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第5部 赤壁大戦編
歴史解説 赤壁の戦いその3
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前回は劉備が長坂で曹操に敗れ、逃走のなか、魯粛の提案を受けて、孫権を頼る道を選んだところまで述べた。今回はその孫権と彼の江東政権について述べていこうと思う。
◎孫権陣営の赤壁前夜
『呉の孫権から派遣された魯粛は当陽にて劉備と合流した。呉巨を頼り、交州に赴こうとする劉備に対し、魯粛は「孫権様は聡明にして人徳があり、六郡を支配し、軍は精鋭で食糧も豊富で、大業を打ち立てるに充分です。劉備様は腹心を遣わし、呉と同盟を結び、共に大業を成し遂げることが最良です。それに頼ろうとしている呉巨は平凡な男で、僻地におり、いずれ誰かに併呑されるでしょう」と述べ、呉との同盟を勧めた。』[先主伝]
なお、余談ながら、呉巨はこの二年後の210年、孫権の部下・歩隲(本編未登場)に斬られ、交州は徐々に孫権の支配下へと入っていくこととなる。[士燮伝、歩隲伝]
魯粛がこの時、呉巨はいずれ誰かに併呑されると述べたが、結局、孫権によって併合されることとなった。
『また、魯粛は孔明に対して、「私はあなたの兄の諸葛瑾(本編、ショカツキン、87話より登場)殿と友人です」と述べて交流した。孔明は劉備に「事態は切迫しております。私は孫権様に救援を求めたいと思います」と述べ、劉備はこれを承知し、顎県にたどり着くと、孔明と魯粛を呉へ送り出し、自身は樊口に駐留した。』[先主伝、諸葛亮伝、魯粛伝]
孔明の兄・諸葛瑾と魯粛は孫権に代替わりした頃に仕えた。また二人とも徐州の出身である。諸葛瑾は戦乱を避けて江東に移住し、後に孫権に仕えた。魯粛もまた親交のあった周瑜を頼って江東に赴き、後に周瑜の勧めで孫権に仕えた。年齢は魯粛の方が2歳年長になる。(この時、魯粛37歳、諸葛瑾35歳、孔明28歳)立場も境遇も年齢も近かったから二人は親しくしていたのだろう。
顎県は江夏郡に属し、先の話ではあるが221年には武昌県と名を改められた。領内を長江が流れ、県の北西、長江の流れるところを樊口という。
なお、劉備が樊口に駐留したという記述は注に引く『江表伝』にあり、『正史』には劉備は夏口にいたとある。夏口も江夏郡に属し、長江とその支流である漢水の交わる場所で、樊口より少し西寄りにある。
場所が近いので些細な差といえばそれまでだが、この時、劉備と劉琦は合わせて二万の兵を擁していた。曹操軍に比べれば少ないが、それでも万の兵であり、あるいはこの時、劉備と劉琦で夏口と樊口の二拠点を抑えていたのではないだろうか。『江表伝』の記述から劉備は鄂県を通り、孔明を送り出してから樊口に至ったとあることから、夏口には劉琦、樊口には劉備がいたのだろう。
劉備が樊口に移ったのは、孫権との連絡ルートの確保、また、万一の撤退ルートの確保だろう。劉琦のいる夏口は先代の江夏太守・黄祖が拠点としていた土地で、黄祖は卻月城(別名、偃月城)を築いていたが、この年の春の孫権の江夏侵攻で、孫権軍により廃城となったという。おそらく劉琦はこの城を修復したか、新たに築城したかしてこの辺りに防衛拠点を築いて、そこに籠城したのではないだろうか。(卻月城の側の魯山城は一説に劉琦が江夏太守に就任後築かれたというが、出典が不明確であったために紹介するだけに止める)
孫権からの救援が得られぬまま曹操が江夏郡に侵攻した場合、夏口に籠城する劉琦が曹操を食い止め、劉備が外から襲撃するというのが彼らの計画だったのではないだろうか。また、孫権が曹操に協力して参戦するという最悪の事態も想定できるが、その場合は劉備が孫権軍を引き受ける形となったのだろう。
実際には孫権が劉備と手を組み、夏口より手前で赤壁の戦いとなるので、夏口を舞台とした劉備・劉琦軍対曹操戦は幻となる。
話を孫権に移そう。
『この時、孫権は軍勢を率いて柴桑に駐屯していた。既に曹操は荊州を手に入れ、劉備を破ったばかりであったから、孫権の張昭を始めとする臣下一同も皆畏れをなして、孫権に曹操に従うよう勧める者が多かった。』[諸葛亮伝、呉主伝、周瑜伝、魯粛伝、張昭伝]
孫権が駐屯していた柴桑は揚州予章郡に属す。劉備が駐屯する樊口とは長江で繋がっている。かつて江夏太守の黄祖が予章郡へ侵攻した時(206年)、まず侵入したのが柴桑であった。柴桑は江夏郡と予章郡を繋ぐ、揚州の玄関口といえる。
◎孫策の死と孫権の継承
ここで揚州を中心に勢力を築いていた孫権と、ここに至るまでの経緯について解説しよう。
孫権の父は孫堅という。
『孫堅はあまり名のある一族の出身ではなかったが、武勇があり、地方の反乱鎮圧等で名を上げ、破虜将軍・予州刺史に出世した。だが、袁術の命(当時、孫堅は袁術の指揮下にいた)で荊州の劉表を攻めた時に戦死してしまう。』[孫堅伝]
孫堅が死に、その軍勢を引き継いだのは、息子の孫策…ではなく、甥の孫賁(本編、ソンフン、21話より登場)であった。
孫策は父が戦死した時にまだ成人しておらず、家族とともに戦乱を避けて舒県の周氏宅に疎開していた。この時、孫策は周氏の子・周瑜と親交を結び、この周瑜が大いに孫権を助けることになるのだが、それは後の話である。
対して孫策・孫権の従兄・孫賁(孫堅の兄・孫羌(本編未登場)の長子)は既に成人しており、郡の役人として働いていたが、孫堅が董卓に対して兵を上げるとそれに参加し、孫堅とともに戦っていた。
この頃の軍勢はその長男が引き継ぐという決まりがあるわけではない。そして軍勢を引き継ぐということは戦争に行くということでもある。まだ未成年で従軍経験もない息子と、成人済みで、一、二年のことではあるが孫堅とともに戦っていた甥。両者を比べた時、甥の孫賁の方が継ぐのが妥当だと判断されるのは自然な流れであった。
なお、孫賁の名前は一般的に“そんほん”と読まれるが、本編では“ソンフン”の名前で登場している。これは後に登場する弟(本編では妹)の名前が孫輔(本編、ソンホ、75話より登場)で、並んで登場した場合ソンホン・ソンホ兄妹となり、よく似ていてややこしいので兄の読みをソンフンに変更した。(今思えばこの兄妹がそろう場面はそうないので余計な気だったかもしれない)
