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第九話

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 死ぬかと思った。
 
 翌日のウエルは、午前中は身体を動かすこともままならなかった。食事は部屋に運んでもらい、しわがれた声で受け取った。まだ後ろを貫かれているような感覚が残っている。
 
 山神を名乗るあの男。完全に狂っている。
 こんなところにいたら、命がいくつあっても足りない。このままでは犯り殺されてしまう。
 寝台に身を横たえながら、ウエルはこの屋敷からの逃亡を決意していた。
 
「お昼のお食事をお持ちしました。この後ご主人さまは外にお出かけになられますが、お夕食のときまでにはお戻りになられます。ご安心くださいね」
 
 昼食を持ってきたヤルトが声をかけてくる。ウエルはまだ身体がつらい振りをして、毛布に潜りこんだまま返事しなかった。
 
 何が「ご安心くださいね」だ。ウエルは内心毒づく。だがいいことを聞いた。昨日と同じように、山神を名乗る彼は一度どこかに出かけるらしい。やつが出かけたときこそ、脱出するチャンスだ。
 
 ヤルトは食事を置いていくと、去っていった。
 ヤルトが去るなり、盆の上の食事をウエルは猛然と食べ始めた。
 
 山跳びとして日頃鍛えてきたウエルは、もう起き上がれるくらいに回復していた。この屋敷を脱出したら、次はいつ飯を食えるか分からない。ウエルは必死に栄養を補給した。
 汚れた口を真っ白な寝間着の袖で拭く。目が覚めたら、寝間着に着替えさせられていたのだ。
 
 食事を終えると、ウエルはそっと部屋の外の様子を窺った。
 ヤルトの姿はない。抜き足差し足で廊下を進んだ。
 
 玄関へと続く扉を音もなく開け、玄関まで辿り着いた。朱塗りの重厚な木製の扉だ。こそこそと周囲を見回し、誰もいないことを確認した。
 ゆっくりと玄関の扉を押した。ほんのわずかに軋む音が立ち、心臓が跳ねるかと思った。
 脱走しようとしていることがバレたら、どんな目に遭わされることか。大人しく飲み食いしていただけなのに、昨晩はあんな酷い目に遭わされたのだ。脱走がバレたら、今度こそ死を覚悟しなければならないかもしれない。
 
 ここを脱出できても、山跳びには戻れない。生活ができなくて、野垂れ死ぬかもしれない。それでも、こんなところで狂った男に殺されるよりはずっとマシだ。
 
 意を決して、玄関扉に体重をかけた。
 さらに大きな軋み音が鳴ったが、ウエルは後ろも振り返らずに外へと飛び出した。
 
 屋敷の外は、洞窟の中だった。巨大な洞の中に一つの屋敷が収まっていたのだ。こんなところに屋敷を建てるなんて、金持ちは変わっている。
 洞窟の壁に手をつきながら、外を目指した。幸いにして洞窟は一本道だ。外に出ることくらい、たやすい。
 
 それにしても、洞窟の壁が妙にほの温かい気がする。規則的な振動も感じる。まるで鼓動しているかのように。
 ウエルは、気のせいだと思うことにした。この状況に不安だから、そんな風に感じるのだ。
 
 やがて、洞窟の入口が見えた。
 
「ここは……山だったのか?」
 
 洞の外に見えたのは、吹雪だった。一面の銀世界だ。
 熱帯のこの国では、雪が降るのは聖地の禁足地だけ。禁足地に屋敷を建てるなんて、たとえどんな富豪であろうと不可能だ。
 
 彼らはもしかして本当に……湧きかけた考えを、首を振って追い払う。
 正体がどうであろうと、自分を酷い目に遭わせたことには変わらない。絶対に戻ってやるものか。
 洞窟の外に一歩、踏み出した。
 
「……⁉」
 
 途端に、刃物よりも鋭く寒さが身体を突き刺した。洞窟の中と外では、気温がまったく違った。まるで洞窟の中ではなにかに守られていたかのようだ。
 違うのは気温だけではない。いくら大きく呼吸しても、肺の中にまったく空気が入ってこない。呼吸が難しかった。一歩進んだだけで、全速力で走ったかのように疲弊した。
 
