11 / 36
第三話
賽の目(2)
しおりを挟む
藤原兼家の屋敷は東三条に存在していた。立派な寝殿造の屋敷であり、かつては忠仁公と呼ばれた藤原良房が住んでいたこともある屋敷だった。
牛車に揺られながら晴明は、東の空に輝く星があったという道真の話を思い出していた。東の空。それは東三条を現しているのではないだろうか。そして、輝く星は兼家の子の誕生を指しているに違いない。晴明はそう読み解くと、はやくその子に会ってみたいものだと思っていた。
「おい、晴明を連れてきたぞ」
兼家は屋敷に着くなり、そう家人たちに告げる。すると、兼家に仕えている女房たちが噂の陰陽師の姿をひと目見ようと、こそこそと柱の陰からこちらを覗いたりしはじめた。別に美男というわけでもなければ、若い男というわけでもない。ただ、よく当たる占いができる中年陰陽師なのだが、なぜか女房たちは羨望の眼差しでこちらを覗いていた。
遠くの方から赤子の泣き声が聞こえてきた。元気の良い子のようだ。
晴明はひと安心した。もし、病に罹っている子を占えなどと言われれば、責任は重大となる。病に対しては祈祷を行い、病の原因となっている鬼や物怪を祓うというのが陰陽師の仕事の一つでもあったが、晴明はこの祈祷があまり好きではなかった。
なぜなら、流行り病などの病気は祈祷したところで治ることはないからだ。あれは一度罹ったら最後であり、どんなに祈祷したとしても無理なものは無理であった。
しばらくして、晴明は奥の部屋へと通された。広い部屋であり、その部屋の中央には赤子を抱いた女性がおり、その周りを囲むように女房と思われる女性たちが大勢いる。
兼家は嬉しそうな顔をしながら、赤子を抱いた女性に近づいていくと、晴明の方を見て言った。
「陰陽師の安倍晴明を連れて来たぞ。我が子について占ってもらう」
「まあ、陰陽師の方が」
「安倍晴明にございます」
晴明は女性に頭を下げた。この女性は摂津守藤原中正の娘で、兼家の妻である時姫であった。すでに時姫は兼家との間に二人の男児と一人の女児を授かっており、この赤子が四人目の子であった。
「まあ、貴方がかの有名な晴明様なの」
時姫がそう言うと晴明はにっこりと微笑んだ。様々なところに蒔いた種は、順調に芽を出しているようだ。
しかし、その発言を聞いた兼家は面白くないといった顔をしている。なぜ自分よりも身分の低い者に対して様付けをして呼ぶのだろうか。そう思っているに違いなかった。
それを察した晴明は、咳ばらいをするとすぐに占いの準備に取り掛かった。陰陽師の占いというのは、筮竹と呼ばれる竹の棒を使って行うことが多いのだが、ちょうど晴明は仕事帰りに兼家から声を掛けられたということもあり道具を持ち合わせてはいなかった。しかし、道具が無くとも代用品はどこにでもあるのだ。晴明は普段から持ち歩いている巾着袋を水干の懐から取り出した。
その様子を見た時姫と周りの女房たちは、興味津々といった表情で晴明の手元を覗き込む。
晴明が巾着袋の中から取り出したのは、ふたつの賽子だった。賽子は出た目を使って占いが出来るため、占いの道具の代用品として重宝している道具のひとつであった。
「では、お子様の性別からお聞きしてもよろしいでしょうかな」
そう言って晴明は赤子の顔を覗き込んだ。赤子の顔を見ただけでは性別を判断するのは難しい。下手にそれを口にして外れてしまえば、占いの信用度も落ちてしまうというものだ。だったら、聞いておいた方が良いだろう。そう晴明は判断して、兼家に問いかけたのだった。
「女子だ。目がくりくりとして可愛いであろう。将来は時姫に似て美しくなるぞ」
「まあ、兼家様ったら」
その様子を見て晴明は、なるほどと思った。藤原兼家という男は女性の扱い方に長けているようだ。たしか、他にも妻がいるはずだ。多くの妻を抱えられる財力もあるが、それ以上に女性を喜ばせる言葉などを熟知している。きっと若い頃から女性に人気があったに違いない。
晴明は賽子を手に取ると、紙の上に何度か振って見せた。
周りにいた人々は固唾をのんで、その様子を見つめている。しかし、その賽子の出た目が何を意味しているのかをわかっている人間は誰もいなかった。それどころか、晴明がいま何をやっているのかすらもわかる人間はいないのだ。
