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ヴァネッサは浮浪者たちの横を駆け抜け、先頭についた。黒ずんだ粗末な服を着た青年が、腰の曲がった一人の老人を熱心に観察している。見終わると彼はすぐさま石板に尖った石を打ちつけ、顔の形状を掘り出しているようだった。


「コルテオ……」


息を切らしたヴァネッサはほっとして力が抜けた。その場に座り、じっと絵描きの青年を見つめた。やはり、コルテオだった。


「ヴァネッサ……? どうしてここに……?」


河原に座っていたコルテオは作業の手を止め、いるはずのないヴァネッサに目を奪われた。最初は幻覚を見たのだと思った。目の前にいるのが仮にヴァネッサだとしても、来た理由がわからなかった。お金のない自分には、もう用がないはずだった。

コルテオは「ごめんよじいちゃん、続きは明日やってあげるから、今日はここまでね」と言うと、老人に石板を返した。

老人は歯のまばらな口を開いて笑い、大切そうに石板を受け取った。


「迎えが来たのかい。よかったのう。おぬしを探してくれる人が誰なのか、よくわかったじゃないか」


半分うわの空のままでいるコルテオにそう言うと、老人は浮浪者たちの列をぼんやり眺めて「今日は先生に来客だ! 解散解散!」と呼びかけた。そして、曲がった腰を揺らしながら離れて行った。

ヴァネッサはようやく立ち上がってコルテオの近くまで歩み、しゃがんで目線を合わせた。


「コルテオ、ずっとずっと……ごめんなさい。あなたを傷つけてしまって。謝りに来たの。一緒に家に帰りましょう」


コルテオは夢を見ているのだと思った。とうとうおかしくなったのだと思った。でも、もし夢なのだとしたら、こんなに幸せな夢はないと思った。


――――
夢なのだから、騙されてもいい。
最愛の女性がすぐそばにいる。愛のそよ風に帆を張ればいい。

夢なのだから、疑わなくていい。
おいらを芸術の丘へ連れて行く女神。千の光をもたらす太陽の恵み。

夢なのだから、素直になればいい。
さみしかった。会いたかった。抱きしめたかった。
――――


コルテオは慣れない詩を口にし、浮かれた気持ちでヴァネッサの手を取った。彼女の愛らしい目が、紛れもなく自分に向けられている。今まで見たことのない、親しげな、愛あふれる瞳だった。

ヴァネッサも重ねるようにしてコルテオの手を握った。彼女の手のぬくもりがじんわりとコルテオの皮膚から血管、血管から心臓に流れ込んだ。


「ヴァネッサ、ど、どうして……ここがわかったの?」コルテオは胸の高鳴りにのまれそうになりながら、つっかえつつ聞いた。


「橋の下で絵を描いている青年がいるって、噂になっていたわ。列ができるほど上手な絵描きなんて、あなたしかいないじゃない?」


「買いかぶりすぎだよ。……無名の絵描きの作品なんて、そのへんの落書きと何も変わらない」


「無名でもいいじゃない? わたしだって無名よ。有名だからいい絵が描けるの? 違うでしょ。コルテオの絵、好きよ。モデルを初めてしたときから、ずっと」


「絵は……どんなに上手くてもダメなんだ。ほとんどの人は芸術がわからないし、賞を取って認められないと、大きな仕事は来ない。有名な賞を取って宣伝してはじめて、画家という扱いを受けるんだ」


「そうね、難しい世界よね……。でも、あなたは無名のわたしをモデルに選んでくれた。あなたに選ばれた時、本当に嬉しかったわ。美人でもないし、品があるわけでもないこんなわたしを見つけてくれて、ありがとう。……たとえ有名じゃなくても、ごひいきにして下さる方が少なくても、よさをわかってくれる人はいる。ベランジェール様だってそうでしょ? あなたの才能を信じてる」


「うぅ……ありがとう……だけど、おいらはもうだめだよ。生きていく自信がない。君にも……ベランジェール様にも……合わせる顔がない……。でも、地べたは冷たくて……辛くて……描くしかなくて……」


コルテオはヴァネッサに二度と会わないつもりでいたが、彼にも後悔があった。自分が騙されていたことではなく、彼女のことを深く知ろうとしなかったことである。『もしかしたら好かれていないのではないか』という漠然とした不安に輪郭を与えたくなかったのである。彼は過去の自分の弱さに打ちひしがれて、河原での生活に逃げていた。


「……会えて嬉しかったよ、ヴァネッサ。ありがとう。君は……君の帰るべき場所に帰るんだ!」


コルテオは喉をつまらせながら声を張り上げた。そして顔をくしゃくしゃにして、目にうっすらと涙をにじませた。
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