「なん、で……」
 
 なぜこんなに呼吸がキツイのか理解できない。
 それでも二歩、三歩と進む。キリキリと頭が痛んできた。
 
『ウエル、ウエル』
 
 瞬間、彼の声が耳に届いた。
 もちろん、山神を名乗っているあの狂った男の声だ。
 
「ど、どこだ!」
 
 つらさを堪え、周囲を見回す。どこにも人影はない。
 
『そこは人の子には死の領域だよ。寒いだけじゃなく、空気が薄い。戻りなさい』
「姿を現せ!」
 
 ウエルは叫んだ。
 吹雪のどこを見渡しても、人の影はない。黒い岩壁しかない。
 
『ウエル、ここだよ』
 
 岩壁が震えた。見ている目の前で岩壁に割れ目ができて……否、それは割れ目ではなかった。
 だ。
 
 岩壁だと思っていた場所にあった瞼が開き、巨大な瞳が露わになった。
 目が、ウエルを見つめた。
 
 蒼い瞳だった。溺れるかと思うほどの深い蒼。彼の瞳の色とまったく同じだった。
 ウエルの全身よりも大きな瞳が、鏡のようにウエルの姿を映していた。
 
『ウエル。帰ろう』
 
 山のすべてが語りかけてくる。
 
 ウエルは悟った。この山そのものが彼だと。
 この巨大な山すべてが彼で、神だ。想像もつかないほどの巨体の片目が、いま目の前で瞼を開けている。
 
 神は常にそこにいた。自分たちの目の前に、そうと気づかず。
 なにが山におわす神だから山神だ。山が神なんじゃないか。
 
 世界を創った神は、この地に眠った。そのままの意味だ。わざわざ山奥で眠りに就いたのではない。その巨体をこのままこの地に横たえ、長い年月のうちに土が積もり、雪が積もった。
 それが聖地の正体だ。
 神の姿を目にしてはならない――――その文言は、気づいてはならないという意味だったのかもしれない。
 
「あ、ああ……!」
 
 恐怖に喘ぎ、地面の上に転げる。
 
 どんなに敬虔な信者であったとしても、この世のなによりも巨大な神がすぐ隣にいると知れば、正気を保つのは不可能だろう。
 
 ウエルは逃げようとした。だがどこへ逃げるというのか。ここのすべてが彼だというのに。
 寒さと薄い空気とで、少しずつ視界が暗くなっていく。
 
 ついにウエルは失神した。

 
「ウエル、ウエル」
 
 穏やかな声が聞こえる。
 ウエルは暖かで柔らかい場所に身を横たえていた。屋敷の寝台だ、と思った。こんなに心地いい寝床はあそこしか知らない。彼――山神に連れ戻されたのだ。
 
「目が覚めたかい、ウエル」
 
 語りかけてくるのは山神だ。
 彼が本当に山神なのだと悟った今では、寝台から顔を出すのが恐ろしかった。
 
「私の本当の姿を理解したね、ウエル」
 
 分厚い毛布の中に埋もれたまま、彼の声を聞く。すぐそばから声が聞こえてくるから、寝台の隣にでも座っているのだろう。
 
「この人の身をかたどった姿は現身うつしみなんだ。君と触れ合うためのね。現身をずっと保っているのは難しくて、一日のうちわずかな時間休む必要があるんだ。水中に長く潜るために、水面に戻って呼吸するのと同じように」
 
 彼がたびたび出かけていたのは、人の姿をずっと保てないから。彼のいう現身とは分身ということだろうか。
 彼がいない間ならば逃げられるなんて、なんて間抜けな考えだったのだろう。彼は常にすぐそばにいたというのに。
 
「私はね、ずっと君を待っていたんだ」
 
 毛布の上からそっと身体を撫でられ、びくりと身を震わせた。
 
「この宇宙が生まれた瞬間から、君と恋に落ちると分かっていた。正確には、君と恋に落ちると分かったからこの宇宙を創ったんだ」
 
 静かだけれども、熱のこもった声音で語られる。
 
「君と出逢えるように時という概念を創り、時間が流れるようにした。星々を創り、君が生まれる地を創った。君が生まれる地で眠りに就き、微睡みながらずっと君を待っていた。だから君は私の許嫁なのだよ」
 