『孫堅の軍勢を引き継いだ孫賁は、袁術の配下となり、その命に従って袁紹の任命した九江太守・周昂(本編未登場)を撃ち破った。袁術は孫賁を予州刺史とした。後に丹楊都尉に移し、征虜将軍を兼任させ、丹楊太守・呉景(本編、ゴケイ、22話より登場)(孫堅の妻・呉夫人(本編、エイ、21話より登場)の弟)とともに丹楊郡に派遣した。だが、揚州刺史・劉繇(本編、リュウヨウ、15話より登場)によって孫賁と呉景は丹楊を追い出された。孫賁らは度々劉繇軍と戦ったが、勝つことは出来なかった。』[孫賁伝]
そこへ現れたのは成長した孫策である。
『孫策は孫賁らが苦戦した劉繇を蹴散らし、瞬く間に江東一帯を攻略した。孫策は自ら会稽太守となり、叔父の呉景を再び丹楊太守とし、従兄の孫賁を予章太守とした。また、予章を分割して廬陵郡を作り、孫賁の弟・孫輔を廬陵太守とし、朱治(本編、シュチ、65話より登場)を呉郡太守に、李術(本編未登場)を廬江太守とした。』[孫策伝]
当陽で劉備に合流した魯粛が言った江東六郡とは、この時孫策が支配下においた会稽郡、丹楊郡、予章郡、廬陵郡、呉郡、廬江郡のことで、いずれも揚州に属す。
朱治は孫堅旧臣だが、孫堅戦死後に孫賁ではなく孫策に仕え、真っ先に孫策に独立をするよう説いた人物である。
李術の前歴についてはよくわからない。汝南出身なので、袁術の旧臣だろうか。前任の廬江太守・劉勲(本編未登場)は袁術旧臣で、配下に袁術残党を多く吸収していたので、それらへの配慮かもしれない。
孫堅の後継者は本来なら孫賁であったが、孫策は圧倒的な武功でもってその立場を覆した。
だが、その孫策は暗殺された。
孫策は26歳の若さで死に、その遺言により、後継者は弟の孫権となった。孫権はこの時、まだ19歳であったが、曹操によって討虜将軍・会稽太守に任じられた。[孫策伝、呉主伝]
孫権は字を仲謀という。字とは本名とは別に使う通称である。本編の五章序盤に、ソンケンがチュー坊と呼ばれていたのは彼の字に由来する。また64話の初登場時、自身でコーレンと名乗っているが、これは孫権が孝廉(郡の人材推挙)に上げられ、一時期、孝廉と呼ばれていたことに因む。
『三国志』を読んだことがある人なら、孫権がこの後どうなるか知っているだろう。結論を言えば孫権を後継者に選んだのは成功と言える。だが、当時の人はこの先の未来の事を知らない。孫策が死に、まだ若い孫権が継いだ時、当時の人々が抱いたのは不安であっただろう。
孫策は何故、江東六郡を治めることが出来たのか。血統が優れていたからか、年長者だったからか、官位が高かったからか、いや、そのどれでもない。袁術のような名門出身でもなく、呉景や孫賁より若く、役職も会稽一郡の太守でしかなかった。ただ、圧倒的な武勇でもって周りを従えていた。
その武勇の主が消えた今、孫氏の江東支配は大きく揺らぐことになる。そして、孫策の後継者に求められることは、彼に匹敵するほどの武勇であった。
だが、孫権はあまり戦争は得意ではなかったようだ。彼は孫策存命時より度々戦場にも立っていたが、芳しい戦果を上げていない。
『孫策が山越(異民族)を討伐した時、孫権は守りを固めていた。孫権の兵士は千に満たなかったが、油断して防護柵を準備しておらず、山越数千の強襲を受けた。孫権のすぐ側まで敵の刃が迫ったが、周泰(本編、シュータイ、23話より登場)が勇戦して孫権を守った。この時、周泰は十二の傷を受けて昏倒し、しばらく意識不明となった。』[周泰伝]
有名な周泰の十二の傷を受ける逸話だが、見方を変えれば、これは孫権の敗戦の逸話でもある。
『孫策は孫権を派遣して、陳登(本編、チントウ、28話より登場)の匡琦城を攻めさせた。孫権は陳登より多い兵士を率いていたが、夜明けに陣の背後より奇襲を受けて撃ち破られた。孫権は態勢を建て直して再び攻めたが、陳登は曹操に援軍を要請する一方、城から十里先に陣営を作り、火をつけてあたかも大軍がやって来たように偽装した。孫権軍はこれに驚き、混乱状態になったところを陳登の追撃にあい、撃退された。』[陳登伝、陳矯伝]
他に『呉主伝』には、199年の廬江太守の劉勲戦や江夏太守の黄祖戦で勝利した記述があるが、これらは孫策らに同行して得られた勝利であった。
やはり、孫策存命時の孫権の将軍としての武功は、孫策の後継者に相応しいと言えるほどのものではなかったのだろう。孫策はその遺言にて「江東の軍勢を率い、勝機を掴んで、天下を争うということでは、お前はこの俺に及ばない。だが、賢者を招いて、その能力を発揮させ、江東を保つということでは、お前の方が俺より優れている」と孫権に言ったのは、孫策なりのフォローだったのかもしれない。
しかし、孫策がどんなにフォローしていても、江東は孫策の武勇でまとめたものである以上、それをまとめるのには武勇が必要なことに変わりはなかった。
孫策死後、孫権後継を巡り、混乱が起きた。
『かつて孫策に任命された廬江太守・李術は孫権の命に従わず、揚州刺史・厳象(本編未登場)を殺して独立を画策した。孫権はこれを攻め、兵糧攻めにしてこれを攻略した。』[呉主伝]
『孫策が死去し、孫権が継ぐことになった時、定武忠郎将で孫策の従兄の孫暠(本編未登場)(孫堅の弟・孫静(本編未登場)の長子)は、軍隊を率いて(孫権が太守を務める)会稽郡を自分のものにしようとした。会稽郡の役所は防備を固めてる一方、使者を派遣して孫暠を説得した。孫暠はこの説得にて兵を引き上げた。』[虞翻伝]
また、身内にも孫権の能力は疑問視されていた。
『孫権の弟(孫堅第三子)・孫翊(本編未登場)は勇猛果敢で孫策に似ていた。重臣の張昭(本編、チョウショウ、65話より本格登場)は孫策の臨終間際、兵権をこの孫翊に託すべきだと述べたが、孫策は応じなかった。』[孫翊伝]
中でも最も不安に思ったのは、孫策、孫権らの母・呉夫人かもしれない。
孫策の後を継いだばかりの孫権は、一人でこれらの混乱を治め、江東の政権を見事に運営していったわけではなかった。
どうやら、この頃の江東政権を実際に運営していたのは彼の母・呉夫人であったようだ。
◎呉夫人政権と重臣・張昭
『呉夫人は孫策が亡くなると、張昭と董襲(本編、トウシュウ、77話より登場)らを招き、江東の地が守れるかと尋ねた。董襲は「江東は山川の天然の守りがあり、孫策様は民衆に恩徳を施しました。孫権様はその基盤を引き継がれ、臣下はその役に立とうと願い、張昭が諸事を取り仕切り、我々が軍を率いております。地の利と人の和を得ていますから大丈夫です」と答えた。』[董襲伝]
