寡黙な消防士でも恋はする

晴 菜葉

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 酔った勢いの過ちにしてしまえば、巧く誤魔化せたはずだ。
 だが、一旦自覚してしまえば、そうは問屋が卸してくれない。
 十三年前、日浦のせいで危うく開きそうになった扉を慌てて閉じた。
 世間体とか男の矜持諸々のややこしさを一蹴する世界が、扉の向こうに広がっている。まだ十七という若さで足を踏み出すことに怖じ気づき、俺は自らまでもを封印して何とか遣り過ごした。
 日浦に一目惚れした俺のままでいると、それが鍵となっていつ開いてしまうかわからない。
 性格も見た目も、感情さえひっくるめて、俺という一つの個体はこの世から存在を消した。そして、鉄仮面の誕生だ。
 だが、自らの酒癖によって、鍵を破壊してしまった。
 今まさに扉は動き、隙間が出来ている。勢い任せに押してしまえば、ウェルカムの状態だ。
 飛び込むにはまだ勇気が出ない。手離せないしがらみが幾つもある。俺の脳裏を春花のあどけない笑顔がちらついた。
 大黒谷の現場で、大隊長より鎮火が言い渡されたのは、二時間後の午後三時。ガキの妹分のヒナちゃん雌五歳は、俺達によって無事に救出された。良かった良かったとわんわん泣くガキを、日浦はやけに優しく穏やかな目で見つめていた。
 そのまま、優しい目をしてりゃ良かったんだよ。
「逃げるな」
 署に戻って、報告書を書き終え、やれやれと便所に入った俺を、何と日浦は追いかけてきて、この台詞だ。目つきがいつになく鋭いのは気のせいではない。
「さりげなさを装ってるみたいだけど、避けてるのはバレバレなんだよ」
 だから、何で後ろ手に鍵を閉めるんですか。
「ちゃんと話をしよう」
 何の話だよ。俺は無視して用を足す。日浦はそれを黙って戸に凭れて眺めていた。やりにくいな。
「あの夜のあっちゃんは、最高だった」
 平常心でファスナーを上げるが、指先の震えは止まらない。こいつ。何だってこうストレートなんだ。億面のない言い方に、こっちが照れるわ。これが、日浦和樹のモテル所以だろうか。
「はっきり言って、俺はあっちゃんに惚れてる」
 終えて洗面台の前に立ったタイミングで、日浦は口を開いた。
 まさかの台詞に、頬肉が引き攣った。
 日浦が追いかけてきた時点で、ある程度の言動をシュミレートしていたが、その中にこれは入っていなかった。
 こいつ、惚れてるって言ったぞ。確かに言った。俺に惚れてるって。心の中ではぎゃああああと悶えて転げ回すが、あくまで面は平静を装う俺。
「消防大会のとき、一人だけいい動きするやつがいて。釘付けになった」
 十八で消防士となり、初めて出場した大会が蘇る。年に一度、市局のお偉いさん方が来賓として来るその大会に、俺の負けず嫌いなヤンキー気質がむくむくと湧いた。鉄仮面として抑え込んでも、本能までは収まりがきかない。並み居る強敵からぶち抜きで、ロープブリッジ透過、ロープ応用登攀、障害突破を繰り出した。おお、と来賓の感嘆したどよめきに、ますます俺は奮起した。若かった。
「無愛想で何考えてるやつか、全然わからんけど。だからこそ、こいつ今、何思ってるんだとか。大会で会うたびに興味が湧いて。だんだん、目が離せなくなって」
 俺が見ていたのと同じように、日浦も俺を見てくれていた? 
 まさか。
 俺が視線を向けると、決まって日浦は若い女の子に取り囲まれてへらへら鼻の下を伸ばしていたじゃねえか。
「散々、女の尻追いかけ回してたじゃねえか」
「認められるわけないだろ。俺が、あろうことかこんなごっつい男に、ほ、惚れてるなんて」
 ごっついって何だ。惚れてるの部分で可愛らしく頬染めてんじゃねえ。
「で、自分の気持ちを軌道修正するために、女にちょっかいかけまくってたってか?ふざけるな」
 蛇口を捻った途端、勢いよく水が落ちて来る。チラリと鏡越しに日浦の顔を確認すると、やつは神妙な面持ちで腕を組んでいた。
「お前が結婚するって聞いて、自分の気持ちを認めざるを得なかった。ヤケクソで無茶な救助やって、死にかけたし」
 声は微かに震えている。泣いているのかと思えるくらいの弱々しさだった。
 ハッと鏡を凝視すると、俺の想像とは真逆で、いつになく険しい日浦の顔があった。
 まるで災害現場に赴く直前の、緊張で神経がぴんと張り詰めたときと同じ、きつい目。
 まさしく、この目。俺はこの目に一発で堕ちた。
「だ、だからって。そう簡単に『俺も』ってわけにはいかないだろ」
 生憎と俺は男で、性転換など目論んではいないので、親から頂戴したこの身で一生を全うする覚悟だ。そんな俺が、同じく男の日浦と簡単にどうにかなれるとは思わない。
 俺は日浦に惚れてる。それは認めよう。 
 だからって、それをこいつに言うつもりはない。心の奥底に仕舞い込み、一夜の過ちが風化することをひたすら待つだけだ。 
 認めたからって、日浦とどうこうなるには、障害が多過ぎる。世間の風はまだまだ冷たいんだ。
「酒、入ってないのに饒舌だな。少しは意識してくれてるって思っていい?」
「お、思い上がるな!」
 俺の頭の中に、セーラー服を着た十年後の春花が現れた。肯定なんて出来るわけがない。
「あ、あれは酒の上での過ちだ!」
「言ってることと表情が真逆をいってるぞ」
 真後ろからにゅっと手が伸びて、蛇口を締められる。固い胸筋が俺の腕に触れた。
 妙に速まった脈を気付かれまいと、わざと大声を出したのに、日浦はさらっと流した。
「自惚れてもいい?」
 耳朶に吹き掛かる熱い息。ぐにゃり、と思春期の春花の笑顔が、角を生やさんばかりの憤怒の表情に取って替わった。わかってる。だから怒るな、春花。
 認めちゃいけない。認めちゃ駄目だって。
「キスしても?」
「だから。い、いちいち聞くな」
 認めちゃ駄目なんだよ。俺の理性の部分が大声で叫んでいる。しかし、それを押し退けた本能が答えていた。
 何故か俺の心を正しく読む日浦。今もちゃんと見抜いている。
「じゃあ、俺の好きにさせてもらう」
「勝手にしろ」
 ああ。天の邪鬼な俺。駄目だ駄目だ駄目駄目と呪文のように繰り返せば、反して本能がそれを覆そうとする。絶対に手に入らないと諦めていたのに、「やる!」と相手の方からこっちに向かってきたのだ。両手を大きく広げて。舞い上がらないはずがないだろう。
 春花、ごめん。不潔だ汚らわしい、血の繋がった父親の相手が男だなんて信じられないと、幾らでも罵声を浴びせてもらって構わない。張り手の一つや二つどころか、エルボーやバックドロップだって甘んじて受け止める。
 だから、許してくれ。
 俺は瞼を閉じた。
 間もなく訪れる濃厚な口づけを受け入れるために。
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