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第十話
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丸一日、ウエルは部屋から出ることを許されなかった。
山神がウエルの体調を心配したからだ。あんなに寒くて空気の薄いところに出てきて身体を悪くしなかったかと、としきりに案じていた。だから、寝台で寝ていなさいと命じられたのだった。
この屋敷の外は、恐らく頂にほど近い場所なのだろう。山頂に神の臥し所があるという教えは本当だった。
山頂が寒いだけでなく、空気が薄いだなんて知らなかった。禁足地になっていなかったとしても、人間にあの頂を踏むことは不可能だっただろう。
屋敷の中に入れば、空気の薄さも冷たさも害を及ぼすことはない。
山神が許嫁のために創った空間だからだろうか。
「ウエル、ウエル。もう寝てしまったかな?」
彼が話しかけてくるのを、ウエルは寝た振りをして無視していた。
ウエルは極度の寂しがりだと彼は信じきっていた。席を外したらまた勝手に外に出てしまうとでも思っているのか、ずっと寝台の横に座って傍にいてくれた。
ただでさえ人との会話が好きでないウエルはすぐに苦痛になって、寝るふりをするようになった。
苦痛ではあったが、ウエルを案じてくれていることは伝わってきた。無理矢理ウエルの身体を暴いた男と同一人物とは思えなかった。
「ウエル、そろそろ時間だから行くよ。なるべく早く戻ってくるからね。外に出ては駄目だよ」
立ち上がる物音が聞こえた。
そろりと毛布から顔を出してみると、彼が手に鍵を持っていた。
「悪いけれど、この部屋に鍵をかけていくよ。玄関にも鍵をかけておくからね」
彼が部屋から出ていき、扉が閉まるとカチャリと音がした。
鍵が閉められようが、どうでもいい。とっくに逃げ出す気はなくなっている。逃げ出すことはできないと悟ったからだ。山神がいくら間抜けな神でも、逃亡なんてできっこない。たとえ逃げられたとしても、地の果てまで追ってくるだろう。
神官たちの言った通り自分は本当に神の許嫁で、男であるにも関わらず山神に抱かれてしまい、今は監禁されている。すべて夢だったらいいのに。
ウエルは本当に寝ることにした。
しばらくして、ノック音に意識が覚醒する。山神が戻ってきたのだろうか。
「ウエル様」
呼びかける声で、ヤルトだと分かった。
「お加減はいかがでしょうか。夕食はご主人さまと同席できそうでございますか?」
ヤルトの問いかけに、ウエルは考えた。
部屋で寝こんでいると、運ばれてくる食事は体調を気遣ってかあっさりとしたものが中心になる。
こうして監禁生活を送っていると、娯楽は食事だけだ。
脂っこいものが食べたくなって、ウエルは頷くことにした。
前回食事を共にしたときは、酒に変な混ぜ物がしてあって酷い目に遭った。それでも食事への欲が恐れに勝った。
ヤルトに鍵を開けてもらったので、時間になると白い寝間着姿のまま食堂へと向かった。
「ウエル、元気になったかい」
向かいの席に腰かけた山神が微笑みかけてきた。
とっくに元気になっていたことは言わない。
ヤルトが給仕を始める。前回と同じように数々の料理が運ばれてくる。最後にあの琥珀色の酒も運ばれてきた。
「……」
ウエルは酒の注がれた杯を睨みつけた。
まさか。手が割れたというのに、こんなに堂々と再び盛ったりはしないだろう。この酒には変なものは入っていないはずだ。
それでも恐ろしくて、ウエルは一応尋ねてみた。
「また何か変なもの混ぜてないだろうな?」
我ながら間抜けな質問だ。混ぜていたとしても、正直に答えるわけがない。
「私の体液のことかい、うん混ぜたよ」
山神はあっさりと肯定した――――ウエルは爆発した。
「な、なんでだよ! なんで混ぜるんだよ! なんでそれを言っちゃうんだよ! 馬鹿なのか、間抜けなのかお前は!」
ついに面と向かって間抜けと言ってしまった。お前呼ばわりしてしまった。
それで充分だ、こんなめちゃくちゃな神なんか。
怒られた山神はきょとんとしていた。
「なぜって……ウエルに気持ちよくなってほしいからだよ」
彼は悪びれなく意図を口にする。
「じゃあ、なんで馬鹿正直に盛ってるって言っちゃうんだよ! 言ったら、飲まないだろ!」
「飲まない? なぜ?」
綺麗に整った顔が、ぽかんと目を丸くさせた。
本当に分かっていないのだ。どんなに頭がよくとも、全能の力を持っていようと、人の心ひとつ分からないなんて!
