たましいの救済を求めて

手塚エマ

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第六章 警告

第三話 あなたは誰?

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「ガムは出して下さいね」

 麻子はスチール棚から持ってきたティッシュケースを、彼女の前に押しやった。
 交代人格はティッシュの箱を一瞥した。
 そしてまだガムを噛んでいる。
 麻子はティッシュを二、三枚出して彼女に与える。しぶりながらも、それを手にして、ようやくガムを吐き出した。

 数ある菓子からガムを選んだ。
 彼女は傍若無人なふるまいとは裏腹に、内心身構え、怯えている。

 すると、顎関節がくかんせつに力が入る。関節の緊張をほぐそうとして、何かを食べる。

 特によく噛めるものをチョイスする。
 顎関節が解れたら、必要以上の緊張からも解放される。焦燥感が和らぐことを経験値から学んでいる。

春人はると君を怒っているの?」

 名前で呼ばれた最初の交代人格は、春人だった。
 人見知りをする気弱な彼を、蔑む理由が語られるのを、麻子は待った。
 けれども、すっかり不貞腐れている。
 人差し指にできた白濁色の吐きダコのささくれを、めくっている。

 摂食障害が常習化した者に見られるタコを、人前でも平気で触っている。
 
 白米、菓子パンやカップ麺やパスタ、うどん、コロッケ、唐揚げなどを極限まで食べた後、人差し指を喉に突っ込み、全部吐き出す。
 吐ききった直後の解放感に囚われて、くり返す。
 
 なぜ、そんなタコがあるのか、彼女は認識できているのだろうか。
 
 そして、おそらく顎関節を緩めるためにも、ガムを噛む。
 二人は常に緊張を強いられる環境下にあるとも言える。

「あなたの名前は?」

 麻子は会話を切り替えた。
 いじけてタコのささくれを破る彼女が目をあげた。瞠目している。

 彼女の心の琴線に触れたかのような面持ちだ。麻子は間髪いれずに問いかける。

「私はあなたを何て呼んだらいいの?」
「……別に」

 短い返事に動揺のビブラートが混ざっている。

「名前なんて」
「春人君は、春人君でしょ?」
「あたしは、お前とか。……おい、とか」
「名前がないのね」

 伏し目になり、唇をきゅっと突き出した表情が、無言のうちに語っていた。
 彼女の扱いは交代人格の中では適当らしい。

 声高に叱りつけた春人より。

「じゃあ、一緒に名前を考えましょうか? 私はあなたを何て呼べばいいのかが、わからないのは困るのよ」

 麻子は朗らかに提案した。
 すると、少女の瞳がぱっと明るく輝いた。

 顔の造作は少年の羽藤だが、黒髪短髪のボーイッシュな美少女だと言われれば、疑う者はないだろう。
 カーネリアンレッドの一粒ピアスが、よく似合う。

「名前?」
「こんな感じがいいな、とか」

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