董襲は孫策が太守を務めていた会稽の出身で、揚武都尉を務めていた。おそらく、有力武官であるとともに会稽出身の彼に、今後の行く末に加えて、孫策が死んだことに対する会稽の人々の反応も知ろうとしたのではなかろうか。
だが、この言葉だけで呉夫人は安心しなかった。
『呉夫人は孫権がまだ若いということで、張紘(本編、チョウコウ、65話より登場)に補佐を頼んだ。また、密かに方策を練る時や上表文などの文章、外交の文書を作る時は、彼女自らがいつも張紘と張昭に命令を降して、その文書を作成させた。』[張紘伝注呉書]
また、202年(孫策死去の翌々年)、袁紹を破った曹操は、孫権に対して息子を人質に差し出すよう要求した。
『孫権は人質を送りたくないと考えて、周瑜一人を連れて呉夫人の元に行き、意見を求めた。その場で周瑜は「人質は送らず、情勢を見定めるべき」と言い、呉夫人はその意見に同意し、孫権に周瑜を兄と思うよう伝えた。これにより孫権は人質を送らなかった。』[周瑜伝注江表伝]
これらの逸話を見るに、この時期の事実上の江東の政権運営者は母の呉夫人であったのだろう。彼女は孫堅の正妻で、孫策・孫権の母である。これらに加えて江東の有力一族・呉氏の出身で、丹楊太守・呉景の姉でもあった。その立場故に江東をまとめることができたのだろう。
一方、孫権はというと、ただのお飾りというわけでもなく、前述の廬江太守・李術の征伐や、江夏郡の黄祖討伐、各地で起きる山越(江東周辺に住む異民族)の反乱鎮圧等に自ら赴いている。おそらく、孫策後継に相応しいだけの経験や武功を積ませようとしたのだろう。
前述にあるように、この頃の江東の外交面を担当していたのは呉夫人であった。
かつて、袁術が皇帝を僭称した時、孫策は袁術と決別し、曹操や朝廷に接近した。曹操も袁術・呂布(本編、リョフ、5話より登場)・袁紹といった勢力を相手にせねばならず、江東にまでは手が回らず、孫策へは懐柔策を取った。
孫策が凶刃に倒れた200年、袁紹と曹操が覇権をかけて戦った官渡の戦いにおいては、孫策は曹操の同盟者として、袁紹の同盟者・荊州の劉表と対立した。
つまり、元々孫策と曹操の二勢力は比較的親しい間柄であった。
曹操は孫策を手懐けようと、彼を討逆将軍・呉侯に封じた。また、自身の弟の娘と孫策の弟・孫匡(本編未登場)(孫堅第四子)を婚姻させ、孫策の従兄・孫賁の娘を息子・曹彰(本編未登場)の嫁に迎えた。さらに弟の孫権や孫翊にも役職を与えた。
また、『呉録』に載せる孫策の黄祖討伐の時の上表文によれば、周瑜の肩書きを領江夏太守、呂範(本編、リョハン、22話より登場)を領桂陽太守、程普を領零陵太守と記している。
各郡太守の頭に領の字がある。この三郡は荊州の領土であり、実際に孫策が支配しているわけではない。つまり、太守には任命するけど、実際に赴任したければ自分たちで取れということである。これは奪えば自分の領土にしていいというお墨付きでもある。
曹操は劉表を討伐した時の報奨としてこれらの領土を約束したのだろう。ただ、孫策が死去してしまったため、江夏の黄祖討伐に止まり、本格的な劉表討伐は行われなかった。
呉夫人はこの孫策の外交を引き継ぎ、親曹操を方針として定めていたようだ。
呉夫人の政策はあくまでも江東の安定が優先であったのだろう。不世出の英雄・孫策に匹敵する将がいない以上、現在の江東の孫氏政権を維持しつつ、その権益を守りながら曹操と協調していく。これが彼女の方針であろう。
孫策が死去してから数年の間、対外戦争はほとんど行われていない。この頃に行われた戦争は領地内で起きた反乱の鎮圧等がほとんどで、赤壁の戦い前の対外戦争と言えるのは203年、207年(この年呉夫人死去)、208年に行われた黄祖討伐か、もしくは攻めてきた劉表軍を撃退したぐらいであった。[呉主伝、太史慈伝、周瑜伝、潘璋伝]
これらの期間の曹操は、袁紹遺児の袁兄弟とその同盟者・劉表と戦っている時期である。この時期の黄祖討伐はある程度、曹操の動きと連動したものかもしれない。
この8年ほどの間、孫権は実効支配している領土をほとんど増やしてはいない。これは呉夫人が領土拡張より、今ある領土を維持する事を優先したからだろう。
それらから考えるに、赤壁の戦いの前、張昭ら主だった文官が曹操への降伏論を唱えたのも、何も自分たちの保身ばかりを考えたのではなく、この呉夫人《ごふじん》時代の方針に則っていたのではないだろうか。
◎孫賁・孫輔兄弟と曹操外交
孫権に代わり江東の事実上の領主であった呉夫人は赤壁の戦いの前年、207年に死去する。(『呉主伝』、『孫堅呉夫人伝』では202年とする。注の『志林』では207年とする。今は『志林』に従う)
200年に孫策が死に、208年に赤壁の戦いが起こるまでの間に多くの孫権の一族が死んだ。
203年に叔父・呉景(呉夫人の弟)が死去。[孫堅呉夫人伝]
204年、孫権の弟・孫翊(孫堅第三子)が側近に殺害される。これに巻き込まれる形で一族の孫河(本編、ソンカ、22話より登場)(孫堅の族子)も死亡。[呉主伝、孫翊伝、孫韶伝]
他に時期不明だが、叔父の孫静(孫堅弟)や20歳あまりで死んだという弟の孫匡(孫堅第四子)もこの頃に亡くなったのだろう。[孫静伝、孫匡伝]
孫権の親世代はだいたい曹操や劉備と同世代と考えるとあまりにも早い退場である。そのためにその息子たちはほとんど育っていない状態となっている。
次々と孫氏・呉氏の人物が亡くなったことにより、赤壁の戦い直前の時点である程度の地位にある孫氏の一族は、討虜将軍・会稽太守の孫権、征虜将軍・予章太守の孫賁(孫権従兄)、平南将軍・交州刺史の孫輔(孫権従兄、孫賁弟)、綏遠将軍・丹楊太守の孫瑜(本編、ソンユ、75話名のみ登場)(孫権従兄、孫静第二子)、承烈校尉・孫韶(本編未登場)(孫河甥)ぐらいであろうか。(孫権継承時に会稽占領未遂を起こした孫暠(孫静長子、孫瑜兄)はこの事件以降の記録がない。事件を機に引退したか)
この内、孫瑜、孫韶は上の世代の退場により後を継いだもので、年齢、経歴ともに低い(ただし、孫瑜の方が孫権より年上)。また、その役職も孫権によって仮に任命されてもので、朝廷(曹操)より正式に任命されたものではない。
対して孫賁・孫輔兄弟は彼らより上の立場といえる。
孫賁は前述したように先々代の孫堅の頃より従軍し、孫輔も先代の孫策に従って戦っていた。この二人の年齢は不明だが、孫賁は孫策より年上。孫輔も、孫権が「兄」と呼んでいることから孫権より上であろう。孫策が208年まで生きていた場合、34歳となるので、孫賁は40前後、孫輔は孫策と同じか少し若いくらいであろうか。
