嫌われてたはずなのに本読んでたらなんか美形伴侶に溺愛されてます 執着の騎士団長と言語オタクの俺

野良猫のらん

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1巻

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   第一章


 フランソワ・フィルブリッヒは、人生の絶頂にあった。
 魔術を駆使して複雑に編み上げた長い金髪は光り輝き、髪色に合わせて金糸の刺繍ししゅうほどこされたきらびやかな衣服が歩みに合わせて揺れる。ただでさえ細い腰はコルセットで締め上げられ、さらに細さを強調されていた。すらりと長い足をおおう細身のスラックスの先には、黄金のハイヒールが光る。爪は美しく飾られ、労働とは無縁の階級であることを示していた。極めつけは、彼自慢の真っ赤な瞳の周りを縁取る長いアイラインである。その化粧が、性格のキツそうな彼の顔を一層鋭く見せていた。
 フランソワ・フィルブリッヒは先月、フィルブリッヒ公爵の次男の伴侶となったのである。フィルブリッヒ公爵の次男は、第一騎士団の騎士団長をしている。玉の輿だ。これ以上の出来事があるだろうか。
 フランソワは男だが、騎士団長夫人だ。この世界には女という性は存在しない。もう千年以上も前に女という性は生まれなくなってしまったのだと、フランソワは聞いている。
 そういうわけで、この世界では男同士が結婚することは普通であった。
 騎士団長の夫人となると同時に、フランソワは思いつく限りの贅沢品を手に入れるべく財を浪費した。己を飾る数々の装飾品はその一部である。
 だがフランソワは、結婚して一ヶ月経つのに、夫から贈りものの一つさえもらったことがないのを不満に思っていた。
 夫氏いわく、「そんなに多くの装飾品を持っているのに、それ以上何が欲しいというのか」ということだった。とんでもない、夫から贈られたものでなければ茶会で夫人仲間に自慢できないではないか。
 フランソワが食堂に着くと、側仕えがうやうやしく椅子を引く。フランソワはその席に腰かけた。朝食の時間である。

「エルムート」

 フランソワは向かいの席に着いている夫の名を甘ったるく呼んだ。
 純白のテーブルクロスが敷かれた長テーブルの短辺に、夫は座っている。ふうの距離は大人の背丈二人分以上も離れていた。
 名を呼んだ途端に、夫は深々と溜息を吐いた。
 ソレイユルヴィル国第一騎士団団長エルムート・フィルブリッヒ。『鋼鉄のエルムート』という二つ名で知られる彼は、誰もが認める美丈夫びじょうふだ。広い肩幅に鼻筋の通った顔立ち。あおい瞳は涼やかで、黒い短髪と似合っている。フランソワの好みだった。
 そして鋼鉄という二つ名のとおり、彼はひどく無愛想であった。

「何か忘れてはいないか? ほら、今日はちょうど結婚一ヶ月目の記念日だろう?」

 つい先日、フランソワはエルムートの前で、それとなく自分の瞳と同じ色の宝石をあしらったイヤリングが欲しいと口にした。自分がそこまでお膳立てしてやったのだから、流石さすが朴念仁ぼくねんじんの彼でも贈りものを用意できたことであろう。
 それでも用意できていなかったら、散々揶揄からかって謝罪させた後、改めて欲しいものをねだればいいとフランソワは考えていた。

「はあ」

 エルムートは再び溜息を吐く。
 なんだその態度は、と眉をピクリとさせた瞬間、エルムートは側仕えに合図を出した。
 ちゃんと用意してたんじゃないか。先の溜息はさては照れ隠しかと、フランソワは嬉しくなる。
 夫はどうやら相当な照れ屋のようだ。容姿を褒める言葉が一度も囁かれたことがないのも、きっとそれが原因だろう。
 やがて側仕えによって運ばれてきたのは、ずっしりと重みのある立派な木箱であった。一体どれだけの宝飾品を詰め込んだのだろう、とフランソワの胸が高鳴った。
 フランソワはその場で木箱を開けた。