「なんでって、嫌だからだよ!」
「嫌? だって君はあんなに気持ちよさそうにしていたじゃないか」
「オレにだって意思ぐらいあるんだ、変なもんで無理やり気持ちよくさせられて、嫌に決まっているだろ!」
ウエルは椅子から立ち上がって叫んだ。
山跳びを続けていたかったのに、神官たちに捕らえられ勝手に許嫁にされて、禁足地に追放されたと思ったら、山神の屋敷の連れてこられて無理やり抱かれて……これまでの怒りを吐き出すかのように怒鳴った。
これでどうなってしまってもいい、知るものか。ぷちっと潰されることになったとしても、今ここで怒りを訴えることの方が重要だった。
この間抜けに分からせてやらねばならない。オレには心があるのだと。ウエルの胸の内にあるのは、その思いだけだった。
「……てっきり、ウエルは喜んでくれていると思っていたよ。私はウエルの嫌なことをしてしまっていたんだね」
ウエルの主張を聞き、山神は悲しげな顔をした。
「分かったよ、もう二度としないよ」
「へ……?」
あっさりとした言葉に、拍子抜けした。
「他にも不快なことをしてしまっていたら、言っておくれ。私はウエルのことが大事なんだ」
そんなにもあっさりとやめると言われてしまったら、この怒りをどこへやればいいのか。
気が抜けてすとん、と椅子に腰を下ろす。
無理やり抱いたくせに喜んでいると思っていたなんて、果てしない間抜けだ。価値基準が違いすぎる、話が通じる気がしない。
けれども、彼に悪意がなかったことは分かった。理解すると、途端に狂ってみえた彼の印象がちょっと変わったような気がした。
だからといって許しはしないけれど。
絶対に、こんな間抜けな神に気を許してなるものか。
山神がウエルの体調を心配したからだ。あんなに寒くて空気の薄いところに出てきて身体を悪くしなかったかと、としきりに案じていた。だから、寝台で寝ていなさいと命じられたのだった。
この屋敷の外は、恐らく頂にほど近い場所なのだろう。山頂に神の臥し所があるという教えは本当だった。
山頂が寒いだけでなく、空気が薄いだなんて知らなかった。禁足地になっていなかったとしても、人間にあの頂を踏むことは不可能だっただろう。
屋敷の中に入れば、空気の薄さも冷たさも害を及ぼすことはない。
山神が許嫁のために創った空間だからだろうか。
「ウエル、ウエル。もう寝てしまったかな?」
彼が話しかけてくるのを、ウエルは寝た振りをして無視していた。
ウエルは極度の寂しがりだと彼は信じきっていた。席を外したらまた勝手に外に出てしまうとでも思っているのか、ずっと寝台の横に座って傍にいてくれた。
ただでさえ人との会話が好きでないウエルはすぐに苦痛になって、寝るふりをするようになった。
苦痛ではあったが、ウエルを案じてくれていることは伝わってきた。無理矢理ウエルの身体を暴いた男と同一人物とは思えなかった。
「ウエル、そろそろ時間だから行くよ。なるべく早く戻ってくるからね。外に出ては駄目だよ」
立ち上がる物音が聞こえた。
そろりと毛布から顔を出してみると、彼が手に鍵を持っていた。
「悪いけれど、この部屋に鍵をかけていくよ。玄関にも鍵をかけておくからね」
彼が部屋から出ていき、扉が閉まるとカチャリと音がした。
鍵が閉められようが、どうでもいい。とっくに逃げ出す気はなくなっている。逃げ出すことはできないと悟ったからだ。山神がいくら間抜けな神でも、逃亡なんてできっこない。たとえ逃げられたとしても、地の果てまで追ってくるだろう。
神官たちの言った通り自分は本当に神の許嫁で、男であるにも関わらず山神に抱かれてしまい、今は監禁されている。すべて夢だったらいいのに。
ウエルは本当に寝ることにした。
しばらくして、ノック音に意識が覚醒する。山神が戻ってきたのだろうか。
「ウエル様」
呼びかける声で、ヤルトだと分かった。
