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4巻【三】
5 隴西の李徴は博学才穎2
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山宮がぺこっと礼をして書道室を出ていく。あちこちから今の時間を振り返るように「すごかった」「先生より上手いかも」と感嘆の声があがる。手応えを感じた二年生は目を合わせ、今井が「じゃ、勉強しようか」と声をかけた。再び朔也と中村で教卓を戻し、今井が教壇に立って白のチョークを取る。
「『隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった』。ここに李徴の人柄が凝縮されてるの。隴西っていうのは李徴の出身地で」
朔也は今井のその説明を聞いた。時代背景や科挙の試験がいかに難しいかを書き出し、李徴の性格について解説する。ノートをとる皆がそれに耳を傾けていたが、緊張している今井がだんだん早口になってきていることに気づいた。それを見つめながら、ふと、そこが山宮が自分に質問をしてきた箇所だと気づいた。
「今井、質問」
朔也は手をあげ、ゆっくりのんびりした声で尋ねた。
「江南尉って、確か警察みたいな組織の国家公務員だったよな? 七十歳でやっと合格する人もいるくらいめちゃくちゃ難しい試験に二十代で合格できて就いた仕事なのに、なんで李徴ってそれが不満なの。国家公務員ってすごいんじゃない?」
今井がはっとしたように手元のノートのコピーを捲る。
「それはね、江南って地域が地方だから。李徴の出身地は都に近いし、李徴としては都近くで仕事をスタートさせることが理想だったんじゃないかな。地方に行かされるっていうのが屈辱だったんだろうね。江南っていうのがどの辺りかっていうと」
今井がゆっくりとした口調に戻り、簡単な中国の地図を描いて当時の都と江南の位置を書き入れて説明する。一年生がそれを書き写し、今井の説明を聞く。朔也の意図が分かったのか、他の二年生たちが今井の説明を補うように質問をし、今井がそれに答える。
最初の一文に今日の全ての時間を使い、今井は「山月記はここまで。今日の部活はここでお終いかな」と本を閉じた。既に五時半を過ぎており、一年生たちがそれぞれ感想を言い合ったり、難しそうな顔で今井の書いた黒板を見つめたりする。二年生のところに戻ってきた今井に皆が指先で拍手をし、今井は申し訳なさそうに小さく両手を合わせた。
そこへ「あの」と一年生がこちらへやって来た。本を渡したときに「読んだことがある」と言っていた子だ。朔也を見上げて本の一行目を指す。
「これを題材に作品を書くんですよね。そして、会場のだいたいの二年生と三年生は山月記を勉強したことがある。だったら、最初に山月記だって示せると興味を引けるんじゃないかと思うんですけど」
いつの間にか他の一年生もその女子を見ている。彼女は思い切ったように言った。
「隴西の李徴は博学才穎。この部分を最初に大きく書いたらどうでしょうか。私たちの学校は才穎高校。博学才穎の才穎だけ赤とか目立つ色に変えると、学校の名前も入ったアピールになるんじゃないかと思うんです」
その場が一気にどよめいた。一年生たちが一気に頬を紅潮させ、「それいい!」と沸く。それを聞いた二年生も「それは目立つね!」「すごい発想」と驚いた顔をする。朔也も目が見開くのを感じた。提案した一年生が恥ずかしそうに「ただの一案ですけど」と付け加える。今井がその両肩をがしっと掴んだ。
「皆思いつかなかった演出だよ! それ、候補に入れよう!」
すると他の一年生がこちらを見て手をあげる。
「中国っぽい音楽を流したら、パフォーマンス前から世界に入り込めるんじゃないでしょうか。きっと中国の楽器を使った曲はありますよね」
難しい顔をしていた一年生たちからもわいわいと案が出る。
そうか。朔也は悟った。あくまでも勉強はパフォーマンスのため。ここに集まっているのは書道パフォーマンスをやりたい部員なのだ。授業をパフォーマンスと繋げるように展開しなければつまらなくなってしまう。朔也は一年生たちの顔を見た。
「今日の授業で他にいい案を思いついた人はいる? 今井の授業を聞きながら、どんなパフォーマンスがいいか考えたいんだ」
部員たちが黒板やノートを見ながらくだけた様子で感想を話し始める。結局それ以上の案は出なかったが、書道室が一気に温まるのが分かった。一年生たちが「おもしろいね」と笑顔で本とノートをしまう。皆が山月記に前向きになったのが分かり、今井がほっとした表情に変わる。中村と目を合わせると、白い歯がこぼれた。
その日の夜、山宮から死ぬほど緊張したとメッセージが来て、大会で読んでるでしょと返した。だが、あの読み方が山宮が大会で読んだようなニュースっぽい読み方とは違うということは朔也にも分かる。感謝のメッセージを送り、書道用の服に着替える。今日は書道室で書いていない。耳にイヤホンをつけて山月記を聞きながら筆をとった。
翌日、世界史と数学、全教科の結果が返ってきた。数学が九十一点、世界史が九十点。朔也は頭を抱えた。数学では計算式までは合っているのに、答えを書くところでxとaを書き間違えている問題がある。敗因はケアレスミスと暗記不足。文理系二位の紙をもらい、トイレに隠れてため息を漏らした。