「では、お子様の名前を教えて下さい」
「詮子だ」
兼家はそう答えると時姫からまだ首の座っていない赤子を受け取り、抱きかかえて晴明の前へと連れてきた。
その赤子が目の前に現れた時、その場の空気が一変したように晴明は感じた。
可愛らしい大きな眼に、ふっくらとした頬。赤子は誰が見ても可愛く見えるものであるが、その赤子の顔を見た晴明は、驚きを隠せなかった。
陰陽道には、易の他に人相を見て占うというものもある。目や鼻、口などの形を陰陽五行に合わせて読み解き、その人間の良いところや悪いところを占うのだが、その赤子の顔を見た時、晴明は驚きを隠せなかった。
何なのだ、この赤子は。晴明は心の中で呟く。このような吉相を持った赤子などは、いままで一度も見たことはなかった。赤子の顔を見るまでは、東の空に輝く星の話を聞いたことによる先入観は確かにあったかもしれない。しかし、そんな話など関係なく、目の前にいる赤子には特別な吉相があるのだ。
赤子は自分のことをじっと見ている晴明の顔を見て、不思議そうな表情を浮かべている。
息を吸い込んだ晴明は、手に持ったふたつの賽子を敷いた紙の上に振った。
ゾロ目だった。まさかと思い、もう一度賽子を振る。またゾロ目である。二度もゾロ目が出たことで、周りにいた人たちもざわつく。これは吉凶のどちらなのだと、晴明に聞きたそうにしている。しかし、晴明はその人々のことが見えないかのように、もう一度賽子を手に取ると紙の上に振った。三度目のゾロ目であった。
晴明は、ぎゅっと目を瞑った。全身からじっとりとした汗が吹き出すのがわかる。このようなことが有り得るのだろうか。
「どうした、晴明。なにがわかったのだ」
ついに我慢できなくなった兼家が晴明に問いかけてきた。
初めての出来事だった。ゾロ目が続く。それは偶然起きることかもしれないが、三度振って、三度ともゾロ目が出るというのは、そうそうあることではない。
もしかすると、この赤子は将来とんでもない人物になるやもしれん。晴明はそう思いながら、赤子の顔をじっと見つめた。
「どうしたのだ、晴明」
何も答えない晴明に、兼家が再び聞く。
「失礼いたしました。詮子様についてですが、大変素晴らしい結果が出ております。大事に育ててくださいませ」
口の中がからからに乾いていた。この吉相といい、ゾロ目の続きといい、一体この赤子は将来どのようになるというのだろうか。
「そうか、そうか」
晴明の言葉を聞いた兼家は嬉しそうに言うと、上機嫌になった。
別に兼家のご機嫌を取るために言ったわけではなかった。この赤子がとんでもない人物になると、占いの結果が示しているのだ。
上機嫌の兼家は、晴明に高そうな酒を土産で持たせ、さらには牛車で屋敷まで送り届けてくれた。
今後も兼家とは良い付き合いをしていく必要があるな。晴明はそんなことを思いながら、牛車に揺られていた。
牛車に揺られながら晴明は、東の空に輝く星があったという道真の話を思い出していた。東の空。それは東三条を現しているのではないだろうか。そして、輝く星は兼家の子の誕生を指しているに違いない。晴明はそう読み解くと、はやくその子に会ってみたいものだと思っていた。
「おい、晴明を連れてきたぞ」
兼家は屋敷に着くなり、そう家人たちに告げる。すると、兼家に仕えている女房たちが噂の陰陽師の姿をひと目見ようと、こそこそと柱の陰からこちらを覗いたりしはじめた。別に美男というわけでもなければ、若い男というわけでもない。ただ、よく当たる占いができる中年陰陽師なのだが、なぜか女房たちは羨望の眼差しでこちらを覗いていた。
遠くの方から赤子の泣き声が聞こえてきた。元気の良い子のようだ。
晴明はひと安心した。もし、病に罹っている子を占えなどと言われれば、責任は重大となる。病に対しては祈祷を行い、病の原因となっている鬼や物怪を祓うというのが陰陽師の仕事の一つでもあったが、晴明はこの祈祷があまり好きではなかった。
なぜなら、流行り病などの病気は祈祷したところで治ることはないからだ。あれは一度罹ったら最後であり、どんなに祈祷したとしても無理なものは無理であった。