「……へ?」

 木箱の中に入っていたのは本であった。片手では持てそうもないほど分厚い本。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。
 フランソワは読書家ではない。それどころか読書や勉強のたぐいは毛嫌いしている。熱心に習得したのは髪を複雑に編み上げる魔術など、よそおうことに関係する魔術だけであった。

「オレに好かれたいのなら、少しは学を積むといい」

 エルムートが鼻で笑うのが聞こえた。
 これは明らかな嫌味だ。
 そのことに気づいた途端、フランソワの頭にカッと血が上る。
 それと同時にみじめな気分になった。最初から愛のない結婚生活だったのだ。それに自分だけが気づいていなかった。呑気にも彼は照れ屋なのだなんて考えていた。

「……っ」

 込み上げてくる涙を彼に見られるのだけは避けたくて、フランソワは乱暴に席を立った。

「気分が悪い」

 吐き捨てるように言い訳を口にして、自室へと戻った。
 律義に彼から贈られた本を胸に抱えていったのは、曲がりなりにもそれが彼から贈られた初めてのプレゼントだからだろうか。
 多くの宝飾品が部屋にあるのに、この本を失えば何も持っていないのと同じになってしまう気がした。


「ぐすっ、ひぐ……っ」

 具合が悪いから誰も入るなと言って側仕えたちを追い払い、フランソワはしばらくの間泣き続けた。涙も出なくなった頃には、化粧が落ちてひどい状態になっていたため、顔を洗った。
 フランソワはなんとなくエルムートから贈られた本を見やった。
 これを読めば、少しは好いてくれるのだろうか。
 こんな分厚い本、とても読める気がしない。それでも最初の方だけでも読めば話を合わせられるかもしれない。
 フランソワは駄目元で表紙を開いた。

「な、なんだこれは……」

 途端にフランソワは絶望することになった。
 そこに書かれていたのは、フランソワの理解できる言語ではなかったからだ。

「古代、語……」

 それはフランソワどころか、今では解読できる者がほとんどいない古代語だった。
 百年戦争の間に古代語を読める者の多くが死に絶え、知識の継承がなされなかったからだと言われている。
 百年戦争は、長く続いた隣国との戦争だ。現在は魔物の急増により中断されているが、長く続いた戦争の最中にいくつかの知識が失われた。その一つが古代語である。
 エルムートは絶対に読めない本を寄越したのだ。嫌がらせのためだけにこんな古文書を買ってくるなんて。その金で素直に装飾品を買ってくれればいいのに。
 そんなに自分のことが嫌いかと、フランソワは二重に絶望した。
 フランソワは茫洋ぼうようとしたままページをる。
 もしかしたら自分にも理解できるページがあるかもしれないと期待したわけではない。ただ無意識に手を動かした結果だった。
 やがて特に重要なページであることを示すかのように、繊細な草花の模様でいろどられたページに辿り着く。この模様を袖口にでも刺繍ししゅうすればさぞ美しかろう、とフランソワの白い指が箔押はくおしされた装飾文字をそっとなぞる。

「精霊……?」

 そのページには小さな挿絵があった。羽の生えた小人が踊っている絵だ。幼い頃、話に聞いた精霊様のようだと思った。
 このページに何が書かれているのか興味を持ったフランソワは、文字に目を落とした。


 Com ö appeuljr Srajs. Ïo ljl wiss ï com ö appeuljr Srajs kequel sö fjl srajser modèr ëk ê treuk ïmporèr. Ïo spjr voup èlver kequel loj ö appjr srajser modèr ö èdukjr ï fjrsy. Çj ê com ö appeuljr Srajs.


