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1巻
1-3
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(不味い……これは不味いぞ……)
今、フランソワの脳が全力でアラートを鳴らしていた。
こうして実際に第一王子が図書館にやってくるまで、フランソワはある一つの可能性にまったく気がついていなかった。
すなわち――王家による焚書がまだ終わっていなかったとしたら?
「これがその目録か。励んでいるようでなにより」
さっきまでフランソワが書き物をしていた机にアレクサンドルが視線を落とす。
そこには巻物状の目録がある。
目録を作成し、もしその中に有用そうな書物があれば現代語に訳す。その仕事内容をこれまで盲目的に信じてきた。
だが、実は王家の目的が違うとすれば。
もしかしたら、逆に焚書にすべき内容の古文書を探させていたのではないだろうか。
あるいは、フランソワが知るべきでないことを知ってしまっていないかどうか、探りに来たのかもしれない。
そう考えてフランソワは生唾を呑んだ。
対応を一手間違えれば、その先に待つのは死かもしれない。
「見せてもらっても?」
許可を得る前にアレクサンドルは目録を手にしている。
「……はい。構いません」
約二百年経っても王家が未だに古文書を憎んでいる可能性をまったく考慮していなかったので、目録には馬鹿正直に古文書の内容を要約したものを載せている。
今更なかったことにはできない。
アレクサンドルが目録に目を通す時間が異様に長く感じられた。
「素晴らしい、もう既にこれだけの書物を解読したのか」
ようやく顔を上げたアレクサンドルの晴れやかな笑顔が威嚇の表情に見えたくらいには、フランソワは気を張り詰めていた。
「内容を大まかに把握しているだけで、すべてに目を通したわけではございません」
「それでも素晴らしい。噂に聞いたとおりだ」
噂とはなんだろう。いや、きっと適当な世辞だな、とフランソワは判断する。
「それにしても噂の才人がこんなにも美しいとは驚いた」
「美しい……? お戯れを、殿下。今の俺は見た目に何も気を遣っていません」
髪は一括りにしただけ、すっぴん素爪でヒールも履いていない。今の自分は普通の男と見分けがつかないだろう。
フランソワはそう思っていた。
「美は細部に宿るものだ。そなたの顔には化粧などでは到底作り出せない美が宿っている……」
ところがアレクサンドルは歯の浮くような言葉を口にする。
まるで口説き文句みたいだ。
居心地が悪くなって一歩後退ると、アレクサンドルもハッとしたように距離を取る。
「ああ、そうだ。そなたに一つ頼みたいことがあったのだ」
アレクサンドルの言葉に、フランソワは気を引き締めた。先ほどの容姿を褒める言葉は油断させるためのものだったのかもしれない。
本題はこの先だろう。
「今、世界は此度の魔物の急増で疲弊している。それこそ百年続けていた戦争をうやむやのうちに打ち切るくらいに」
「存じています」
エルムートが若くして騎士団長に抜擢されたのも、戦争よりもなお厳しい魔物たちの猛攻に国が晒されているからだと聞いている。上の席に座っている者が、どんどん死んでいくのだ。
「これは切実な頼みだ。このタイミングで古代語に堪能なそなたが現れたのは、精霊様の思し召しとしか思えない。どうか古文書を紐解いて、此度の魔物の急増の原因や解決法を探してはくれないか」
アレクサンドルの言葉は真摯で、嘘とは思えなかった。
アレクサンドルは最初から魔物災害を解決する手立てを探して図書館に来たのだろう。焚書が目的だなんて、杞憂だったのかもしれない。
フランソワは内心で胸を撫で下ろした。
「古文書にその答えがあるとは限りませんが、でき得る限りのことはします」
「助かる。頼んだぞ」
アレクサンドルはそう言うと、肩の荷を下ろしたような顔で図書館を去った。
怒涛の、嵐のような来訪だった。
夕食時、珍しくエルムートがフランソワに声をかけた。
「夜、寝る前にオレの部屋に来てほしい」
「えっ、それって……」
突然の誘いにフランソワの胸はどきりと高鳴った。
夜に彼の部屋に……連想されることは一つだったからだ。
「ああ、二人きりで側仕えも排して話し合いたいことがある」
「そ、そうか」
違った。落胆を隠すために夕食の皿に視線を落とす。
そりゃそうだ、とフランソワは思った。
堅物のエルムートが愛していない自分のことを閨に呼ぶはずがない。
フランソワの前世は男が好きではなかったが、今世ではフランソワは五歳の時からずっとエルムートに恋していたのだ。前世の趣味嗜好よりも今世の恋が上回るのは当然と言えた。
プロポーズをされた五歳の時から彼のことが好きだったが、成長するにつれてエルムートは逞しく精悍になっていった。それこそフランソワの好みど真ん中の容姿だった。
エルムートほどフランソワ好みの顔をした男は存在しなかった。
フランソワは彼からの愛を密かに望み、同時に諦めてもいた。
彼に愛を囁かれ、情熱的にベッドに押し倒されるならばどれだけいいことか。けれども、彼には決定的に嫌われてしまっている。
彼は自分のような軽薄な人間のことは好まないのだ。美にしか興味がなく、前世の記憶に目覚めてからは言語のことしか考えていないような薄っぺらい人間のことは。
だからフランソワは何も期待せず、古代語を解くという享楽にふけることにしていたのだ。
そもそも今世のフランソワは、どうして美しく着飾ることに異常に執着していたのか。
フランソワは、少しばかり隅に追いやられていた今世の記憶を引っ張り出してみることにした。
デュソー伯爵家の五男としてこの世に生を受けたフランソワは、両親や兄らの愛を一身に受けて愛らしく育った。
当然のことながら、五男であるフランソワは世の習いに従ってノンノワールとして育てられた。
初めてのお茶会に参加した五歳のあの日も、フランソワはノンノワール化の薬を服用している最中だった。薬は数ヶ月間継続的に服用しなければならないのだ。
「オレと、けっこんしてください……っ!」
初めてのお茶会で、フランソワは初対面の子にいきなりプロポーズされた。フランソワはどうすればいいかわからず、ただただ顔を赤くさせた。
(お茶会に出たらプロポーズされることがあるなんて知らなかった……。お父様もお母様もプロポーズされた時のお作法なんて教えてくれなかった。どう答えたらいいのだろう)
フランソワは俯かせていた顔をちらりと上げてみる。
少年の湖面のような深い蒼の瞳とバッチリ目が合った。フランソワはすぐに再び顔を俯かせる。
幼いフランソワにはわけがわからなかったけれど、じっとこちらを見据える視線は悪くなかった。未来の夫は彼のようなまっすぐな人がいいと思った。
