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第五章

別の顔

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「ごめんなさいねぇ。まだ時間じゃないのよ」
「準備のときに悪いね」
 森雪の声に、カウンターにいた四十半ばらしい女性は目を見開いた。
「あらぁ! 」
 どうやら、この店の主のようで、素っ頓狂なハスキー声を上げた。女は、肩が露出し、胸の谷間が強調された絹のドレスを纏っている。深い皺を隠すための濃すぎる白粉の匂いはきつく、おまけに香水まで振りかけているので、気分が悪くなってしまう。
 平然としている森雪のその神経には、拍手してやりたいくらいだ。
 皺を伸ばす効果だろうか。髪を後ろの高い位置で一括りにしているその女は、森雪を手招きする。
 森雪は彼女の席の真横に腰を下ろした。
 それを合図のように、女はうっとりした目つきでしなだれかかった。
「旦那ぁ。最近、ご無沙汰じゃなぁい? 」
「何かと忙しくてね」
「酷いわぁ。私、寂しくて寂しくて」
 やけに馴れ馴れしい。しかも、吉森の姿は眼中にない。むかっとする怒りを、上等の革製の手袋を皺だらけに握ることで何とか抑え込んだ。
 そんな吉森の態度を横目に、森雪は苦笑混じりに女の背中を軽く撫でる。またしても、吉森は手袋をくしゃくしゃにした。
「今日は連れがあるんだ。社交辞令はそのくらいで、もういいよ」
「あら、いらっしゃぁい」
 その段になって、女はようやく戸口でむっつりと口を尖らせる吉森に気付いた。
「お麦酒ビールでよろしい? それとも珈琲?」
「珈琲を。開店前に悪いね」
「旦那だから。特別よぉ」
 年の割に甘ったれた声を上げ、煙草のやにで汚れた並びの悪い歯を剥いてニタニタ笑えば、下品さがさらに増す。
 吉森の愛人だった小十菊は性に奔放だった割に上品ぶっていたので、同じ年頃でも正反対の雰囲気を醸し出している。
 女がカウンターに入ったのと入れ違いに、吉森は席に着いた。
 出された珈琲は珈琲とも呼べない代物で、珈琲を水で薄めた茶色い飲み物としか言いようがない。一口啜れば、やはり予想通りの味で、吉森は不味そうに顔をしかめた。
「こんなところで遊んでいるのか、お前は」
「時々ね」
「随分と、お楽しみのようだな。俺なんかにかまけていないで、もっと他に優しくしてやったらどうだ」
 などと女をチラリと見ると、もう素知らぬ顔で煙草なぞふかしている。
 森雪はカップの縁を指でなぞりながら、流し目を吉森に呉れた。
「嫉妬しなくても、僕は兄さん一筋ですよ」
「だ、誰が嫉妬なんかするか!」
 カーッと頭に血を昇らせる吉森を無視し、森雪は女の方を向く。
「今日来たのは、高柳についてなんだけど」
 煙を小さな輪にして、女はけだるそうにカウター越しから眺めてきた。
「あんな胸糞悪いやつのことかい?」
 鼻に皺を寄せ、心から嫌そうに女は目を眇める。そのせいで、目尻の皺がくっきりと深くなった。
「辛くさせてしまうのがわかるが、どうか話してやってくれないか」
「何でまた」
「高柳の外面にころっと騙されてしまっているこの人に、現実を教えてやってほしいんだ」
「まあ、旦那の頼みならねぇ」
 煙草を灰皿に揉み消すと、だるそうに小首を傾げた。ちゃっかり自分の分の麦酒も用意してあり、表面の白い泡を舐める。女は口を開いた。
「あいつはね、私を孕ませておいて、子供はいらないからと、この腹を何度も何度も拳で殴りつけたんだよ」
「まさか」
 掃除婦の話を根底から引っ繰り返す高柳という男の人物像に、吉森は絶句する。
「赤ん坊は死産。私は二度と子供を産めない体になっちまったんだよ」
 言いながら、女は己の腹部を手で円く擦った。
「酷い男さ」
 新しい煙草を銜えると、女は火を点けた。
「高柳と、森雪は瓜二つなんだろ」
「よく知ってるねぇ」
 窄めた唇から吐き出される細い煙。
「幾ら顔が似てたからって、旦那とあの胸糞悪いやつは別人さ。性根が違う」
 そのとき、電話がジリリリリと鳴った。
 女がこれ以上話を続けたくなかったのは明らかで、これ幸いと受話器を取る。普及率の低い電話が、このようなちっぽけな店に備えられているということは、女には森雪を含めたパトロンが何人かいるのだろう。
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