 全然読めなかった。わけのわからない文字列だ。
 使われている文字自体は現代語と似ているが、ところどころにある見覚えのない点々やちょろちょろっとした線が頭を混乱させる。意味不明な記号を無視しても、まったく見覚えのないつづりの単語ばかりで意味を予測することすらできない。
 本当にこれが、現代語の元になった言語なのだろうか。時間を経るだけで、同じ言語がこんなにも様変わりするなんて。
 こんなもの、読めるわけがない。
 フランソワは涙をにじませながら目を閉じた。

『いや、いくら時代が変わったとしても、文の構造までは大きくは変わらないはずだ』

 不意に、頭の中で声が響いた。

『例えば、現代語は英語などの多くのヨーロッパ諸言語と同じくSVOの構造をしているから……』

 エスブイオー? エイゴ?
 一体なんだ、この記憶は。フランソワは混乱した。
 同時に、膨大な記憶が流れ込んできた。
 日本語英語ドイツ語韓国語イタリア語中国語フランス語ヘブライ語ラテン語アルファベットハングルひらがなカタカナ漢字……エトセトラエトセトラ。

「――ッ⁉」

 それは、前の自分の記憶だった。
 この世界の宗教にはない概念でいうところの、前世の記憶というやつだ。
 見上げるほど高い灰色の塔が何本も建ち、その間を鉄の馬が走り回る街。ビルに、自動車と呼ばれるものだという記憶がよみがえってくる。
 自分はコンクリートで舗装された道を歩き、マンションの自室に帰り着く。そして、買ってきた本を机の上に置いた。それは一つの小説を様々な言語に翻訳した本の山であった。記憶の中の自分は、その本の山から嬉々として一冊目の本を選び取る。それから何時間もかけて、飲まず食わずで本の山を読破していった。それぞれの言語でどのような表現がなされているか、めるようにたのしむ。前世の自分にとっては、それがなによりの悦びであった。
 フランソワの前世は――ありとあらゆる言語を嬉々として学ぶ言語オタクだった。
 それも、こことは全然違う異世界で生きていたのだ。何故異世界で生きていた前世の記憶が突然よみがえったのだろう。
 前世は何歳まで生きて、どのように死んだのか、思い出せなかった。
 だが今はそんなことどうでもいい。
 前世の記憶を得たフランソワには、突然目の前の本が宝のように輝いて見え出した。
 どうして今まで装飾品なんてものに金を使っていたのだろう、世の中にはこんなにも面白いものがあるというのに。
 フランソワは一文を精査する前に、全体に目を走らせる。
 すると、あることに気がついた。
 Srajsという単語が何度も出てきている。似たようなsrajserという単語もある。
 文頭でないにもかかわらず、わざわざ頭文字が大文字になっているのだ、何か重要な意味があると見て間違いないだろう。精霊の挿絵があるページに出てくる重要な単語ということは、もしかして『精霊』という意味の単語だろうか。

「よ、読めそうだ……読めそうだぞ!」

 フランソワは歓喜に打ち震えた。
 それからフランソワはメモをとるための筆記具を探す。ない。この部屋には筆記用具など、何一つ用意されていなかった。今生こんじょうのフランソワは着飾ることにしか興味のない人間だったから。

(クソッ、筆記用具もないだと、着飾りオタクめ!)

 フランソワは心の中で自分に罵倒の言葉を吐くと、自室に備え付けられているベルを鳴らした。すぐさま現れた側仕えに命令する。

「おいっ、羊皮紙とインクとペンを持ってこい!」

 フランソワの前世である言語オタクは、言語に堪能でありながら他人とのコミュニケーションに難のある人間だった。そのため前世の記憶が目覚めた今になっても、下の者への横柄な態度は変わらない。

「はっ、紙とインクとペン、ですか……?」

 態度は変わらずとも口にした内容が大違いだったため、側仕えは驚きに目をまたたかせた。羊皮紙やペンといったものは、なんの仕事もせず日々着飾り、茶会やサロンにおもむくことしかしないフランソワが所望するようなものではなかったからである。

