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1巻
1-2
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鈴のような可憐な声に顔を上げると、そこにいたのは色鮮やかなワインレッドのドレスを纏った子だった。
ドレスというのは大昔は女性という者たちの衣装だったらしいが、今ではノンノワールの子供服でしかない。ノンノワールの子が大きくなってネイルや化粧、装飾品などで普通の男との差別化ができるようになったらパンツスタイルに移るのだ。
ドレスを纏ったその子が、幼き頃のフランソワだった。
フランソワは今よりも髪の色素が少し薄く、金色の髪は純白のように見えた。
ドレスと薔薇を模した髪飾りは瞳の色に合わせて選ばれたのだろう、鮮烈な赤が彼の白い肌と髪を引き立たせていた。不安げに噛まれた桃色の唇はぷるんと柔らかそうだ。
まるでおとぎの国の妖精が迷い込んできたかのようだった。いや、妖精でもこんなには美しくないに違いない。
エルムートはフランソワを目にした瞬間、息ができなくなってしまった。
一目惚れなのだと幼心に自覚した。
「ぼくのテーブル、みんながおかし食べちゃったから……」
どうやらフランソワのテーブルには、食欲旺盛な子ばかりがいたらしい。みんなでムシャムシャとお菓子を食べ、お菓子がなくなると一目散に遊びに行ってしまったのだそうだ。
エルムートは、無言でテーブルの上のお菓子が入った皿をずいっとフランソワの前に押し出した。
「えっ、ぜんぶくれるの? わあっ、ありがとう……!」
エルムートが差し出したお菓子に、フランソワは頬を紅潮させて喜んだ。
フランソワの輝くような笑顔に、胸のうちがきゅっと苦しくなる。
これが愛おしいという感情なのだろう。
幼きエルムートは衝動に駆られ、こんなことを口にした。
「オレと、けっこんしてください……っ!」
当時のエルムートは、結婚というのは好きな人同士でずっと一緒にいられるようになることだと教わっていた。
目の前のとびっきり可愛い子とずっと一緒にいられるなら、きっと幸せだろう。
大人になったエルムートがその場にいれば、幼い自分に「見た目だけで結婚相手を決めると痛い目にあうぞ」と説教しただろうが、その時は名前も知らぬ可愛いその子のことしか考えられなかった。
「へ……?」
フランソワはエルムートの言葉の意味を理解すると、顔だけでなく耳まで真っ赤にした。その表情が気の強そうな顔とのギャップを生じさせていて、可愛らしくてたまらなかった。
エルムートは彼のことをぎゅっと抱き締めたくなったが、抑えた。ノンノワールの子の身体にむやみに触れてはならないと両親に教えられていたからだ。
代わりにひたすらにフランソワの顔を見つめた。彼は恥ずかしかったのか、顔を赤くしたまま俯いた。それがまた可愛らしかった。
そのお茶会からほどなくして、エルムートはフランソワと婚約できることになった。
エルムートの両親は自分たちが恋愛結婚だったこともあって、結婚は本人の希望どおりにさせてあげようという方針だった。
大人になった今では、その方針を恨んでいる。将来のことなんかまともに考えられない子供に、結婚なんて重大なことを任せるなと。せめて成人するまでは親が責任を持てと。
だが、子供の時分のエルムートは大喜びであった。
見事射止めることのできた愛しい人に相応しくなろうと思った。寡黙なエルムートにできたのは、ただひたすらに、愚直に、強くなることだけだった。
気がつけば若くして騎士団長にまで上りつめていた。
それまでの間も時折婚約者たるフランソワとお茶会をしたり、昼食を共にしたりと交流を重ねていた。
いつからだろう、それが楽しくなくなったのは。
フランソワはだんだんと華美な装いを好むようになり、美しく愛らしい顔を厚い化粧の下に隠してしまうようになった。それと同時に性格もキツく、我儘になっていった。
この時点でそれを注意していれば、何かが変わったのかもしれない。だが十代の頃のエルムートはまだ、フランソワに嫌われるのが怖かったのだ。
それに性格がキツイといっても、フランソワはエルムートと顔を合わせるたびにパッと華やいだ笑顔を見せてくれた。その笑顔が愛らしくて、かろうじて恋心を持続させてくれた。
フランソワに対して完全に幻滅したのは、結婚後のことだった。
信じられない金遣いの荒さで、何度注意してもそれを改めようとはしなかったのだ。
「美しくあるための必要経費だ」
「伴侶が美しい方が嬉しいだろう」
そんな言葉を並べ立てるのだ、百年の恋も冷めるというものだ。
見た目だけで結婚相手を決めた罰だと思った。
あるいは公爵家の次男である自分が求婚などしなければ、彼もこんなに思い上がった人間にならなかったのかもしれない。
だから、これで何も変わらなければもう別れようと思って、絶縁状代わりの本を贈った。この期に及んで言葉で気持ちを表そうとしないあたり、鋼鉄のエルムートは筋金入りの口下手だった。
ところがどうしたことだろう、フランソワは豹変した。
急に無類の古代語好きになってしまったのだ。
古代語好きになる呪いにかかってしまったのだとでも考えなければ、説明のつかない状況だった。
そして好きなものが変わっただけで、我儘なところは何も変わっていない。
なのに何故だろう。変わった彼を見ていると、懐かしいきゅっとする痛みが胸をくすぐるのは。
認めたくはなかった、恋心の再来を。
第二章
それから数ヶ月。
フランソワは本当に古代語の本の現代語訳を完成させた。タイトルは『精霊魔術の基礎』である。
精霊を操る魔術の初歩を教えたものであると、内容のおおよそが解読できたからだ。
フランソワも本に載っているすべての古代語の単語の意味がわかったわけではない。推測せざるを得なかったり、無視したりした単語もある。
それでもフランソワの出した古文書の現代語訳は革新的だった。
