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第5部 赤壁大戦編

歴史解説 赤壁の戦いその3

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 前回は劉備りゅうび長坂ちょうはん曹操そうそうに敗れ、逃走のなか、魯粛ろしゅくの提案を受けて、孫権そんけんを頼る道を選んだところまで述べた。今回はその孫権そんけんと彼の江東政権について述べていこうと思う。


 ◎孫権そんけん陣営の赤壁せきへき前夜

 『孫権そんけんから派遣された魯粛ろしゅく当陽とうようにて劉備りゅうびと合流した。呉巨ごきょを頼り、交州こうしゅうに赴こうとする劉備りゅうびに対し、魯粛ろしゅくは「孫権そんけん様は聡明にして人徳があり、六郡を支配し、軍は精鋭で食糧も豊富で、大業を打ち立てるに充分です。劉備りゅうび様は腹心をつかわし、と同盟を結び、共に大業を成し遂げることが最良です。それに頼ろうとしている呉巨ごきょは平凡な男で、僻地へきちにおり、いずれ誰かに併呑へいどんされるでしょう」と述べ、との同盟を勧めた。』[先主ごしゅ伝]

 なお、余談ながら、呉巨ごきょはこの二年後の210年、孫権そんけんの部下・歩隲ほしつ(本編未登場)に斬られ、交州こうしゅうは徐々に孫権そんけんの支配下へと入っていくこととなる。[士燮ししょう伝、歩隲ほしつ伝]

 魯粛ろしゅくがこの時、呉巨ごきょはいずれ誰かに併呑へいどんされると述べたが、結局、孫権そんけんによって併合されることとなった。

 『また、魯粛ろしゅく孔明こうめいに対して、「私はあなたの兄の諸葛瑾しょかつきん(本編、ショカツキン、87話より登場)殿と友人です」と述べて交流した。孔明こうめい劉備りゅうびに「事態は切迫しております。私は孫権そんけん様に救援を求めたいと思います」と述べ、劉備りゅうびはこれを承知し、顎県がくけんにたどり着くと、孔明こうめい魯粛ろしゅくへ送り出し、自身は樊口はんこうに駐留した。』[先主せんしゅ伝、諸葛亮しょかつりょう伝、魯粛ろしゅく伝]

 孔明こうめいの兄・諸葛瑾しょかつきん魯粛ろしゅく孫権そんけんに代替わりした頃に仕えた。また二人とも徐州じょしゅうの出身である。諸葛瑾しょかつきんは戦乱を避けて江東こうとうに移住し、後に孫権そんけんに仕えた。魯粛ろしゅくもまた親交のあった周瑜しゅうゆを頼って江東こうとうに赴き、後に周瑜しゅうゆの勧めで孫権そんけんに仕えた。年齢は魯粛ろしゅくの方が2歳年長になる。(この時、魯粛ろしゅく37歳、諸葛瑾しょかつきん35歳、孔明こうめい28歳)立場も境遇も年齢も近かったから二人は親しくしていたのだろう。



 顎県がくけん江夏郡こうかぐんに属し、先の話ではあるが221年には武昌県ぶしょうけんと名を改められた。領内を長江ちょうこうが流れ、県の北西、長江ちょうこうの流れるところを樊口はんこうという。

 なお、劉備りゅうび樊口はんこうに駐留したという記述は注に引く『江表伝こうひょうでん』にあり、『正史』には劉備りゅうび夏口かこうにいたとある。夏口かこう江夏郡こうかぐんに属し、長江ちょうこうとその支流である漢水かんすいの交わる場所で、樊口はんこうより少し西寄りにある。

 場所が近いので些細ささいな差といえばそれまでだが、この時、劉備りゅうび劉琦りゅうきは合わせて二万の兵をようしていた。曹操そうそう軍に比べれば少ないが、それでも万の兵であり、あるいはこの時、劉備りゅうび劉琦りゅうき夏口かこう樊口はんこうの二拠点を抑えていたのではないだろうか。『江表伝こうひょうでん』の記述から劉備りゅうび鄂県がくけんを通り、孔明こうめいを送り出してから樊口はんこうに至ったとあることから、夏口かこうには劉琦りゅうき樊口はんこうには劉備りゅうびがいたのだろう。

 劉備りゅうび樊口はんこうに移ったのは、孫権そんけんとの連絡ルートの確保、また、万一の撤退ルートの確保だろう。劉琦りゅうきのいる夏口かこうは先代の江夏太守こうかたいしゅ黄祖こうそが拠点としていた土地で、黄祖こうそ卻月城きゃくつきじょう(別名、偃月城えんげつじょう)を築いていたが、この年の春の孫権そんけん江夏こうか侵攻で、孫権そんけん軍により廃城はいじょうとなったという。おそらく劉琦りゅうきはこの城を修復したか、新たに築城したかしてこの辺りに防衛拠点を築いて、そこに籠城ろうじょうしたのではないだろうか。(卻月城きゃくつきじょうの側の魯山城ろざんじょうは一説に劉琦りゅうき江夏太守こうかたいしゅに就任後築かれたというが、出典が不明確であったために紹介するだけに止める)