お茶会が終わってから帰りの馬車の中でプロポーズされたことを両親に話すと、両親は微笑ましげに言った。そうかそうか、その子はフランソワが可愛いから一目で好きになってしまったんだね、と。フランソワは「そうか、自分が可愛いからなのか」と自信を持った。
まさかフランソワにプロポーズしたのが公爵家の次男で、後日、本当に縁談を持ちかけられるとはデュソー一家の誰も予想だにしていなかった。
末っ子のフランソワが、ノンノワールの二人の兄を差し置いて真っ先に縁談を成立させることになった時、デュソー伯爵家に激震が走った。混乱と喜びのさなか、デュソー伯爵はフランソワによく言い聞かせた。
「いいかい、フランソワの未来の旦那様はよほどお前の美しさが気に入ったのだろう。だから決して美しさを絶やしてはいけないよ。それに公爵家との繋がりがあれば、お前の兄たちにもいい縁談が舞い込んでくるかもしれない」
美しさがお前の自信になる、と手を握って言い聞かせる父親の言葉が、その時にはまだ理解できなかった。
その後、礼儀作法とダンスの時間が増え、身だしなみに関する勉強が増えた。化粧を学び、流行を学び、ありとあらゆる布地の種類を学び、そして裁縫を学んだ。
やがて十代になると、フィアンセのエルムートはぐっと背が伸びて逞しくなり、ノンノワールの少年たちの視線を集めるようになった。
「あのエルムート様のフィアンセが伯爵家の者だなんて、いささか身分に差があるのではないかと思っていましたが……こうして実際にお姿を拝見すると、公爵家に嫁ぐことになるのも納得の美しさですね」
ある日のお茶会で、フランソワが同年代のノンノワールからかけられた言葉であった。
実際、そのお茶会ではフランソワが群を抜いて美しかった。
爪の先まで一切の気を抜かず美に拘ったのだ。髪型は何度も髪を編み直して今日の衣装に合うものを模索したし、ネイルも爪一本一本で模様が違う。その複雑な模様をフランソワ自ら頭を悩ませてデザインしたのだ。
その美しさゆえに、フランソワはお茶会に出席したノンノワールたちから身分を超えて一目を置かれた。結婚前から実質公爵位に相当する身分の者として扱われたのである。フランソワが美しくなければ、そのように扱われはしなかっただろう。
美が自信を作り出すとはこういうことかと、フランソワは父の言葉の意味を実感した。
時には「エルムート様のフィアンセに相応しくない」と他のノンノワールの子から嫌がらせを受けることもあった。
だが、お洒落の知識を与えることで作り出した派閥のメンバーに守られ、嫌がらせの犯人を糾弾することもできた。
そんな経験を経ていく中で、フランソワにある一つの考えが刻み込まれていく。
すなわち、「美しくなければエルムートに相応しくない」。
身分違いを覆すには周囲を納得させるほどの圧倒的な美が必要なのだ。そうでなければ、ノンノワールたちの視線を集めるほどの男前に成長し、入ったばかりの第一騎士団でメキメキと頭角を現しているエルムートの隣に並ぶことはできないだろう。
フランソワはただただエルムートの隣にいるために自らの美を磨いたのだ。
それにしても二人きりでしたい話とはなんだろうか。
疑問に思いながらフランソワは言われたとおりに、就寝前に彼の部屋へと向かった。
部屋に入ると、彼がティーテーブルの椅子に腰かけて待っていた。
フランソワが訪ねてくる時間に合わせて淹れられたのだろう、テーブルの上では二つの紅茶のカップが湯気を立てている。
エルムートが仕草で向かいに腰かけるように示すので、フランソワはそれに従った。
まずはカップを手に取り、中身を口にする。就寝前にぴったりの、心を落ち着けるハーブティーだ。
「それで、話というのは?」
カップを置くと、フランソワは尋ねた。
「ああ……オレたちももう結婚して半年以上が経つだろう?」
「……もうそんなに経っていたっけか」
結婚一ヶ月目の記念のプレゼントをねだっていたあの日が懐かしい。
半年の記念日がいつ過ぎたのかも覚えていない。
「そう。だから、オレたちはそろそろ次の段階に進んでもいいのではないかと思う」
「次の段階というと?」
彼の言う次の段階がなんのことか見当がつかず、フランソワは首を傾げた。
だが、エルムートはすぐには口を開かない。
二人の間を天使が通り過ぎた。
「……その、子作りだ」
長い長い沈黙の末に、彼はぽつりと呟いた。
子作り。
夫夫ならば当然の営みだ。
エルムートが自分を閨に呼ぶことなどないと思っていたが、それは誤りだった。
むしろもっと早くこの瞬間が訪れなければおかしいくらいだった。
なにせ彼は第一騎士団の団長なのだから。
第一騎士団はあくまでも王都付近に魔物が出現した時に討伐に赴くだけだから、死亡率は比較的低めだ。だが、騎士ならばいつ死んでもおかしくないのがこのご時世だ。
真面目なエルムートが将来のことを考えないはずがない。
早めに種を残そうとするはずだ。そのためならば彼はまったく愛していない者との交わりくらい我慢できるに違いない。
つまりこれは字義どおりの子作りの誘いだ。
決して甘い睦み事がこの先に待っているわけではない。
「……嫌だ」
思わず、口にしていた。
「え?」
「嫌だ、そんなことしたくない」
エルムートに抱かれる瞬間を夢想することもあった。
だが、それは決して子をなすために義務的に抱かれる想像などではない。
そんな風に嫌々抱かれるなんてどれほど惨めだろうか。
だから、フランソワはそれが必要なことだと理解していながらも拒絶せずにはいられなかった。
フランソワはガタリと椅子から立ち上がる。
「こんな話のために呼び出されたとは思わなかった。俺はもう寝る」
乱暴に部屋の扉を開け、フランソワはエルムートの寝室を後にした。
◆
バタン、と扉の閉まる音が響く。
エルムートはフランソワの後を追うことができなかった。
今では自分はフランソワのことが好きだとしっかり自覚していた。だから彼との仲を深めようとしていた。だがこの数ヶ月、何も行動を起こせなかった。
いざ仲を深めようとすると、それはエルムートには驚くほど難しかった。
そしてようやく、自分はフランソワと仲を深めるために言葉を交わしたことがなかった事実に気がついた。
彼に恋していた婚約時代ですら、やったことは彼に好かれるような強い男になることだった。
だが、フランソワは自分のことが好きなはずだ。いつも顔を合わせるたびに嬉しそうにしてくれるのだから。だから後は自分が勇気を出せばいい。
そう思って、エルムートは今晩フランソワを閨に誘った。
だが結果はどうだ、彼は涙を浮かべて去ってしまった。本気で嫌がられたのだ。
(馬鹿な……フランソワはオレのことが好きではない、のか?)