戦争で疲弊したうえに急増する魔物の対処に追われるこの国で、未だかつてこんなにも古代語を解読できた者はいなかった。
なにより、本の内容どおりにすれば本当に精霊が呼び出せる。翻訳が正しいことは一目瞭然だった。
かくして、フランソワはあっさりと王立図書館への立ち入り許可を得ることができた。
ただし同時に仕事を言いつけられた。
王立図書館にある古代語の書物の大まかな内容を解読し、目録を作成し、そして王家が有用だと感じた書物を現代語に翻訳せよというものだった。
「フランソワ、君に仕事などできるのか?」
王城へと向かう馬車の中でエルムートが尋ねてきた。心配そうな色がその瞳に浮かんでいる。
今日のフランソワはネイルも化粧もせず、艶のある金髪も編まずに一纏めに結んで横に流しただけだ。現代語訳の執筆作業をしている間に、お洒落はすっかりなおざりになってしまっていた。
「当然だ」
前世はこれでも言語オタクで、何ヶ国語にも精通していることを活かして大学で講師をしていたのだ。
今回は、学生とのコミュニケーションすら取る必要がない。国から言い付けられた仕事は、大学講師よりもよほど楽な仕事に思えた。
大好きな言語パズルを仕事にできるのであれば、それ以上の幸福はない。
「お前も失礼な奴だな。そんなに自分の伴侶が心配か?」
小首を傾げて上目遣いに伴侶を見つめてみる。
こなれた仕草に、エルムートは照れるどころか眉間に皺を寄せた。
「ともかく、オレはお前を図書館まで送ったら仕事に向かう。何かあったらすぐに連絡しろ。帰りは迎えに行くから勝手にどこかに行くなよ」
エルムートにしては口うるさくクドクドと注意事項を言ってくる。
子供扱いをされているようで、フランソワは思わず反発心を抱いた。
「俺は保育園に預けられる園児じゃないんだ」
「ホイクエン……?」
「いや。とにかく、送り迎えなどいらない」
「なんだと?」
フランソワが反論すると、エルムートはキッと強い視線で睨んできた。
仮にも騎士団長の一睨みだ、凄味があった。
(……そんなに俺のことが嫌いかよ)
前世の記憶に目覚めたとしても、今までの記憶が消えてしまったわけではない。
エルムートはフランソワ好みの顔をした男だ。好みの男に鋭い目つきで睨まれるのはしんどいものがある。
かろうじて涙が零れることはなかったが、涙を流す代わりに、エルムートから視線を逸らして馬車の外の景色を眺める。
二人の間に沈黙が落ちた。
前世のどこかの国のことわざでは、こういう瞬間のことを「天使が通り過ぎた」と言うのだったか。この冷え切った空気から考えれば、天使よりも「悪魔の沈黙」の方が相応しいとフランソワは感じた。
やがて馬車は王城に着いた。
門番に用件を告げると、案内係の人間が来て図書館まで連れていってくれた。
吹き抜けの二階まで書架がずらりと並んだ、古い紙の匂いで満たされた図書館。そこがフランソワの今世での職場だった。
広さは学校の図書室ほどしかないが、印刷技術のないこの世界ではこれが最大規模の図書館なのだと理解できる。
フランソワは一目でこの図書館が好きになった。
「フランソワ・フィルブリッヒ様、御高名はかねがね伺っております。古代語を約二百年ぶりに解読なさったとか。私はここの司書をしておりますエリク・バルリエでございます」
二人を出迎えたのはよぼよぼの老人だった。
図書館内はシンとしていて、エリク以外の人影は見当たらなかった。
「他の司書はどこにいる?」
「お恥ずかしながら、私だけでございます」
本当に恥ずかしそうに、エリクは言った。
「なんだと? 王立図書館だろう、なのに司書が一人だけとはどういうことだ?」
まさかこの世界ではそれが普通なのかとフランソワは目を見開く。
「百年戦争とそれに次ぐ魔物の急増により、この国は知に力を注ぐ余裕などなくなってしまっているのでございます」
エリクは言いにくいことを口にするかのように声を潜めた。
実際、聞く人によっては王の政策を批判しているかのように取られかねない。だがエリクは批判などではなく、純然たる事実を口にしただけなのだと、フランソワには理解できた。
その時。
「クアーッ!」
鷹がどこからともなく図書館内に入ってきた。窓も開いていないのに。それに、本を日の光で傷めないようにこの図書館の窓は必要最小限の大きさしかない。
鷹はエルムートの肩に止まった。
「騎士団の緊急招集だ、魔物が出現したのだろう。オレは行く」
「えっ」
フランソワが何かを尋ねる間もなく、エルムートは肩に鷹を乗せたまま踵を返し、図書館を出ていってしまった。
王都周辺に魔物が出現したのだろう。
エルムートが騎士団長を務める第一騎士団は、主に王都の治安維持を担当しているが、最近では魔物の急増により王都周辺の魔物討伐にも駆り出されている。
「フィルブリッヒ様の御夫君は第一騎士団の団長でございましたね。夫夫で王城勤めとはなんとも麗しいことですね」
エリクが静かに微笑む。
騎士団長ということは、エルムートも王城で働いているということだ。フランソワは今更ながらに気がついた。
わざわざ送り迎えをすると念を押してきたのは、職場が同じなのだから一緒に移動する方が効率がいいということだろう。自分のことが嫌いなはずなのに彼が送り迎えしてくれる理由を悟った。少しは俺のことが大切なのかと思ったのに、とフランソワは残念に思った。
「まあいい、それよりも仕事を開始しよう。流石にこの図書館には古代語を現代語に訳した本の一つや二つ、あるのだろう?」
古代語を訳したのは自分が約二百年ぶりだとは聞いたが、それならばそれより以前に遡れば現代語訳のようなものがあるはずだ。現代語訳と原本を突き合わせてみれば解読は一気に進む。
だがエリクは顔を曇らせた。
「それが……かなり前に古代語に関する書物が焚書の憂き目にあったようで、そういった書物は一切ないのです」
彼は悲しそうに首を横に振った。
知識の継承が途絶えた理由がわかった。