 孫権そんけんからの救援が得られぬまま曹操そうそう江夏郡こうかぐんに侵攻した場合、夏口かこう籠城ろうじょうする劉琦りゅうき曹操そうそうを食い止め、劉備りゅうびが外から襲撃するというのが彼らの計画だったのではないだろうか。また、孫権そんけん曹操そうそうに協力して参戦するという最悪の事態も想定できるが、その場合は劉備りゅうび孫権そんけん軍を引き受ける形となったのだろう。

 実際には孫権そんけん劉備りゅうびと手を組み、夏口かこうより手前で赤壁せきへきの戦いとなるので、夏口かこうを舞台とした劉備りゅうび劉琦りゅうき軍対曹操そうそう戦は幻となる。

 話を孫権そんけんに移そう。

 『この時、孫権そんけんは軍勢を率いて柴桑さいそうに駐屯していた。既に曹操そうそう荊州けいしゅうを手に入れ、劉備りゅうびを破ったばかりであったから、孫権そんけん張昭ちょうしょうを始めとする臣下一同も皆おそれをなして、孫権そんけん曹操そうそうに従うよう勧める者が多かった。』[諸葛亮しょかつりょう伝、呉主ごしゅ伝、周瑜しゅうゆ伝、魯粛ろしゅく伝、張昭ちょうしょう伝]

 孫権そんけんが駐屯していた柴桑さいそう揚州予章郡ようしゅうよしょうぐんに属す。劉備りゅうびが駐屯する樊口はんこうとは長江ちょうこうつながっている。かつて江夏太守こうかたいしゅ黄祖こうそ予章郡よしょうぐんへ侵攻した時(206年)、まず侵入したのが柴桑さいそうであった。柴桑さいそう江夏郡こうかぐん予章郡よしょうぐんつなぐ、揚州ようしゅうの玄関口といえる。


 ◎孫策そんさくの死と孫権そんけんの継承


 ここで揚州を中心に勢力を築いていた孫権と、ここに至るまでの経緯について解説しよう。

 孫権そんけんの父は孫堅そんけんという。

 『孫堅そんけんはあまり名のある一族の出身ではなかったが、武勇があり、地方の反乱鎮圧等で名を上げ、破虜将軍はりょしょうぐん予州刺史よしゅうししに出世した。だが、袁術えんじゅつの命(当時、孫堅そんけん袁術えんじゅつの指揮下にいた)で荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを攻めた時に戦死してしまう。』[孫堅そんけん伝]

 孫堅そんけんが死に、その軍勢を引き継いだのは、息子の孫策そんさく…ではなく、おい孫賁そんほん(本編、ソンフン、21話より登場)であった。

 孫策そんさくは父が戦死した時にまだ成人しておらず、家族とともに戦乱を避けて舒県じょけん周氏しゅうし宅に疎開そかいしていた。この時、孫策そんさく周氏しゅうしの子・周瑜しゅうゆと親交を結び、この周瑜しゅうゆが大いに孫権そんけんを助けることになるのだが、それは後の話である。

 対して孫策そんさく孫権そんけん従兄いとこ孫賁そんほん(孫堅そんけんの兄・孫羌そんきょう(本編未登場)の長子)は既に成人しており、郡の役人として働いていたが、孫堅そんけん董卓とうたくに対して兵を上げるとそれに参加し、孫堅そんけんとともに戦っていた。

 この頃の軍勢はその長男が引き継ぐという決まりがあるわけではない。そして軍勢を引き継ぐということは戦争に行くということでもある。まだ未成年で従軍経験もない息子と、成人済みで、一、二年のことではあるが孫堅そんけんとともに戦っていたおい。両者を比べた時、おい孫賁そんほんの方が継ぐのが妥当だとうだと判断されるのは自然な流れであった。

 なお、孫賁そんほんの名前は一般的に“そんほん”と読まれるが、本編では“ソンフン”の名前で登場している。これは後に登場する弟(本編では妹)の名前が孫輔そんほ(本編、ソンホ、75話より登場)で、並んで登場した場合ソンホン・ソンホ兄妹となり、よく似ていてややこしいので兄の読みをソンフンに変更した。(今思えばこの兄妹がそろう場面はそうないので余計な気だったかもしれない)

 『孫堅そんけんの軍勢を引き継いだ孫賁そんほんは、袁術えんじゅつの配下となり、その命に従って袁紹えんしょうの任命した九江太守きゅうこうたいしゅ周昂しゅうこう(本編未登場)を撃ち破った。袁術えんじゅつ孫賁そんほん予州刺史よしゅうししとした。後に丹楊都尉たんようといに移し、征虜将軍せいりょしょうぐんを兼任させ、丹楊太守たんようたいしゅ呉景ごけい(本編、ゴケイ、22話より登場)(孫堅そんけんの妻・呉夫人ごふじん(本編、エイ、21話より登場)の弟)とともに丹楊郡たんようぐんに派遣した。だが、揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうよう(本編、リュウヨウ、15話より登場)によって孫賁そんほん呉景ごけい丹楊たんようを追い出された。孫賁そんほんらは度々劉繇りゅうよう軍と戦ったが、勝つことは出来なかった。』[孫賁そんほん伝]

 そこへ現れたのは成長した孫策そんさくである。

 『孫策そんさく孫賁そんほんらが苦戦した劉繇りゅうよう蹴散けちらし、瞬く間に江東こうとう一帯を攻略した。孫策そんさくは自ら会稽太守かいけいたいしゅとなり、叔父おじ呉景ごけいを再び丹楊太守たんようたいしゅとし、従兄いとこ孫賁そんほん予章太守よしょうたいしゅとした。また、予章よしょうを分割して廬陵郡ろこうぐんを作り、孫賁そんほんの弟・孫輔そんほ廬陵太守ろりょうたいしゅとし、朱治しゅち(本編、シュチ、65話より登場)を呉郡太守ごぐんたいしゅに、李術りじゅつ(本編未登場)を廬江太守ろこうたいしゅとした。』[孫策そんさく伝]

 当陽とうよう劉備りゅうびに合流した魯粛ろしゅくが言った江東こうとう六郡とは、この時孫策そんさくが支配下においた会稽郡かいけいぐん丹楊郡たんようぐん予章郡よしょうぐん廬陵郡ろりょうぐん呉郡ごぐん廬江郡ろこうぐんのことで、いずれも揚州ようしゅうに属す。

 朱治しゅち孫堅そんけん旧臣だが、孫堅そんけん戦死後に孫賁そんほんではなく孫策そんさくつかえ、真っ先に孫策そんさくに独立をするよう説いた人物である。

 李術りじゅつの前歴についてはよくわからない。汝南じょなん出身なので、袁術えんじゅつの旧臣だろうか。前任の廬江太守ろこうたいしゅ劉勲りゅうくん(本編未登場)は袁術えんじゅつ旧臣で、配下に袁術えんじゅつ残党を多く吸収していたので、それらへの配慮かもしれない。

 孫堅そんけんの後継者は本来なら孫賁そんほんであったが、孫策そんさくは圧倒的な武功でもってその立場をくつがえした。

 だが、その孫策そんさくは暗殺された。

 孫策そんさくは26歳の若さで死に、その遺言により、後継者は弟の孫権そんけんとなった。孫権そんけんはこの時、まだ19歳であったが、曹操そうそうによって討虜将軍とうりょしょうぐん会稽太守かいけいたいしゅに任じられた。[孫策そんさく伝、呉主ごしゅ伝]

 孫権そんけんあざな仲謀ちゅうぼうという。あざなとは本名とは別に使う通称である。本編の五章序盤に、ソンケンがチューぼうと呼ばれていたのは彼のあざなに由来する。また64話の初登場時、自身でコーレンと名乗っているが、これは孫権そんけん孝廉こうれん(郡の人材推挙)に上げられ、一時期、孝廉こうれんと呼ばれていたことにちなむ。

 『三国志』を読んだことがある人なら、孫権そんけんがこの後どうなるか知っているだろう。結論を言えば孫権そんけんを後継者に選んだのは成功と言える。だが、当時の人はこの先の未来の事を知らない。孫策そんさくが死に、まだ若い孫権そんけんが継いだ時、当時の人々が抱いたのは不安であっただろう。

 孫策そんさくは何故、江東こうとう六郡を治めることが出来たのか。血統が優れていたからか、年長者だったからか、官位が高かったからか、いや、そのどれでもない。袁術えんじゅつのような名門出身でもなく、呉景ごけい孫賁そんほんより若く、役職も会稽かいけい一郡の太守たいしゅでしかなかった。ただ、圧倒的な武勇でもって周りを従えていた。

 その武勇の主が消えた今、孫氏そんし江東こうとう支配は大きくらぐことになる。そして、孫策そんさくの後継者に求められることは、彼に匹敵するほどの武勇であった。

 だが、孫権そんけんはあまり戦争は得意ではなかったようだ。彼は孫策そんさく存命時より度々戦場にも立っていたが、かんばしい戦果を上げていない。

 『孫策そんさく山越さんえつ(異民族)を討伐した時、孫権そんけんは守りを固めていた。孫権そんけんの兵士は千に満たなかったが、油断して防護柵ぼうごさくを準備しておらず、山越さんえつ数千の強襲を受けた。孫権そんけんのすぐ側まで敵の刃が迫ったが、周泰しゅうたい(本編、シュータイ、23話より登場)が勇戦して孫権そんけんを守った。この時、周泰しゅうたいは十二の傷を受けて昏倒こんとうし、しばらく意識不明となった。』[周泰しゅうたい伝]

 有名な周泰しゅうたいの十二の傷を受ける逸話いつわだが、見方を変えれば、これは孫権そんけんの敗戦の逸話いつわでもある。

 『孫策そんさく孫権そんけんを派遣して、陳登ちんとう(本編、チントウ、28話より登場)の匡琦城きょうきじょうを攻めさせた。孫権そんけん陳登ちんとうより多い兵士を率いていたが、夜明けに陣の背後より奇襲を受けて撃ち破られた。孫権そんけんは態勢を建て直して再び攻めたが、陳登ちんとう曹操そうそうに援軍を要請する一方、城から十里先に陣営を作り、火をつけてあたかも大軍がやって来たように偽装した。孫権そんけん軍はこれに驚き、混乱状態になったところを陳登ちんとうの追撃にあい、撃退された。』[陳登ちんとう伝、陳矯ちんきょう伝]

 他に『呉主ごしゅ伝』には、199年の廬江太守ろこうたいしゅ劉勲りゅうくん戦や江夏太守こうかたいしゅ黄祖こうそ戦で勝利した記述があるが、これらは孫策そんさくらに同行して得られた勝利であった。

 やはり、孫策そんさく存命時の孫権そんけんの将軍としての武功は、孫策そんさくの後継者に相応ふさわしいと言えるほどのものではなかったのだろう。孫策そんさくはその遺言にて「江東こうとうの軍勢を率い、勝機をつかんで、天下を争うということでは、お前はこの俺に及ばない。だが、賢者を招いて、その能力を発揮させ、江東こうとうを保つということでは、お前の方が俺より優れている」と孫権そんけんに言ったのは、孫策そんさくなりのフォローだったのかもしれない。

 しかし、孫策そんさくがどんなにフォローしていても、江東こうとう孫策そんさくの武勇でまとめたものである以上、それをまとめるのには武勇が必要なことに変わりはなかった。

 孫策そんさく死後、孫権そんけん後継を巡り、混乱が起きた。

 『かつて孫策そんさくに任命された廬江太守ろこうたいしゅ李術りじゅつ孫権そんけんの命に従わず、揚州刺史ようしゅうしし厳象げんしょう(本編未登場)を殺して独立を画策した。孫権そんけんはこれを攻め、兵糧攻めにしてこれを攻略した。』[呉主ごしゅ伝]

 『孫策そんさくが死去し、孫権そんけんが継ぐことになった時、定武忠郎将ていぶちゅうろうしょう孫策そんさく従兄いとこ孫暠そんこう(本編未登場)(孫堅そんけんの弟・孫静そんせい(本編未登場)の長子)は、軍隊を率いて(孫権そんけん太守たいしゅを務める)会稽郡かいけいぐんを自分のものにしようとした。会稽郡かいけいぐんの役所は防備を固めてる一方、使者を派遣して孫暠そんこうを説得した。孫暠そんこうはこの説得にて兵を引き上げた。』[虞翻ぐほん伝]

 また、身内にも孫権そんけんの能力は疑問視されていた。

 『孫権そんけんの弟(孫堅そんけん第三子)・孫翊そんよく(本編未登場)は勇猛果敢で孫策そんさくに似ていた。重臣の張昭ちょうしょう(本編、チョウショウ、65話より本格登場)は孫策そんさくの臨終間際、兵権をこの孫翊そんよくに託すべきだと述べたが、孫策そんさくは応じなかった。』[孫翊そんよく伝]

 中でも最も不安に思ったのは、孫策そんさく孫権そんけんらの母・呉夫人ごふじんかもしれない。

 孫策そんさくの後を継いだばかりの孫権そんけんは、一人でこれらの混乱を治め、江東こうとうの政権を見事に運営していったわけではなかった。

 どうやら、この頃の江東こうとう政権を実際に運営していたのは彼の母・呉夫人ごふじんであったようだ。


 ◎呉夫人ごふじん政権と重臣・張昭ちょうしょう


 『呉夫人ごふじん孫策そんさくが亡くなると、張昭ちょうしょう董襲とうしゅう(本編、トウシュウ、77話より登場)らを招き、江東こうとうの地が守れるかと尋ねた。董襲とうしゅうは「江東こうとうは山川の天然の守りがあり、孫策そんさく様は民衆に恩徳をほどこしました。孫権そんけん様はその基盤を引き継がれ、臣下はその役に立とうと願い、張昭ちょうしょうが諸事を取り仕切り、我々が軍を率いております。地の利と人の和を得ていますから大丈夫です」と答えた。』[董襲とうしゅう伝]

 董襲とうしゅう孫策そんさく太守たいしゅを務めていた会稽かいけいの出身で、揚武都尉ようぶといを務めていた。おそらく、有力武官であるとともに会稽かいけい出身の彼に、今後の行く末に加えて、孫策そんさくが死んだことに対する会稽かいけいの人々の反応も知ろうとしたのではなかろうか。

 だが、この言葉だけで呉夫人ごふじんは安心しなかった。

 『呉夫人ごふじん孫権そんけんがまだ若いということで、張紘ちょうこう(本編、チョウコウ、65話より登場)に補佐を頼んだ。また、密かに方策を練る時や上表文じょうひょうぶんなどの文章、外交の文書を作る時は、彼女自らがいつも張紘ちょうこう張昭ちょうしょうに命令を降して、その文書を作成させた。』[張紘ちょうこう伝注呉書ごしょ]

 また、202年(孫策そんさく死去の翌々年)、袁紹えんしょうを破った曹操そうそうは、孫権そんけんに対して息子を人質に差し出すよう要求した。

 『孫権そんけんは人質を送りたくないと考えて、周瑜しゅうゆ一人を連れて呉夫人ごふじんの元に行き、意見を求めた。その場で周瑜しゅうゆは「人質は送らず、情勢を見定めるべき」と言い、呉夫人ごふじんはその意見に同意し、孫権そんけん周瑜しゅうゆを兄と思うよう伝えた。これにより孫権そんけんは人質を送らなかった。』[周瑜しゅうゆ伝注江表伝こうひょうでん]

 これらの逸話いつわを見るに、この時期の事実上の江東こうとうの政権運営者は母の呉夫人ごふじんであったのだろう。彼女は孫堅そんけんの正妻で、孫策そんさく孫権そんけんの母である。これらに加えて江東こうとうの有力一族・呉氏ごしの出身で、丹楊太守たんようたいしゅ呉景ごけいの姉でもあった。その立場故に江東こうとうをまとめることができたのだろう。

 一方、孫権そんけんはというと、ただのお飾りというわけでもなく、前述の廬江太守ろこうたいしゅ李術りじゅつの征伐や、江夏郡こうかぐん黄祖こうそ討伐、各地で起きる山越さんえつ(江東こうとう周辺に住む異民族)の反乱鎮圧等に自ら赴いている。おそらく、孫策そんさく後継に相応ふさわしいだけの経験や武功を積ませようとしたのだろう。

 前述にあるように、この頃の江東こうとうの外交面を担当していたのは呉夫人ごふじんであった。

 かつて、袁術えんじゅつが皇帝を僭称せんしょうした時、孫策そんさく袁術えんじゅつと決別し、曹操そうそう朝廷ちょうていに接近した。曹操そうそう袁術えんじゅつ呂布りょふ(本編、リョフ、5話より登場)・袁紹えんしょうといった勢力を相手にせねばならず、江東こうとうにまでは手が回らず、孫策そんさくへは懐柔策かいじゅうさくを取った。

 孫策そんさくが凶刃に倒れた200年、袁紹えんしょう曹操そうそうが覇権をかけて戦った官渡かんとの戦いにおいては、孫策そんさく曹操そうそうの同盟者として、袁紹えんしょうの同盟者・荊州けいしゅう劉表りゅうひょうと対立した。

 つまり、元々孫策そんさく曹操そうそうの二勢力は比較的親しい間柄であった。

 曹操そうそう孫策そんさくを手懐けようと、彼を討逆将軍とうぎゃくしょうぐん呉侯ごこうに封じた。また、自身の弟の娘と孫策そんさくの弟・孫匡そんきょう(本編未登場)(孫堅そんけん第四子)を婚姻こんいんさせ、孫策そんさく従兄いとこ孫賁そんほんの娘を息子・曹彰そうしょう(本編未登場)の嫁に迎えた。さらに弟の孫権そんけん孫翊そんよくにも役職を与えた。

 また、『呉録ごろく』に載せる孫策そんさく黄祖こうそ討伐の時の上表文じょうひょうぶんによれば、周瑜しゅうゆの肩書きを領江夏太守こうかたいしゅ呂範りょはん(本編、リョハン、22話より登場)を領桂陽太守けいようたいしゅ程普ていふを領零陵太守れいりょうたいしゅと記している。

 各郡太守たいしゅの頭に領の字がある。この三郡は荊州けいしゅうの領土であり、実際に孫策そんさくが支配しているわけではない。つまり、太守たいしゅには任命するけど、実際に赴任したければ自分たちで取れということである。これは奪えば自分の領土にしていいというお墨付きでもある。

 曹操そうそう劉表りゅうひょうを討伐した時の報奨ほうしょうとしてこれらの領土を約束したのだろう。ただ、孫策そんさくが死去してしまったため、江夏こうか黄祖こうそ討伐に止まり、本格的な劉表りゅうひょう討伐は行われなかった。

 呉夫人ごふじんはこの孫策そんさくの外交を引き継ぎ、親曹操そうそうを方針として定めていたようだ。

 呉夫人ごふじんの政策はあくまでも江東こうとうの安定が優先であったのだろう。不世出の英雄・孫策そんさくに匹敵する将がいない以上、現在の江東こうとう孫氏そんし政権を維持しつつ、その権益を守りながら曹操そうそうと協調していく。これが彼女の方針であろう。

 孫策そんさくが死去してから数年の間、対外戦争はほとんど行われていない。この頃に行われた戦争は領地内で起きた反乱の鎮圧等がほとんどで、赤壁せきへきの戦い前の対外戦争と言えるのは203年、207年(この年呉夫人ごふじん死去)、208年に行われた黄祖こうそ討伐か、もしくは攻めてきた劉表りゅうひょう軍を撃退したぐらいであった。[呉主ごしゅ伝、太史慈たいしじ伝、周瑜しゅうゆ伝、潘璋はんしょう伝]

 これらの期間の曹操そうそうは、袁紹遺児えんしょういじえん兄弟とその同盟者・劉表りゅうひょうと戦っている時期である。この時期の黄祖こうそ討伐はある程度、曹操そうそうの動きと連動したものかもしれない。

 この8年ほどの間、孫権そんけんは実効支配している領土をほとんど増やしてはいない。これは呉夫人ごふじんが領土拡張より、今ある領土を維持する事を優先したからだろう。

 それらから考えるに、赤壁せきへきの戦いの前、張昭ちょうしょうら主だった文官が曹操そうそうへの降伏論を唱えたのも、何も自分たちの保身ばかりを考えたのではなく、この呉夫人《ごふじん》時代の方針にのっとっていたのではないだろうか。


 ◎孫賁そんほん孫輔そんほ兄弟と曹操そうそう外交


 孫権そんけんに代わり江東こうとうの事実上の領主であった呉夫人ごふじん赤壁せきへきの戦いの前年、207年に死去する。(『呉主ごしゅ伝』、『孫堅呉夫人そんけんごふじん伝』では202年とする。注の『志林しりん』では207年とする。今は『志林しりん』に従う)

 200年に孫策そんさくが死に、208年に赤壁せきへきの戦いが起こるまでの間に多くの孫権そんけんの一族が死んだ。

 203年に叔父おじ呉景ごけい(呉夫人ごふじんの弟)が死去。[孫堅呉夫人そんけんごふじん伝]

 204年、孫権そんけんの弟・孫翊そんよく(孫堅そんけん第三子)が側近に殺害される。これに巻き込まれる形で一族の孫河そんか(本編、ソンカ、22話より登場)(孫堅そんけん族子おい)も死亡。[呉主ごしゅ伝、孫翊そんよく伝、孫韶そんしょう伝]

 他に時期不明だが、叔父おじ孫静そんせい(孫堅そんけん弟)や20歳あまりで死んだという弟の孫匡そんきょう(孫堅そんけん第四子)もこの頃に亡くなったのだろう。[孫静そんせい伝、孫匡そんきょう伝]

 孫権そんけんの親世代はだいたい曹操そうそう劉備りゅうびと同世代と考えるとあまりにも早い退場である。そのためにその息子たちはほとんど育っていない状態となっている。

 次々と孫氏そんし呉氏ごしの人物が亡くなったことにより、赤壁せきへきの戦い直前の時点である程度の地位にある孫氏そんしの一族は、討虜将軍とうりょしょうぐん会稽太守かいけいたいしゅ孫権そんけん征虜将軍せいりょしょうぐん予章太守よしょうたいしゅ孫賁そんほん(孫権従兄そんけんいとこ)、平南将軍へいなんしょうぐん交州刺史こうしゅうしし孫輔そんほ(孫権従兄そんけんいとこ孫賁そんほん弟)、綏遠将軍すいえんしょうぐん丹楊太守たんようたいしゅ孫瑜そんゆ(本編、ソンユ、75話名のみ登場)(孫権従兄そんけんいとこ孫静そんせい第二子)、承烈校尉しょうれつこうい孫韶そんしょう(本編未登場)(孫河甥そんかおい)ぐらいであろうか。(孫権そんけん継承時に会稽かいけい占領未遂を起こした孫暠そんこう(孫静そんせい長子、孫瑜そんゆ兄)はこの事件以降の記録がない。事件を機に引退したか)

 この内、孫瑜そんゆ孫韶そんしょうは上の世代の退場により後を継いだもので、年齢、経歴ともに低い(ただし、孫瑜そんゆの方が孫権そんけんより年上)。また、その役職も孫権そんけんによって仮に任命されてもので、朝廷ちょうてい(曹操そうそう)より正式に任命されたものではない。

 対して孫賁そんほん孫輔そんほ兄弟は彼らより上の立場といえる。

 孫賁そんほんは前述したように先々代の孫堅そんけんの頃より従軍し、孫輔そんほも先代の孫策そんさくに従って戦っていた。この二人の年齢は不明だが、孫賁そんほん孫策そんさくより年上。孫輔そんほも、孫権そんけんが「兄」と呼んでいることから孫権そんけんより上であろう。孫策そんさくが208年まで生きていた場合、34歳となるので、孫賁そんほんは40前後、孫輔そんほ孫策そんさくと同じか少し若いくらいであろうか。

 さらに言えば孫静そんせい呉景ごけい等の親世代が亡くなったため、おそらくだが、この時の孫権そんけん一族の最年長は孫賁そんほんだったのでないだろうか。これに加えて、孫賁そんほんの娘は曹操そうそうの息子に嫁いでおり、婚姻こんいん関係にある。

 次に孫賁そんほん孫輔そんほの役職についてだが、彼らは孫策そんさくの代に孫策そんさくによって役職に任命されていた。これはつまり孫策そんさくが勝手に任命したものだが、この間に曹操そうそう(朝廷ちょうてい)によって正式な役職を得ることとなる。

 孫賁そんほんについては、官渡かんとの戦い以降の夏侯惇かこうとん(本編、カコウトン、6話より登場)の手紙に、孫賁そんほん長沙ちょうさを授けるとある。198年~200年頃、長沙太守ちょうさたいしゅ張羨ちょうせん(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)が曹操そうそうと組み、劉表りゅうひょう反旗はんきひるがえした。これは張羨ちょうせん敗北後、その後任として孫賁そんほんを任じたということだろう。また、時期不明だが、孫賁そんほん都亭侯とていこうに封じられ、208年には曹操そうそうより征虜将軍せいりょしょうぐんに任じられ、かつて孫策そんさくが任命した予章太守よしょうたいしゅに正式に任命された。[孫策そんさく伝、孫賁そんほん伝、後漢書ごかんじょ劉表りゅうひょう伝]

 また、孫賁そんほんの弟・孫輔そんほに対しても、平南将軍へいなんしょうぐん交州刺史こうしゅうししとして仮節かせつを授けた。[孫輔そんほ伝]

 『交州刺史こうしゅうしし張津ちょうしんは度々劉表りゅうひょうと戦争したが、それに反発した部下の区景おうけい(本編未登場)に殺害された。劉表りゅうひょう頼恭らいきょうを派遣し、張津ちょうしんの後任にしようとした。』[士燮ししょう伝、薛綜せつそう伝]

 おそらく、曹操そうそう側の張津ちょうしんの後任が孫輔そんほなのだろう。張津ちょうしんの死亡年は不明だが、『晋書しんじょ』地理志によると張津ちょうしん交州刺史こうしゅうしし任命が203年、後任を劉表りゅうひょうが派遣しているのだから、彼が死ぬ208年以前のことだろう。なのでその間の人事となる。

 長沙太守ちょうさたいしゅ張羨ちょうせん交州刺史こうしゅうしし張津ちょうしんも共に南陽郡なんようぐん出身なので同族であろうか。時期としては張羨ちょうせん敗北後に張津ちょうしんが任命されており、ズレがあるが、二人とも劉表りゅうひょうと対立していることは共通している。曹操そうそうからすれば対劉表りゅうひょう戦の協力者というべき存在で、その後任なのだから孫賁そんほん孫輔そんほ兄弟には同じ立ち位置を期待していたのだろう。

 この間、孫権そんけんは前述のとおり、江夏郡こうかぐん黄祖こうそを攻めている。この頃の曹操そうそう孫権そんけん江夏郡こうかぐん(荊州けいしゅう北部)へ、孫賁そんほん長沙郡ちょうさぐん(荊州けいしゅう南部)へ、孫輔そんほ交州こうしゅう(荊州けいしゅう南隣)へと、三方を担当させ、劉表りゅうひょう包囲網を画策していた。と、同時に孫賁そんほん孫輔そんほの役割を増すことで、孫権そんけんと対等の一つの群雄として扱っている。

 孫賁そんほん孫輔そんほは昇進する一方、対して孫権そんけん孫策そんさくの死後、会稽太守かいけいたいしゅ討虜将軍とうりょしょうぐんに任命されて以降、赤壁せきへきの戦いに勝利するまで特に昇進はしていない。

 仮に孫権そんけん江夏郡こうかぐんを攻略したとしても、この江夏郡こうかぐんの新たな太守たいしゅは前述した通り既に周瑜しゅうゆと決まっている。曹操そうそうとの関係維持のために出兵しているが、孫権そんけん個人から見ればあまり利益のない戦いとも言える。

 現状、孫策そんさくの後継者は孫権そんけんである。だが、このような状況下の中、孫権そんけん曹操そうそうに降伏し、勢力を吸収された場合、果たして孫氏そんしの代表として扱われるのは誰なのか。曹操そうそう孫賁そんほん孫氏そんしの代表として扱い、自分はその一族衆としてぐうされるのではないか。そういう考えが孫権そんけんにはあったのではないだろうか。


