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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た
夢現つ
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天使の翼も鬼の脚も特別速い訳ではない。やはりここはマンモンに頼ろうと割れた窓から彼に視線を移し実体化すると、アルが後脚と尾で器用に立ち上がり、僕の胸に前足を置いた。
『なぁ、ヘル…………天使の名前を奪ったのか?』
どうして──そう声に出せばそうですと言っているようなものだ。僕は沈黙するのに精一杯で思考を止めてしまった。
『以前からずっと悩んでいたんだ。ヘル……妙な夢を見たという話はしたよな? 覚えているか? その夢の中で…………貴方は、今と同じ姿をしていた。これは偶然か?』
『あら不思議、予知夢かしら?』
『マンモン様……いえ、私にその様な力は有りません』
夢が別世界での現実だったと知られてはならない。あの愚行が僕の判断だと知られてはならない。
『し、知らないよ、アルの夢だろ』
辛うじてとぼけることは出来た。だが、きっとこれが最善だ。夢のことなんて他人には分からない、夢に関してやこの姿に関して何か言い訳をすれば、それは夢について知っているという証明になる。
『僕はっ……ただ、変質しただけだよ。色んなのに、囲まれてるから』
『…………天使の気配がするのだが、そんな変質有り得るのか? ベルゼブブ様……どうなんでしょう』
『天使に変質ってのはありえませんね。神性の影響受けて天使っぽい気配出てるだけだと思ってたんですけど……違いますね、天使そのものです。いえ、天使と定義するにはぼやけていますね。天使、鬼、精霊、そんな感じの上位存在です。ヘルシャフト様は人間じゃありません』
変質したと結論付けたのはベルゼブブなのに否定された。『黒』が完全に消えてしまったから、僕が『黒』と完全置き代わってしまったから、変質という言い訳は使えなくなってしまった。
アルに化けた玉藻を見破っていれば、井戸の底で死を受け入れなければ、『黒』は消えなかったしアルに夢のことがバレなかった。自業自得だ。
『ヘルシャフト、様……? え? えっと……ヘルシャフトって名だったかしら』
『はぁ? 何言ってんですマンモン。ヘルシャフト…………ヘルシャフト? 何かしっくりきませんね』
元の僕が……ヘルシャフト・ルーラーという存在が薄れている。ヘルシャフトについて考える度、それが何なのかがベルゼブブ達の中から消えていく。
『…………恐れながら……魔物使い様って名前何でした?』
ついさっきまで普通に呼ばれていたのに、忘れられた。魔物使いという存在は残っているのに、ヘルシャフトが消えた。
僕はベルゼブブに答えずアルの両前足を掴み、揺さぶった。
『アルっ……アルは、僕の名前分かるよね?』
『…………ヘル……?』
『そう……そうだよ、アルっ……良かった』
『ヘル…………ヘル、何だった? 済まない、何故だ……貴方の名が………………貴方は、どんな名だった?』
『嘘……嘘っ、やだ、やだやだやだっ……待ってよ、そんなのないよ、嘘だよね? ねぇ……ふざけてるんだよね?』
アルを揺さぶる度に首飾りが揺れる。首飾りの石は多色が混ざり合い、どんどんとドス黒く代わっていく。
『僕はっ……僕、は』
ヘルシャフト・ルーラー、それだけの言葉が口から出ていかない。自分から名乗ってしまえば僕とアルの何かが終わる気がして、言えない。
言えば呼んでくれるのは何となく察している。ヘルシャフトという人間の存在が消えただけで、タブリスという天使がヘルシャフトを名乗るのには何の問題もない。ただの音として、記号として、覚えのない言葉をあだ名にするだけなのだから。『黒』の時のようにナイのような所有者は居ないのだから。
『……僕は、自分の名前……別に好きじゃなかったけど…………でも、アルが呼んでくれて、皆が呼んでくれて、大事なものではあったんだよ……』