しばらくして、晴明は奥の部屋へと通された。広い部屋であり、その部屋の中央には赤子を抱いた女性がおり、その周りを囲むように女房と思われる女性たちが大勢いる。
兼家は嬉しそうな顔をしながら、赤子を抱いた女性に近づいていくと、晴明の方を見て言った。
「陰陽師の安倍晴明を連れて来たぞ。我が子について占ってもらう」
「まあ、陰陽師の方が」
「安倍晴明にございます」
晴明は女性に頭を下げた。この女性は摂津守藤原中正の娘で、兼家の妻である時姫であった。すでに時姫は兼家との間に二人の男児と一人の女児を授かっており、この赤子が四人目の子であった。
「まあ、貴方がかの有名な晴明様なの」
時姫がそう言うと晴明はにっこりと微笑んだ。様々なところに蒔いた種は、順調に芽を出しているようだ。
しかし、その発言を聞いた兼家は面白くないといった顔をしている。なぜ自分よりも身分の低い者に対して様付けをして呼ぶのだろうか。そう思っているに違いなかった。
それを察した晴明は、咳ばらいをするとすぐに占いの準備に取り掛かった。陰陽師の占いというのは、筮竹と呼ばれる竹の棒を使って行うことが多いのだが、ちょうど晴明は仕事帰りに兼家から声を掛けられたということもあり道具を持ち合わせてはいなかった。しかし、道具が無くとも代用品はどこにでもあるのだ。晴明は普段から持ち歩いている巾着袋を水干の懐から取り出した。
その様子を見た時姫と周りの女房たちは、興味津々といった表情で晴明の手元を覗き込む。
晴明が巾着袋の中から取り出したのは、ふたつの賽子だった。賽子は出た目を使って占いが出来るため、占いの道具の代用品として重宝している道具のひとつであった。
「では、お子様の性別からお聞きしてもよろしいでしょうかな」
そう言って晴明は赤子の顔を覗き込んだ。赤子の顔を見ただけでは性別を判断するのは難しい。下手にそれを口にして外れてしまえば、占いの信用度も落ちてしまうというものだ。だったら、聞いておいた方が良いだろう。そう晴明は判断して、兼家に問いかけたのだった。
「女子だ。目がくりくりとして可愛いであろう。将来は時姫に似て美しくなるぞ」
「まあ、兼家様ったら」
その様子を見て晴明は、なるほどと思った。藤原兼家という男は女性の扱い方に長けているようだ。たしか、他にも妻がいるはずだ。多くの妻を抱えられる財力もあるが、それ以上に女性を喜ばせる言葉などを熟知している。きっと若い頃から女性に人気があったに違いない。
晴明は賽子を手に取ると、紙の上に何度か振って見せた。
周りにいた人々は固唾をのんで、その様子を見つめている。しかし、その賽子の出た目が何を意味しているのかをわかっている人間は誰もいなかった。それどころか、晴明がいま何をやっているのかすらもわかる人間はいないのだ。
「では、お子様の名前を教えて下さい」
「詮子だ」
兼家はそう答えると時姫からまだ首の座っていない赤子を受け取り、抱きかかえて晴明の前へと連れてきた。
その赤子が目の前に現れた時、その場の空気が一変したように晴明は感じた。
可愛らしい大きな眼に、ふっくらとした頬。赤子は誰が見ても可愛く見えるものであるが、その赤子の顔を見た晴明は、驚きを隠せなかった。
陰陽道には、易の他に人相を見て占うというものもある。目や鼻、口などの形を陰陽五行に合わせて読み解き、その人間の良いところや悪いところを占うのだが、その赤子の顔を見た時、晴明は驚きを隠せなかった。
何なのだ、この赤子は。晴明は心の中で呟く。このような吉相を持った赤子などは、いままで一度も見たことはなかった。赤子の顔を見るまでは、東の空に輝く星の話を聞いたことによる先入観は確かにあったかもしれない。しかし、そんな話など関係なく、目の前にいる赤子には特別な吉相があるのだ。
赤子は自分のことをじっと見ている晴明の顔を見て、不思議そうな表情を浮かべている。
息を吸い込んだ晴明は、手に持ったふたつの賽子を敷いた紙の上に振った。
ゾロ目だった。まさかと思い、もう一度賽子を振る。またゾロ目である。二度もゾロ目が出たことで、周りにいた人たちもざわつく。これは吉凶のどちらなのだと、晴明に聞きたそうにしている。しかし、晴明はその人々のことが見えないかのように、もう一度賽子を手に取ると紙の上に振った。三度目のゾロ目であった。