「お加減はいかがでしょうか。夕食はご主人さまと同席できそうでございますか?」
ヤルトの問いかけに、ウエルは考えた。
部屋で寝こんでいると、運ばれてくる食事は体調を気遣ってかあっさりとしたものが中心になる。
こうして監禁生活を送っていると、娯楽は食事だけだ。
脂っこいものが食べたくなって、ウエルは頷くことにした。
前回食事を共にしたときは、酒に変な混ぜ物がしてあって酷い目に遭った。それでも食事への欲が恐れに勝った。
ヤルトに鍵を開けてもらったので、時間になると白い寝間着姿のまま食堂へと向かった。
「ウエル、元気になったかい」
向かいの席に腰かけた山神が微笑みかけてきた。
とっくに元気になっていたことは言わない。
ヤルトが給仕を始める。前回と同じように数々の料理が運ばれてくる。最後にあの琥珀色の酒も運ばれてきた。
「……」
ウエルは酒の注がれた杯を睨みつけた。
まさか。手が割れたというのに、こんなに堂々と再び盛ったりはしないだろう。この酒には変なものは入っていないはずだ。
それでも恐ろしくて、ウエルは一応尋ねてみた。
「また何か変なもの混ぜてないだろうな?」
我ながら間抜けな質問だ。混ぜていたとしても、正直に答えるわけがない。
「私の体液のことかい、うん混ぜたよ」
山神はあっさりと肯定した――――ウエルは爆発した。
「な、なんでだよ! なんで混ぜるんだよ! なんでそれを言っちゃうんだよ! 馬鹿なのか、間抜けなのかお前は!」
ついに面と向かって間抜けと言ってしまった。お前呼ばわりしてしまった。
それで充分だ、こんなめちゃくちゃな神なんか。
怒られた山神はきょとんとしていた。
「なぜって……ウエルに気持ちよくなってほしいからだよ」
彼は悪びれなく意図を口にする。
「じゃあ、なんで馬鹿正直に盛ってるって言っちゃうんだよ! 言ったら、飲まないだろ!」
「飲まない? なぜ?」
綺麗に整った顔が、ぽかんと目を丸くさせた。
本当に分かっていないのだ。どんなに頭がよくとも、全能の力を持っていようと、人の心ひとつ分からないなんて!
「なんでって、嫌だからだよ!」
「嫌? だって君はあんなに気持ちよさそうにしていたじゃないか」
「オレにだって意思ぐらいあるんだ、変なもんで無理やり気持ちよくさせられて、嫌に決まっているだろ!」
ウエルは椅子から立ち上がって叫んだ。
山跳びを続けていたかったのに、神官たちに捕らえられ勝手に許嫁にされて、禁足地に追放されたと思ったら、山神の屋敷の連れてこられて無理やり抱かれて……これまでの怒りを吐き出すかのように怒鳴った。
これでどうなってしまってもいい、知るものか。ぷちっと潰されることになったとしても、今ここで怒りを訴えることの方が重要だった。
この間抜けに分からせてやらねばならない。オレには心があるのだと。ウエルの胸の内にあるのは、その思いだけだった。
「……てっきり、ウエルは喜んでくれていると思っていたよ。私はウエルの嫌なことをしてしまっていたんだね」
ウエルの主張を聞き、山神は悲しげな顔をした。
「分かったよ、もう二度としないよ」
「へ……?」
あっさりとした言葉に、拍子抜けした。
「他にも不快なことをしてしまっていたら、言っておくれ。私はウエルのことが大事なんだ」
そんなにもあっさりとやめると言われてしまったら、この怒りをどこへやればいいのか。
気が抜けてすとん、と椅子に腰を下ろす。
無理やり抱いたくせに喜んでいると思っていたなんて、果てしない間抜けだ。価値基準が違いすぎる、話が通じる気がしない。
けれども、彼に悪意がなかったことは分かった。理解すると、途端に狂ってみえた彼の印象がちょっと変わったような気がした。
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