ここで名乗っても思い出す訳がない。愛おしさの欠片もない新たな音を覚えるだけだ。
手が震えて、全身から力が抜けて、僕はアルの前足を離してその場に崩れ落ちた。俯いても明るい光輪と視界の端の白い翼が疎ましくて、『黒』を思い出させて愛おしくて、頭がどうにかなりそうだった。その時だ、アルの悲痛な鳴き声が聞こえて、肉が焦げる匂いが鼻に届いた。
『……ヘ、ァ……シャー…………違う、ヘルシャフト、か………………ヘルシャフト……』
俯いた僕の顔を鼻先で持ち上げて、アルが首を傾げた。その頭のすぐ下には僕の名が彫られた尾が揺れていた。刻印は赤く焼けている。
『…………発音は合っていただろうか』
『ぅんっ……!』
涙が溢れて上手く声が出なくて、その代わりに何度も何度も首を縦に振った。そうしているうちに刻印は赤い輝きを失い、焼ける痛みも消えたのかアルも呼吸を整えた。
『ヘルシャフト、様? 聞き覚え無いですねー』
『そうねぇ……でも、そう呼んでたのよね?』
『ええ、そのはず──あれ? 何でしたっけ?』
『痴呆かよ便所蝿……って言いたいところだけど、何か頭から抜けちゃうわね。何かあるのかしら?』
一度聞いても覚えてはいられないようだ。寂しさは感じたが、それ以上にアルだけが呼んでくれる喜びが勝った。
『私も一応使い魔契約して……あれ、ダメですね、読めません』
『ただの火傷じゃねぇかよ。これが契約か? 落ちたもんだな便所蝿』
『…………名の盟約は名前を主体としたものですからねー、仮契約じゃ消されるものでも残せたんでしょう。そもそも先輩とは使い魔年季違いますし……個人の意識の違いと言いますか。私ももっと情熱を持って魔物使い様の名前を思い出そうとしていたら読めたのかもしれませんね』
黒く美しい鱗を裂いた醜い刻印、名の盟約。アルを傷付けた跡、僕の独占欲の形、喪われない愛情の証……それが僕を繋ぎ止めた。
『不安にさせたな、ヘル……大丈夫、私だけは貴方を呼べる……教えてくれないか、ヘル。どうして貴方の名を忘れてしまうのか、どうして貴方が人間でなくなったのか』
『…………天使の名前を奪っちゃったから。わざとじゃないんだ、名前を取り返してって頼まれて、取り返したつもりだったのに、その天使が受け取ってくれなくて、そのまま消えちゃって』
『黒』が僕を騙してまで消えたかった理由はよく分からない。特筆すべき出来事は無かったのかもしれない。死にたかったのではなくて、生きたくなかっただけなのだろう。
そんな理由で僕は自分の存在を消失し、不老不死になった。
『酷いよね。取り返してって頼まれたからやったのに、受け取ってくれなかったんだよ? 僕頑張ったんだ。必死にやったんだよ。すごく、苦しかったんだよ』
取り返してと頼んできた『黒』も記憶が無くて、自分が消えたがっていたのを忘れていたのだろう。指輪がどうとか理由を付けてもその消滅願望は抑えられなかったのだ。もうどこにも存在しない『黒』を一方的に責めることは僕には出来ない。
『ヘル……私の、あの夢は……何だったのだろう』
『…………名前を取り返す途中でね、過去に戻って……選択肢を変えて、別の世界を作っちゃったんだ。手を貸してくれた神様に手伝ってもらって、何とかこっちに戻ってこれたんだけど、混ざっちゃった』
『……夢ではなく、その別世界の記憶だと?』
『…………うん』
『私を利用し、裏切ったと暗示をかけて、化物に襲わせたのは……貴方の意思なのか』
知られたくなかったこと、言われたくなかったこと、全てバラしてしまった。けれどもうどうでもいい、アルの負担を少しでも軽く出来るのなら、もう人間でなくなった僕がどれだけ苦しんだってどうでもいい。
『うん、僕は、僕の意思でアルを裏切って利用した』
『…………そうか』
『そ。ワガママ言ってふらふらして、またワガママ言って無理矢理抱いて、嫌な思いいっぱいさせて、最低な暗示をかけたよ』
『……戻って来る為だったんだな? あの時言っていた事が漸く理解出来た。貴方は本当に……私の為に、私と自分を犠牲にしたんだな。大丈夫、ヘル……そんな顔をしなくても、嫌われようとしなくても、私は貴方を許すし貴方を愛したままだよ』