「聞こえなかったのか、さっさとしろ!」
「はっ、ただいま!」

 側仕えが去った後、自室を見回し、フランソワはそこに書き作業をするための満足な机すらないことに気がついた。
 物を置ける場所はティーテーブルと化粧台しかない。とても作業に向いているとは言えない。さっきまでは、ベッドで本を読んでいたから気にしていなかった。
 結婚して以来、一度も足を踏み入れたことのなかった書斎におもむく必要がありそうだ――


   ◆


 夕食時、食卓にフランソワの姿はなかった。
 やはりか、と騎士団長にしてフランソワの伴侶であるエルムートは嘆息した。こういうことになるのではないかと思っていた。
 どうせ顔を合わせるのが嫌で夕食の席に来ないのだろう。
 フランソワの言動には目に余るものがあった。だからふうの絆にひびが入ることになろうとも、あの『贈りもの』をしようと考えたのだった。
 フランソワも小さい頃はあんな奴ではなかったのに、一体どうしてああなってしまったのか。
 ともかく、これでりて少しは言動を改めてくれるといいが。
 とはいえ、エルムートは一応側仕えに伴侶について尋ねることにした。

「セバス、フランソワはどうした」
「それが……『本を読むのに忙しい』と」
「は?」

 エルムートは一瞬聞き間違いをしたのかと思った。
 あのフランソワが夕食を抜くほど本に熱中するわけがない。

「ですから、『本を読むのに忙しいから』と夕食を断られてしまいまして」
「それは……一体なんの当てつけだ」

 嫌味にもわざわざ彼の読めない書物を贈ったのはこちらだが、それを理由にして夕食の席を断るなど、いつの間に我が伴侶はそこまで性格が捻くれてしまったのだろうか。
 これでは性格の改善など望めそうもない。離婚の二文字が脳裏をよぎったその時だった。

「いえ、それが奥様は本当に書斎にこもって熱心に書物を見ていらっしゃる様子なのです」
「なんだと?」

 頭を殴られたような衝撃だった。
 ふう共同の書斎としたはいいものの、フランソワがまったく使わないので実質エルムート一人のものとなっていたその部屋に、彼がこもっているらしい。
 側仕えが嘘を言うはずがないから、事実なのだろう。意趣返しではなく、本当に心を入れ替えてくれたのだろうか。
 いやしかしそうだったとしても、あの本は彼には読めないはずだ。努力でどうにかなるものではない。だとすれば、自分の勉強不足に気づいて書斎にあった本のどれかを読んで、必死に猛勉強しているのかもしれない。

「ふっ」

 反省を態度で示してくれたのは嬉しいが、そんな無茶な勉強の仕方がいつまで続くものか。どうせ三日坊主で終わるに決まっている。
 五分で飽きなかっただけ見直したと思いながら、エルムートは伴侶を迎えに書斎までおもむくことにした。
 継続が大事なのであって、夕食を抜いてまでおこなうことではないと伝えるために。

「おい、フランソ、ワ……」

 書斎に入った途端、目に飛び込んできた光景にエルムートは思わず息を呑んだ。
 あのフランソワが化粧っ気のない顔で分厚い書物をにらんでいるのだ。
 いつもは濃いアイシャドウに目元がおおわれているが、今は素朴な素顔をさらしている。目元がキツイのは変わらないが、それは真剣に書物に向き合っているからだ。その表情に、エルムートは胸がドキリと鼓動するのを感じた。
 思えば彼のすっぴんを目にするのは結婚してからこれが初めてであった。
 書物を読んでいる間に邪魔になったのか、複雑に編まれた髪は後ろで一纏ひとまとめに結ばれている。だがその結び方もいい加減で、一筋の髪が垂れて彼の顔に影を落としていた。逆にそれが色気を感じさせる。
 こんなにも美しい彼を見るのは初めてだとエルムートは感じた。