さらに言えば孫静や呉景等の親世代が亡くなったため、おそらくだが、この時の孫権一族の最年長は孫賁だったのでないだろうか。これに加えて、孫賁の娘は曹操の息子に嫁いでおり、婚姻関係にある。
次に孫賁・孫輔の役職についてだが、彼らは孫策の代に孫策によって役職に任命されていた。これはつまり孫策が勝手に任命したものだが、この間に曹操(朝廷)によって正式な役職を得ることとなる。
孫賁については、官渡の戦い以降の夏侯惇(本編、カコウトン、6話より登場)の手紙に、孫賁に長沙を授けるとある。198年~200年頃、長沙太守・張羨(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)が曹操と組み、劉表に反旗を翻した。これは張羨敗北後、その後任として孫賁を任じたということだろう。また、時期不明だが、孫賁は都亭侯に封じられ、208年には曹操より征虜将軍に任じられ、かつて孫策が任命した予章太守に正式に任命された。[孫策伝、孫賁伝、後漢書・劉表伝]
また、孫賁の弟・孫輔に対しても、平南将軍・交州刺史として仮節を授けた。[孫輔伝]
『交州刺史・張津は度々劉表と戦争したが、それに反発した部下の区景(本編未登場)に殺害された。劉表は頼恭を派遣し、張津の後任にしようとした。』[士燮伝、薛綜伝]
おそらく、曹操側の張津の後任が孫輔なのだろう。張津の死亡年は不明だが、『晋書』地理志によると張津の交州刺史任命が203年、後任を劉表が派遣しているのだから、彼が死ぬ208年以前のことだろう。なのでその間の人事となる。
長沙太守・張羨も交州刺史・張津も共に南陽郡出身なので同族であろうか。時期としては張羨敗北後に張津が任命されており、ズレがあるが、二人とも劉表と対立していることは共通している。曹操からすれば対劉表戦の協力者というべき存在で、その後任なのだから孫賁・孫輔兄弟には同じ立ち位置を期待していたのだろう。
この間、孫権は前述のとおり、江夏郡の黄祖を攻めている。この頃の曹操は孫権を江夏郡(荊州北部)へ、孫賁を長沙郡(荊州南部)へ、孫輔を交州(荊州南隣)へと、三方を担当させ、劉表包囲網を画策していた。と、同時に孫賁・孫輔の役割を増すことで、孫権と対等の一つの群雄として扱っている。
孫賁・孫輔は昇進する一方、対して孫権は孫策の死後、会稽太守・討虜将軍に任命されて以降、赤壁の戦いに勝利するまで特に昇進はしていない。
仮に孫権が江夏郡を攻略したとしても、この江夏郡の新たな太守は前述した通り既に周瑜と決まっている。曹操との関係維持のために出兵しているが、孫権個人から見ればあまり利益のない戦いとも言える。
現状、孫策の後継者は孫権である。だが、このような状況下の中、孫権が曹操に降伏し、勢力を吸収された場合、果たして孫氏の代表として扱われるのは誰なのか。曹操は孫賁を孫氏の代表として扱い、自分はその一族衆として遇されるのではないか。そういう考えが孫権にはあったのではないだろうか。
◎江東政権の中の孫権
元々の孫堅の後継者は孫賁だった。それを孫策は武功でもって孫賁より上位の孫氏の棟梁ともいうべき立場となった。だが、孫策の後を継いだ孫権には兄に匹敵するほどの武功はなかった。そのため、孫賁より上位の存在になるのは難しく、江東のパワーバランスは揺れ動いていた。曹操がやったことはその崩れ行く江東のバランスをさらに崩壊へと後押しするものであった。
また、孫策はかつて自ら領地を切り取り、そのうちの予章郡の太守に孫賁を、その予章郡の南部を分割して盧陵郡を作り、その太守に孫輔を任命した。孫策、孫賁、孫輔は太守という肩書きでは同僚だが、その地位を任命する者と、任命される者では、当然、任命する者が上位となる。孫策はこの任命権を握ることで他者より上位に立つことが出来たとも言える。
だが、曹操は朝廷を介して彼らを正式に役職へ任命していった。朝廷を介している分、曹操の任命は正式なものである。曹操が孫賁らを任命するということは、孫権の権威が低下することを意味する。
対して孫権は領地を増やせておらず、自身も出世していない。そのため新たに任命できるのは、今ある役職の前任者が退任した時に限られ、すでに幹部クラスの人物をより上位の役職に任命することができない。
この与える役職がないために任命権を行使できないというのは長いこと孫権を苦しめることになる。例えば孫権が孫策の後を継いで以降、配下に加わった魯粛が赤壁の戦い直前に賛軍校尉に任命されるまで特に肩書きがなかったのは一例であろう。
この曹操の対応を見るに、彼が江東で企んだことは、孫賁・孫輔の立場を上げて、孫権と対等にし、孫氏を江東の独立勢力から、多くの地方長官を輩出する後漢の有力氏族程度に抑え、緩やかに吸収していくということだったのではないだろうか。
孫策の方針は領土拡大であった。その時の曹操は北に袁紹という強大な敵を抱え、荊州には袁紹の同盟者・劉表がいた。劉表にまで手が回らない曹操と、荊州へ進出したい孫策とで利害が一致し、両者は協力関係となった。
孫策が亡くなり呉夫人の代になると、方針は領土安定へと転換される。この頃の曹操は袁紹勢力を倒し、曹操一強時代へと移行していた。だが、領土の安定を願う呉夫人からすれば、強大な曹操の庇護下に入るのは望むところであった。孫策と呉夫人、両者の方針は真反対であったが、その時の情勢の変化により、共に最上の協力者として曹操を選んだ。
一方、曹操からすると、孫策が築いた強力な勢力を、次代に引き継がせるのは好ましくなく、孫賁・孫輔兄弟に力を与え、孫権と並べて権力の分散を計った。だが、それは孫氏の一族を引き立てるということでもあり、一族の繁栄を望む呉夫人らの希望に沿うものであった。
呉夫人にしろ、孫賁にしろ、孫輔にしろ、立場としては後漢王朝の臣下であり、自ら皇帝になろうと考えもしなかっただろう。そもそも、その領土は孫策によって得られたものであり、その孫策が死んで現状維持さえ危うかった状態で独立して皇帝になろうとは思いもよらなかっただろう。何より、皇帝を名乗り滅びた袁術という悪例を特等席で見ていた人達である。
では、孫権はどうだろうか。母や従兄ら年長の一族衆が曹操との外交を展開しながら、家の安定への道を進めていた。だが、それは孫権の目から見れば兄から継承したはずの自身の権力の解体でもあった。それに対し、忸怩たる思いはあったのだろうか。