 伝えられてきた教えとは、まったく違ったことを口にした。本人が言うのだから、真実なのだろう。
 
 語られたことでどうしても気になることがあって、ウエルはちらりと毛布から顔を出した。
 白い長髪に、黒い毛先。美しくも穏やかな面立ち。いつもの人間の姿の彼だ。 
 今は、恐ろしくはない。
 ずっと信仰してきた山神が彼だなんて、信じられない気持ちになりそうになる。だが、忘れることは絶対にできないだろう。彼の真の姿を。
 
「オレと恋に落ちることが分かってたって……? 未来が見えるのか?」
 
 全知全能の最高神ならば、未来も見られるのだろうか。だとしたらウエルが脱走を企てていたことも、それが失敗することも、彼はすべてお見通しだったのだろうか。
 
「未来が見えたわけではないよ。ただ、分かったんだ」
「分かったって?」
 
 彼の言う意味が分からず、眉根に皺を寄せた。
 
「ううん……そうだね、例えばここに小石が一個あるとしよう」
 
 彼が手の平を上に向けると、実際に一つの小石が手の平の上に現れた。
 神としての不思議な力を使ったようだ。
 
「この小石から私が手を離したらどうなるかな?」
 
 人差し指と親指で小石をつまみ、ウエルに見せる。
 
「下に落っこちる」
 
 ウエルは訝りながら答える。
 
「そうだ。なぜ分かったんだい? 君は未来を見たのかい?」
「そんなの、考えりゃ分かるだろ」
 
 馬鹿にするな、とウエルは鼻を鳴らした。
 
「そうだね、思考を働かせれば分かることだよね」
 
 彼がぱっと手を離した。小石が床に落ち、コトンと物音を立てた。
 
「でも君よりも思考力の劣る犬や猫や鳥ならば、手を離せば小石が下に落ちるという簡単なことも分からないかもしれない。獣たちにとってみれば、君が未来を見たように思えるだろう」
 
 彼は転がった小石を拾う。
 手の平を握り込み、開くと手の中にもう小石はなかった。
 
「それと同じことだよ。私にはいろんなことが分かる。人の子には知覚できないさまざまなことがね」
 
 山神は人間などよりずっと頭がいいのだろう。
 結局、それは未来が見えているのとどう違うのだろうか。
 
「それで、ウエル。どうして勝手に外に出たりしたのかな……?」
 
 ひやり。彼の表情は変わらないのに、気温が一段階下がったように思えた。
 恐怖が再来した。
 
 彼の本体が本気を出せば、いや本気を出すまでもなく少し身動ぎをしただけで、ウエルはペチャンコになる。
 相手はいともたやすくウエルを殺すことができる。
 正直に逃げ出したかったからと言ったら、どうなることか。
 
 かといって、嘘を言っても無駄だろう。遥か遠くの未来が分かるくらい頭のいい山神に、自分の嘘が通じるとは思えない。真実を訴えても、誰にも信じてもらえなかったのに。
 
「えっと……あなたがいなくなって、さみしかったから、外に出たら会えるかと思って……」
 
 それでもウエルは悪足掻きの嘘を吐いた。
 演技のためというより、彼の顔を見るのが怖くて、しゅんと俯いてみせた。
 カタカタと身体が震える。
 
「――そうだったんだね!」
 
 次の瞬間、ぎゅっと抱き締められた。
 
「そんなに寂しかっただなんて、ああウエル、君はなんて可愛いんだろう! 全然気づかなかったよ、ごめんね。そのうちに一日中この姿でいられるようになってあげるからね!」
 
 彼は強い力でウエルを抱き締めると、頭を撫でさすった。
 本気でウエルの言葉を信じていた。手放しでウエルのことを信じてくれたのは、彼が初めてだった――――。
 
「でも危ないから、勝手に外に出ないでおくれ。よく分かっただろう?」
 
 神のくせに、ずっと未来のことも予測できるくらい頭のいい神のくせに、自分なんかの嘘ひとつ見抜けないなんて。とんだ間抜けな神もいたものだ。
 
 胸中で悪態を吐いてみるが、呆れだけではない嬉しさに似た感情がこみ上げてくるのは止められなかった。
 自分を信じてくれた、唯一の人だから。
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