「フランソワ……?」

 エルムートはおずおずと声をかけた。まるで自分の伴侶がまったく知らない人間に変わってしまったような感覚に襲われて――

「エルムート!」

 フランソワは本から顔を上げると、パッと明るい表情を見せた。
 良かった、オレと顔を合わせるだけで何故か機嫌良さげにする性質は変わっていない、とエルムートは安堵した。

「聞いてくれ、俺はついに古代語の読み方を解き明かしたんだ!」
「え……?」

 彼が開いていたのは書斎にあった別の本などではなく、エルムートが贈った古代語の古文書だった。
 まさか本当にあの本を読んでいたのか? しかも今、解き明かしたとかなんとか言わなかったか?
 エルムートは混乱に襲われた。

「フランソワ……一体何を解き明かしたと?」

 エルムートは聞き返す。

「だから古代語の読み方だ! いいか、見ていてくれよ!」
「な、何を……?」

 フランソワは立ち上がると、分厚い古文書を両手で持つ。
 そしてページに目を落としながら口を開いた。

Q`ê tajtoテトmaメイ Èssædエシードゥ tajtejrテタイル……」

 彼の静かな声。

(これは……詠唱なのか?)

 彼が、呪文らしき文言をみ上げるたびにどこからか風が吹いてくる。書斎は閉ざされた空間なのに。

Maメイ nàmïナミ Srajsスレズelエル regssajrレグセル maメイ kœreuクリューMaメイ umアム ê ――フランソワ」

 フランソワがおごそかに己の名を口にした途端、きらめく光が現れた。それが彼の周囲をくるくると飛ぶ。光の中心に小人のような影が見えるような気がするが、はっきり見ようと目をらせばらすほど姿かたちは曖昧あいまいになっていく。
 神秘的なその光は、明らかに尋常の存在ではない。

「もしや、精霊……?」

 信じられない思いだった。
 確かに遥か昔、人々はなんらかの方法で精霊を呼び出せたという。
 だが、その方法が記されていると思われる古代語の書物は、今や読み解ける者がいない。そのため、伝説上の存在となった精霊。
 それが今、フランソワの周りを飛んでいるというのか。
 もしや彼は本当に古代語を読み解いてしまったのか? あのフランソワが?
 エルムートは愕然がくぜんとし、フランソワと光を見つめる。

「そのとおりだとも。精霊の呼び出し方を解読できたんだ! すごいだろ!」

 フランソワは無邪気な顔で笑う。
 彼のこんな純粋な笑顔を見たのは子供の時ぶりだ。彼のことを愛らしく感じていた頃の気持ちを思い起こさせる笑顔だった。
 しかしエルムートはどうしても信じがたかった。
 フランソワは実は古代語に精通していたのか。いやいや、彼にそんな経歴があるわけがない。おさな馴染なじみで伴侶である自分がよく知っている。
 突然人が変わってしまったとしか思えなかった。


 エルムートはフランソワを連れて夕食の席に着き直した。

「意味の解読はともかくとして、発音を解読するのには骨が折れたんだ。なにせ言語で一番変化しやすいのは音だからな」

 フランソワは先ほどから嬉しそうに意味不明なことをまくし立てながら、夕食に舌鼓したつづみを打っている。彼が饒舌じょうぜつなのはいつものことだが、内容の意味がわからないのは初めてだ。

「だが幸運にも、古代語はつづりと発音の関係性が厳密な言語だった。だから俺は……」

 エルムートは彼の話を聞きながら、黙って食事を進める。フランソワが一方的に話し、エルムートはそれを黙って聞いている。いつもの夕食と同じ光景だ。
 彼の話を半ば聞き流していたその時だった。