ヘラヘラと笑って自分勝手さを強調しても、夢と偽った別世界の記憶を持っているアルには通じなかった。
『…………ヘル。未来永劫、貴方の傍に……』
もう、僕にはアルを引き剥がす事は出来ない。どんなにアルのためを思っても欲望が邪魔をする。
僕はもう自分の為にアルに尽くして生きていくしか出来ないのだ。
『なぁ、ヘル…………天使の名前を奪ったのか?』
どうして──そう声に出せばそうですと言っているようなものだ。僕は沈黙するのに精一杯で思考を止めてしまった。
『以前からずっと悩んでいたんだ。ヘル……妙な夢を見たという話はしたよな? 覚えているか? その夢の中で…………貴方は、今と同じ姿をしていた。これは偶然か?』
『あら不思議、予知夢かしら?』
『マンモン様……いえ、私にその様な力は有りません』
夢が別世界での現実だったと知られてはならない。あの愚行が僕の判断だと知られてはならない。
『し、知らないよ、アルの夢だろ』
辛うじてとぼけることは出来た。だが、きっとこれが最善だ。夢のことなんて他人には分からない、夢に関してやこの姿に関して何か言い訳をすれば、それは夢について知っているという証明になる。
『僕はっ……ただ、変質しただけだよ。色んなのに、囲まれてるから』
『…………天使の気配がするのだが、そんな変質有り得るのか? ベルゼブブ様……どうなんでしょう』
『天使に変質ってのはありえませんね。神性の影響受けて天使っぽい気配出てるだけだと思ってたんですけど……違いますね、天使そのものです。いえ、天使と定義するにはぼやけていますね。天使、鬼、精霊、そんな感じの上位存在です。ヘルシャフト様は人間じゃありません』
変質したと結論付けたのはベルゼブブなのに否定された。『黒』が完全に消えてしまったから、僕が『黒』と完全置き代わってしまったから、変質という言い訳は使えなくなってしまった。
アルに化けた玉藻を見破っていれば、井戸の底で死を受け入れなければ、『黒』は消えなかったしアルに夢のことがバレなかった。自業自得だ。
『ヘルシャフト、様……? え? えっと……ヘルシャフトって名だったかしら』
『はぁ? 何言ってんですマンモン。ヘルシャフト…………ヘルシャフト? 何かしっくりきませんね』
元の僕が……ヘルシャフト・ルーラーという存在が薄れている。ヘルシャフトについて考える度、それが何なのかがベルゼブブ達の中から消えていく。
『…………恐れながら……魔物使い様って名前何でした?』
ついさっきまで普通に呼ばれていたのに、忘れられた。魔物使いという存在は残っているのに、ヘルシャフトが消えた。
僕はベルゼブブに答えずアルの両前足を掴み、揺さぶった。
『アルっ……アルは、僕の名前分かるよね?』
『…………ヘル……?』
『そう……そうだよ、アルっ……良かった』
『ヘル…………ヘル、何だった? 済まない、何故だ……貴方の名が………………貴方は、どんな名だった?』
『嘘……嘘っ、やだ、やだやだやだっ……待ってよ、そんなのないよ、嘘だよね? ねぇ……ふざけてるんだよね?』
アルを揺さぶる度に首飾りが揺れる。首飾りの石は多色が混ざり合い、どんどんとドス黒く代わっていく。
『僕はっ……僕、は』
ヘルシャフト・ルーラー、それだけの言葉が口から出ていかない。自分から名乗ってしまえば僕とアルの何かが終わる気がして、言えない。
言えば呼んでくれるのは何となく察している。ヘルシャフトという人間の存在が消えただけで、タブリスという天使がヘルシャフトを名乗るのには何の問題もない。ただの音として、記号として、覚えのない言葉をあだ名にするだけなのだから。『黒』の時のようにナイのような所有者は居ないのだから。
『……僕は、自分の名前……別に好きじゃなかったけど…………でも、アルが呼んでくれて、皆が呼んでくれて、大事なものではあったんだよ……』
ここで名乗っても思い出す訳がない。愛おしさの欠片もない新たな音を覚えるだけだ。
手が震えて、全身から力が抜けて、僕はアルの前足を離してその場に崩れ落ちた。俯いても明るい光輪と視界の端の白い翼が疎ましくて、『黒』を思い出させて愛おしくて、頭がどうにかなりそうだった。その時だ、アルの悲痛な鳴き声が聞こえて、肉が焦げる匂いが鼻に届いた。
