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迷宮のキス

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 三半規管が狂ってしまったのか、目眩がひどい。
 眼前にあるコートの金色のボタンが、ぐるぐるとゆっくり回転した。
 金色のボタンには、図案化した勿忘草がデザインされている。ボタン一つに拘るなんて、なかなか洒落た男性だ。
「しっかりしろ、マチルダ。君は一人ではない」
 ロイはマチルダの肩を揺すぶり、現実世界へと引き戻そうとする。
「私がいるだろう? 」
 鼓膜まで届いた、諭すような柔らかな口調。
 それはまさに、ヴィオラが奏でるメロディのようで。ごく自然にマチルダに馴染んだ。
 張り詰めていた糸がゆっくりと解れていく。
「ロイ? 」
 彼女は聞き覚えのあるその声の主の名を舌先に乗せた。
 不意に強く引き寄せられる。
 柑橘の匂いが鼻腔に充満した。
 腰に回された手はまるで鎖のように絡みつき、ぎっちりと彼女の体を締め付ける。
 鼓動が直にマチルダの耳奥まで入り込んだ。心臓を打つそのリズムは一定の間隔を弾くものの、異常な速さだ。
「ロイ? 」
 再度、尋ねてみる。
「ああ。正真正銘のロイ・オルコットだ」
「本物? 」
「ああ。本物だ」
 呟きは、マチルダの唇に重なり途切れた。
 ピッタリと合わさった唇は、やがてゆったりした彼の舌の動きによって引き結びを解かれ、あっと言う間にマチルダの口腔へ侵入を果たす。
 マチルダの記憶に残っていた柔らかな感触が、以前と同じように口内を這い回した。歯列を辿りながら、ゆったりした動きを持って舌先を絡ませる。
 かと思えば、慎重に口内を粘膜を舐め取っていく。
 彼のキスに荒々しさは微塵もなく、マチルダの反応一つ一つをしっかり確かめ、彼女を昂らせた。
 息継ぎで唇が離れる。
 ジンジンと口内が痺れた。
「本当だわ。唇が温かい」
「ああ。そうだ」
 再び彼の唇が重なる。
 ロイはマチルダの後頭部に手を添えると、己の元へと引き寄せた。
 柔らかな舌先の動きは同じだが、その繋がりは今しがたよりもさらに深い。
 マチルダは魂までもが彼に吸い上げられていく錯覚に陥った。
「おい。監視の従僕が報せて来たぞ」
 面倒臭そうに何やら口中で文句を垂れながら、ジョナサン卿がひょっこりと角から顔を覗かせた。
「マチルダ嬢、随分と迷っているそうじゃ……ないか……」
 と、語尾が小さくなる。
 熱烈なキスシーンが飛び込んで来て、男爵は目を見開いたままその場に立ち尽くした。
 爪先立ちになり顔の角度を変えてキスを深めていくマチルダは、まさしく蠱惑的。妖艶さが半端ない。
 彼女がキスしやすいように屈んで男爵に背中を向けているロイによって、その姿は隠されていたが、キスをする角度が変わるたび垣間見える。その、ほんの一瞬でたちまち虜にされる。
 ジョナサン卿には溺愛する妻がいるから、そんな妖しさには引っ掛かからないが。
 愚かな男なら、たちまちマチルダの婀娜な雰囲気に飲み込まれ、雁字搦めにされて、逃げ出せなくなるのは間違いない。
 まさしく男を狂わせる。
 まるで活動写真のワンシーンを鑑賞しているような。
 ジョナサン卿の気配にとっくに気づいていたロイは、邪魔するなとシッシッと後ろ手で振って追い払う。
「これは失礼」
 たちまち顔を赤らめたジョナサン卿は、早足で引き返した。




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