当時の国王が愚かなことに、古代語を訳した書物のことごとくを焼き払ってしまったらしい。おそらくは古代語を研究していた人間も、処分されてしまったのだろう。
世間的には百年戦争の間に知識が途絶えたとされているが、本当はもっと前に意図的に失われていたのだ。
「古代語で書かれた本そのものは美術的価値があるし、知識がなければ読める者もいないからと当時の司書が必死に説き伏せ、焚書をまぬがれたようでございます」
「そうだったのか」
地道にこれまでどおりのやり方で、少しずつ解読していくしかなさそうだ。
フランソワはエルムートに贈られた古文書を解読する時、次のようなやり方で解読を進めていった。
まず最初に、現代語と古代語でまったく同じ綴りでまったく同じ意味の単語を探す。同じ意味かどうかは語順から大体判断できる。
次に、綴りが少し違うだけで、おそらくは同じ発音の同じ単語であろうと思われる単語を探す。
その次の段階が少し難しいが、よくよく見れば現代語のあの単語の元になった単語ではないか、と面影が感じられる単語を探す。面影程度しか感じられない単語は、現代語では名詞なのに、古代語では動詞であるといった風に品詞が違うこともある。慎重に見極めなければならない。
こうして語彙を増やしたら、後は前後の文脈から他の単語の意味を推測していく。
こうした段階を踏んで一冊の古文書の翻訳を完成させたのだ。
それと同じやり方をしていくしかない。
「あっ、そういえば……」
何か思いついたようにエリクがぽんと手を叩く。
「何だ?」
「確か当時の古代語の研究者の覚え書きを記した紙片が、書庫の片隅に保存されていたはずでございます! 今思い出しました。おそらくは当時の司書が隠したのでしょう」
「本当か!」
「ええ、ええ! 書庫へご案内いたします」
覚え書きでもなんでも現代語と古代語を併記したものがあれば、だいぶ情報が増える。
翻訳作業に希望が芽生えてきた。
「フランソワ、司書に迷惑はかけなかったか?」
エルムートの訪れで、とっくに日が傾き業務終了の時間になっていたことを知った。険しい顔のエルムートは夕陽の加減のせいか、いつもより一層男前に見えた。
「エルムート!」
フランソワは羊皮紙を重ねたものから顔を上げた。
「エルムート、大丈夫だったか?」
「なにがだ?」
彼の身体を上から下まで眺め回してみるが、怪我をした様子はない。フランソワの問いにエルムートは怪訝な顔をしている。
「魔物を討伐しに行ったのだろう? だから、もしかしたら怪我をしているかと思って……」
この言葉に、エルムートは何故かフランソワの顔を見下ろしたまま直立不動になった。
「え、エルムート?」
「……君が知らないだけで毎日のように魔物討伐ぐらいしている。今更だ」
やっと口を開いたかと思うと、彼はそっぽを向いた。
きっと、無知めと呆れたのだろう。
「……」
フランソワはしゅん、と俯く。
「ともかく、一緒に帰るぞ」
「ひゃっ⁉」
突然彼が肩を抱いて帰宅を促してきた。
驚きのあまり変な声が出てしまった。
エルムートは滅多にボディタッチをしてこないのに、一体なんの気紛れだろう。
帰りの馬車の中ではドギマギして彼の顔を見られなかった。
◆
「……っ」
夜、カーテンを閉め切った寝室にて。
エルムートは下衣を寛げて自身を握り込んでいた。
閉じた瞼の裏に思い描くのはフランソワの肢体だった。
妄想の中のフランソワは、エルムートがやや乱暴に服をはだけさせると、何も言わずにただ顔を赤くさせて俯く。
本物のフランソワにこんなことをしたら、きっと大人しくしていないだろう。
妄想の中では、彼は化粧っ気のない素朴な顔をしている。いや、彼は顔の造りがいいから化粧をしていなくとも映える顔立ちをしている。
そして妄想の中の彼の身体を見下ろす。
結婚したら初夜は必ず性交をする習慣を持つ国もあるらしいが、この国にはそんな習慣はない。夫夫が互いにいい頃合だと判断した時に初めて閨を共にするのだ。
当然エルムートは、まだフランソワと閨を共にしていない。
だからこの裸体はまったくの想像だ。きっと抜けるように白い肌をしているのだろう。
自身を扱きながら、妄想の中で彼の白い身体を蹂躙する。白い肌に衝動をぶつけるたびに、妄想の中の彼は甘く鳴く。
「う……っ!」
ビュクリと精が零れ出た。
「…………」
手の平の汚れを始末した後、エルムートは自己嫌悪に襲われた。
愛してもいない伴侶の姿を思い浮かべて、欲を発散させてしまった。他の男を思い浮かべるよりよほど誠実なのだろうが、エルムートの胸中は複雑だった。
だが理想の相手を頭の中に思い浮かべようとすると、どうしてもこうなってしまうのだ。
幼きあの日に一目惚れをしたあの瞬間に、性的嗜好が固定されてしまった。
求婚されても何も言えず、ただ果実のように頬を紅潮させる彼。己を慰める時にはどうしてもそういう態度の彼を夢想してしまうのだ。
連鎖して今日のフランソワのことを思い出す。
今日、初めて身体のことを気遣われた。
不覚にも息が止まるかと思うほど照れた。思わず照れ隠しにつっけんどんな態度を取ってしまった。
家ではあまり仕事の話をしていないから、自分が日々魔物討伐に赴いていることをフランソワが知らなくても無理はないだろう。
つっけんどんな態度に悄然としてしまった彼が可哀想だった。
だがエルムートには慰め方がわからない。だから不慣れな真似をして彼の肩を抱いてみた。
『ひゃっ⁉』
彼は聞いたこともないような可愛らしい声を上げて驚いた。動揺のあまり足が止まってしまうかと思った。
ああいう風に触れ合っていれば、もっと早く彼の可愛らしい一面を見ることができたのだろうか。
エルムートは少し後悔した。
彼の悪い面ばかり目につくようになっていたのは、自分の努力不足もあったのかもしれない。
翌日。
朝食時、エルムートとフランソワの間には沈黙が流れていた。