愕然とした。
ショックのあまり、足から根が生えたかのようにその場から動くことができなかった。何が起こったのか理解できなかった。
何故拒絶されたのだろう。エルムートは考えてみる。
フランソワに嫌われているからだろう、それは確かだ。あの涙の浮かんだ顔からすれば間違いない。
何故、いつから嫌われていたのだろうか。
彼の浪費を注意したからだろうか。だが彼の無駄遣いを注意したのは、結婚後の一ヶ月だけだ。随分と月日が経っている。
それとも最初からだろうか。
彼は一度も、自分のような無愛想で不器用なだけの人間を愛したことなどなかったのかもしれない。自分と会うたび彼が弾けるような笑顔を見せてくれたのは、ひとえに彼の愛想の良さによるものだったのだろうか。
あんなに美しく明るい彼なのだ、自分などよりも社交的で爽やかに口説き文句を口にできるような男の方が好みなのかもしれない。
もしかしたら――自分の他に好きな男がいるのでは。
それがエルムートの辿り着いた最悪の結論だった。
◆
閉塞的な図書館内での作業が辛く感じられる夏の盛り。
「それで、いくつかの情報が手に入ったとか。報告を聞こう」
図書館に直接足を運んで報告を求めるのは、第一王子アレクサンドルだった。
アレクサンドルはあの後もわざわざ図書館に何回か足を運んでいた。一刻も早く古文書の解読結果を聞きたいから、だけではないだろう。
アレクサンドルが古文書を燃やしたいと口にしたことは一度もないが、その思惑もあるかもしれないとフランソワは警戒していた。
知の結晶である書物を、燃やされてなるものか。世の中にこんなに素晴らしいものは他にないのに。
「はい、こちらに報告をまとめてあります。口頭で概要を説明いたします」
アレクサンドルに報告書を提出し、フランソワは内容を説明する。
「古文書を精査する中で、およそ千年前にも同様と思われる魔物災害があったという記述を見つけました。なので、千年前のことに関して記されている歴史書や当時書かれた古文書をあたりました」
アレクサンドルは報告書に視線を落とす。
「そうして得たうち、活用できる可能性のある情報をそこに列記してあります。例えば、千年前の人々は旅をする時に聖水を使用していたそうです。現代でも効果があるならば、行商人に配れば滞っていた物流が復活するかもしれません」
魔物があちこちに出没するせいで、街と街の間を行商人が行き来することもままならないのだ。そのせいで食糧の高騰をはじめとする様々な弊害が起こっている。
「おお、素晴らしい……! 値千金の情報だ、やはりそなたに任せて良かった!」
アレクサンドルは顔を輝かせている。その表情は国の将来を本気で案じる王太子のものにしか見えない。
文官に任せずわざわざ直接何度も図書館に来るのは怪しいが、ただ単に図書館への行き来が散歩にちょうどいいと思っているだけの可能性もある。
「その他の情報については報告書をご確認ください。最後に、直接お伝えしておきたいのは魔物災害の原因についてです」
「それも古文書から見つけることができたのか?」
王子は期待に目を輝かせる。
「いいえ……直接的には。ですが、あることに気づきました」
「あること?」
「魔物災害の発生していた千年前と同時期なのです――聖女の魔王討伐の伝説が」
「せい、じょ? ……ああ、千年前は女というものが存在したのだったな。その聖女の伝説について教えてくれないか」
彼が説明を求めるので、フランソワは聖女の伝説について語った。
聖女はその時代の天才だった。現代でも使われているありとあらゆる魔術の礎を作った。精霊魔術もその一つだ。聖女が作った魔術は聖女が生まれ育ったここソレイユルヴィル国が独占したため、他国には伝わっていない。
そして聖女は精霊王の予言により魔王の誕生をいち早く察知した。
魔王はありとあらゆる魔物を率いる魔の王である。
魔王討伐にあたり、聖女は自ら世界各国を巡り勇者を募った。そして勇者たちと共に魔王の討伐に赴き、見事に魔王を打ち倒した。
これが大まかな内容である。
フランソワは最初この伝説をおとぎ話だと思っていたが、複数の古文書に事実として載っているのだ。本当にあったことだったのだろう……少なくとも当時の人々はそう信じていたのだ。
「気にかかるのが魔物を率いる魔王という存在です。もしかしたら、千年前の魔物の急増はこの魔王というのが原因なのではないかと……」
アレクサンドル王子は真剣な顔でそれを聞いていた。
そして一通り聞き終えると、こう言ったのだった。
「なるほど――となれば、古文書を読み解き、精霊魔術を現代に復活させたそなたは、さしずめ聖女の再来ということか?」
「はい?」
フランソワは「話聞いてたか?」と口にしそうになった。
危うく不敬罪に問われるところだった。
「実に興味深い話だったな。この報告書は後で目を通すが、そなたの話をもっと聞きたい」
「はあ、何かご質問でも?」
話を聞きたいなら今この場で尋ねればいいじゃないか、と思わず怪訝な顔をしてしまう。
フランソワのそんな表情にアレクサンドルは怒るどころか、むしろくすりと笑った。
「ふふっ、そなたのそういう天然なところも可愛らしいな。それとも、そのようにわざととぼけるのがそなたの手管かな?」
(とぼける? なんのことだ……? やっぱり王族は何か探っているのか?)
