さすが主席秘書官!」

 俺とロベルトのやり取りを聞いていたラルフが、コーヒーを一口すすってから、言った。

「やっぱり財政難なんですかね。お屋敷の庭師の数も減っているようです。庭園や城館の維持もカツカツでしょうね」

 俺は薄くていがらっぽいコーヒーに、眉を顰めた。 
 
 俺の全財産をかけても失うわけにいかない。……あの、美しい城を。




 

 やがて列車はリンドホルムに近づいていく。車内で昼食にとビスケットを齧り、俺たちは昼過ぎにリンドホルムの駅に降り立つ。ラルフとはここから別行動になるので、打ち合わせて念のため、別の車両から降り立つ。
 
 が、懐かしい駅舎を見回していた俺の目の前に、トップハットをかぶりステッキを手にした、マクガーニが鬼の形相で立っていた。

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