どんな会話を交わせば良いのかわからなかったからだ。フランソワの方から話しかけてくれない限り、基本的に二人の間に会話はない。
おまけに、昨晩彼の姿を思い描きながら手淫をおこなった罪悪感で、まともに彼の顔を見られなかった。
思えば顔を合わせるたびに彼がプレゼントをねだってくる時は、会話が楽だった。浪費は論外だが、自分にも伴侶として問題があったのだなとエルムートは自覚した。
先に朝食を食べ切ってしまった。
間がもたない。
「早く朝食を終えろ。あまりゆっくりしている時間はないぞ」
彼を急かす言葉を吐いて、席を立つ。
「あっ」
その時、フランソワの視線が何かに気取られたようにエルムートに注目する。
「袖口のボタンがほつれてるぞ」
彼の指摘に視線を下げると、確かに袖口のボタンの糸がほつれて外れかけていた。
「ああ、気づかなかった。後で側仕えに直させよう」
「待った。俺たちの朝食の後は側仕えたちの朝食時間だろ」
エルムートは彼の指摘に目を瞬かせる。
「確かにそうだが、ならどうしろと……」
困惑するエルムートに、彼が言った。
「俺が直してやる」
「は?」
「……君はいつから針仕事ができるようになったんだ?」
朝食の後、エルムートはフランソワの部屋へと連れていかれた。
フランソワは裁縫道具を取り出すと、すいすいとあっという間にボタンを付け直してしまった。
もしや古代語を解読できるようになったのと同じように、突然裁縫も得意になったのだろうか。
「前からだが? 以前から衣服の襟元や袖口に、コーディネイトに合わせた刺繍を足したりしていたのだが、知らなかったのか?」
「そう……だったのか」
フランソワに以前から得意なことがあったなんて知らなかった。
いや、知ろうとしなかったのだろう。エルムートは己のおこないを振り返って反省した。
「思えばお前の衣服は地味だ。何か刺繍してやろうか?」
フランソワは得意げに口角を上げて笑みを見せる。
彼とこんな親しげな雰囲気になるのはいつぶりだろうか。懐かしさにきゅうと胸の内が締め付けられる。
「……では、頼む」
「まあ、どうせお前はそんなの……え?」
パチクリ。
つり上がった形のいい瞳を彼は瞬かせる。
「頼む」
「あ、ああ……わかった、いいとも。休日に取りかかろう」
返事をする彼の頬は心なしか紅潮しているように見えた。
なんて愛らしいのだろう――
オレが恋したフランソワの姿を見るのに足りなかったのは、オレの努力だったのだ。
この日、エルムートは理解した。
「フランソワ、その……」
エルムートは彼に手を伸ばす。
衝動的に彼を抱き締めようと思ったのだ。
「ん?」
彼の紅い瞳と目が合う。
幼い頃から変わらない、いや年を重ねれば重ねるほど美しさを増してきた彼の顔が目の前にある。それも濃い化粧に覆い隠されていない、ありのままの素の顔だ。
緊張に汗が滲む。
「いや……なんでもない」
どう考えても今は抱擁をする空気ではない。
自分に言い訳して、エルムートはさりげなく手を下ろした。
妄想の中では彼を抱いているのに、いざとなると抱擁一つする勇気もないだなんて――
そんなこと認めたくなかった。
第三章
季節を司る精霊の時計の針が一つ刻を刻み、季節は春から夏へと移り変わった。
季節一つ分の時が過ぎても、相変わらずフランソワはエルムートと共に城へ出勤していた。
今日のエルムートのワイシャツの袖口には、フランソワの施した金糸の刺繍が光っている。彼に贈られた古文書に載っていた草花の模様を、彼に似合うように少しアレンジしたデザインになっている。
エルムートの服に刺繍を施してやったあたりから、彼の態度が柔らかくなった気がする。
時には彼に愛されているのではないかと勘違いしてしまうほどだ。
だがそんなはずはない。おそらく、嫌悪の感情を表に出さないようにするのが上手くなっただけなのだろう。彼に嫌われていることは本を贈られたあの日、嫌というほど思い知らされた。
その本をきっかけにして前世の記憶が蘇ったのだから、考えようによってはとてもいい結果だと言える。だから結婚生活のことは考えず、ひたすらに古代語の翻訳に日々を捧げればいい。
「おはようございます、フィルブリッヒ様」
「おはよう、エリク」
図書館に出勤し、司書のエリクに挨拶する。
それから早速昨日の仕事の続きをすることにした。
過去の研究者の覚え書きのおかげもあり、古代語がかなりスムーズに読み解けるようになってきた。古文書の大体の意味を把握しては、要約して目録に書き付ける日々を送っている。
古文書の内容は、結構面白かった。
おとぎ話としか思えないような話が、まるで史実のように語られている本もあった。
例えば、ありとあらゆる魔術を創生した伝説の聖女様と、魔物を率いる魔王の対決とか。すべての精霊の頂点に立つ精霊王の話だとか。
その中で、「おそらくこれが焚書の原因だろうな」と思われる記述も見つけた。
当時の国王はこれを隠したかったようだ。これが事実だとすれば人類規模の汚行だ。隠したくなるのもやむなしだろう。
カリカリとペンを走らせていると、エリクが城の側仕えと思しき人物の応対をしに立ち上がった。
気にせず作業を続けていると、会話を終えた彼が慌てた様子で声をかけてくる。
「た、大変です、フィルブリッヒ様……!」
「どうした?」
異変を感じて顔を上げる。
「それが、第一王子アレクサンドル殿下が図書館の視察にいらっしゃるそうなのです。なんでもフィルブリッヒ様に一度お会いしたいとかで……!」
「第一、王子……?」
何故わざわざ第一王子が、と思った瞬間だった。
「いかにも」
決して張り上げているわけではないのによく通り、威厳が感じられる声。
「私が王位継承権第一位、アレクサンドル・ロワ・ソレイユルヴィルだ」
王族特有だという銀の髪を上の方で一つに結んだ青年が微笑を浮かべて、堂々たる足取りで図書館内に入ってきた。
城の側仕えに言付けを頼んだ時には、もう既にこちらに向かっていたのだろう。
「そなたがフランソワ・フィルブリッヒ……古代語を現代に蘇らせた才人か」