フランソワは、王子が何故そんなに楽しそうにしているのか理解できない。警戒心が強まる。
「仕事の話ではない、親交を深めたいのだ。今度昼食でも一緒にどうだろうか?」
「それは、えっと……」
フランソワは答えに窮した。
少なくともアレクサンドル個人は、フランソワのことを探りに来ているようだ。
理由はわからない。やはり古文書の中には、王家にとって知られては困るような内容が記されているのだろうか。
どうにか昼食の誘いを断りたかった。だが理由もなしに王族の誘いを断ることはできない。
フランソワは必死に口実を考える。
「――オレの伴侶に何か?」
その時、殺気を湛えた低い声が、割って入った。
振り返ると、そこにいたのはエルムートだった。フランソワを迎えに来たのだろう。
エルムートは一際険しい顔をしていた。どう見てもアレクサンドルのことを睨んでいる。
フランソワはエルムートの顔を見た瞬間、思わずほっとした。
「あ、ああ、第一騎士団の団長か。そういえば、フランソワくんはそなたの伴侶だったか」
エルムートの登場に、アレクサンドルがたじろいだように見えた。
「昼食の件ですが、お断りします」
先ほどの話が聞こえていたのだろう、エルムートが代わりに断ってくれた。
口調そのものは丁寧だが、声が絶対零度の冷たさだ。
「いや、それは本人から答えを……」
「殿下は他人の伴侶と二人きりで食事をして噂を立てられたいのですか? そういえば殿下のフィアンセは悋気の強い方でしたね。このことを知ったらまず間違いなく勘違いされるでしょう。それでもなおオレの伴侶を誘いますか?」
こんなに口の回るエルムートの姿は初めて見た。
何かを察して自分のことを守ろうとしてくれているのだ。そう思うと、さりげなく肩に置かれた彼の手が嬉しかった。
「ぐ……っ」
「それではそういうことで。オレと伴侶は帰ります」
肩に置かれた手に少し力がかかり、フランソワは身体を反転させられる。
エルムートと向かい合う形になる。
「エルム」
彼の名を呼ぼうとしたフランソワの口は塞がれた。
彼が接吻をしたのだ。
「……っ⁉」
王子や司書のエリクがいる前でキスなんて。こうされるのは、結婚式の日以来なのに。
突然の出来事に、フランソワは頬から発火するかと思うほど顔が熱くなった。
「行こう」
唇を離すと、彼は何事もなかったかのように身体を翻した。
彼にぎゅっと手を握られ、フランソワは後に続いた。手を握ってもらうのもいつぶりだろうか。
エルムートはまるで急いで図書館から離れようとしているかのように、大きな歩幅で王城の廊下を突き進む。手を繋いでいるフランソワはついていくのが大変だった。
「なあ、エルムート……っ」
声をかけても彼は止まらない。
それでもフランソワは彼の背中に声をかけ続ける。
「あのっ、代わりに断ってくれてありがとう」
ピタリ。
エルムートは足を止めると、やっとフランソワを振り返った。
フランソワは肩で息をしながら説明する。
「強引に誘われて、困っていたんだ」
司書のエリクも口を挟めず、オロオロとするばかりだった。
そこをちょうど現れたエルムートが助けてくれたのだ。彼のことが騎士物語の主人公のように格好良く見えた。
「……これからも何かあったら、すぐにオレを呼べ」
そっけない声音だが、自分を最優先にしてくれているかのような言葉に、フランソワは胸が熱くなる。
「でも、エルムートにも騎士団の仕事が……」
「知らないうちに、君が他の男に手を出されているよりはいい」
「そっ、それって……」
まるで彼が嫉妬しているかのようだ。そんなはずがないのに。
自然と頬が熱くなっていく。
「ああいうことはしょっちゅうあるのか?」
「え?」
「他の男に色目を使われることだ」
フランソワは目を瞬かせる。
色目を使われていたとはなんのことだろう、とぽかんとしてしまった。
フランソワのその表情にエルムートは険しく眉間に皺を寄せる。
「えっと……」
「第一王子だ。まさか口説かれているのに気づいていなかったのか?」
口説く? 誰が? 第一王子が、俺を?
フランソワは呆然とした。
「そんなまさか、身分が違いすぎるだろう」
「わざわざ騎士団長であるオレの伴侶を狙うなど、王族くらいなものだろう。気をつけてくれ、フランソワ――君は美しいのだから」
ボソリと呟かれた彼の言葉。
フランソワは一瞬、聞き間違えたかと思った。エルムートが自分のことを美しいと言ってくれたなんて本当だろうか。
彼は今まで一度も容姿を褒めてくれたことがないのだ。なのに、こんな髪型もいい加減で化粧もしていない自分を美しいと言ってくれるなんて。
「あ、あっ、うん……」
なんと言えばいいかわからず、真っ赤になって俯いた。
五歳のあの日のように、降り注ぐ彼の視線を感じた。
◆
夜。
エルムートは寝台の中で、昼間の出来事を思い返していた。
今日、エルムートがいつものようにフランソワを迎えに図書館に立ち入った時、軽薄な声が聞こえてきた。見ると、今まさに第一王子によって我が伴侶フランソワが口説かれているところではないか。
カッと怒りの炎が燃え上がった。
もしもフランソワが嬉しそうな顔をしていようものなら、その場で剣を抜いていたかもしれない。
だがフランソワは困った顔をしていた。
今、フランソワの脳が全力でアラートを鳴らしていた。
こうして実際に第一王子が図書館にやってくるまで、フランソワはある一つの可能性にまったく気がついていなかった。
すなわち――王家による焚書がまだ終わっていなかったとしたら?