晴明は、ぎゅっと目を瞑った。全身からじっとりとした汗が吹き出すのがわかる。このようなことが有り得るのだろうか。
「どうした、晴明。なにがわかったのだ」
ついに我慢できなくなった兼家が晴明に問いかけてきた。
初めての出来事だった。ゾロ目が続く。それは偶然起きることかもしれないが、三度振って、三度ともゾロ目が出るというのは、そうそうあることではない。
もしかすると、この赤子は将来とんでもない人物になるやもしれん。晴明はそう思いながら、赤子の顔をじっと見つめた。
「どうしたのだ、晴明」
何も答えない晴明に、兼家が再び聞く。
「失礼いたしました。詮子様についてですが、大変素晴らしい結果が出ております。大事に育ててくださいませ」
口の中がからからに乾いていた。この吉相といい、ゾロ目の続きといい、一体この赤子は将来どのようになるというのだろうか。
「そうか、そうか」
晴明の言葉を聞いた兼家は嬉しそうに言うと、上機嫌になった。
別に兼家のご機嫌を取るために言ったわけではなかった。この赤子がとんでもない人物になると、占いの結果が示しているのだ。
上機嫌の兼家は、晴明に高そうな酒を土産で持たせ、さらには牛車で屋敷まで送り届けてくれた。
今後も兼家とは良い付き合いをしていく必要があるな。晴明はそんなことを思いながら、牛車に揺られていた。
21
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー
長髄彦ファン
歴史・時代
日向の皇子・磐余彦(のちの神武天皇)は、出雲王の長髄彦からもらった弓矢を武器に人喰い熊の黒鬼を倒す。磐余彦は三人の兄と仲間とともに東の国ヤマトを目指して出航するが、上陸した河内で待ち構えていたのは、ヤマトの将軍となった長髄彦だった。激しい戦闘の末に長兄を喪い、熊野灘では嵐に遭遇して二人の兄も喪う。その後数々の苦難を乗り越え、ヤマト進撃を目前にした磐余彦は長髄彦と対面するが――。
『日本書紀』&『古事記』をベースにして日本の建国物語を紡ぎました。
※この作品はNOVEL DAYSとnoteでバージョン違いを公開しています。
直違の紋に誓って
篠川翠
歴史・時代
かつて、二本松には藩のために戦った少年たちがいた。
故郷を守らんと十四で戦いに臨み、生き延びた少年は、長じて何を学んだのか。
二本松少年隊最後の生き残りである武谷剛介。彼が子孫に残された話を元に、二本松少年隊の実像に迫ります。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
紅花の煙
戸沢一平
歴史・時代
江戸期、紅花の商いで大儲けした、実在の紅花商人の豪快な逸話を元にした物語である。
出羽尾花沢で「島田屋」の看板を掲げて紅花商をしている鈴木七右衛門は、地元で紅花を仕入れて江戸や京で売り利益を得ていた。七右衛門には心を寄せる女がいた。吉原の遊女で、高尾太夫を襲名したたかである。
花を仕入れて江戸に来た七右衛門は、競を行ったが問屋は一人も来なかった。
七右衛門が吉原で遊ぶことを快く思わない問屋達が嫌がらせをして、示し合わせて行かなかったのだ。
事情を知った七右衛門は怒り、持って来た紅花を品川の海岸で燃やすと宣言する。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
高天神攻略の祝宴でしこたま飲まされた武田勝頼。翌朝、事の顛末を聞いた勝頼が採った行動とは?
俣彦
ファンタジー
高天神城攻略の祝宴が開かれた翌朝。武田勝頼が採った行動により、これまで疎遠となっていた武田四天王との関係が修復。一致団結し向かった先は長篠城。
春雷のあと
紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。
その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。
太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる