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一章 ― 始 ―

一章-9

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 朱器殿は、宮中の東南に位置する、儀式用の朱器を納めている殿だ。念誦堂から向かうには、紫宸殿の前の庭を横切るのが最短だが、夜に歩くのは危険であり、そもそも女房装束では着物を引きずってしまうため、庭を歩くのは難しい。ぐるりと渡殿をまわって向かう。

 夜の宮中は暗い。灯火を置いてはいても、それが照らすことの出来る範囲はとても狭い。前を行く俊元の背中も、灯火の横を通ればはっきりと見えるが、そうでないところは闇にぼやけてしまう。

「ここが朱器殿。暗いから、足元に気を付けて」
「はい」

 段差に注意しつつ、菫子は中に入った。俊元が皿に油を張ってある、灯台に火をともしてくれた。そのおかげで何とか室内を見ることが出来る。四角く区切られた棚に、様々な形の器が整列していた。ここから目的の物を見つけ出すとなると、時間がかかりそうだ。

「これらが、正月に使われた器だ」

 俊元が指さして教えてくれたおかげで、時間は全くかからなかった。これだけの物を把握しているとは。侍従の本来の仕事ではないはずだから、この調査のために調べたのだろう。仕事が出来ると自負するだけある。

「では、失礼します」

 菫子は、盃を手に取った。美しい朱色の塗りの盃。慌てて落とした時のだろうか、ほんの少し塗りが剝がれている。しかし、それ以外は特に問題は見られなかった。

 次に、銀の瓶を見る。毒が入った飲み物が入れられたなら、銀に何らかの変化が見られるはず。もし洗った後だとしても。

「……変化、ありませんね」
 この瓶には毒は入らなかった、ということになる。しかし、現に毒にあたった者がいる。毒がない、なんてことはないはずだ。

「この瓶を使った後に毒が入れられたと? いや、童女もあたっているから、それはないか」
「はい。初めから毒が入っていたと考えるのが妥当なのですが、瓶には毒の反応がありませんので、どうしても矛盾してしまいます」

「童女の時に毒があり、銀の瓶に入ると消え、主上の時にはまた毒がある。そんなことあり得るのか……」
 余計に混乱した状況を抱えて、俊元と菫子は朱器殿を後にした。

「明日、当日飲み物を用意した女官の一人に話を聞くことになったんだ。あの様子からして、何か知っているのかもしれない。何とか、夜に話を聞けないか、頼んでみることにするよ」

「夜に、ですか」
「そうすれば、藤小町も話を直接聞ける。人伝では分からないこともあると思うから」
「ありがとうございます。ですが、あまりご無理はなさらないでください。昼間も調査をされて、こうして夜にも。橘侍従様、休めていますか?」

 働き通しで、心配になる。この調査が帝の命に関わるとは理解しているが、俊元が倒れてしまうことは、帝も望んでいないはずだ。

「心配ありがとう。調査に任じられているから、通常の業務は免除してもらっているんだ。同僚からは、さぼりやがって、と言われているけど」
「それなら、よいのですが。――わっ」

 会話に意識が持っていかれていて、足元に注意していなかった。軽くつまずいてしまった。転ばなくて良かった。

「大丈夫!? こっちに――っと、ごめん」

 俊元は自然に差し出した手を、さっと引っ込めた。菫子が触れて、取り乱したのを思い出して、気を遣ったのだろう。引っ込んでしまった手を見て、少し寂しく思っていることに、気付いて、菫子は自嘲した。

 なんて、身勝手なのだろう。
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