十月が木枯らしとともに駆け抜けて、十一月が校舎の中庭のケヤキとイチョウを黄色に染める。ひんやりとした空気に落ちる穏やかな日差しの中、中庭では落ち葉を集める園芸部の姿も見られ、鉄筋の校舎は秋の装いとなった。オレンジがかった穏やかな日差しの文化の日、また家に誰もいないという山宮に誘われて、朔也は手土産片手にお邪魔した。
「『隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった』。ここに李徴の人柄が凝縮されてるの。隴西っていうのは李徴の出身地で」
朔也は今井のその説明を聞いた。時代背景や科挙の試験がいかに難しいかを書き出し、李徴の性格について解説する。ノートをとる皆がそれに耳を傾けていたが、緊張している今井がだんだん早口になってきていることに気づいた。それを見つめながら、ふと、そこが山宮が自分に質問をしてきた箇所だと気づいた。
「今井、質問」
朔也は手をあげ、ゆっくりのんびりした声で尋ねた。
「江南尉って、確か警察みたいな組織の国家公務員だったよな? 七十歳でやっと合格する人もいるくらいめちゃくちゃ難しい試験に二十代で合格できて就いた仕事なのに、なんで李徴ってそれが不満なの。国家公務員ってすごいんじゃない?」
今井がはっとしたように手元のノートのコピーを捲る。
「それはね、江南って地域が地方だから。李徴の出身地は都に近いし、李徴としては都近くで仕事をスタートさせることが理想だったんじゃないかな。地方に行かされるっていうのが屈辱だったんだろうね。江南っていうのがどの辺りかっていうと」
今井がゆっくりとした口調に戻り、簡単な中国の地図を描いて当時の都と江南の位置を書き入れて説明する。一年生がそれを書き写し、今井の説明を聞く。朔也の意図が分かったのか、他の二年生たちが今井の説明を補うように質問をし、今井がそれに答える。
最初の一文に今日の全ての時間を使い、今井は「山月記はここまで。今日の部活はここでお終いかな」と本を閉じた。既に五時半を過ぎており、一年生たちがそれぞれ感想を言い合ったり、難しそうな顔で今井の書いた黒板を見つめたりする。二年生のところに戻ってきた今井に皆が指先で拍手をし、今井は申し訳なさそうに小さく両手を合わせた。
そこへ「あの」と一年生がこちらへやって来た。本を渡したときに「読んだことがある」と言っていた子だ。朔也を見上げて本の一行目を指す。
「これを題材に作品を書くんですよね。そして、会場のだいたいの二年生と三年生は山月記を勉強したことがある。だったら、最初に山月記だって示せると興味を引けるんじゃないかと思うんですけど」
いつの間にか他の一年生もその女子を見ている。彼女は思い切ったように言った。
「隴西の李徴は博学才穎。この部分を最初に大きく書いたらどうでしょうか。私たちの学校は才穎高校。博学才穎の才穎だけ赤とか目立つ色に変えると、学校の名前も入ったアピールになるんじゃないかと思うんです」
その場が一気にどよめいた。一年生たちが一気に頬を紅潮させ、「それいい!」と沸く。それを聞いた二年生も「それは目立つね!」「すごい発想」と驚いた顔をする。朔也も目が見開くのを感じた。提案した一年生が恥ずかしそうに「ただの一案ですけど」と付け加える。今井がその両肩をがしっと掴んだ。
「皆思いつかなかった演出だよ! それ、候補に入れよう!」
すると他の一年生がこちらを見て手をあげる。
「中国っぽい音楽を流したら、パフォーマンス前から世界に入り込めるんじゃないでしょうか。きっと中国の楽器を使った曲はありますよね」
難しい顔をしていた一年生たちからもわいわいと案が出る。
そうか。朔也は悟った。あくまでも勉強はパフォーマンスのため。ここに集まっているのは書道パフォーマンスをやりたい部員なのだ。授業をパフォーマンスと繋げるように展開しなければつまらなくなってしまう。朔也は一年生たちの顔を見た。
「今日の授業で他にいい案を思いついた人はいる? 今井の授業を聞きながら、どんなパフォーマンスがいいか考えたいんだ」
部員たちが黒板やノートを見ながらくだけた様子で感想を話し始める。結局それ以上の案は出なかったが、書道室が一気に温まるのが分かった。一年生たちが「おもしろいね」と笑顔で本とノートをしまう。皆が山月記に前向きになったのが分かり、今井がほっとした表情に変わる。中村と目を合わせると、白い歯がこぼれた。
その日の夜、山宮から死ぬほど緊張したとメッセージが来て、大会で読んでるでしょと返した。だが、あの読み方が山宮が大会で読んだようなニュースっぽい読み方とは違うということは朔也にも分かる。感謝のメッセージを送り、書道用の服に着替える。今日は書道室で書いていない。耳にイヤホンをつけて山月記を聞きながら筆をとった。
翌日、世界史と数学、全教科の結果が返ってきた。数学が九十一点、世界史が九十点。朔也は頭を抱えた。数学では計算式までは合っているのに、答えを書くところでxとaを書き間違えている問題がある。敗因はケアレスミスと暗記不足。文理系二位の紙をもらい、トイレに隠れてため息を漏らした。
十月が木枯らしとともに駆け抜けて、十一月が校舎の中庭のケヤキとイチョウを黄色に染める。ひんやりとした空気に落ちる穏やかな日差しの中、中庭では落ち葉を集める園芸部の姿も見られ、鉄筋の校舎は秋の装いとなった。オレンジがかった穏やかな日差しの文化の日、また家に誰もいないという山宮に誘われて、朔也は手土産片手にお邪魔した。
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