「……だからな、エルムート」

 フランソワは上機嫌でエルムートの名を呼んだ。

「……っ」

 エルムートは身構える。こういう時、彼は必ずアレを買えコレを買えと要求してくるからだ。
 エルムートの予感はある意味では当たっていた。

「今朝の贈りものは本当に素晴らしいものだった。またあのような素敵なプレゼントが欲しいものだ」

 彼はうっとりとした眼差しでエルムートを見つめておねだりをした。
 エルムートは不気味なものを見たような心地に襲われる。

「本だぞ? 今朝は泣いていたではないか」

 今朝は涙をこぼしながら自室に退散していたのに。
 エルムートの言葉にフランソワはかっと頬を赤らめる。

「それは忘れろ!」

 どうやら羞恥心しゅうちしんはなくしていないらしい。
 人間らしい反応に、エルムートは内心安堵した。

「ともかく、お前に贈られた本を開いた瞬間、その素晴らしさに気がついたんだ。またあのような贈りものが欲しいのだ。だから……な?」

 フランソワは小首をかしげる。
 彼は自分の顔が愛らしく見える角度というものを心得ているようだ。

「いや待て、待て待て……今朝贈った本はどうした。まだ読み終わっていないだろう。それともまさかすべて解読したとでも言うのか?」
「いいや、まだだ。だがたったの本一冊などすぐに読み終えてしまうものだ。読み終える前に次の本を頼んでおくのは常識だろう?」

 何を当たり前のことを尋ねるのかとフランソワは形のいい唇を歪める。

「そんな常識、初めて聞いたぞ」

 エルムートは呆れて首を横に振った。本というものは高級品だ。消耗品ではない。

「辞書などはないか? 次にプレゼントされるのは古代語の辞書が良い」

 無邪気なフランソワの言葉に、エルムートは目をいた。
『鋼鉄のエルムート』という二つ名を持つ自分が、このような表情を見せることは滅多になかった。こんなに驚くべき発言を連発するのはフランソワだけだ。

「古代語の辞書だと? そんな希少なものが存在するならば、とっくのとうに王立図書館に収められているに決まっている。今朝の本だって、身辺の整理をしたいという父の知人から特別に安値で譲り受けたものだ。そうそう手に入るものではない」

 エルムートの言葉に、今度はフランソワが目を丸くする。

「王立図書館?」

 初めて耳にする言葉であるかのようにフランソワは繰り返した。

「もしや、王立図書館も知らないのか?」
「ああ、知らない」

 あっけらかんと認めたフランソワを、エルムートは意外に思った。フランソワは無学なくせにプライドだけは高いから、こういう時、知らないことを認められなくて知ったかぶりをする人間だったはずだ。
 フランソワのぽかんとした間抜け顔が、何故だか好ましく思えた。
 自分の中に突如として湧いた感情を気取けどられたくなくて、エルムートは咳払いをすると殊更ことさらに呆れた表情を作った。

「その名のとおり、国が管理している、王城にある図書館のことだ。古代語に関する知識が途絶え、古代語の記された書物がただのおもむきある置物と化した今、古代語の辞書などという便利なものがあるならば王立図書館に収蔵されるはずだ。オレたちの手に渡るはずがない」
「それじゃあ、王立図書館に行けば古代語の本が読み放題なんだな?」

 彼の言葉にエルムートは再び目をいた。
 こんなにも感情をき出しにするのは久方ぶりのことであった。
 確かに稀覯本きこうぼんが数多く収蔵されている王立図書館にならば古文書も多く存在するだろうが。

「昔ならばいざ知らず……今では王立図書館には限られた者しか入ることができない。例えば高名な学者とかだ。君が入れるような場所じゃない」

 何故かは知らないが、フランソワは突然宝石や装飾品に向けていたのと同じくらいの情熱を古代語に対して注ぐようになったらしい。
 君が入れるような場所じゃないなんて、こんな言い方をすればまた泣き出してしまうだろうかとフランソワの顔を見る。
 今朝は面倒だとしか思わなかったのに、泣き顔を想像したら胸の奥が軽く痛んだ。
 だが。

「それなら俺がその高名な学者とやらになればいいんだな? 今朝の本を現代語に訳しでもすれば王立図書館に入るには充分か?」

 彼はあっけらかんと言い放った。

「は……? 現代語訳? 君が、本を出すのか……?」

 三度、エルムートは目をいた。
 どうやら我が伴侶はまた厄介なことを言い出したらしい。彼の我儘わがままな言動を直してほしくて本を与えたはずなのに、むしろ面倒くささが増していやしないだろうか。