「これがその目録か。励んでいるようでなにより」
さっきまでフランソワが書き物をしていた机にアレクサンドルが視線を落とす。
そこには巻物状の目録がある。
目録を作成し、もしその中に有用そうな書物があれば現代語に訳す。その仕事内容をこれまで盲目的に信じてきた。
だが、実は王家の目的が違うとすれば。
もしかしたら、逆に焚書にすべき内容の古文書を探させていたのではないだろうか。
あるいは、フランソワが知るべきでないことを知ってしまっていないかどうか、探りに来たのかもしれない。
そう考えてフランソワは生唾を呑んだ。
対応を一手間違えれば、その先に待つのは死かもしれない。
「見せてもらっても?」
許可を得る前にアレクサンドルは目録を手にしている。
「……はい。構いません」
約二百年経っても王家が未だに古文書を憎んでいる可能性をまったく考慮していなかったので、目録には馬鹿正直に古文書の内容を要約したものを載せている。
今更なかったことにはできない。
アレクサンドルが目録に目を通す時間が異様に長く感じられた。
「素晴らしい、もう既にこれだけの書物を解読したのか」
ようやく顔を上げたアレクサンドルの晴れやかな笑顔が威嚇の表情に見えたくらいには、フランソワは気を張り詰めていた。
「内容を大まかに把握しているだけで、すべてに目を通したわけではございません」
「それでも素晴らしい。噂に聞いたとおりだ」
噂とはなんだろう。いや、きっと適当な世辞だな、とフランソワは判断する。
「それにしても噂の才人がこんなにも美しいとは驚いた」
「美しい……? お戯れを、殿下。今の俺は見た目に何も気を遣っていません」
髪は一括りにしただけ、すっぴん素爪でヒールも履いていない。今の自分は普通の男と見分けがつかないだろう。
フランソワはそう思っていた。
「美は細部に宿るものだ。そなたの顔には化粧などでは到底作り出せない美が宿っている……」
ところがアレクサンドルは歯の浮くような言葉を口にする。
まるで口説き文句みたいだ。
居心地が悪くなって一歩後退ると、アレクサンドルもハッとしたように距離を取る。
「ああ、そうだ。そなたに一つ頼みたいことがあったのだ」
アレクサンドルの言葉に、フランソワは気を引き締めた。先ほどの容姿を褒める言葉は油断させるためのものだったのかもしれない。
本題はこの先だろう。
「今、世界は此度の魔物の急増で疲弊している。それこそ百年続けていた戦争をうやむやのうちに打ち切るくらいに」
「存じています」
エルムートが若くして騎士団長に抜擢されたのも、戦争よりもなお厳しい魔物たちの猛攻に国が晒されているからだと聞いている。上の席に座っている者が、どんどん死んでいくのだ。
「これは切実な頼みだ。このタイミングで古代語に堪能なそなたが現れたのは、精霊様の思し召しとしか思えない。どうか古文書を紐解いて、此度の魔物の急増の原因や解決法を探してはくれないか」
アレクサンドルの言葉は真摯で、嘘とは思えなかった。
アレクサンドルは最初から魔物災害を解決する手立てを探して図書館に来たのだろう。焚書が目的だなんて、杞憂だったのかもしれない。
フランソワは内心で胸を撫で下ろした。
「古文書にその答えがあるとは限りませんが、でき得る限りのことはします」
「助かる。頼んだぞ」
アレクサンドルはそう言うと、肩の荷を下ろしたような顔で図書館を去った。
怒涛の、嵐のような来訪だった。
夕食時、珍しくエルムートがフランソワに声をかけた。
「夜、寝る前にオレの部屋に来てほしい」
「えっ、それって……」
突然の誘いにフランソワの胸はどきりと高鳴った。
夜に彼の部屋に……連想されることは一つだったからだ。
「ああ、二人きりで側仕えも排して話し合いたいことがある」
「そ、そうか」
違った。落胆を隠すために夕食の皿に視線を落とす。
そりゃそうだ、とフランソワは思った。
堅物のエルムートが愛していない自分のことを閨に呼ぶはずがない。
フランソワの前世は男が好きではなかったが、今世ではフランソワは五歳の時からずっとエルムートに恋していたのだ。前世の趣味嗜好よりも今世の恋が上回るのは当然と言えた。
プロポーズをされた五歳の時から彼のことが好きだったが、成長するにつれてエルムートは逞しく精悍になっていった。それこそフランソワの好みど真ん中の容姿だった。
エルムートほどフランソワ好みの顔をした男は存在しなかった。
フランソワは彼からの愛を密かに望み、同時に諦めてもいた。
彼に愛を囁かれ、情熱的にベッドに押し倒されるならばどれだけいいことか。けれども、彼には決定的に嫌われてしまっている。
彼は自分のような軽薄な人間のことは好まないのだ。美にしか興味がなく、前世の記憶に目覚めてからは言語のことしか考えていないような薄っぺらい人間のことは。
だからフランソワは何も期待せず、古代語を解くという享楽にふけることにしていたのだ。
そもそも今世のフランソワは、どうして美しく着飾ることに異常に執着していたのか。
フランソワは、少しばかり隅に追いやられていた今世の記憶を引っ張り出してみることにした。
デュソー伯爵家の五男としてこの世に生を受けたフランソワは、両親や兄らの愛を一身に受けて愛らしく育った。
当然のことながら、五男であるフランソワは世の習いに従ってノンノワールとして育てられた。
初めてのお茶会に参加した五歳のあの日も、フランソワはノンノワール化の薬を服用している最中だった。薬は数ヶ月間継続的に服用しなければならないのだ。
「オレと、けっこんしてください……っ!」
初めてのお茶会で、フランソワは初対面の子にいきなりプロポーズされた。フランソワはどうすればいいかわからず、ただただ顔を赤くさせた。
(お茶会に出たらプロポーズされることがあるなんて知らなかった……。お父様もお母様もプロポーズされた時のお作法なんて教えてくれなかった。どう答えたらいいのだろう)
フランソワは俯かせていた顔をちらりと上げてみる。
少年の湖面のような深い蒼の瞳とバッチリ目が合った。フランソワはすぐに再び顔を俯かせる。
幼いフランソワにはわけがわからなかったけれど、じっとこちらを見据える視線は悪くなかった。未来の夫は彼のようなまっすぐな人がいいと思った。
お茶会が終わってから帰りの馬車の中でプロポーズされたことを両親に話すと、両親は微笑ましげに言った。そうかそうか、その子はフランソワが可愛いから一目で好きになってしまったんだね、と。フランソワは「そうか、自分が可愛いからなのか」と自信を持った。