そんな中、孫権の元に一人の男が現れる。
彼の名を魯粛という。
魯粛は孫権に言った。
「皇帝を名乗り、天下を支配しましょう」と。
◎孫権陣営の赤壁前夜
『呉の孫権から派遣された魯粛は当陽にて劉備と合流した。呉巨を頼り、交州に赴こうとする劉備に対し、魯粛は「孫権様は聡明にして人徳があり、六郡を支配し、軍は精鋭で食糧も豊富で、大業を打ち立てるに充分です。劉備様は腹心を遣わし、呉と同盟を結び、共に大業を成し遂げることが最良です。それに頼ろうとしている呉巨は平凡な男で、僻地におり、いずれ誰かに併呑されるでしょう」と述べ、呉との同盟を勧めた。』[先主伝]
なお、余談ながら、呉巨はこの二年後の210年、孫権の部下・歩隲(本編未登場)に斬られ、交州は徐々に孫権の支配下へと入っていくこととなる。[士燮伝、歩隲伝]
魯粛がこの時、呉巨はいずれ誰かに併呑されると述べたが、結局、孫権によって併合されることとなった。
『また、魯粛は孔明に対して、「私はあなたの兄の諸葛瑾(本編、ショカツキン、87話より登場)殿と友人です」と述べて交流した。孔明は劉備に「事態は切迫しております。私は孫権様に救援を求めたいと思います」と述べ、劉備はこれを承知し、顎県にたどり着くと、孔明と魯粛を呉へ送り出し、自身は樊口に駐留した。』[先主伝、諸葛亮伝、魯粛伝]
孔明の兄・諸葛瑾と魯粛は孫権に代替わりした頃に仕えた。また二人とも徐州の出身である。諸葛瑾は戦乱を避けて江東に移住し、後に孫権に仕えた。魯粛もまた親交のあった周瑜を頼って江東に赴き、後に周瑜の勧めで孫権に仕えた。年齢は魯粛の方が2歳年長になる。(この時、魯粛37歳、諸葛瑾35歳、孔明28歳)立場も境遇も年齢も近かったから二人は親しくしていたのだろう。
顎県は江夏郡に属し、先の話ではあるが221年には武昌県と名を改められた。領内を長江が流れ、県の北西、長江の流れるところを樊口という。
なお、劉備が樊口に駐留したという記述は注に引く『江表伝』にあり、『正史』には劉備は夏口にいたとある。夏口も江夏郡に属し、長江とその支流である漢水の交わる場所で、樊口より少し西寄りにある。
場所が近いので些細な差といえばそれまでだが、この時、劉備と劉琦は合わせて二万の兵を擁していた。曹操軍に比べれば少ないが、それでも万の兵であり、あるいはこの時、劉備と劉琦で夏口と樊口の二拠点を抑えていたのではないだろうか。『江表伝』の記述から劉備は鄂県を通り、孔明を送り出してから樊口に至ったとあることから、夏口には劉琦、樊口には劉備がいたのだろう。
劉備が樊口に移ったのは、孫権との連絡ルートの確保、また、万一の撤退ルートの確保だろう。劉琦のいる夏口は先代の江夏太守・黄祖が拠点としていた土地で、黄祖は卻月城(別名、偃月城)を築いていたが、この年の春の孫権の江夏侵攻で、孫権軍により廃城となったという。おそらく劉琦はこの城を修復したか、新たに築城したかしてこの辺りに防衛拠点を築いて、そこに籠城したのではないだろうか。(卻月城の側の魯山城は一説に劉琦が江夏太守に就任後築かれたというが、出典が不明確であったために紹介するだけに止める)
孫権からの救援が得られぬまま曹操が江夏郡に侵攻した場合、夏口に籠城する劉琦が曹操を食い止め、劉備が外から襲撃するというのが彼らの計画だったのではないだろうか。また、孫権が曹操に協力して参戦するという最悪の事態も想定できるが、その場合は劉備が孫権軍を引き受ける形となったのだろう。
実際には孫権が劉備と手を組み、夏口より手前で赤壁の戦いとなるので、夏口を舞台とした劉備・劉琦軍対曹操戦は幻となる。
話を孫権に移そう。
『この時、孫権は軍勢を率いて柴桑に駐屯していた。既に曹操は荊州を手に入れ、劉備を破ったばかりであったから、孫権の張昭を始めとする臣下一同も皆畏れをなして、孫権に曹操に従うよう勧める者が多かった。』[諸葛亮伝、呉主伝、周瑜伝、魯粛伝、張昭伝]
孫権が駐屯していた柴桑は揚州予章郡に属す。劉備が駐屯する樊口とは長江で繋がっている。かつて江夏太守の黄祖が予章郡へ侵攻した時(206年)、まず侵入したのが柴桑であった。柴桑は江夏郡と予章郡を繋ぐ、揚州の玄関口といえる。
◎孫策の死と孫権の継承
ここで揚州を中心に勢力を築いていた孫権と、ここに至るまでの経緯について解説しよう。
孫権の父は孫堅という。
『孫堅はあまり名のある一族の出身ではなかったが、武勇があり、地方の反乱鎮圧等で名を上げ、破虜将軍・予州刺史に出世した。だが、袁術の命(当時、孫堅は袁術の指揮下にいた)で荊州の劉表を攻めた時に戦死してしまう。』[孫堅伝]
孫堅が死に、その軍勢を引き継いだのは、息子の孫策…ではなく、甥の孫賁(本編、ソンフン、21話より登場)であった。
孫策は父が戦死した時にまだ成人しておらず、家族とともに戦乱を避けて舒県の周氏宅に疎開していた。この時、孫策は周氏の子・周瑜と親交を結び、この周瑜が大いに孫権を助けることになるのだが、それは後の話である。
対して孫策・孫権の従兄・孫賁(孫堅の兄・孫羌(本編未登場)の長子)は既に成人しており、郡の役人として働いていたが、孫堅が董卓に対して兵を上げるとそれに参加し、孫堅とともに戦っていた。
この頃の軍勢はその長男が引き継ぐという決まりがあるわけではない。そして軍勢を引き継ぐということは戦争に行くということでもある。まだ未成年で従軍経験もない息子と、成人済みで、一、二年のことではあるが孫堅とともに戦っていた甥。両者を比べた時、甥の孫賁の方が継ぐのが妥当だと判断されるのは自然な流れであった。
なお、孫賁の名前は一般的に“そんほん”と読まれるが、本編では“ソンフン”の名前で登場している。これは後に登場する弟(本編では妹)の名前が孫輔(本編、ソンホ、75話より登場)で、並んで登場した場合ソンホン・ソンホ兄妹となり、よく似ていてややこしいので兄の読みをソンフンに変更した。(今思えばこの兄妹がそろう場面はそうないので余計な気だったかもしれない)
『孫堅の軍勢を引き継いだ孫賁は、袁術の配下となり、その命に従って袁紹の任命した九江太守・周昂(本編未登場)を撃ち破った。袁術は孫賁を予州刺史とした。後に丹楊都尉に移し、征虜将軍を兼任させ、丹楊太守・呉景(本編、ゴケイ、22話より登場)(孫堅の妻・呉夫人(本編、エイ、21話より登場)の弟)とともに丹楊郡に派遣した。だが、揚州刺史・劉繇(本編、リュウヨウ、15話より登場)によって孫賁と呉景は丹楊を追い出された。孫賁らは度々劉繇軍と戦ったが、勝つことは出来なかった。』[孫賁伝]
