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第五章
喫茶乙羽
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相変わらず畳の上に散乱する脱ぎっ放しの羽織りや分厚い辞書のある自室で、吉森は黙々と支度に取りかかっている。
鼠色の背広に揃いのズボンといった洋装は、動きに配慮してのことだ。
高柳のことを調べるには足で稼ぐしかない。草履では何かと不都合がある。
吉森が外套に袖を通すのを手伝いながら、森雪は必要以上に耳元に唇をつけて問いかけてきた。
「今日はどちらへ? 」
「いい。一人で行く。ついてくるな」
「そういうわけにはいかないでしょう」
「何だ。用心棒気取りか」
吉森の嫌味にも全く気にした素振りを見せず、むしろ愉快そうに声を上げて笑う。
「兄さんの行き先くらい、およそ見当がつきますよ」
革の手袋を片方嵌める吉森に向かって、森雪はニッと歯を覗かせる。
「高柳公彦の生家でしょう」
「な、何だと」
すっかり見透かされていたことで、吉森は動揺を隠し切れず、危うくまだ嵌めていない手袋を足元に落としかけた。
「役場に行っても無駄ですよ。あの男は孤児で、育ての親はやつが上京する以前に亡くなっています」
「嘘だろ」
すっかり先読みされ、しかも行動を頭から否定されたことで、気が遠くなりかけた。
森雪は黙って吉森の指に手袋の先を通すと、懐から見慣れぬ鍵を取り出し、目線の先に掲げる。
「ついて来て下さい」
襖を開けるなり、もう階段の板を踏みしめる音がした。
目に前にちらつかせられた鍵は、辰川所有の車のもので、運転手は森雪だ。彼は難なくハンドルを操作している。
吉森は手袋を引き抜くと、両手でぐしゃぐしゃに丸め込んだ。
「運転出来るなんて聞いてないぞ」
「この十年、時間はたっぷりありましたから」
「それなら、何でこの間、市電を使ったんだ」
「兄さんの色っぽさを見せびらかすつもりでしたが、女達の目が予想外に集まったものでね。惜しくなりました」
「女共の視線は、お前に向けたものだろ」
「兄さんは、何もわかっていませんね」
運転中でなければ、真後ろから拳骨を見舞ってやっていたところだ。皮肉はたくさんだ。
そうこうしているうちに、車は繁華街を走る。街頭音楽の軍艦マーチが窓を閉め切っていても鼓膜にいやに響く。
辰屋のある一帯は昔ながらの瓦屋根が続いていたが、町の中心部ともなれば派手でけばけばしい看板のビルが建ち並び、車のクラクションが喧しく、偉そうにふんぞり返って歩く陸軍将校の姿が目立つ。新聞の見出しは近頃戦争一色で、南京の攻略や上海に関する文字ばかりが躍っていたが、郊外では全くもって別世界、今いちピンと来なかった。車窓を見てようやくそれが正しい情報であったと納得する。
繁華街を抜けた車は、ひっそりとした建物の裏側にあたる路地に入った。
路面はごみで溢れ返り、野良犬がうろついている。昼間なのに四方をビルに囲まれているせいで薄暗く、どことなく陰気な空気が漂っている。
路地の片隅に車を停止させた森雪は、降りるなり、紳士ぶって吉森側のドアを開けた。まるで令嬢にするかのように手を差し伸べ、吉森の降車を介添えする。
「ここは?」
目と鼻の先にあるのは、ひび割れたコンクリート造りのビルだった。おそらく昭和の初め頃に建築されたのだろう、年季がある。そのビルの前にも廃品がうず高く積まれている。木製の扉には安物の青いペンキが塗られ、今にも外れそうな取っ手がちょこんと付いており、森雪は惑うことなくその取っ手を引いた。
表の立て看板には、『喫茶乙羽』とある。十畳ほどの狭い店内にはカウンターが五席、テーブル席が三席で、通路はぎりぎり人が通れる程度。しかし、よくある喫茶店の洒落て清潔そうな雰囲気ではなく、どちらかといえば安っぽいカフェーの成り損ないといった方がいい。カウンターの隅の席に、誰かが座っていた。