まさかフランソワにプロポーズしたのが公爵家の次男で、後日、本当に縁談を持ちかけられるとはデュソー一家の誰も予想だにしていなかった。
末っ子のフランソワが、ノンノワールの二人の兄を差し置いて真っ先に縁談を成立させることになった時、デュソー伯爵家に激震が走った。混乱と喜びのさなか、デュソー伯爵はフランソワによく言い聞かせた。
「いいかい、フランソワの未来の旦那様はよほどお前の美しさが気に入ったのだろう。だから決して美しさを絶やしてはいけないよ。それに公爵家との繋がりがあれば、お前の兄たちにもいい縁談が舞い込んでくるかもしれない」
美しさがお前の自信になる、と手を握って言い聞かせる父親の言葉が、その時にはまだ理解できなかった。
その後、礼儀作法とダンスの時間が増え、身だしなみに関する勉強が増えた。化粧を学び、流行を学び、ありとあらゆる布地の種類を学び、そして裁縫を学んだ。
やがて十代になると、フィアンセのエルムートはぐっと背が伸びて逞しくなり、ノンノワールの少年たちの視線を集めるようになった。
「あのエルムート様のフィアンセが伯爵家の者だなんて、いささか身分に差があるのではないかと思っていましたが……こうして実際にお姿を拝見すると、公爵家に嫁ぐことになるのも納得の美しさですね」
ある日のお茶会で、フランソワが同年代のノンノワールからかけられた言葉であった。
実際、そのお茶会ではフランソワが群を抜いて美しかった。
爪の先まで一切の気を抜かず美に拘ったのだ。髪型は何度も髪を編み直して今日の衣装に合うものを模索したし、ネイルも爪一本一本で模様が違う。その複雑な模様をフランソワ自ら頭を悩ませてデザインしたのだ。
その美しさゆえに、フランソワはお茶会に出席したノンノワールたちから身分を超えて一目を置かれた。結婚前から実質公爵位に相当する身分の者として扱われたのである。フランソワが美しくなければ、そのように扱われはしなかっただろう。
美が自信を作り出すとはこういうことかと、フランソワは父の言葉の意味を実感した。
時には「エルムート様のフィアンセに相応しくない」と他のノンノワールの子から嫌がらせを受けることもあった。
だが、お洒落の知識を与えることで作り出した派閥のメンバーに守られ、嫌がらせの犯人を糾弾することもできた。
そんな経験を経ていく中で、フランソワにある一つの考えが刻み込まれていく。
すなわち、「美しくなければエルムートに相応しくない」。
身分違いを覆すには周囲を納得させるほどの圧倒的な美が必要なのだ。そうでなければ、ノンノワールたちの視線を集めるほどの男前に成長し、入ったばかりの第一騎士団でメキメキと頭角を現しているエルムートの隣に並ぶことはできないだろう。
フランソワはただただエルムートの隣にいるために自らの美を磨いたのだ。
それにしても二人きりでしたい話とはなんだろうか。
疑問に思いながらフランソワは言われたとおりに、就寝前に彼の部屋へと向かった。
部屋に入ると、彼がティーテーブルの椅子に腰かけて待っていた。
フランソワが訪ねてくる時間に合わせて淹れられたのだろう、テーブルの上では二つの紅茶のカップが湯気を立てている。
エルムートが仕草で向かいに腰かけるように示すので、フランソワはそれに従った。
まずはカップを手に取り、中身を口にする。就寝前にぴったりの、心を落ち着けるハーブティーだ。
「それで、話というのは?」
カップを置くと、フランソワは尋ねた。
「ああ……オレたちももう結婚して半年以上が経つだろう?」
「……もうそんなに経っていたっけか」
結婚一ヶ月目の記念のプレゼントをねだっていたあの日が懐かしい。
半年の記念日がいつ過ぎたのかも覚えていない。
「そう。だから、オレたちはそろそろ次の段階に進んでもいいのではないかと思う」
「次の段階というと?」
彼の言う次の段階がなんのことか見当がつかず、フランソワは首を傾げた。
だが、エルムートはすぐには口を開かない。
二人の間を天使が通り過ぎた。
「……その、子作りだ」
長い長い沈黙の末に、彼はぽつりと呟いた。
子作り。
夫夫ならば当然の営みだ。
エルムートが自分を閨に呼ぶことなどないと思っていたが、それは誤りだった。
むしろもっと早くこの瞬間が訪れなければおかしいくらいだった。
なにせ彼は第一騎士団の団長なのだから。
第一騎士団はあくまでも王都付近に魔物が出現した時に討伐に赴くだけだから、死亡率は比較的低めだ。だが、騎士ならばいつ死んでもおかしくないのがこのご時世だ。
真面目なエルムートが将来のことを考えないはずがない。
早めに種を残そうとするはずだ。そのためならば彼はまったく愛していない者との交わりくらい我慢できるに違いない。
つまりこれは字義どおりの子作りの誘いだ。
決して甘い睦み事がこの先に待っているわけではない。
「……嫌だ」
思わず、口にしていた。
「え?」
「嫌だ、そんなことしたくない」
エルムートに抱かれる瞬間を夢想することもあった。
だが、それは決して子をなすために義務的に抱かれる想像などではない。
そんな風に嫌々抱かれるなんてどれほど惨めだろうか。
だから、フランソワはそれが必要なことだと理解していながらも拒絶せずにはいられなかった。
フランソワはガタリと椅子から立ち上がる。
「こんな話のために呼び出されたとは思わなかった。俺はもう寝る」
乱暴に部屋の扉を開け、フランソワはエルムートの寝室を後にした。
◆
バタン、と扉の閉まる音が響く。
エルムートはフランソワの後を追うことができなかった。
今では自分はフランソワのことが好きだとしっかり自覚していた。だから彼との仲を深めようとしていた。だがこの数ヶ月、何も行動を起こせなかった。
いざ仲を深めようとすると、それはエルムートには驚くほど難しかった。
そしてようやく、自分はフランソワと仲を深めるために言葉を交わしたことがなかった事実に気がついた。
彼に恋していた婚約時代ですら、やったことは彼に好かれるような強い男になることだった。
だが、フランソワは自分のことが好きなはずだ。いつも顔を合わせるたびに嬉しそうにしてくれるのだから。だから後は自分が勇気を出せばいい。
そう思って、エルムートは今晩フランソワを閨に誘った。
だが結果はどうだ、彼は涙を浮かべて去ってしまった。本気で嫌がられたのだ。
(馬鹿な……フランソワはオレのことが好きではない、のか?)