そこへ現れたのは成長した孫策である。
『孫策は孫賁らが苦戦した劉繇を蹴散らし、瞬く間に江東一帯を攻略した。孫策は自ら会稽太守となり、叔父の呉景を再び丹楊太守とし、従兄の孫賁を予章太守とした。また、予章を分割して廬陵郡を作り、孫賁の弟・孫輔を廬陵太守とし、朱治(本編、シュチ、65話より登場)を呉郡太守に、李術(本編未登場)を廬江太守とした。』[孫策伝]
当陽で劉備に合流した魯粛が言った江東六郡とは、この時孫策が支配下においた会稽郡、丹楊郡、予章郡、廬陵郡、呉郡、廬江郡のことで、いずれも揚州に属す。
朱治は孫堅旧臣だが、孫堅戦死後に孫賁ではなく孫策に仕え、真っ先に孫策に独立をするよう説いた人物である。
李術の前歴についてはよくわからない。汝南出身なので、袁術の旧臣だろうか。前任の廬江太守・劉勲(本編未登場)は袁術旧臣で、配下に袁術残党を多く吸収していたので、それらへの配慮かもしれない。
孫堅の後継者は本来なら孫賁であったが、孫策は圧倒的な武功でもってその立場を覆した。
だが、その孫策は暗殺された。
孫策は26歳の若さで死に、その遺言により、後継者は弟の孫権となった。孫権はこの時、まだ19歳であったが、曹操によって討虜将軍・会稽太守に任じられた。[孫策伝、呉主伝]
孫権は字を仲謀という。字とは本名とは別に使う通称である。本編の五章序盤に、ソンケンがチュー坊と呼ばれていたのは彼の字に由来する。また64話の初登場時、自身でコーレンと名乗っているが、これは孫権が孝廉(郡の人材推挙)に上げられ、一時期、孝廉と呼ばれていたことに因む。
『三国志』を読んだことがある人なら、孫権がこの後どうなるか知っているだろう。結論を言えば孫権を後継者に選んだのは成功と言える。だが、当時の人はこの先の未来の事を知らない。孫策が死に、まだ若い孫権が継いだ時、当時の人々が抱いたのは不安であっただろう。
孫策は何故、江東六郡を治めることが出来たのか。血統が優れていたからか、年長者だったからか、官位が高かったからか、いや、そのどれでもない。袁術のような名門出身でもなく、呉景や孫賁より若く、役職も会稽一郡の太守でしかなかった。ただ、圧倒的な武勇でもって周りを従えていた。
その武勇の主が消えた今、孫氏の江東支配は大きく揺らぐことになる。そして、孫策の後継者に求められることは、彼に匹敵するほどの武勇であった。
だが、孫権はあまり戦争は得意ではなかったようだ。彼は孫策存命時より度々戦場にも立っていたが、芳しい戦果を上げていない。
『孫策が山越(異民族)を討伐した時、孫権は守りを固めていた。孫権の兵士は千に満たなかったが、油断して防護柵を準備しておらず、山越数千の強襲を受けた。孫権のすぐ側まで敵の刃が迫ったが、周泰(本編、シュータイ、23話より登場)が勇戦して孫権を守った。この時、周泰は十二の傷を受けて昏倒し、しばらく意識不明となった。』[周泰伝]
有名な周泰の十二の傷を受ける逸話だが、見方を変えれば、これは孫権の敗戦の逸話でもある。
『孫策は孫権を派遣して、陳登(本編、チントウ、28話より登場)の匡琦城を攻めさせた。孫権は陳登より多い兵士を率いていたが、夜明けに陣の背後より奇襲を受けて撃ち破られた。孫権は態勢を建て直して再び攻めたが、陳登は曹操に援軍を要請する一方、城から十里先に陣営を作り、火をつけてあたかも大軍がやって来たように偽装した。孫権軍はこれに驚き、混乱状態になったところを陳登の追撃にあい、撃退された。』[陳登伝、陳矯伝]
他に『呉主伝』には、199年の廬江太守の劉勲戦や江夏太守の黄祖戦で勝利した記述があるが、これらは孫策らに同行して得られた勝利であった。
やはり、孫策存命時の孫権の将軍としての武功は、孫策の後継者に相応しいと言えるほどのものではなかったのだろう。孫策はその遺言にて「江東の軍勢を率い、勝機を掴んで、天下を争うということでは、お前はこの俺に及ばない。だが、賢者を招いて、その能力を発揮させ、江東を保つということでは、お前の方が俺より優れている」と孫権に言ったのは、孫策なりのフォローだったのかもしれない。
しかし、孫策がどんなにフォローしていても、江東は孫策の武勇でまとめたものである以上、それをまとめるのには武勇が必要なことに変わりはなかった。
孫策死後、孫権後継を巡り、混乱が起きた。
『かつて孫策に任命された廬江太守・李術は孫権の命に従わず、揚州刺史・厳象(本編未登場)を殺して独立を画策した。孫権はこれを攻め、兵糧攻めにしてこれを攻略した。』[呉主伝]
『孫策が死去し、孫権が継ぐことになった時、定武忠郎将で孫策の従兄の孫暠(本編未登場)(孫堅の弟・孫静(本編未登場)の長子)は、軍隊を率いて(孫権が太守を務める)会稽郡を自分のものにしようとした。会稽郡の役所は防備を固めてる一方、使者を派遣して孫暠を説得した。孫暠はこの説得にて兵を引き上げた。』[虞翻伝]
また、身内にも孫権の能力は疑問視されていた。
『孫権の弟(孫堅第三子)・孫翊(本編未登場)は勇猛果敢で孫策に似ていた。重臣の張昭(本編、チョウショウ、65話より本格登場)は孫策の臨終間際、兵権をこの孫翊に託すべきだと述べたが、孫策は応じなかった。』[孫翊伝]
中でも最も不安に思ったのは、孫策、孫権らの母・呉夫人かもしれない。
孫策の後を継いだばかりの孫権は、一人でこれらの混乱を治め、江東の政権を見事に運営していったわけではなかった。
どうやら、この頃の江東政権を実際に運営していたのは彼の母・呉夫人であったようだ。
◎呉夫人政権と重臣・張昭
『呉夫人は孫策が亡くなると、張昭と董襲(本編、トウシュウ、77話より登場)らを招き、江東の地が守れるかと尋ねた。董襲は「江東は山川の天然の守りがあり、孫策様は民衆に恩徳を施しました。孫権様はその基盤を引き継がれ、臣下はその役に立とうと願い、張昭が諸事を取り仕切り、我々が軍を率いております。地の利と人の和を得ていますから大丈夫です」と答えた。』[董襲伝]
董襲は孫策が太守を務めていた会稽の出身で、揚武都尉を務めていた。おそらく、有力武官であるとともに会稽出身の彼に、今後の行く末に加えて、孫策が死んだことに対する会稽の人々の反応も知ろうとしたのではなかろうか。
だが、この言葉だけで呉夫人は安心しなかった。