 ◎江東こうとう政権の中の孫権そんけん


 元々の孫堅そんけんの後継者は孫賁そんほんだった。それを孫策そんさくは武功でもって孫賁そんほんより上位の孫氏そんし棟梁とうりょうともいうべき立場となった。だが、孫策そんさくの後を継いだ孫権そんけんには兄に匹敵するほどの武功はなかった。そのため、孫賁そんほんより上位の存在になるのは難しく、江東こうとうのパワーバランスは揺れ動いていた。曹操そうそうがやったことはその崩れ行く江東こうとうのバランスをさらに崩壊へと後押しするものであった。

 また、孫策そんさくはかつて自ら領地を切り取り、そのうちの予章郡よしょうぐん太守たいしゅ孫賁そんほんを、その予章郡よしょうぐんの南部を分割して盧陵郡ろりょうぐんを作り、その太守たいしゅ孫輔そんほを任命した。孫策そんさく孫賁そんほん孫輔そんほ太守たいしゅという肩書きでは同僚だが、その地位を任命する者と、任命される者では、当然、任命する者が上位となる。孫策そんさくはこの任命権を握ることで他者より上位に立つことが出来たとも言える。

 だが、曹操そうそう朝廷ちょうていを介して彼らを正式に役職へ任命していった。朝廷ちょうていを介している分、曹操そうそうの任命は正式なものである。曹操そうそう孫賁そんほんらを任命するということは、孫権そんけんの権威が低下することを意味する。

 対して孫権そんけんは領地を増やせておらず、自身も出世していない。そのため新たに任命できるのは、今ある役職の前任者が退任した時に限られ、すでに幹部クラスの人物をより上位の役職に任命することができない。

 この与える役職がないために任命権を行使できないというのは長いこと孫権そんけんを苦しめることになる。例えば孫権そんけん孫策そんさくの後を継いで以降、配下に加わった魯粛ろしゅく赤壁せきへきの戦い直前に賛軍校尉さんぐんこういに任命されるまで特に肩書きがなかったのは一例であろう。

 この曹操そうそうの対応を見るに、彼が江東こうとうで企んだことは、孫賁そんほん孫輔そんほの立場を上げて、孫権そんけんと対等にし、孫氏そんし江東こうとうの独立勢力から、多くの地方長官を輩出する後漢ごかんの有力氏族程度に抑え、緩やかに吸収していくということだったのではないだろうか。

 孫策そんさくの方針は領土拡大であった。その時の曹操そうそうは北に袁紹えんしょうという強大な敵を抱え、荊州けいしゅうには袁紹えんしょうの同盟者・劉表りゅうひょうがいた。劉表りゅうひょうにまで手が回らない曹操そうそうと、荊州けいしゅうへ進出したい孫策そんさくとで利害が一致し、両者は協力関係となった。

 孫策そんさくが亡くなり呉夫人ごふじんの代になると、方針は領土安定へと転換される。この頃の曹操そうそう袁紹えんしょう勢力を倒し、曹操そうそう一強時代へと移行していた。だが、領土の安定を願う呉夫人ごふじんからすれば、強大な曹操そうそう庇護下ひごかに入るのは望むところであった。孫策そんさく呉夫人ごふじん、両者の方針は真反対であったが、その時の情勢の変化により、共に最上の協力者として曹操そうそうを選んだ。

 一方、曹操そうそうからすると、孫策そんさくが築いた強力な勢力を、次代に引き継がせるのは好ましくなく、孫賁そんほん孫輔そんほ兄弟に力を与え、孫権そんけんと並べて権力の分散を計った。だが、それは孫氏そんしの一族を引き立てるということでもあり、一族の繁栄を望む呉夫人ごふじんらの希望に沿うものであった。

 呉夫人ごふじんにしろ、孫賁そんほんにしろ、孫輔そんほにしろ、立場としては後漢王朝ごかんおうちょうの臣下であり、自ら皇帝になろうと考えもしなかっただろう。そもそも、その領土は孫策そんさくによって得られたものであり、その孫策そんさくが死んで現状維持さえ危うかった状態で独立して皇帝になろうとは思いもよらなかっただろう。何より、皇帝を名乗り滅びた袁術えんじゅつという悪例を特等席で見ていた人達である。

 では、孫権そんけんはどうだろうか。母や従兄いとこら年長の一族衆が曹操そうそうとの外交を展開しながら、家の安定への道を進めていた。だが、それは孫権そんけんの目から見れば兄から継承したはずの自身の権力の解体でもあった。それに対し、忸怩じくじたる思いはあったのだろうか。

 そんな中、孫権そんけんの元に一人の男が現れる。

 彼の名を魯粛ろしゅくという。

 魯粛ろしゅく孫権そんけんに言った。

「皇帝を名乗り、天下を支配しましょう」と。
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