愕然とした。
ショックのあまり、足から根が生えたかのようにその場から動くことができなかった。何が起こったのか理解できなかった。
何故拒絶されたのだろう。エルムートは考えてみる。
フランソワに嫌われているからだろう、それは確かだ。あの涙の浮かんだ顔からすれば間違いない。
何故、いつから嫌われていたのだろうか。
彼の浪費を注意したからだろうか。だが彼の無駄遣いを注意したのは、結婚後の一ヶ月だけだ。随分と月日が経っている。
それとも最初からだろうか。
彼は一度も、自分のような無愛想で不器用なだけの人間を愛したことなどなかったのかもしれない。自分と会うたび彼が弾けるような笑顔を見せてくれたのは、ひとえに彼の愛想の良さによるものだったのだろうか。
あんなに美しく明るい彼なのだ、自分などよりも社交的で爽やかに口説き文句を口にできるような男の方が好みなのかもしれない。
もしかしたら――自分の他に好きな男がいるのでは。
それがエルムートの辿り着いた最悪の結論だった。
◆
閉塞的な図書館内での作業が辛く感じられる夏の盛り。
「それで、いくつかの情報が手に入ったとか。報告を聞こう」
図書館に直接足を運んで報告を求めるのは、第一王子アレクサンドルだった。
アレクサンドルはあの後もわざわざ図書館に何回か足を運んでいた。一刻も早く古文書の解読結果を聞きたいから、だけではないだろう。
アレクサンドルが古文書を燃やしたいと口にしたことは一度もないが、その思惑もあるかもしれないとフランソワは警戒していた。
知の結晶である書物を、燃やされてなるものか。世の中にこんなに素晴らしいものは他にないのに。
「はい、こちらに報告をまとめてあります。口頭で概要を説明いたします」
アレクサンドルに報告書を提出し、フランソワは内容を説明する。
「古文書を精査する中で、およそ千年前にも同様と思われる魔物災害があったという記述を見つけました。なので、千年前のことに関して記されている歴史書や当時書かれた古文書をあたりました」
アレクサンドルは報告書に視線を落とす。
「そうして得たうち、活用できる可能性のある情報をそこに列記してあります。例えば、千年前の人々は旅をする時に聖水を使用していたそうです。現代でも効果があるならば、行商人に配れば滞っていた物流が復活するかもしれません」
魔物があちこちに出没するせいで、街と街の間を行商人が行き来することもままならないのだ。そのせいで食糧の高騰をはじめとする様々な弊害が起こっている。
「おお、素晴らしい……! 値千金の情報だ、やはりそなたに任せて良かった!」
アレクサンドルは顔を輝かせている。その表情は国の将来を本気で案じる王太子のものにしか見えない。
文官に任せずわざわざ直接何度も図書館に来るのは怪しいが、ただ単に図書館への行き来が散歩にちょうどいいと思っているだけの可能性もある。
「その他の情報については報告書をご確認ください。最後に、直接お伝えしておきたいのは魔物災害の原因についてです」
「それも古文書から見つけることができたのか?」
王子は期待に目を輝かせる。
「いいえ……直接的には。ですが、あることに気づきました」
「あること?」
「魔物災害の発生していた千年前と同時期なのです――聖女の魔王討伐の伝説が」
「せい、じょ? ……ああ、千年前は女というものが存在したのだったな。その聖女の伝説について教えてくれないか」
彼が説明を求めるので、フランソワは聖女の伝説について語った。
聖女はその時代の天才だった。現代でも使われているありとあらゆる魔術の礎を作った。精霊魔術もその一つだ。聖女が作った魔術は聖女が生まれ育ったここソレイユルヴィル国が独占したため、他国には伝わっていない。
そして聖女は精霊王の予言により魔王の誕生をいち早く察知した。
魔王はありとあらゆる魔物を率いる魔の王である。
魔王討伐にあたり、聖女は自ら世界各国を巡り勇者を募った。そして勇者たちと共に魔王の討伐に赴き、見事に魔王を打ち倒した。
これが大まかな内容である。
フランソワは最初この伝説をおとぎ話だと思っていたが、複数の古文書に事実として載っているのだ。本当にあったことだったのだろう……少なくとも当時の人々はそう信じていたのだ。
「気にかかるのが魔物を率いる魔王という存在です。もしかしたら、千年前の魔物の急増はこの魔王というのが原因なのではないかと……」
アレクサンドル王子は真剣な顔でそれを聞いていた。
そして一通り聞き終えると、こう言ったのだった。
「なるほど――となれば、古文書を読み解き、精霊魔術を現代に復活させたそなたは、さしずめ聖女の再来ということか?」
「はい?」
フランソワは「話聞いてたか?」と口にしそうになった。
危うく不敬罪に問われるところだった。
「実に興味深い話だったな。この報告書は後で目を通すが、そなたの話をもっと聞きたい」
「はあ、何かご質問でも?」
話を聞きたいなら今この場で尋ねればいいじゃないか、と思わず怪訝な顔をしてしまう。
フランソワのそんな表情にアレクサンドルは怒るどころか、むしろくすりと笑った。
「ふふっ、そなたのそういう天然なところも可愛らしいな。それとも、そのようにわざととぼけるのがそなたの手管かな?」
(とぼける? なんのことだ……? やっぱり王族は何か探っているのか?)