『呉夫人は孫権がまだ若いということで、張紘(本編、チョウコウ、65話より登場)に補佐を頼んだ。また、密かに方策を練る時や上表文などの文章、外交の文書を作る時は、彼女自らがいつも張紘と張昭に命令を降して、その文書を作成させた。』[張紘伝注呉書]
また、202年(孫策死去の翌々年)、袁紹を破った曹操は、孫権に対して息子を人質に差し出すよう要求した。
『孫権は人質を送りたくないと考えて、周瑜一人を連れて呉夫人の元に行き、意見を求めた。その場で周瑜は「人質は送らず、情勢を見定めるべき」と言い、呉夫人はその意見に同意し、孫権に周瑜を兄と思うよう伝えた。これにより孫権は人質を送らなかった。』[周瑜伝注江表伝]
これらの逸話を見るに、この時期の事実上の江東の政権運営者は母の呉夫人であったのだろう。彼女は孫堅の正妻で、孫策・孫権の母である。これらに加えて江東の有力一族・呉氏の出身で、丹楊太守・呉景の姉でもあった。その立場故に江東をまとめることができたのだろう。
一方、孫権はというと、ただのお飾りというわけでもなく、前述の廬江太守・李術の征伐や、江夏郡の黄祖討伐、各地で起きる山越(江東周辺に住む異民族)の反乱鎮圧等に自ら赴いている。おそらく、孫策後継に相応しいだけの経験や武功を積ませようとしたのだろう。
前述にあるように、この頃の江東の外交面を担当していたのは呉夫人であった。
かつて、袁術が皇帝を僭称した時、孫策は袁術と決別し、曹操や朝廷に接近した。曹操も袁術・呂布(本編、リョフ、5話より登場)・袁紹といった勢力を相手にせねばならず、江東にまでは手が回らず、孫策へは懐柔策を取った。
孫策が凶刃に倒れた200年、袁紹と曹操が覇権をかけて戦った官渡の戦いにおいては、孫策は曹操の同盟者として、袁紹の同盟者・荊州の劉表と対立した。
つまり、元々孫策と曹操の二勢力は比較的親しい間柄であった。
曹操は孫策を手懐けようと、彼を討逆将軍・呉侯に封じた。また、自身の弟の娘と孫策の弟・孫匡(本編未登場)(孫堅第四子)を婚姻させ、孫策の従兄・孫賁の娘を息子・曹彰(本編未登場)の嫁に迎えた。さらに弟の孫権や孫翊にも役職を与えた。
また、『呉録』に載せる孫策の黄祖討伐の時の上表文によれば、周瑜の肩書きを領江夏太守、呂範(本編、リョハン、22話より登場)を領桂陽太守、程普を領零陵太守と記している。
各郡太守の頭に領の字がある。この三郡は荊州の領土であり、実際に孫策が支配しているわけではない。つまり、太守には任命するけど、実際に赴任したければ自分たちで取れということである。これは奪えば自分の領土にしていいというお墨付きでもある。
曹操は劉表を討伐した時の報奨としてこれらの領土を約束したのだろう。ただ、孫策が死去してしまったため、江夏の黄祖討伐に止まり、本格的な劉表討伐は行われなかった。
呉夫人はこの孫策の外交を引き継ぎ、親曹操を方針として定めていたようだ。
呉夫人の政策はあくまでも江東の安定が優先であったのだろう。不世出の英雄・孫策に匹敵する将がいない以上、現在の江東の孫氏政権を維持しつつ、その権益を守りながら曹操と協調していく。これが彼女の方針であろう。
孫策が死去してから数年の間、対外戦争はほとんど行われていない。この頃に行われた戦争は領地内で起きた反乱の鎮圧等がほとんどで、赤壁の戦い前の対外戦争と言えるのは203年、207年(この年呉夫人死去)、208年に行われた黄祖討伐か、もしくは攻めてきた劉表軍を撃退したぐらいであった。[呉主伝、太史慈伝、周瑜伝、潘璋伝]
これらの期間の曹操は、袁紹遺児の袁兄弟とその同盟者・劉表と戦っている時期である。この時期の黄祖討伐はある程度、曹操の動きと連動したものかもしれない。
この8年ほどの間、孫権は実効支配している領土をほとんど増やしてはいない。これは呉夫人が領土拡張より、今ある領土を維持する事を優先したからだろう。
それらから考えるに、赤壁の戦いの前、張昭ら主だった文官が曹操への降伏論を唱えたのも、何も自分たちの保身ばかりを考えたのではなく、この呉夫人《ごふじん》時代の方針に則っていたのではないだろうか。
◎孫賁・孫輔兄弟と曹操外交
孫権に代わり江東の事実上の領主であった呉夫人は赤壁の戦いの前年、207年に死去する。(『呉主伝』、『孫堅呉夫人伝』では202年とする。注の『志林』では207年とする。今は『志林』に従う)
200年に孫策が死に、208年に赤壁の戦いが起こるまでの間に多くの孫権の一族が死んだ。
203年に叔父・呉景(呉夫人の弟)が死去。[孫堅呉夫人伝]
204年、孫権の弟・孫翊(孫堅第三子)が側近に殺害される。これに巻き込まれる形で一族の孫河(本編、ソンカ、22話より登場)(孫堅の族子)も死亡。[呉主伝、孫翊伝、孫韶伝]
他に時期不明だが、叔父の孫静(孫堅弟)や20歳あまりで死んだという弟の孫匡(孫堅第四子)もこの頃に亡くなったのだろう。[孫静伝、孫匡伝]
孫権の親世代はだいたい曹操や劉備と同世代と考えるとあまりにも早い退場である。そのためにその息子たちはほとんど育っていない状態となっている。
次々と孫氏・呉氏の人物が亡くなったことにより、赤壁の戦い直前の時点である程度の地位にある孫氏の一族は、討虜将軍・会稽太守の孫権、征虜将軍・予章太守の孫賁(孫権従兄)、平南将軍・交州刺史の孫輔(孫権従兄、孫賁弟)、綏遠将軍・丹楊太守の孫瑜(本編、ソンユ、75話名のみ登場)(孫権従兄、孫静第二子)、承烈校尉・孫韶(本編未登場)(孫河甥)ぐらいであろうか。(孫権継承時に会稽占領未遂を起こした孫暠(孫静長子、孫瑜兄)はこの事件以降の記録がない。事件を機に引退したか)
この内、孫瑜、孫韶は上の世代の退場により後を継いだもので、年齢、経歴ともに低い(ただし、孫瑜の方が孫権より年上)。また、その役職も孫権によって仮に任命されてもので、朝廷(曹操)より正式に任命されたものではない。
対して孫賁・孫輔兄弟は彼らより上の立場といえる。
孫賁は前述したように先々代の孫堅の頃より従軍し、孫輔も先代の孫策に従って戦っていた。この二人の年齢は不明だが、孫賁は孫策より年上。孫輔も、孫権が「兄」と呼んでいることから孫権より上であろう。孫策が208年まで生きていた場合、34歳となるので、孫賁は40前後、孫輔は孫策と同じか少し若いくらいであろうか。
さらに言えば孫静や呉景等の親世代が亡くなったため、おそらくだが、この時の孫権一族の最年長は孫賁だったのでないだろうか。これに加えて、孫賁の娘は曹操の息子に嫁いでおり、婚姻関係にある。