アレクサンドルは真っ先にフランソワへと近づいてくる。
そして、髪色と似た銀の瞳でフランソワを見下ろした。
ドレスというのは大昔は女性という者たちの衣装だったらしいが、今ではノンノワールの子供服でしかない。ノンノワールの子が大きくなってネイルや化粧、装飾品などで普通の男との差別化ができるようになったらパンツスタイルに移るのだ。
ドレスを纏ったその子が、幼き頃のフランソワだった。
フランソワは今よりも髪の色素が少し薄く、金色の髪は純白のように見えた。
ドレスと薔薇を模した髪飾りは瞳の色に合わせて選ばれたのだろう、鮮烈な赤が彼の白い肌と髪を引き立たせていた。不安げに噛まれた桃色の唇はぷるんと柔らかそうだ。
まるでおとぎの国の妖精が迷い込んできたかのようだった。いや、妖精でもこんなには美しくないに違いない。
エルムートはフランソワを目にした瞬間、息ができなくなってしまった。
一目惚れなのだと幼心に自覚した。
「ぼくのテーブル、みんながおかし食べちゃったから……」
どうやらフランソワのテーブルには、食欲旺盛な子ばかりがいたらしい。みんなでムシャムシャとお菓子を食べ、お菓子がなくなると一目散に遊びに行ってしまったのだそうだ。
エルムートは、無言でテーブルの上のお菓子が入った皿をずいっとフランソワの前に押し出した。
「えっ、ぜんぶくれるの? わあっ、ありがとう……!」
エルムートが差し出したお菓子に、フランソワは頬を紅潮させて喜んだ。
フランソワの輝くような笑顔に、胸のうちがきゅっと苦しくなる。
これが愛おしいという感情なのだろう。
幼きエルムートは衝動に駆られ、こんなことを口にした。
「オレと、けっこんしてください……っ!」
当時のエルムートは、結婚というのは好きな人同士でずっと一緒にいられるようになることだと教わっていた。
目の前のとびっきり可愛い子とずっと一緒にいられるなら、きっと幸せだろう。
大人になったエルムートがその場にいれば、幼い自分に「見た目だけで結婚相手を決めると痛い目にあうぞ」と説教しただろうが、その時は名前も知らぬ可愛いその子のことしか考えられなかった。
「へ……?」
フランソワはエルムートの言葉の意味を理解すると、顔だけでなく耳まで真っ赤にした。その表情が気の強そうな顔とのギャップを生じさせていて、可愛らしくてたまらなかった。
エルムートは彼のことをぎゅっと抱き締めたくなったが、抑えた。ノンノワールの子の身体にむやみに触れてはならないと両親に教えられていたからだ。
代わりにひたすらにフランソワの顔を見つめた。彼は恥ずかしかったのか、顔を赤くしたまま俯いた。それがまた可愛らしかった。
そのお茶会からほどなくして、エルムートはフランソワと婚約できることになった。
エルムートの両親は自分たちが恋愛結婚だったこともあって、結婚は本人の希望どおりにさせてあげようという方針だった。
大人になった今では、その方針を恨んでいる。将来のことなんかまともに考えられない子供に、結婚なんて重大なことを任せるなと。せめて成人するまでは親が責任を持てと。
だが、子供の時分のエルムートは大喜びであった。
見事射止めることのできた愛しい人に相応しくなろうと思った。寡黙なエルムートにできたのは、ただひたすらに、愚直に、強くなることだけだった。
気がつけば若くして騎士団長にまで上りつめていた。
それまでの間も時折婚約者たるフランソワとお茶会をしたり、昼食を共にしたりと交流を重ねていた。
いつからだろう、それが楽しくなくなったのは。
フランソワはだんだんと華美な装いを好むようになり、美しく愛らしい顔を厚い化粧の下に隠してしまうようになった。それと同時に性格もキツく、我儘になっていった。
この時点でそれを注意していれば、何かが変わったのかもしれない。だが十代の頃のエルムートはまだ、フランソワに嫌われるのが怖かったのだ。
それに性格がキツイといっても、フランソワはエルムートと顔を合わせるたびにパッと華やいだ笑顔を見せてくれた。その笑顔が愛らしくて、かろうじて恋心を持続させてくれた。
フランソワに対して完全に幻滅したのは、結婚後のことだった。
信じられない金遣いの荒さで、何度注意してもそれを改めようとはしなかったのだ。
「美しくあるための必要経費だ」
「伴侶が美しい方が嬉しいだろう」
そんな言葉を並べ立てるのだ、百年の恋も冷めるというものだ。
見た目だけで結婚相手を決めた罰だと思った。
あるいは公爵家の次男である自分が求婚などしなければ、彼もこんなに思い上がった人間にならなかったのかもしれない。
だから、これで何も変わらなければもう別れようと思って、絶縁状代わりの本を贈った。この期に及んで言葉で気持ちを表そうとしないあたり、鋼鉄のエルムートは筋金入りの口下手だった。
ところがどうしたことだろう、フランソワは豹変した。
急に無類の古代語好きになってしまったのだ。
古代語好きになる呪いにかかってしまったのだとでも考えなければ、説明のつかない状況だった。
そして好きなものが変わっただけで、我儘なところは何も変わっていない。
なのに何故だろう。変わった彼を見ていると、懐かしいきゅっとする痛みが胸をくすぐるのは。
認めたくはなかった、恋心の再来を。
第二章
それから数ヶ月。
フランソワは本当に古代語の本の現代語訳を完成させた。タイトルは『精霊魔術の基礎』である。
精霊を操る魔術の初歩を教えたものであると、内容のおおよそが解読できたからだ。
フランソワも本に載っているすべての古代語の単語の意味がわかったわけではない。推測せざるを得なかったり、無視したりした単語もある。
それでもフランソワの出した古文書の現代語訳は革新的だった。
戦争で疲弊したうえに急増する魔物の対処に追われるこの国で、未だかつてこんなにも古代語を解読できた者はいなかった。
なにより、本の内容どおりにすれば本当に精霊が呼び出せる。翻訳が正しいことは一目瞭然だった。