フランソワは、王子が何故そんなに楽しそうにしているのか理解できない。警戒心が強まる。
「仕事の話ではない、親交を深めたいのだ。今度昼食でも一緒にどうだろうか?」
「それは、えっと……」
フランソワは答えに窮した。
少なくともアレクサンドル個人は、フランソワのことを探りに来ているようだ。
理由はわからない。やはり古文書の中には、王家にとって知られては困るような内容が記されているのだろうか。
どうにか昼食の誘いを断りたかった。だが理由もなしに王族の誘いを断ることはできない。
フランソワは必死に口実を考える。
「――オレの伴侶に何か?」
その時、殺気を湛えた低い声が、割って入った。
振り返ると、そこにいたのはエルムートだった。フランソワを迎えに来たのだろう。
エルムートは一際険しい顔をしていた。どう見てもアレクサンドルのことを睨んでいる。
フランソワはエルムートの顔を見た瞬間、思わずほっとした。
「あ、ああ、第一騎士団の団長か。そういえば、フランソワくんはそなたの伴侶だったか」
エルムートの登場に、アレクサンドルがたじろいだように見えた。
「昼食の件ですが、お断りします」
先ほどの話が聞こえていたのだろう、エルムートが代わりに断ってくれた。
口調そのものは丁寧だが、声が絶対零度の冷たさだ。
「いや、それは本人から答えを……」
「殿下は他人の伴侶と二人きりで食事をして噂を立てられたいのですか? そういえば殿下のフィアンセは悋気の強い方でしたね。このことを知ったらまず間違いなく勘違いされるでしょう。それでもなおオレの伴侶を誘いますか?」
こんなに口の回るエルムートの姿は初めて見た。
何かを察して自分のことを守ろうとしてくれているのだ。そう思うと、さりげなく肩に置かれた彼の手が嬉しかった。
「ぐ……っ」
「それではそういうことで。オレと伴侶は帰ります」
肩に置かれた手に少し力がかかり、フランソワは身体を反転させられる。
エルムートと向かい合う形になる。
「エルム」
彼の名を呼ぼうとしたフランソワの口は塞がれた。
彼が接吻をしたのだ。
「……っ⁉」
王子や司書のエリクがいる前でキスなんて。こうされるのは、結婚式の日以来なのに。
突然の出来事に、フランソワは頬から発火するかと思うほど顔が熱くなった。
「行こう」
唇を離すと、彼は何事もなかったかのように身体を翻した。
彼にぎゅっと手を握られ、フランソワは後に続いた。手を握ってもらうのもいつぶりだろうか。
エルムートはまるで急いで図書館から離れようとしているかのように、大きな歩幅で王城の廊下を突き進む。手を繋いでいるフランソワはついていくのが大変だった。
「なあ、エルムート……っ」
声をかけても彼は止まらない。
それでもフランソワは彼の背中に声をかけ続ける。
「あのっ、代わりに断ってくれてありがとう」
ピタリ。
エルムートは足を止めると、やっとフランソワを振り返った。
フランソワは肩で息をしながら説明する。
「強引に誘われて、困っていたんだ」
司書のエリクも口を挟めず、オロオロとするばかりだった。
そこをちょうど現れたエルムートが助けてくれたのだ。彼のことが騎士物語の主人公のように格好良く見えた。
「……これからも何かあったら、すぐにオレを呼べ」
そっけない声音だが、自分を最優先にしてくれているかのような言葉に、フランソワは胸が熱くなる。
「でも、エルムートにも騎士団の仕事が……」
「知らないうちに、君が他の男に手を出されているよりはいい」
「そっ、それって……」
まるで彼が嫉妬しているかのようだ。そんなはずがないのに。
自然と頬が熱くなっていく。
「ああいうことはしょっちゅうあるのか?」
「え?」
「他の男に色目を使われることだ」
フランソワは目を瞬かせる。
色目を使われていたとはなんのことだろう、とぽかんとしてしまった。
フランソワのその表情にエルムートは険しく眉間に皺を寄せる。
「えっと……」
「第一王子だ。まさか口説かれているのに気づいていなかったのか?」
口説く? 誰が? 第一王子が、俺を?
フランソワは呆然とした。
「そんなまさか、身分が違いすぎるだろう」
「わざわざ騎士団長であるオレの伴侶を狙うなど、王族くらいなものだろう。気をつけてくれ、フランソワ――君は美しいのだから」
ボソリと呟かれた彼の言葉。
フランソワは一瞬、聞き間違えたかと思った。エルムートが自分のことを美しいと言ってくれたなんて本当だろうか。
彼は今まで一度も容姿を褒めてくれたことがないのだ。なのに、こんな髪型もいい加減で化粧もしていない自分を美しいと言ってくれるなんて。
「あ、あっ、うん……」
なんと言えばいいかわからず、真っ赤になって俯いた。
五歳のあの日のように、降り注ぐ彼の視線を感じた。
◆
夜。
エルムートは寝台の中で、昼間の出来事を思い返していた。
今日、エルムートがいつものようにフランソワを迎えに図書館に立ち入った時、軽薄な声が聞こえてきた。見ると、今まさに第一王子によって我が伴侶フランソワが口説かれているところではないか。
カッと怒りの炎が燃え上がった。
もしもフランソワが嬉しそうな顔をしていようものなら、その場で剣を抜いていたかもしれない。
だがフランソワは困った顔をしていた。
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