次に孫賁・孫輔の役職についてだが、彼らは孫策の代に孫策によって役職に任命されていた。これはつまり孫策が勝手に任命したものだが、この間に曹操(朝廷)によって正式な役職を得ることとなる。
孫賁については、官渡の戦い以降の夏侯惇(本編、カコウトン、6話より登場)の手紙に、孫賁に長沙を授けるとある。198年~200年頃、長沙太守・張羨(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)が曹操と組み、劉表に反旗を翻した。これは張羨敗北後、その後任として孫賁を任じたということだろう。また、時期不明だが、孫賁は都亭侯に封じられ、208年には曹操より征虜将軍に任じられ、かつて孫策が任命した予章太守に正式に任命された。[孫策伝、孫賁伝、後漢書・劉表伝]
また、孫賁の弟・孫輔に対しても、平南将軍・交州刺史として仮節を授けた。[孫輔伝]
『交州刺史・張津は度々劉表と戦争したが、それに反発した部下の区景(本編未登場)に殺害された。劉表は頼恭を派遣し、張津の後任にしようとした。』[士燮伝、薛綜伝]
おそらく、曹操側の張津の後任が孫輔なのだろう。張津の死亡年は不明だが、『晋書』地理志によると張津の交州刺史任命が203年、後任を劉表が派遣しているのだから、彼が死ぬ208年以前のことだろう。なのでその間の人事となる。
長沙太守・張羨も交州刺史・張津も共に南陽郡出身なので同族であろうか。時期としては張羨敗北後に張津が任命されており、ズレがあるが、二人とも劉表と対立していることは共通している。曹操からすれば対劉表戦の協力者というべき存在で、その後任なのだから孫賁・孫輔兄弟には同じ立ち位置を期待していたのだろう。
この間、孫権は前述のとおり、江夏郡の黄祖を攻めている。この頃の曹操は孫権を江夏郡(荊州北部)へ、孫賁を長沙郡(荊州南部)へ、孫輔を交州(荊州南隣)へと、三方を担当させ、劉表包囲網を画策していた。と、同時に孫賁・孫輔の役割を増すことで、孫権と対等の一つの群雄として扱っている。
孫賁・孫輔は昇進する一方、対して孫権は孫策の死後、会稽太守・討虜将軍に任命されて以降、赤壁の戦いに勝利するまで特に昇進はしていない。
仮に孫権が江夏郡を攻略したとしても、この江夏郡の新たな太守は前述した通り既に周瑜と決まっている。曹操との関係維持のために出兵しているが、孫権個人から見ればあまり利益のない戦いとも言える。
現状、孫策の後継者は孫権である。だが、このような状況下の中、孫権が曹操に降伏し、勢力を吸収された場合、果たして孫氏の代表として扱われるのは誰なのか。曹操は孫賁を孫氏の代表として扱い、自分はその一族衆として遇されるのではないか。そういう考えが孫権にはあったのではないだろうか。
◎江東政権の中の孫権
元々の孫堅の後継者は孫賁だった。それを孫策は武功でもって孫賁より上位の孫氏の棟梁ともいうべき立場となった。だが、孫策の後を継いだ孫権には兄に匹敵するほどの武功はなかった。そのため、孫賁より上位の存在になるのは難しく、江東のパワーバランスは揺れ動いていた。曹操がやったことはその崩れ行く江東のバランスをさらに崩壊へと後押しするものであった。
また、孫策はかつて自ら領地を切り取り、そのうちの予章郡の太守に孫賁を、その予章郡の南部を分割して盧陵郡を作り、その太守に孫輔を任命した。孫策、孫賁、孫輔は太守という肩書きでは同僚だが、その地位を任命する者と、任命される者では、当然、任命する者が上位となる。孫策はこの任命権を握ることで他者より上位に立つことが出来たとも言える。
だが、曹操は朝廷を介して彼らを正式に役職へ任命していった。朝廷を介している分、曹操の任命は正式なものである。曹操が孫賁らを任命するということは、孫権の権威が低下することを意味する。
対して孫権は領地を増やせておらず、自身も出世していない。そのため新たに任命できるのは、今ある役職の前任者が退任した時に限られ、すでに幹部クラスの人物をより上位の役職に任命することができない。
この与える役職がないために任命権を行使できないというのは長いこと孫権を苦しめることになる。例えば孫権が孫策の後を継いで以降、配下に加わった魯粛が赤壁の戦い直前に賛軍校尉に任命されるまで特に肩書きがなかったのは一例であろう。
この曹操の対応を見るに、彼が江東で企んだことは、孫賁・孫輔の立場を上げて、孫権と対等にし、孫氏を江東の独立勢力から、多くの地方長官を輩出する後漢の有力氏族程度に抑え、緩やかに吸収していくということだったのではないだろうか。
孫策の方針は領土拡大であった。その時の曹操は北に袁紹という強大な敵を抱え、荊州には袁紹の同盟者・劉表がいた。劉表にまで手が回らない曹操と、荊州へ進出したい孫策とで利害が一致し、両者は協力関係となった。
孫策が亡くなり呉夫人の代になると、方針は領土安定へと転換される。この頃の曹操は袁紹勢力を倒し、曹操一強時代へと移行していた。だが、領土の安定を願う呉夫人からすれば、強大な曹操の庇護下に入るのは望むところであった。孫策と呉夫人、両者の方針は真反対であったが、その時の情勢の変化により、共に最上の協力者として曹操を選んだ。
一方、曹操からすると、孫策が築いた強力な勢力を、次代に引き継がせるのは好ましくなく、孫賁・孫輔兄弟に力を与え、孫権と並べて権力の分散を計った。だが、それは孫氏の一族を引き立てるということでもあり、一族の繁栄を望む呉夫人らの希望に沿うものであった。
呉夫人にしろ、孫賁にしろ、孫輔にしろ、立場としては後漢王朝の臣下であり、自ら皇帝になろうと考えもしなかっただろう。そもそも、その領土は孫策によって得られたものであり、その孫策が死んで現状維持さえ危うかった状態で独立して皇帝になろうとは思いもよらなかっただろう。何より、皇帝を名乗り滅びた袁術という悪例を特等席で見ていた人達である。
では、孫権はどうだろうか。母や従兄ら年長の一族衆が曹操との外交を展開しながら、家の安定への道を進めていた。だが、それは孫権の目から見れば兄から継承したはずの自身の権力の解体でもあった。それに対し、忸怩たる思いはあったのだろうか。
そんな中、孫権の元に一人の男が現れる。
彼の名を魯粛という。
魯粛は孫権に言った。
「皇帝を名乗り、天下を支配しましょう」と。
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