鼠色の背広に揃いのズボンといった洋装は、動きに配慮してのことだ。
高柳のことを調べるには足で稼ぐしかない。草履では何かと不都合がある。
吉森が外套に袖を通すのを手伝いながら、森雪は必要以上に耳元に唇をつけて問いかけてきた。
「今日はどちらへ? 」
「いい。一人で行く。ついてくるな」
「そういうわけにはいかないでしょう」
「何だ。用心棒気取りか」
吉森の嫌味にも全く気にした素振りを見せず、むしろ愉快そうに声を上げて笑う。
「兄さんの行き先くらい、およそ見当がつきますよ」
革の手袋を片方嵌める吉森に向かって、森雪はニッと歯を覗かせる。
「高柳公彦の生家でしょう」
「な、何だと」
すっかり見透かされていたことで、吉森は動揺を隠し切れず、危うくまだ嵌めていない手袋を足元に落としかけた。
「役場に行っても無駄ですよ。あの男は孤児で、育ての親はやつが上京する以前に亡くなっています」
「嘘だろ」
すっかり先読みされ、しかも行動を頭から否定されたことで、気が遠くなりかけた。
森雪は黙って吉森の指に手袋の先を通すと、懐から見慣れぬ鍵を取り出し、目線の先に掲げる。
「ついて来て下さい」
襖を開けるなり、もう階段の板を踏みしめる音がした。
目に前にちらつかせられた鍵は、辰川所有の車のもので、運転手は森雪だ。彼は難なくハンドルを操作している。
吉森は手袋を引き抜くと、両手でぐしゃぐしゃに丸め込んだ。
「運転出来るなんて聞いてないぞ」
「この十年、時間はたっぷりありましたから」
「それなら、何でこの間、市電を使ったんだ」
「兄さんの色っぽさを見せびらかすつもりでしたが、女達の目が予想外に集まったものでね。惜しくなりました」
「女共の視線は、お前に向けたものだろ」
「兄さんは、何もわかっていませんね」
運転中でなければ、真後ろから拳骨を見舞ってやっていたところだ。皮肉はたくさんだ。
そうこうしているうちに、車は繁華街を走る。街頭音楽の軍艦マーチが窓を閉め切っていても鼓膜にいやに響く。
辰屋のある一帯は昔ながらの瓦屋根が続いていたが、町の中心部ともなれば派手でけばけばしい看板のビルが建ち並び、車のクラクションが喧しく、偉そうにふんぞり返って歩く陸軍将校の姿が目立つ。新聞の見出しは近頃戦争一色で、南京の攻略や上海に関する文字ばかりが躍っていたが、郊外では全くもって別世界、今いちピンと来なかった。車窓を見てようやくそれが正しい情報であったと納得する。
繁華街を抜けた車は、ひっそりとした建物の裏側にあたる路地に入った。
路面はごみで溢れ返り、野良犬がうろついている。昼間なのに四方をビルに囲まれているせいで薄暗く、どことなく陰気な空気が漂っている。
路地の片隅に車を停止させた森雪は、降りるなり、紳士ぶって吉森側のドアを開けた。まるで令嬢にするかのように手を差し伸べ、吉森の降車を介添えする。
「ここは?」
目と鼻の先にあるのは、ひび割れたコンクリート造りのビルだった。おそらく昭和の初め頃に建築されたのだろう、年季がある。そのビルの前にも廃品がうず高く積まれている。木製の扉には安物の青いペンキが塗られ、今にも外れそうな取っ手がちょこんと付いており、森雪は惑うことなくその取っ手を引いた。
表の立て看板には、『喫茶乙羽』とある。十畳ほどの狭い店内にはカウンターが五席、テーブル席が三席で、通路はぎりぎり人が通れる程度。しかし、よくある喫茶店の洒落て清潔そうな雰囲気ではなく、どちらかといえば安っぽいカフェーの成り損ないといった方がいい。カウンターの隅の席に、誰かが座っていた。
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