かくして、フランソワはあっさりと王立図書館への立ち入り許可を得ることができた。
ただし同時に仕事を言いつけられた。
王立図書館にある古代語の書物の大まかな内容を解読し、目録を作成し、そして王家が有用だと感じた書物を現代語に翻訳せよというものだった。
「フランソワ、君に仕事などできるのか?」
王城へと向かう馬車の中でエルムートが尋ねてきた。心配そうな色がその瞳に浮かんでいる。
今日のフランソワはネイルも化粧もせず、艶のある金髪も編まずに一纏めに結んで横に流しただけだ。現代語訳の執筆作業をしている間に、お洒落はすっかりなおざりになってしまっていた。
「当然だ」
前世はこれでも言語オタクで、何ヶ国語にも精通していることを活かして大学で講師をしていたのだ。
今回は、学生とのコミュニケーションすら取る必要がない。国から言い付けられた仕事は、大学講師よりもよほど楽な仕事に思えた。
大好きな言語パズルを仕事にできるのであれば、それ以上の幸福はない。
「お前も失礼な奴だな。そんなに自分の伴侶が心配か?」
小首を傾げて上目遣いに伴侶を見つめてみる。
こなれた仕草に、エルムートは照れるどころか眉間に皺を寄せた。
「ともかく、オレはお前を図書館まで送ったら仕事に向かう。何かあったらすぐに連絡しろ。帰りは迎えに行くから勝手にどこかに行くなよ」
エルムートにしては口うるさくクドクドと注意事項を言ってくる。
子供扱いをされているようで、フランソワは思わず反発心を抱いた。
「俺は保育園に預けられる園児じゃないんだ」
「ホイクエン……?」
「いや。とにかく、送り迎えなどいらない」
「なんだと?」
フランソワが反論すると、エルムートはキッと強い視線で睨んできた。
仮にも騎士団長の一睨みだ、凄味があった。
(……そんなに俺のことが嫌いかよ)
前世の記憶に目覚めたとしても、今までの記憶が消えてしまったわけではない。
エルムートはフランソワ好みの顔をした男だ。好みの男に鋭い目つきで睨まれるのはしんどいものがある。
かろうじて涙が零れることはなかったが、涙を流す代わりに、エルムートから視線を逸らして馬車の外の景色を眺める。
二人の間に沈黙が落ちた。
前世のどこかの国のことわざでは、こういう瞬間のことを「天使が通り過ぎた」と言うのだったか。この冷え切った空気から考えれば、天使よりも「悪魔の沈黙」の方が相応しいとフランソワは感じた。
やがて馬車は王城に着いた。
門番に用件を告げると、案内係の人間が来て図書館まで連れていってくれた。
吹き抜けの二階まで書架がずらりと並んだ、古い紙の匂いで満たされた図書館。そこがフランソワの今世での職場だった。
広さは学校の図書室ほどしかないが、印刷技術のないこの世界ではこれが最大規模の図書館なのだと理解できる。
フランソワは一目でこの図書館が好きになった。
「フランソワ・フィルブリッヒ様、御高名はかねがね伺っております。古代語を約二百年ぶりに解読なさったとか。私はここの司書をしておりますエリク・バルリエでございます」
二人を出迎えたのはよぼよぼの老人だった。
図書館内はシンとしていて、エリク以外の人影は見当たらなかった。
「他の司書はどこにいる?」
「お恥ずかしながら、私だけでございます」
本当に恥ずかしそうに、エリクは言った。
「なんだと? 王立図書館だろう、なのに司書が一人だけとはどういうことだ?」
まさかこの世界ではそれが普通なのかとフランソワは目を見開く。
「百年戦争とそれに次ぐ魔物の急増により、この国は知に力を注ぐ余裕などなくなってしまっているのでございます」
エリクは言いにくいことを口にするかのように声を潜めた。
実際、聞く人によっては王の政策を批判しているかのように取られかねない。だがエリクは批判などではなく、純然たる事実を口にしただけなのだと、フランソワには理解できた。
その時。
「クアーッ!」
鷹がどこからともなく図書館内に入ってきた。窓も開いていないのに。それに、本を日の光で傷めないようにこの図書館の窓は必要最小限の大きさしかない。
鷹はエルムートの肩に止まった。
「騎士団の緊急招集だ、魔物が出現したのだろう。オレは行く」
「えっ」
フランソワが何かを尋ねる間もなく、エルムートは肩に鷹を乗せたまま踵を返し、図書館を出ていってしまった。
王都周辺に魔物が出現したのだろう。
エルムートが騎士団長を務める第一騎士団は、主に王都の治安維持を担当しているが、最近では魔物の急増により王都周辺の魔物討伐にも駆り出されている。
「フィルブリッヒ様の御夫君は第一騎士団の団長でございましたね。夫夫で王城勤めとはなんとも麗しいことですね」
エリクが静かに微笑む。
騎士団長ということは、エルムートも王城で働いているということだ。フランソワは今更ながらに気がついた。
わざわざ送り迎えをすると念を押してきたのは、職場が同じなのだから一緒に移動する方が効率がいいということだろう。自分のことが嫌いなはずなのに彼が送り迎えしてくれる理由を悟った。少しは俺のことが大切なのかと思ったのに、とフランソワは残念に思った。
「まあいい、それよりも仕事を開始しよう。流石にこの図書館には古代語を現代語に訳した本の一つや二つ、あるのだろう?」
古代語を訳したのは自分が約二百年ぶりだとは聞いたが、それならばそれより以前に遡れば現代語訳のようなものがあるはずだ。現代語訳と原本を突き合わせてみれば解読は一気に進む。
だがエリクは顔を曇らせた。
「それが……かなり前に古代語に関する書物が焚書の憂き目にあったようで、そういった書物は一切ないのです」
彼は悲しそうに首を横に振った。
知識の継承が途絶えた理由がわかった。
当時の国王が愚かなことに、古代語を訳した書物のことごとくを焼き払ってしまったらしい。おそらくは古代語を研究していた人間も、処分されてしまったのだろう。
