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一章 ― 始 ―

一章-8

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 その夜、控えめに戸が叩かれた。俊元だと分かり、菫子はすぐに戸を開けた。何故か驚いた顔をした俊元が立っていた。

「どうかなさいましたか?」
「いや、こういうこと言うのもあれだけど、せめて戸の向こうにいるのが誰か確認してから開けた方がいいと思うよ。宮中にはたくさん人がいるから」

「ここにいらっしゃるのは橘侍従様だけなので……。ですが、そうですね。気を付けます」
 俊元はまた入口近くに腰かけると、昼間に聞いた話を教えてくれた。

「当日、薬子を務めた童女は、実家に帰されていたから、その近くにいた姉に話を聞いてきた。目新しい情報はあまり得られなかったかな。童女が手順通りに盃を受け取って、それを飲んで、女官に渡した。しばらくして、苦しそうにうずくまった、と」

「どんな風に苦しんでいたか、言っていませんでしたか」

「妹があんなことになって、かなり慌てていたから、詳しくは覚えていないと言っていた。本当なら、倒れる前のことも合わせて話したかったけれど、仕方がない。その童女が倒れてから運ばれていくまでのことを報告するよ」

「別の方にもお話を?」
「いや、その子を運んだのが俺だから」

 少し驚いた。童女が倒れた時、帝も毒を口にしてしまっていたはずだ。なのに、俊元は帝から離れていたと言う。

「主上から命じられたんだ。その子を死なすな、とね。毒を口にしたらしい童女に近寄ろうとする者は誰もいない。姉は取り乱していたし。俺が抱えて医師の元まで運んだ。俺ならどんな毒であろうと関係ないから」
「そうでしたか」

「童女は、おそらく眩暈を起こしていた。自力では立てなかったし、頭が痛い、とも言っていた。それから……異様に汗をかいていた、と思う」
「なるほど」

 菫子は頭の中で、症状から毒の特定を試みるが、いくつかの候補に絞り込めはするものの、特定までは出来ない。

「それから、朱器殿しゅきでんへの立入許可が出た。当日に使われた盃を確認出来る。けど、いけるのは、夜だけと言われた。大臣からの指示が行き届いているらしい」
 俊元は申し訳なさそうにそう言った。俊元のせいではないというのに。

「今から、見に行けるのですか」
「ああ。でも、藤小町、夜が恐ろしくはない?」

 俊元は、菫子のことを心配してくれていたのだ。女人は夜を怖がるもの、源大臣はそう考えて、夜だけ許可したのだろう。実質、昼も夜も動けない状態にしようと。

 菫子は、口の両端を持ち上げて微笑んでみせた。

「わたし、夜は好きなんです」
「好き? 恐ろしくないだけでなく、好むと」

「はい。明けぬ夜はないと言う人もいるけれど、夜は悪いものではありませんよ。わたしにとっては、陽のもとよりも居心地がいいです。夜が明けぬことを望む者もいるのです」

 菫子は、格子の窓の向こうに見える藍色の空を見上げた。

「……夜が明けてしまえば、また一日を生きねばなりませんから」

 視線を戻すと、俊元と目が合った。目をわずかに見開いたまま、表情が固まっていた。何かを言おうとして、開いた口が閉じられ、また開かれた。

「生きるのは、辛いこと、か?」

 菫子は、微笑むだけで答えた。わざわざ言葉にすることではない。でも、俊元が悲しそうな顔をするから、少し心が痛んだ。やはり優しい人だ。何か話を、と思っていたところに桜襲の羽織が目に付いた。

「わたしが夜を好きになった、きっかけがありまして。聞いていただけますか」
「もちろん」

 夜はまだある。朱器殿へ向かうのは少し後にする。

「昔、母が亡くなったばかりの頃、高階の家の念誦堂にこもって、泣いていたんです。まともに寝ずに、何日もずっと。特に夜が怖くて、怯えていたのを覚えています。ある日の夜、少年がやってきて、大丈夫、となぐさめてくれました。その時に『夜は怖くない。君に寄り添う友になってくれる』と教えてくれたんです」

 菫子は桜襲の羽織を手に取った。ふわりと軽い肌触りが心地いい。

「わたしは、泣き疲れたのと安心したのとで、眠ってしまいました。起きた時にはもう少年はどこにもいなくて、夢だったのかと思いました。でも、この羽織がわたしの肩に掛けられていました。桜衣の君、と勝手に呼んでいます。あの頃のわたしを、救ってくれた方です」

「そう、か。その……話の少年は藤小町の知り合い?」
「いいえ、存じ上げない方でした。大叔父上の知り合いのご子息だったか、今となっては知るすべもありません」

 俊元は、そうか、と言うと羽織を見ながら、何やら考え込んでいるような、悩んでいるような、よく分からない顔をしていた。だがそれも少しの間で、菫子に目線を戻すと柔らかい笑顔を向けた。

「昼よりましだから、ではなく、夜が『好きな理由』が聞けて、良かったよ」
「橘侍従様は、夜はお嫌いですか」

「嫌いじゃないよ。昼も嫌いじゃない。ただ、平穏がいいと思うよ。近くにいる人が笑顔でいて欲しいと、思っている」

 そう言う俊元の瞳と口調からは、信念のようなものが感じられた気がした。
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