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第二十章 偽の理想郷にて嘘を兄に

嘘を兄に

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ゲームを起動してしばらくは暗い画面が続いた。
画面端の歯車のマークがクルクルと回り、データの更新を示している。 

「ヘル君、聞こえる?」

耳を塞がれてはいるけれど、無音の今は外の声も届く。おそらくライアーの声だ。

「あ……ライアーさん?  あの、始まらないんですけど」

「ごめんごめん、こっちのミス。ちょっと待ってね」

「はぁ……あの、どんなゲームなのか少しくらい説明してくれませんか?  ちょっと怖いんですよ」

「…………そうだねぇ。楽しい日常を謳歌するゲームだよ」

ライアーはそう言いながら僕の首筋に冷たい物を押し当てた。見えていないから、本当にライアーなのかは分からないけれど。

「ヘル君が望めばどこまでも幸福な日々が続く。けれどキミがそれを疑えば、それは絶望の日々に取って代わる。気をつけて、いい夢を」

バチッ、と大きな音が聞こえて、首筋に激痛が走って、僕は意識を闇に落とした。
次に目を覚ました時、僕は魔法の国の自室にいた。
窓から見える景色は壊れても焼けてもいない、美しいものだった。
混乱していると、いつの間にか右手に握っていたメモに気が付く。

「…………あぁ、これゲームなんだ」

メモの内容はこのゲームの世界を説明するものだった。プレイヤーの記憶や感情を読み取り、理想の世界を再現するのだと。
なんて素晴らしく、虚しいゲームなんだろう。

「僕の理想って……この国なの?  そんな、違うよ。僕はこの国には必要なくて、嫌われてて」

あぁ、でも、なんて素晴らしい。
この部屋はこんなにも明るかったのか、街並みはこんなにも美しかったのか。知らなかった、いや知ろうとしなかった。

「…………ここで幸せになれても、現実では、もう滅んだ国なのに」

ゲームなんだからこの国の美しさに気が付いても無駄。
ゲームなんだからと割り切ってこの国を楽しめばいい。
どちらかに振り切れれば楽だったのに、僕はどちらにも振り切れなかった。

「……にしても、すごいなぁ。昨日のゲームは文字だけだったのに、感触まである。どうなってんだろ」

機械への無知が幸いして、僕はゲームに上手く馴染めた。開け放たれた窓から入る優しい風、柔らかいシーツの感触。そういったものにも大した疑問は感じなかった。

「あ、ヘル。もう起きたの?  早いねぇ、えらいえらい」

窓から外を眺める僕の頭を後ろから撫でる大きな手。

「…………ライアーさん?」

振り返った僕の目の前にいたのはライアーだった。
いつものカフェの制服ではなく、魔法の国でよく見るローブを着込んでいた。

「ライアーさん?  あっはは、何その呼び方。お兄ちゃんに向かって随分他人行儀だねぇ」

「……え?  お兄ちゃん……?  な、なんですか、それ」

「何、寝ぼけてるの?  ボクだよボク、お兄ちゃん。ライアーお兄ちゃん。君のお兄ちゃん」

兄?  彼が?  どうして?
あぁ、そうか。このゲームは僕の理想の世界を作る。
僕の理想の兄は、彼なのか。僕は心の底ではエアオーベルング・ルーラーを兄と認めていなかったのか。

「……ごめんね、変な夢見てたから。おはよう、兄さん」

「変な夢?  そっか。気が向いたら聞かせてよ」

また頭を撫でられる。彼をこのゲームでの兄だと認識した僕は無意識にその手首を掴んだ。

「……ヘル?」

「ん、なさい……ごめんなさいっ、ごめ……」

「ヘル、どうしたの?  頭撫でられるの嫌いになった?」

「…………あっ、ううん。好き。ごめんね、変、だよね、僕」

髪を掴まれる気がして、そのまま顔に膝がぶつけられる気がして、なんて言えない。
兄が怖い。
いつ殴られるのか、蹴られるのか、もっと酷い目に合わされるのか、気が気でない。
彼の手が僕の頭の上にある、それが何より恐ろしい。

「ご飯できてるから、食べにおいで」

「…………うん」

ライアーはそう言って部屋を出ていく。現実の兄とは違い、ここに持ってきてはくれないらしい。
僕は鈍重な動きでベッドを降りて、着替えて、部屋を出た。
自分の家だというのに、どこがダイニングだったかもよく分からない。部屋の外に出たという不安のせいで目眩まで起こした。

「どうかな、キミの好きなものばかりだと思うんだけど」

「……う、うん。そうなんだけどさ、朝には多いし、重くないかな」

並べられた料理はどれも美味しそうなものだったが、夕食にも多いくらいの量だ。フルコースを三つ用意したくらい、という表現が適切だろうか。

「え、そう?」

「あっ、ううん!  嫌ってわけじゃないんだ、ごめんなさい。全部食べるから、怒らないで、ちゃんと美味しく食べるから、お願い怒らないで殴らないで蹴らないで痛いことしないでお願い」

「……へ、ヘル?  どうしたのさ……ボクがキミを殴るわけないだろ」

兄が僕に手を伸ばす。
食事の時間にいつまでも扉の前で棒立ちしていた僕に躾をしようと、黒い大きな手が向かってくる。

「ぃ、や、やだ、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

「ヘル……ほら、怒ってないから、立って」

蹲った僕の腕を掴む。
体を開かせて腹を蹴る為に。

「ごめんなさい、お願いします、やめてください、もうやだ、痛いの嫌だぁ!」

「ちょ、ちょっと?」

「謝ってるじゃないかぁ!  やめてよ、何がそんなに気に入らないんだよ!  僕がダメなのが嫌なら殺せばいいじゃないか!  何でいつまでも……っ!」

「ヘル!」

「……ぁ……ごめんなさい……」

「ヘル、聞いて。ボクはキミに酷いことしないから、何も怖いことないから。ほら、おいで。一緒にご飯食べよ」

兄は僕を優しく抱き起こして、席に座らせる。
……違う。兄じゃない。そうだ、彼はライアーだ。
そうだった、これはゲームだ。僕の理想の世界なんだ。
優しい優しい他人なんだ。

「…………美味しい」

「ほんと?  良かった」

「ねぇ、兄さん。僕外に行きたいな、兄さんと外で遊びたい」

「外?  いいよ、どこに行こうか」

「……色んなところ。僕がまだ行ってないところ、僕が行きたくなかったところ」

学校も公園も噴水広場も商店街も、道行く人々の嘲笑が嫌で行きたくなくて、けれどずっとそこで遊んでみたかった。
終ぞ叶うことのなかった僕のささやかで不相応な願い。

「ふふ、いいよ。どこでも連れてったげる」

「……ありがとう、兄さん」

これは現実じゃない、理想の世界。なんて素晴らしく惨いゲームだろう。
ここで幸せであればあるほど僕は自覚する、現実での不幸を。不条理を。理不尽を。
ここが幸せであればあるほど僕はここに居たいと願ってしまう。ここで果てたいと思ってしまう。

「兄さん、僕ね、兄さんが兄さんで良かった」

「そう……?」

「……兄さん、兄さんは、僕を愛してくれるよね?」

「当然だよ、キミはボクの弟だもん」

弟だから、弟なのに、そんな言葉は嫌い。
兄が僕を殴る時によく言っていたから、兄が僕を可愛がる時によく言っていたから。

「…………兄さん」

「ん?」

「戻りたくない。ずっとここで暮らしたい」

「何言ってるの。ここがキミの家なんだから、ずっとここで暮らすに決まってるよ。どこに戻るって言うのさ」

兄さん、そうだ兄さん。彼が僕の兄、大好きな兄。
僕を殴らない、優しい兄。ずっとここで暮らしたいけれど、それは許されない。
僕にはやらなければならない事が山ほどある。どうしてやらなければならないのか、どうして僕なのか、それは分からないけれど。
僕でなければ出来ない事だから、仕方ない。
けれど、あぁ、この甘美な世界を知ってどうしてあの惨い現実に帰ることなんて出来るだろう。きっと自力では出来やしない、時間が来て起こされるのを待つだけだ。
そして起きたら、ライアーを「兄さん」と呼んでやろう。
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