世間的には百年戦争の間に知識が途絶えたとされているが、本当はもっと前に意図的に失われていたのだ。
「古代語で書かれた本そのものは美術的価値があるし、知識がなければ読める者もいないからと当時の司書が必死に説き伏せ、焚書をまぬがれたようでございます」
「そうだったのか」
地道にこれまでどおりのやり方で、少しずつ解読していくしかなさそうだ。
フランソワはエルムートに贈られた古文書を解読する時、次のようなやり方で解読を進めていった。
まず最初に、現代語と古代語でまったく同じ綴りでまったく同じ意味の単語を探す。同じ意味かどうかは語順から大体判断できる。
次に、綴りが少し違うだけで、おそらくは同じ発音の同じ単語であろうと思われる単語を探す。
その次の段階が少し難しいが、よくよく見れば現代語のあの単語の元になった単語ではないか、と面影が感じられる単語を探す。面影程度しか感じられない単語は、現代語では名詞なのに、古代語では動詞であるといった風に品詞が違うこともある。慎重に見極めなければならない。
こうして語彙を増やしたら、後は前後の文脈から他の単語の意味を推測していく。
こうした段階を踏んで一冊の古文書の翻訳を完成させたのだ。
それと同じやり方をしていくしかない。
「あっ、そういえば……」
何か思いついたようにエリクがぽんと手を叩く。
「何だ?」
「確か当時の古代語の研究者の覚え書きを記した紙片が、書庫の片隅に保存されていたはずでございます! 今思い出しました。おそらくは当時の司書が隠したのでしょう」
「本当か!」
「ええ、ええ! 書庫へご案内いたします」
覚え書きでもなんでも現代語と古代語を併記したものがあれば、だいぶ情報が増える。
翻訳作業に希望が芽生えてきた。
「フランソワ、司書に迷惑はかけなかったか?」
エルムートの訪れで、とっくに日が傾き業務終了の時間になっていたことを知った。険しい顔のエルムートは夕陽の加減のせいか、いつもより一層男前に見えた。
「エルムート!」
フランソワは羊皮紙を重ねたものから顔を上げた。
「エルムート、大丈夫だったか?」
「なにがだ?」
彼の身体を上から下まで眺め回してみるが、怪我をした様子はない。フランソワの問いにエルムートは怪訝な顔をしている。
「魔物を討伐しに行ったのだろう? だから、もしかしたら怪我をしているかと思って……」
この言葉に、エルムートは何故かフランソワの顔を見下ろしたまま直立不動になった。
「え、エルムート?」
「……君が知らないだけで毎日のように魔物討伐ぐらいしている。今更だ」
やっと口を開いたかと思うと、彼はそっぽを向いた。
きっと、無知めと呆れたのだろう。
「……」
フランソワはしゅん、と俯く。
「ともかく、一緒に帰るぞ」
「ひゃっ⁉」
突然彼が肩を抱いて帰宅を促してきた。
驚きのあまり変な声が出てしまった。
エルムートは滅多にボディタッチをしてこないのに、一体なんの気紛れだろう。
帰りの馬車の中ではドギマギして彼の顔を見られなかった。
◆
「……っ」
夜、カーテンを閉め切った寝室にて。
エルムートは下衣を寛げて自身を握り込んでいた。
閉じた瞼の裏に思い描くのはフランソワの肢体だった。
妄想の中のフランソワは、エルムートがやや乱暴に服をはだけさせると、何も言わずにただ顔を赤くさせて俯く。
本物のフランソワにこんなことをしたら、きっと大人しくしていないだろう。
妄想の中では、彼は化粧っ気のない素朴な顔をしている。いや、彼は顔の造りがいいから化粧をしていなくとも映える顔立ちをしている。
そして妄想の中の彼の身体を見下ろす。
結婚したら初夜は必ず性交をする習慣を持つ国もあるらしいが、この国にはそんな習慣はない。夫夫が互いにいい頃合だと判断した時に初めて閨を共にするのだ。
当然エルムートは、まだフランソワと閨を共にしていない。
だからこの裸体はまったくの想像だ。きっと抜けるように白い肌をしているのだろう。
自身を扱きながら、妄想の中で彼の白い身体を蹂躙する。白い肌に衝動をぶつけるたびに、妄想の中の彼は甘く鳴く。
「う……っ!」
ビュクリと精が零れ出た。
「…………」
手の平の汚れを始末した後、エルムートは自己嫌悪に襲われた。
愛してもいない伴侶の姿を思い浮かべて、欲を発散させてしまった。他の男を思い浮かべるよりよほど誠実なのだろうが、エルムートの胸中は複雑だった。
だが理想の相手を頭の中に思い浮かべようとすると、どうしてもこうなってしまうのだ。
幼きあの日に一目惚れをしたあの瞬間に、性的嗜好が固定されてしまった。
求婚されても何も言えず、ただ果実のように頬を紅潮させる彼。己を慰める時にはどうしてもそういう態度の彼を夢想してしまうのだ。
連鎖して今日のフランソワのことを思い出す。
今日、初めて身体のことを気遣われた。
不覚にも息が止まるかと思うほど照れた。思わず照れ隠しにつっけんどんな態度を取ってしまった。
家ではあまり仕事の話をしていないから、自分が日々魔物討伐に赴いていることをフランソワが知らなくても無理はないだろう。
つっけんどんな態度に悄然としてしまった彼が可哀想だった。
だがエルムートには慰め方がわからない。だから不慣れな真似をして彼の肩を抱いてみた。
『ひゃっ⁉』
彼は聞いたこともないような可愛らしい声を上げて驚いた。動揺のあまり足が止まってしまうかと思った。
ああいう風に触れ合っていれば、もっと早く彼の可愛らしい一面を見ることができたのだろうか。
エルムートは少し後悔した。
彼の悪い面ばかり目につくようになっていたのは、自分の努力不足もあったのかもしれない。
翌日。
朝食時、エルムートとフランソワの間には沈黙が流れていた。
どんな会話を交わせば良いのかわからなかったからだ。フランソワの方から話しかけてくれない限り、基本的に二人の間に会話はない。
おまけに、昨晩彼の姿を思い描きながら手淫をおこなった罪悪感で、まともに彼の顔を見られなかった。