 疲労感たっぷりの夕食を終えた後、エルムートは自室で溜息を吐いた。
 エルムートとフランソワがまだ幼かった頃――あの頃のフランソワはとても可憐だった。それがどうして今のようになってしまったのだろうか。
 エルムートはフランソワと出会った日のことを思い返した。


 貴族社会では三男や四男は、第二次性徴を迎える前に体内に子宮を作り出す薬を服用して、他の男に嫁ぐことができる身体になるのが一般的だ。長男は跡継ぎ、次男はそのスペア。だから三男や四男が薬を服用する。
 そうして薬を服用して体内に子宮を作った人間のことを『ノンノワール』と呼ぶ。
 エルムートの伴侶であるフランソワは伯爵家の五男だった。末っ子のフランソワは随分と可愛がられて育ったらしい。
 エルムートがフランソワと初めて出会ったのは、二人が五歳の時。
 それはお茶会の席でのことだ。
 小さな子供たちに社交の経験を積ませるための大規模なお茶会だった。
 青空の下、見渡す限り緑の芝生が広がる庭園に子供用の小さなティーテーブルと椅子が並び、そこに自分たちと同年代の子供たちが何人も居住まいを正してちょこんと座っていた。
 ちょっとしたおとぎの国のような、非現実感があった。
 はじめは子供たちも親や世話係にしつけられたとおりに大人しく座ってお菓子を食べていたが、五歳かそこらの遊び盛りの子供たちが集められてじっとしていられるはずがない。
 少しすると、子供たちは庭園を走り回り出した。
 幼き頃に結んだ縁が社交界で重要になることもあるので、怪我をしない限り大人たちも止めようとはしない。
 その頃は内気な性格だったエルムートは子供たちの輪に入ることができず、自分の席で所在なげにお菓子に手を伸ばしていた。

「あの……ここのおかし、食べてもいい?」


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綺沙きさき(きさきさき)
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旧題:悪役令息の役目も終わったので第二の人生、歩ませていただきます 〜一年だけの契約結婚のはずがなぜか公爵様に溺愛されています〜 【元・悪役令息の溺愛セカンドライフ物語】 *真面目で紳士的だが少し天然気味のスパダリ系公爵✕元・悪役令息 「ダリル・コッド、君との婚約はこの場をもって破棄する!」 婚約者のアルフレッドの言葉に、ダリルは俯き、震える拳を握りしめた。 (……や、やっと、これで悪役令息の役目から開放される!) 悪役令息、ダリル・コッドは知っている。 この世界が、妹の書いたBL小説の世界だと……――。 ダリルには前世の記憶があり、自分がBL小説『薔薇色の君』に登場する悪役令息だということも理解している。 最初は悪役令息の言動に抵抗があり、穏便に婚約破棄の流れに持っていけないか奮闘していたダリルだが、物語と違った行動をする度に過去に飛ばされやり直しを強いられてしまう。 そのやり直しで弟を巻き込んでしまい彼を死なせてしまったダリルは、心を鬼にして悪役令息の役目をやり通すことを決めた。 そしてついに、婚約者のアルフレッドから婚約破棄を言い渡された……――。 (もうこれからは小説の展開なんか気にしないで自由に生きれるんだ……!) 学園追放&勘当され、晴れて自由の身となったダリルは、高額な給金につられ、呪われていると噂されるハウエル公爵家の使用人として働き始める。 そこで、顔の痣のせいで心を閉ざすハウエル家令息のカイルに気に入られ、さらには父親――ハウエル公爵家現当主であるカーティスと再婚してほしいとせがまれ、一年だけの契約結婚をすることになったのだが……―― 元・悪役令息が第二の人生で公爵様に溺愛されるお話です。

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