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(4)忘れがたい気持ち
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繁華街で路線バスに乗り換え、帰宅した時には夜もだいぶ遅くなっていた。
アパートのドアを開け、足を引きずるように暗い部屋に入っていった。
壁際のスイッチを入れると、古くなった蛍光灯が散らかった部屋を薄暗く照らした。
亜紀がこの部屋に来ていた頃は、清潔で明るい部屋だったのに。
孝は、部屋の隅のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
長い事洗濯をしていない寝具は、汗と脂が入り混じった特有の匂いがした。
目を閉じると、寝具の上に仰向けに横たわった亜紀の幻がよみがえってきた。
潤んだ目、上気した頬、黒い髪、丸くて愛らしい乳房。
彼女の白くてきめ細かな肌が、彼の肌に触れる甘い感触。
彼女の中に入っていく時の、艶かしい熱さ。
生命の歓びを織り交ぜた息吹と声。
心と心が繋がった刹那の悦楽。
しかし目を閉じたまま枕やシーツの匂いの中をどんなに探しても、寝具にはもはや亜紀の残り香など失われていた。
そういえば、公園のコンクリートのベンチに並んで腰掛け、春の光の中を舞い散る桜の花を眺めた事があった。
夏は、海に何度も行った・・・亜紀の、花柄の水着が眩しかった。
紅葉を見に高原までドライブしたり、一緒にスキーがしたくてバスツアーに参加したりしたのも、遠い日の事に思われた。
テーブルに向き合い、ふたりで作った熱いおでんを突付き合った事や、夜が明けるまでゲームをした事など、そんな取るに足らない事さえもかけがえのない思い出のように感じられ、亜紀が離れていった悲しみは深まるばかりだった。
・・・
その日から、孝はひどく落ち込んだ心のまま、毎日を送った。
ある日、雨が降った。
彼は部屋の窓から、雨に濡れて、くすんで見える外の風景をぼんやりと眺めていた。
それから、本格的な冬の寒さがやって来た。
外には小雪が舞っていた時、彼は布団にくるまったまま心が押し潰されそうになるような傷みを堪えていた。
それでも春はやって来た。
朝からスズメが騒がしく鳴く晴れた日がめぐって来た。
彼は、昼食に買った弁当屋包みを手に提げながら、綿雲の浮かんだ空をため息まじりに見上げた。
亜紀の事を一時も忘れる事ができなかった。
思い出すのは、彼女の事ばかりだった。
終わった恋に決別しようとしても、心の整理が付かなかった。
やはり彼にとって、亜紀は離れられない、いや、決して離れてはならない存在のように感じられた。
別れる直前にはそんな思いさえも希薄になってしまって、彼女が切り出した別れ話も受け入れてしまったのだけれど。
取り返しのつかない事をしてしまった、そう思った。
何度も、携帯電話を取り出しては、彼女に電話をかけようとした。
けれども、できなかった。
彼女が迷惑に思うかもしれない・・・。
亜紀が孝から去った時にも、彼は同じ理屈を付けて、そのまま彼女を放してしまった。
けれどもそれは、亜紀の本当の気持ちを知るのが怖かったのではないか・・・改めて、きっぱりと振られるのが嫌だったから、あえて彼女を追わなかったのではなかったろうか。
それでは、亜紀の本当の気持ちはどこにあるのだろう。
やはり、彼の事を忘れようと思っているのだろうか。
それとも、今の彼のように、未練が残っているのだろうか。
本心を確かめよう・・・そう決めて、ポケットにしまった携帯をまた取り出して、けれどもやはり電話できずにいた。
アパートのドアを開け、足を引きずるように暗い部屋に入っていった。
壁際のスイッチを入れると、古くなった蛍光灯が散らかった部屋を薄暗く照らした。
亜紀がこの部屋に来ていた頃は、清潔で明るい部屋だったのに。
孝は、部屋の隅のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
長い事洗濯をしていない寝具は、汗と脂が入り混じった特有の匂いがした。
目を閉じると、寝具の上に仰向けに横たわった亜紀の幻がよみがえってきた。
潤んだ目、上気した頬、黒い髪、丸くて愛らしい乳房。
彼女の白くてきめ細かな肌が、彼の肌に触れる甘い感触。
彼女の中に入っていく時の、艶かしい熱さ。
生命の歓びを織り交ぜた息吹と声。
心と心が繋がった刹那の悦楽。
しかし目を閉じたまま枕やシーツの匂いの中をどんなに探しても、寝具にはもはや亜紀の残り香など失われていた。
そういえば、公園のコンクリートのベンチに並んで腰掛け、春の光の中を舞い散る桜の花を眺めた事があった。
夏は、海に何度も行った・・・亜紀の、花柄の水着が眩しかった。
紅葉を見に高原までドライブしたり、一緒にスキーがしたくてバスツアーに参加したりしたのも、遠い日の事に思われた。
テーブルに向き合い、ふたりで作った熱いおでんを突付き合った事や、夜が明けるまでゲームをした事など、そんな取るに足らない事さえもかけがえのない思い出のように感じられ、亜紀が離れていった悲しみは深まるばかりだった。
・・・
その日から、孝はひどく落ち込んだ心のまま、毎日を送った。
ある日、雨が降った。
彼は部屋の窓から、雨に濡れて、くすんで見える外の風景をぼんやりと眺めていた。
それから、本格的な冬の寒さがやって来た。
外には小雪が舞っていた時、彼は布団にくるまったまま心が押し潰されそうになるような傷みを堪えていた。
それでも春はやって来た。
朝からスズメが騒がしく鳴く晴れた日がめぐって来た。
彼は、昼食に買った弁当屋包みを手に提げながら、綿雲の浮かんだ空をため息まじりに見上げた。
亜紀の事を一時も忘れる事ができなかった。
思い出すのは、彼女の事ばかりだった。
終わった恋に決別しようとしても、心の整理が付かなかった。
やはり彼にとって、亜紀は離れられない、いや、決して離れてはならない存在のように感じられた。
別れる直前にはそんな思いさえも希薄になってしまって、彼女が切り出した別れ話も受け入れてしまったのだけれど。
取り返しのつかない事をしてしまった、そう思った。
何度も、携帯電話を取り出しては、彼女に電話をかけようとした。
けれども、できなかった。
彼女が迷惑に思うかもしれない・・・。
亜紀が孝から去った時にも、彼は同じ理屈を付けて、そのまま彼女を放してしまった。
けれどもそれは、亜紀の本当の気持ちを知るのが怖かったのではないか・・・改めて、きっぱりと振られるのが嫌だったから、あえて彼女を追わなかったのではなかったろうか。
それでは、亜紀の本当の気持ちはどこにあるのだろう。
やはり、彼の事を忘れようと思っているのだろうか。
それとも、今の彼のように、未練が残っているのだろうか。
本心を確かめよう・・・そう決めて、ポケットにしまった携帯をまた取り出して、けれどもやはり電話できずにいた。
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