思えば顔を合わせるたびに彼がプレゼントをねだってくる時は、会話が楽だった。浪費は論外だが、自分にも伴侶として問題があったのだなとエルムートは自覚した。
先に朝食を食べ切ってしまった。
間がもたない。
「早く朝食を終えろ。あまりゆっくりしている時間はないぞ」
彼を急かす言葉を吐いて、席を立つ。
「あっ」
その時、フランソワの視線が何かに気取られたようにエルムートに注目する。
「袖口のボタンがほつれてるぞ」
彼の指摘に視線を下げると、確かに袖口のボタンの糸がほつれて外れかけていた。
「ああ、気づかなかった。後で側仕えに直させよう」
「待った。俺たちの朝食の後は側仕えたちの朝食時間だろ」
エルムートは彼の指摘に目を瞬かせる。
「確かにそうだが、ならどうしろと……」
困惑するエルムートに、彼が言った。
「俺が直してやる」
「は?」
「……君はいつから針仕事ができるようになったんだ?」
朝食の後、エルムートはフランソワの部屋へと連れていかれた。
フランソワは裁縫道具を取り出すと、すいすいとあっという間にボタンを付け直してしまった。
もしや古代語を解読できるようになったのと同じように、突然裁縫も得意になったのだろうか。
「前からだが? 以前から衣服の襟元や袖口に、コーディネイトに合わせた刺繍を足したりしていたのだが、知らなかったのか?」
「そう……だったのか」
フランソワに以前から得意なことがあったなんて知らなかった。
いや、知ろうとしなかったのだろう。エルムートは己のおこないを振り返って反省した。
「思えばお前の衣服は地味だ。何か刺繍してやろうか?」
フランソワは得意げに口角を上げて笑みを見せる。
彼とこんな親しげな雰囲気になるのはいつぶりだろうか。懐かしさにきゅうと胸の内が締め付けられる。
「……では、頼む」
「まあ、どうせお前はそんなの……え?」
パチクリ。
つり上がった形のいい瞳を彼は瞬かせる。
「頼む」
「あ、ああ……わかった、いいとも。休日に取りかかろう」
返事をする彼の頬は心なしか紅潮しているように見えた。
なんて愛らしいのだろう――
オレが恋したフランソワの姿を見るのに足りなかったのは、オレの努力だったのだ。
この日、エルムートは理解した。
「フランソワ、その……」
エルムートは彼に手を伸ばす。
衝動的に彼を抱き締めようと思ったのだ。
「ん?」
彼の紅い瞳と目が合う。
幼い頃から変わらない、いや年を重ねれば重ねるほど美しさを増してきた彼の顔が目の前にある。それも濃い化粧に覆い隠されていない、ありのままの素の顔だ。
緊張に汗が滲む。
「いや……なんでもない」
どう考えても今は抱擁をする空気ではない。
自分に言い訳して、エルムートはさりげなく手を下ろした。
妄想の中では彼を抱いているのに、いざとなると抱擁一つする勇気もないだなんて――
そんなこと認めたくなかった。
第三章
季節を司る精霊の時計の針が一つ刻を刻み、季節は春から夏へと移り変わった。
季節一つ分の時が過ぎても、相変わらずフランソワはエルムートと共に城へ出勤していた。
今日のエルムートのワイシャツの袖口には、フランソワの施した金糸の刺繍が光っている。彼に贈られた古文書に載っていた草花の模様を、彼に似合うように少しアレンジしたデザインになっている。
エルムートの服に刺繍を施してやったあたりから、彼の態度が柔らかくなった気がする。
時には彼に愛されているのではないかと勘違いしてしまうほどだ。
だがそんなはずはない。おそらく、嫌悪の感情を表に出さないようにするのが上手くなっただけなのだろう。彼に嫌われていることは本を贈られたあの日、嫌というほど思い知らされた。
その本をきっかけにして前世の記憶が蘇ったのだから、考えようによってはとてもいい結果だと言える。だから結婚生活のことは考えず、ひたすらに古代語の翻訳に日々を捧げればいい。
「おはようございます、フィルブリッヒ様」
「おはよう、エリク」
図書館に出勤し、司書のエリクに挨拶する。
それから早速昨日の仕事の続きをすることにした。
過去の研究者の覚え書きのおかげもあり、古代語がかなりスムーズに読み解けるようになってきた。古文書の大体の意味を把握しては、要約して目録に書き付ける日々を送っている。
古文書の内容は、結構面白かった。
おとぎ話としか思えないような話が、まるで史実のように語られている本もあった。
例えば、ありとあらゆる魔術を創生した伝説の聖女様と、魔物を率いる魔王の対決とか。すべての精霊の頂点に立つ精霊王の話だとか。
その中で、「おそらくこれが焚書の原因だろうな」と思われる記述も見つけた。
当時の国王はこれを隠したかったようだ。これが事実だとすれば人類規模の汚行だ。隠したくなるのもやむなしだろう。
カリカリとペンを走らせていると、エリクが城の側仕えと思しき人物の応対をしに立ち上がった。
気にせず作業を続けていると、会話を終えた彼が慌てた様子で声をかけてくる。
「た、大変です、フィルブリッヒ様……!」
「どうした?」
異変を感じて顔を上げる。
「それが、第一王子アレクサンドル殿下が図書館の視察にいらっしゃるそうなのです。なんでもフィルブリッヒ様に一度お会いしたいとかで……!」
「第一、王子……?」
何故わざわざ第一王子が、と思った瞬間だった。
「いかにも」
決して張り上げているわけではないのによく通り、威厳が感じられる声。
「私が王位継承権第一位、アレクサンドル・ロワ・ソレイユルヴィルだ」
王族特有だという銀の髪を上の方で一つに結んだ青年が微笑を浮かべて、堂々たる足取りで図書館内に入ってきた。
城の側仕えに言付けを頼んだ時には、もう既にこちらに向かっていたのだろう。
「そなたがフランソワ・フィルブリッヒ……古代語を現代に蘇らせた才人か」
アレクサンドルは真っ先にフランソワへと近づいてくる。
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