『……ヘ、ァ……シャー…………違う、ヘルシャフト、か………………ヘルシャフト……』
俯いた僕の顔を鼻先で持ち上げて、アルが首を傾げた。その頭のすぐ下には僕の名が彫られた尾が揺れていた。刻印は赤く焼けている。
『…………発音は合っていただろうか』
『ぅんっ……!』
涙が溢れて上手く声が出なくて、その代わりに何度も何度も首を縦に振った。そうしているうちに刻印は赤い輝きを失い、焼ける痛みも消えたのかアルも呼吸を整えた。
『ヘルシャフト、様? 聞き覚え無いですねー』
『そうねぇ……でも、そう呼んでたのよね?』
『ええ、そのはず──あれ? 何でしたっけ?』
『痴呆かよ便所蝿……って言いたいところだけど、何か頭から抜けちゃうわね。何かあるのかしら?』
一度聞いても覚えてはいられないようだ。寂しさは感じたが、それ以上にアルだけが呼んでくれる喜びが勝った。
『私も一応使い魔契約して……あれ、ダメですね、読めません』
『ただの火傷じゃねぇかよ。これが契約か? 落ちたもんだな便所蝿』
『…………名の盟約は名前を主体としたものですからねー、仮契約じゃ消されるものでも残せたんでしょう。そもそも先輩とは使い魔年季違いますし……個人の意識の違いと言いますか。私ももっと情熱を持って魔物使い様の名前を思い出そうとしていたら読めたのかもしれませんね』
黒く美しい鱗を裂いた醜い刻印、名の盟約。アルを傷付けた跡、僕の独占欲の形、喪われない愛情の証……それが僕を繋ぎ止めた。
『不安にさせたな、ヘル……大丈夫、私だけは貴方を呼べる……教えてくれないか、ヘル。どうして貴方の名を忘れてしまうのか、どうして貴方が人間でなくなったのか』
『…………天使の名前を奪っちゃったから。わざとじゃないんだ、名前を取り返してって頼まれて、取り返したつもりだったのに、その天使が受け取ってくれなくて、そのまま消えちゃって』
『黒』が僕を騙してまで消えたかった理由はよく分からない。特筆すべき出来事は無かったのかもしれない。死にたかったのではなくて、生きたくなかっただけなのだろう。
そんな理由で僕は自分の存在を消失し、不老不死になった。
『酷いよね。取り返してって頼まれたからやったのに、受け取ってくれなかったんだよ? 僕頑張ったんだ。必死にやったんだよ。すごく、苦しかったんだよ』
取り返してと頼んできた『黒』も記憶が無くて、自分が消えたがっていたのを忘れていたのだろう。指輪がどうとか理由を付けてもその消滅願望は抑えられなかったのだ。もうどこにも存在しない『黒』を一方的に責めることは僕には出来ない。
『ヘル……私の、あの夢は……何だったのだろう』
『…………名前を取り返す途中でね、過去に戻って……選択肢を変えて、別の世界を作っちゃったんだ。手を貸してくれた神様に手伝ってもらって、何とかこっちに戻ってこれたんだけど、混ざっちゃった』
『……夢ではなく、その別世界の記憶だと?』
『…………うん』
『私を利用し、裏切ったと暗示をかけて、化物に襲わせたのは……貴方の意思なのか』
知られたくなかったこと、言われたくなかったこと、全てバラしてしまった。けれどもうどうでもいい、アルの負担を少しでも軽く出来るのなら、もう人間でなくなった僕がどれだけ苦しんだってどうでもいい。
『うん、僕は、僕の意思でアルを裏切って利用した』
『…………そうか』
『そ。ワガママ言ってふらふらして、またワガママ言って無理矢理抱いて、嫌な思いいっぱいさせて、最低な暗示をかけたよ』
『……戻って来る為だったんだな? あの時言っていた事が漸く理解出来た。貴方は本当に……私の為に、私と自分を犠牲にしたんだな。大丈夫、ヘル……そんな顔をしなくても、嫌われようとしなくても、私は貴方を許すし貴方を愛したままだよ』
ヘラヘラと笑って自分勝手さを強調しても、夢と偽った別世界の記憶を持っているアルには通じなかった。
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